《 ローラ・インガルス・ワイルダー ② からの続きです 》
1876年秋。 バー・オーク(Burr Oak)に到着した一家はマスターズ・ホテル経営の手伝いを始め、11歳のメアリーと9歳のローラも、給仕したりお皿を洗ったり経営者夫妻の赤ちゃんの子守をしたりして奮闘します。 が、経営者にフェアに扱われていないと感じた一家は3ヶ月でそこを去り、2軒南の食料品店の2階に間借りし、チャールズは粉引きの仕事を見つけます。 しかし隣が酒場でキャロラインと娘たちには好ましい環境ではなかったため、チャールズは町の端にある赤レンガの家を借りて家族をそちらに移します。 この家で、1877年5月23日にローラの妹グレースが誕生します。
バー・オークでの日々は 『大草原』 の物語から省かれていますが、それは騒々しい町での暮らしを一家は好きになれず、また子供向けの物語にはふさわしくないような不穏な出来事も身近で起きたためと思われます。 代わりにバー・オークでのことは、新作 “Pioneer Girl” にかなり描写があるようです。 バー・オークでインガルス一家が暮らした家のうち現存するのはマスターズ・ホテルのみで、そこは現在 『ローラ・インガルス・ワイルダー公園&博物館(Laura Ingalls Wilder Park & Museum )』 の博物館になっています。 マスターズ・ホテルは、ローラが子供時代に住んだ家の中では現存する唯一のもので、博物館の背後には “ローラ・インガルス・ワイルダー公園” があり、ローラが夏に遊んだシルバー・クリークも流れています。 ツアー・ガイドは小一時間の案内ツアーで3階建ての建物の12室をまわりながら、ローラの子供時代の話やインガルス一家の苦労や喜びを話してくれるようです。
バー・オークにあるローラ・インガルス・ワイルダー博物館 (元マスターズ・ホテル)
下右は1800年代のマスターズ・ホテル
元ホテル/現博物館の内部
下中: “Ingalls Family Bedroom”
1878年1月。 経済的に行き詰まった一家はふたたびウォルナット・グローヴに戻ります。 当初は友人宅に身を寄せましたが、やがてチャールズが町なかに建てた家に引越しました。 この町でチャールズは、商店主・肉屋・大工として働きました。
1879年2月、重い病のあとメアリー(当時14歳)が失明します。 そのあと間もなく、チャールズの妹ドシアが大きな森からやってきて、チャールズをダコタ準州での仕事に誘います。 ドシアの夫が西へと進む鉄道建設の仕事に従事していて、タイムキーパー・帳簿係兼商店経営者が必要だということでした。 より良い未来は西にあると感じたチャールズはまたしても引越しを望みますが、放浪生活に疲れ、ひとつところに定住しないと子供たちの教育に影響が出るとも懸念していたキャロラインにより、今度の引越しが最後と約束させられます。 失明したメアリーがまだ病から完全に回復していなかったため、チャールズが単身幌馬車で出発し、残る家族はあとから列車でダコタ準州に向かいました。
そうして一家が1879年から定住することになったのが、現在のサウス・ダコタ州のデ・スメット(De Smet)。 同年9月に町に到着した当初は鉄道建設者用の小屋に住みましたが、12月に 『測量技師の家』 に引越します。 深い雪のため鉄道建設作業が春までストップする冬の間はインガルス一家も東部に戻るつもりでしたが、 測量道具の番をする代わりに春まで 『測量技師の家(Surveyors’ House)』 で暮らすことを提案されたためでした。 1967年に 『ローラ・インガルス・ワイルダー記念協会』 が買い取った 『測量技師の家』 は、現在も内部を見学することができます。
測量技師の家 (Surveyors’ House)
1880年4月。 一家はチャールズが鉄道建設の余りの材木を使って町なかに建てた商店に一時的に住んだあと、5月に、町の郊外にあるシルバー・レイク近くの自作農場(Homestead)の掘立て小屋に落ち着きます。 同年10月、長い冬の最初の吹雪のあと、一家は冬季を無事に過ごすため、町なかの商店に移りました。 その冬は厳冬で、絶えず吹き荒れる吹雪のため列車が通行不能に陥り、町への供給がストップ。 町の人々は食料と燃料の欠乏に苦しみます。 飢餓に苛まれた町の人々は、ローラの未来の夫アルマンゾとその友人のキャップ・ガーランドが命の危険を冒して調達してきてくれた小麦のおかげで救われました。 長い冬のあと、1881年5月、最初の列車がデ・スメットを通過。 チャールズは掘建て小屋に2部屋を増築し、家族は自作農場に戻りました。 なおデ・スメットの町が正式に誕生したのは1880年の春で、町はベルギー出身のデ・スメット神父(Pierre-Jean De Smet)にちなんで名づけられたそうです。
