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Channel: ハナママゴンの雑記帳
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サリー機長の “あの日”

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《 奇跡直前の交信からのつづき 》

 

不時着水を目前にしながら、とぉ~ても冷静だった様子のサリー機長。

2009年2月8日――不時着水から2週間半後――に放映されたCBSテレビ “60 MINUTES” を初めとする番組で、

あのときの状況を語りました。

  

 

「あれは人生最悪の、最も気分が悪くなるような、床が抜け落ちるような感覚でした。

私の最初の反応は、ただただ信じられないという思いでした。 起こっていることが、信じられなかった。

こんなことは私には起こらない。 私のキャリアは、航空機を墜落させることなく終わるのだと思っていましたから。

 

あらゆる意味で、離陸はまったく正常でした。 離陸から90秒ほどあとに、鳥がフロントガラスを埋めました。

上から下、左から右へと。 大きな鳥で、避けようがありませんでした。 大きな音がし、飛行機全体が大雨かヒョウに

打たれているように感じました。 子供時代にテキサスで遭った最悪の嵐のように聞こえました。 ショッキングでした。

エンジンから空調設備を伝って燃えた鳥の臭いがしてきました。」

 

バードストライクが起きたのは離陸後の上昇途中で、同機の高度は約2818フィート(859m)でした。

通常バードストライクは高度1000フィート(305m)以下で起こるので、これは稀なケースでした。

両方のエンジンが停止した1549便は徐々に速度を失っていき、3060フィート(930m)を頂点に降下を始めます。

 

「エンジンの推進力が失われたので、非常事態だとすぐに認識しました。 低速で高度も不十分なまま、地球上で

最も人口過密な都市のひとつの上空で、両方のエンジンを失ったのです。 とても厳しい状況だと悟りました。

飛行機は上昇をやめ、急速に速度を落としていきました。 私が操縦を交代したのはそのときです。

過去42年間の飛行と異なり、私はこの飛行機が無傷のまま滑走路に着陸することはないだろうと、即座に悟りました。」

 

ニューヨーク市上空900m強を飛ぶ1594便は、毎秒18フィート(5.5m)降下していきます。

エンジン・パワーを失って巨大な鉄の塊と化した機体は、滑空しながら地面に向かいます。

バードストライクから30秒後、サリー機長は着陸できそうな場所を探して管制塔と無線交信します。

ラガーディア空港への緊急帰還を考慮しますが・・・


「あの高度でラガーディアに引き返すのは無理だと、すぐに結論づけました。 滑走路に到達するには問題が多すぎる。

失敗すれば、乗客乗員のみならず、地上の大勢の人々も犠牲にしてしまう。

次の候補地はテーターボロでした。 が、テーターボロも、到達は無理と判断しました。

 

残された可能性、水平で滑らかで航空機を着地させるのに十分な広さのある場所は、ハドソン川でした。

そこで管制官に 『ハドソン川に降ります。』 と告げました。」

 

ハドソン川に降りることを決めたのは、離陸から2分半後、バードストライクからはわずか1分後。

ジェフ・スカイルズ副操縦士とサリー機長は、着水の準備に入ります。

スカイルズは3ページに及ぶテクニカル・マニュアルのチェックを始めます。

しかしそのマニュアルは、高度35,000フィート(10,000m=10km)で不時着水が必要になった場合を想定して作成されており、

高度3000フィート(920m)未満でバードストライクに遭った1549便にはずっと短時間しかなく、

スカイルズは着水までに1ページ半しかチェックできませんでした。 着水した航空機を浸水から守る

Emergency Ditch Button (緊急不時着水ボタン) が押されることがなかったのは、そのためです。

操縦と交信の双方を担当していたサリー機長ですが、パイロットのモットーである

“Aviate, Navigate, Communicate” に従い、交信は後回しにしました。


「操縦を代わるとすぐに、イグニションを入れました。 チャンスが戻りさえすれば、エンジンが再始動するようにです。

機体に電力を供給する補助動力装置もオンにしました。 しかしエンジンは動かず、機は急速に水面へと降下していきました。

 

乗客のことは、特に考えませんでした。 この問題を解決しなければならないとわかっていました。

自分が今閉じ込められているこの箱から脱出する方法を見つけなければならないと。 お祈りもしませんでした。

それは後ろにいる誰かが、私が飛行機を飛ばしている間にやってくれていると思いました。

焦点を着水にのみ集中させました。 他のことは何も考えませんでした。」

 

過去にもわずかしか例のない、大型旅客機の不時着水に備えるためにあった時間は3分半。

そしてサリー機長は、1996年にインド洋に墜落したエチオピア航空機の運命を避けることを、固く決意していました。

 

