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Channel: ハナママゴンの雑記帳
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ルドルフ・ヘスの娘 (後編)

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《 前編からのつづき 》

 

ブリギッテの夫によると、ブリギッテは交際中に彼に、自分の父親のこととアウシュヴィッツでの生活のことを告白した。

「最初は少しばかりショックを受けました」 彼は言う。

「でも彼女と何度も話し合ううち、他の皆と同様彼女自身も犠牲者だったと気がついたのです。

あの頃彼女は、ほんの子供でした。 そしてすべてを持っていた状態から、何もかもを失くしたのです。」

二人の間には、無言のうちに 《彼女の家族については話さない》 という決まりができた。 彼はブリギッテにこう言ったのを覚えている。

「あれは本当にひどい事だった。 もうこれ以上あのことを背負うのはやめよう。 僕らの生活を第一に考え、すべては過去に残して

幸せに暮らそう。 あれは君の責任ではなかった。 君が父親の罪を背負い続ける理由はない。」


成人したブリギッテ・ヘス

 


1972年、彼らはワシントンに引越した。 ブリギッテの夫は輸送会社での重職につき、二人はジョージタウンに家を買った。

ブリギッテに新たなチャンスが開けたものの、彼女は苦労した。 小切手の書き方がわからず、英語は少ししか話せず、

友達も家族もいなかった。 職探しをして、ブティックでのパートの仕事を見つけた。


ある日背の低いユダヤ人女性が店に来た。

彼女はブリギッテのスタイルを気に入り、ブリギッテに自分のファッション・サロンで働くよう誘い、ブリギッテはそれに応じた。

彼女のところで働き始めて間もなくのこと。

マネージャーと飲んでいたブリギッテは、酔って自分の父親がルドルフ・ヘスであると喋ってしまった。

マネージャーは店のオーナーにそのことを話した。

オーナーはブリギッテに、「あなた自身は何も罪を犯していないのだから、このまま店にいていいのよ」 と告げた。

そのときブリギッテは知らなかったが、オーナーも彼女の夫もユダヤ人で、夫は1939年の水晶の夜事件後にナチス・ドイツから逃れていた。

父親の娘としてではなく一個人として見てもらえたブリギッテはそれに感謝し、

知事や議員の妻を含むお洒落なワシントンの女性を顧客として、その店で35年間働いた。

ブリギッテの忠誠と精勤に対するお返しとして、店のオーナーは彼女の秘密を守り抜いた。

例のマネージャーを除けば、ブリギッテの家族のことを知るスタッフはいなかった。

ブリギッテが退職してからも、店のオーナーは毎月彼女に近況を訊く電話をくれていた。

しかし一年ほど前から、電話はかかってこなくなった。

オーナーがイスラエルを訪れたことを知っているブリギッテは、オーナーが今さらながら怒ってしまったのかと訝る。

「人は変わるものですからね」 ブリギッテは言った。


母親のヘートヴィヒは、1960年代から数年ごとに、ワシントンに住む次女を訪ねるようになった。

その頃にはヘートヴィヒはシュトゥットガルト近くの小さな家に越していて、娘のうちの一人と一緒に暮らしていた。

他の戦争未亡人とは異なり、彼女には国民年金を含む政府からのいかなる収入も支給されなかった。

ヘートヴィヒはアウシュヴィッツで重要な位置を占めた人物であり、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判にも