「着水時には両翼はまっすぐ水平、機首はわずかに上向きでなければなりません。

飛行可能な最低速度を下回らず、そのわずか上のスピードで着水しなければなりません。

それらのことを同時に成し遂げなければならないのです。 訓練を最大限に活かし、自分に冷静さを強いました。

困難なことではありませんでした。 集中力を要しただけです。

3分半の降下は、スローモーションになることはなく、3分半そのものでした。 スローモーションだったら

よかったのにと思います。 他のことにも気を配ることができたでしょうから(笑)。

 

前方に川が見えました。 長く、幅広く、下流にボートが見えました。

我々は、不時着水する場合はボートの近くにするよう訓練されています。 迅速に救助されるためにです。

着水の90秒前に、客室に向けて衝撃に備えるようアナウンスしました。 すると即座に、分厚いコックピットの

扉の向こうで、客室乗務員が 『衝撃に備えてください! 頭を下げて! 身を伏せて!』 と異口同音に叫んでいるのが

はっきり聞こえました。 私のアナウンスに応え、乗客に警告し指示してくれたのです。 とても勇気づけられました。

彼女たちは私の味方だ。 私が無事着水できれば、彼女たちは乗客を無事脱出されてくれると確信しました。

 

そして私は、無事着水できると確信していました。

今では私は、あの日までの私の人生すべてが、あの特別な瞬間を切り抜けるための準備期間だったと思っています。

 

着水の衝撃は激しいものでした。 その後前進を続けたあとスピードが落ち、機首が下がり、僅かばかり左に

傾いて停止しました。 ジェフと顔を見合わせて 『思ったよりひどくなかったね。』 と言い合ったあと、すぐに

次の仕事にかかりました。 ジェフは脱出マニュアルのチェックを始め、私はコックピットのドアを開けて

“Evacuate.” と指示しました。」

 

救命ボート上である乗客男性がサリー機長に 「命を救ってくれてありがとう」 と涙をこらえつつ感謝すると、

機長は頷いて 「どういたしまして。」 と何でもないことかのように応えたそうです。

救助されたあとフェリー・ターミナルでも、機長の制服と帽子を着けたデイヴィッド・ニーヴンのように、

「一糸乱れぬ風貌で、何事もなかったかのように冷静沈着にコーヒーをすすっていました。」 と、ある救助隊員。

 

「ショック状態にあったのです。 機を墜落させたばかりだったのですから。

 誰も機内に取り残されてはいないと信じてはいましたが、確認が欲しかった。

何時間も待ったあとでそれが公式に確認されたときの安堵といったら・・・ 全宇宙の重みが肩から下ろされたように感じました。

救助に携わってくれた人々には、その一人一人に、心から感謝しています。 感謝という言葉は不十分で、まったくもって不適切です。

私は今後一生かけても、彼らに恩返しはできないでしょう。」

 

サリー機長が救命ボート上で最初にかけた電話のひとつは、奥さんローリーさんへのものでした。 奥さんのお話です。

 

「彼から電話が入ったとき、私は別の人と話し中でした。 それで最初の2回はコールを無視(笑)したのです。

3度目にコールが入ったとき、『別のコールに応えた方がいいと思うから』 と話し相手との電話を打ち切り、

サリーからの電話に出ました。 彼はとても冷静で、『君に言っておきたいんだが、私は大丈夫だ。』 と告げました。 私は彼が、

あの晩予定していた便で予定通り帰宅できることを意味していると思い、 『わかったわ、よかった。』 と応えました。

 

ですが続けて彼は、 『事故があってね、機をハドソン川に不時着させなければならなかった。』 と言いました。

私はベッドに横たわり、――泣きはしませんでしたが、ただただショックで震えが止まりませんでした。

親友たちに電話をし、『サリーが航空機を墜落させたの。 どうしたらいいかわからない・・・』 と言いました。

親友に 『娘さんたちを迎えに行きなさい』 と言われ、そうしました。 迎えに行って、家に連れて帰りました。」

 

 (60 MINUTES: I Was Sure I Could Do It の動画はコチラ

60 MINUTES: Saving 155 Lives の動画はコチラ。)

 


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“ハドソン川の奇跡” から2週間後の2009年2月2日。

1549便の目的地だったノースカロライナ州シャーロットのホテルで、1549便の乗務員と

乗客の一部が再会を果たしました。

  

 

「命を救ってくれてありがとうございます。」

 

「夫を無事私の元に返してくれてありがとう。」

 

「私を未亡人にしないでくれてありがとう。 3歳の息子が父親を失わずにすませてくれてありがとう。」 ・・・・・

 

客室乗務員のシーラ・デイルさんは、話しかけてきた乗客の男性を覚えていました。 ファーストクラスにいた男性でした。

「あのとき、とても心配しているように見えたので、 『落ち着いてください、しっかり呼吸をして』 と言ったのです。」

 

「降下中本当に怖くてたまりませんでした。 でも彼女が私を見て 『すべてうまく行きますから。』 と言ってくれたのです。

本当にありがとう。」 と男性。

 

男性はシーラさんに、彼が姪と写っている写真を見せました。 姪は彼の兄の娘で、彼の兄は9/11の犠牲者の一人でした。


 「消防士だった兄はワールド・トレード・センターで命を失いました。

私の家族は、二人目の息子を失うことには耐えられなかったでしょう。

1549便が降下する中、私まで死んだら家族はもう生きてはいられないだろうと考え続けていました。

私は何としてでも、無事に生還しなければならないと。 全員が無事に脱出できたことが、信じられませんでした。

奇跡です。 本当に感謝しています。」

 

「155は単なる数字ですが、155人に顔がつくと、その妻、娘、息子、父親、母親、兄弟の存在を実感します。」 と、サリー機長。

 

機長たち乗員にとって、非現実的な出来事が続きました。 スーパー・ボウルにスタンディング・オベーションで迎えられ、

大統領就任式に招待されてオバマ大統領に会い、サリー機長は在住するカリフォルニア州ダンヴィルの町で

英雄として表彰されました。

しかし乗客たちの多くと同様、乗員たちも、不時着水の記憶の扱いに困難を感じています。 もちろんサリー機長も。

 

「今回の体験で最も困難なことのひとつは、別のことができなかった自分を赦すことです。 何かもっと、完全なことを。

最初の数晩が最悪でした。 『もし・・・だったら・・・?』 が始まったときです。 考え始めると、眠れなくなりました。

起きたことを頭の中で再現してしまうのです。 我々は、気づくべきすべてのことを認識していただろうか?

我々はベストの選択をしただろうか? そういったことです。」

 

「そう考えたとき、ご自分がなさったことで後悔することはありますか?」 との問いに対して:


 「いいえ。 今のところは。」

 

サリー機長と家族は、世界中から送られてきた手紙を読むことで元気づけられているそうです。


 “よくやったね、サレンバーガーさん。 あなたにビールをおごりたい。 国内産の安いやつだけど。

5ドルを同封します。 神のご加護を。”

 

“親愛なるサレンバーガー機長へ。 悪いニュースばかりの世界で、1月15日は本当に素晴らしい日になりました。”

 

“敬愛するサレンバーガー機長。 ビッグ・アップルのヒーロー。 昨日私は、84歳の父からボイスメールのメッセージを

受け取りました。 父はマンハッタンの川岸の30階に住んでいます。 貴方の熟練した腕がなかったら、父を含む

大勢が、貴方の機の乗客たちと共に命を失っていたことでしょう。 ホロコースト生残者の父は、「ひとつの命を救うことは

世界を救うことだ」 と私に教えてくれました。 救った命は世界を癒し、世界に平和をもたらす可能性を秘めているからです。

貴方に神様のご加護がありますように。 ニューヨークは貴方を愛しています。”

 

「多くの人にヒーローと呼ばれていますが、それをどう思いますか?」 に対し:

 

「居心地はよくありませんが、それを否定したくもありません。 人々の感謝の心を、彼らは間違っていると指摘することで

払いのけたくはないのです。 人々の気持ちが理解できるように感じ始めたからです。

ハドソン川の出来事には、人々をひきつける何かがあったのです。 おそらく人々は、良いニュースを欲しているのでしょう。

ふたたび希望を持てるように。 私がその手助けをできるのでしたら、そうします。」

 

(60 MINUTES: An Emotional Reunion の動画はコチラ。)

 

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 “ハドソン川の奇跡” の4周年記念日だった、2013年1月15日。

サリー機長は、あの日の乗客たちがその後授かった10人の赤ちゃんのうち5人と、スタジオで対面しました。

ある男の赤ちゃんは、あの日からちょうど3年後の2012年1月15日に生まれたため、

あの日を記念して “Hudson” と名づけられたそうです。

 

 

ある乗客の女性(下左)はあの日、恋人とニューヨークを訪れて帰宅する途中でした。 2人の関係は暗礁に乗り上げつつありましたが、

不時着水がきっかけで絆が深まり、その後結婚し、かわいい女の子に恵まれました。

 

 

あの日の結果次第では、この世に生まれることはなかったかもしれない命。

サリー機長の喜びに溶けそうな表情がたまりません・・・!   

 

 

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“ハドソン川の奇跡” から5年後の2014年1月15日には、元乗客と元乗員の一部が現場で再会し乾杯  したそうです。

 

  

 

5年前と同じ好天に恵まれて、よかった。 乗客乗員の皆さんはあの日、

運命のローラーコースターに同乗して絶望・恐怖・希望・歓喜といった感情をめまぐるしく共有したのだから、

この再会の記念行事、できるだけ長く続けてほしいな

 

 

《 内容的に、次回に続く 》

 

 

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