1965年に証人として出廷したにもかかわらず、ナチ戦犯の配偶者に対する旅行制限はなかった。

ワシントンを訪問中、ヘートヴィヒは娘が働いている間は孫守りをして過ごした。

母娘が過去について話すことはなかった。

ヘートヴィヒの訪問は、1989年9月が最後になった。 81歳の彼女は、身体が弱くなっていた。

彼女のドイツへの帰国の日が来たが、彼女は娘に 「寒すぎるからもう少し滞在したい」 と告げた。

9月15日の夕食後、ヘートヴィヒは疲れたと言ってベッドに引き上げた。

翌日ブリギッテが母親の部屋をノックしたが、返事はなかった。

ヘートヴィヒ(1908-1989)は睡眠中に死亡していた。


左から: ブリギッテ、アウシュヴィッツ農耕部長ヨアヒム・シーザーの娘、ハイデトラウト、ヘートヴィヒ、

シーザーの息子、ハンス‐ルドルフ、シーザーの妻


ブリギッテは母親の遺体を地元で火葬してもらい、ドイツから近親が到着するのを待ったうえで葬式にした。

1990年3月3日、午前11時。 ヘートヴィヒの誕生日に合わせて短い式が、諸宗派間墓地にある石造りの小さな修道院で執り行われた。

祈りが捧げられ、骨壷が埋葬された。 ヘートヴィヒはユダヤ人、キリスト教徒やイスラム教徒などに混じって永眠することになった。

母親の遺灰が誰かに――特に母親を偶像崇拝しかねないネオナチに――見つけ出されるのを恐れたブリギッテは、

墓地管理人に偽名を教えた。


ブリギッテの現在は、医者と病院と薬で一杯だ。 彼女と夫は1983年に離婚した。 彼はその後二度結婚し、現在はフロリダに住んでいる。

彼女は息子と暮らしている。 息子は祖父のことを知っているが、家族の過去について調べてみようとはしない。 娘は死んだ。

孫はしょっ中会いに来てくれる。

ブリギッテは一年に一回、妹のアンネグレットと過ごすためフロリダに飛ぶ。 アンネグレットはドイツからやって来る。

長兄のクラウスは1980年代にオーストラリアで死んだ。 弟のハンス‐ルドルフと姉のハイデトラウトは、ドイツに住んでいる。

兄弟姉妹の誰も、子供時代のことを話さない。 まるで彼らの過去は、ルドルフ・ヘスが死刑に処された1947年に始まったかのように。


ブリギッテの甥のライナー・ヘス――ハンス・ルドルフの息子――は、過去について質問をした唯一の家族のメンバーだ。

2009年に私は彼とアウシュヴィッツを訪れた。 あるとき彼は、私の方を向いて事もなげに言った。

「もし祖父がどこに埋められているか知っていたら、墓に小便をしてやるところだ。」


ブリギッテは離婚後も夫の姓を名乗っている。 他のドイツ人家族からは距離を置き、

自分の過去や家族の背景については友達にも一切話さない。

孫たちにも、彼らの曽祖父にあたる自分の父親のことは話さない。

(彼女の元夫によると、上の二人の孫にはヘスの自伝を彼からプレゼントしたそうだが。)

彼女は孫の “感情を乱したくない” し、孫が他の誰かに話してしまうことも怖れている。 家族が危険にさらされるかもしれないからだ。

「ここワシントンにいながら、私は今でも怖れているわ。 たくさんのユダヤ人がいて、彼等は今でも

ドイツ人を嫌悪しているの。 絶対終わることはないのよ。」

 その一方で彼女は、家族とともに過去を振り返るべきときかもしれないと感じてもいる。

「いずれはそうすることになるでしょう。 たぶん、貴方の著書(注)を読んでから。」 彼女は言う。


過去を秘めてしまうということは、過去を十分に検分しないということでもある。

ブリギッテはアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館を訪れたことは一度もない。

悲惨な歴史を忘れさせないための博物館の価値を理解しつつも、彼女はそれはアウシュヴィッツかイスラエルにあるべきだという。

ワシントンではなく。 「実際よりも悪かったことにするんですもの。 ひどすぎて、耐えられないわ。」

 彼女は残酷な行為が行われユダヤ人その他が強制収容所で殺されたことは否定しない。

が、何百万人もが殺されたということには疑問を持つ。 「それほど多くが殺されたのなら、なぜあれほどたくさんの生残者がいるの?」

彼女自身の父親が百万人以上のユダヤ人殺害を指揮したと告白したことを指摘すると、

「英国人たちが拷問でそう自白させたのよ。」 と彼女は言った。


「父親のことは、どんな風に覚えていますか?」 私は訊いてみた。

「世界一素晴らしい男性だったわ。 私たちに、本当によくしてくれた。」 一緒に食事を取り、一緒に庭で遊び、

ヘンゼルとグレーテルの物語を読んでくれた。 アウシュヴィッツ所長だったことについては、父親は

「内心は悲しかったと思うわ。 そんな気がするの。 家にいたときも、私たちといたときも。

仕事から帰宅したとき悲しげに見えたことも、ときどきあったわ。」

父親の二面性を理解することに、ブリギッテは苦労する。

「父にはふたつの面があったのでしょうね。 私が知っていた父と、別の父が・・・・・」

大勢を死に追いやった彼がどうしたら “世界一素晴らしい男性” であり得るのかと問われると、彼女は言った。

「父がやらなければならなかったのよ。 やらなければ家族がどうなっていたかわからなかったから。

それに父は、大勢の親衛隊員のうちの一人。 父がやらなくても代わりに誰かがやっていたでしょう。」


 


長いインタビューのあと、ブリギッテは家の中を案内してくれた。 2階の彼女のベッドの上に架かった写真を、彼女は指差す。

1929年に撮られた、彼女の両親の結婚写真だった。 若く、幸福で、気懸かりなどなにひとつなさそうな。

髪をアップにした白いワンピース姿のヘートヴィヒと、明るい色のシャツと七分丈のズボンをはいたルドルフ・へス。

80歳のブリギッテは、最愛の父親に見守られて毎晩眠る。

 

その後私は、ブリギッテが勤めていたサロンのオーナーの息子に連絡を取ってみた。

息子によると、彼の母親がブリギッテに電話をしなくなった理由は、ただ単に老いすぎて電話がかけられなくなったためだった。

「私の家族は、昔と変わらずブリギッテに親愛の情を抱いています。」

ブリギッテの父親が自分たちの家族をドイツから追い出したナチスの上官だったことを知っていながら、

なぜ彼の両親はブリギッテを雇ったのか?との問いには、“人間愛” のためだと彼は答えた。

彼の両親は、ブリギッテを父親とは別の一個人として見た。

「彼女は父親のしたこととは何の関係もない、一人の人間です。 彼女は父親のしたことに何の責任もありませんでした。」

両親がブリギッテを雇ったことを振り返り、彼は言った。

「私は彼らの息子であることを誇りに思います。」

 

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 (注) ブリギッテにインタビューしたトマス・ハーディングは、2013年8月に “Hanns and Rudolf” を発表。

同著は高く評価され、ベストセラーになりました。

次はこの作品について書きます。

 

 

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