デ・スメットの当時と現在
1883年当時のデ・スメットの地図と、近年の、チャールズの店があった辺り
インガルス一家が自作農場に選んだ土地には、現在は 『インガルス家の自作農場(Ingalls Homestead)』 という観光アトラクションができていて、ビジター・センターから馬車に乗って、再現されたインガルス家の住まいを訪れ、周囲を散策することができるようです。 実際にチャールズが建てた家はまったく残っていませんが、その正確な跡地には説明文を刻んだ記念碑が立っています。 またその先に見える5本のコットンウッド(ハコヤナギ)の木は、チャールズが風よけのために植えた約70本のうち残ったものだそうです。 またデ・スメットでは、毎年7月に 『ローラ・インガルス・ワイルダー野外劇(Laura Ingalls Wilder Pageant)』 が演じられます。
“インガルス家の自作農場”
外にはチャールズが作った草葺きの納屋も再現されています。
実際にチャールズが家を建てた場所と、チャールズが植えたというコットンウッドの木
中年期に入ったチャールズとキャロラインと、成長する娘たち (左からキャリー・メアリー・ローラ)
一家は1880年から1887年まで、春から秋は自作農場で暮らし、厳しい冬季は町なかのチャールズの商店で過ごすという生活を続けました。 ローラの物語のうち5冊(『シルバー・レイクの岸辺で』『長い冬』『大草原の小さな町』『この楽しき日々』『はじめの四年間』)がこの町とその近辺を舞台にしていて、 物語に登場するシルバー・レイク(Silver Lake)や大沼地(Big Slough)もここにあります。
1881年11月、16歳のメアリーはアイオワ州ヴィントンの盲学校(Iowa Braille and Sight Saving School)で寄宿生活に入り、その後の8年近くをそこで過ごします。 1885年8月25日、ローラ(18歳)とアルマンゾ(28歳)がデ・スメットのブラウン牧師の家で結婚し、ローラも両親から独立します。
インガルス一家の写真 (1884年撮影)
後列左から: キャリー、ローラ、グレース
前列左から: キャロライン“母さん”、チャールズ“父さん”、メアリー
50代に入ったチャールズには農地の管理が年々難しくなりました。 また干ばつによる不作も続いたため、ローラの両親は農場を手放すことにします。 デ・スメットのサード・ストリートに当時51歳のチャールズが1887年に建て、その年のクリスマス・イヴに引越した家は、現在は博物館(Ingalls Home & Museum)になっています。 チャールズは最初に建てた家に、徐々にキッチンと居間と3寝室とポーチを増築していきました。
ローラの妹グレースは9歳から16歳までの間日記をつけていましたが、1888年3月5日付の、当時10歳だった彼女の日記にはこう書かれているそうです: “We live in town now in not a very large house but better than the shanty.” チャールズは1892年に自作農場を、翌年に町なかの商店を売り払いました。
“インガルスの家博物館”
農業をやめたチャールズは、大工、商店主や保険屋として生計を立てました。 会衆派教会の熱心なメンバーで人望があった彼は、選出されて町の治安判事や保安官補佐も勤めたそうです。 1889年6月に盲学校を卒業したメアリーが戻ってきて、ふたたび両親と暮らすようになりました。 1901年に教師をしていたローラの妹グレースが結婚。 “父さん” チャールズは数週間病に伏せたあと、1902年6月8日(日)の午後3時頃、家族が見守る中、心臓疾患のため66歳で亡くなりました。 当時1000km以上離れて暮らしていたローラも 「父さん危篤」 の報せを受けて駆けつけていたため、チャールズの臨終を看取ることができました。
旅行好きでしょっ中家を空けていたローラの妹キャリーは1911年に、42歳の誕生日の3日前に結婚。 キャロラインは夫の死後もメアリーと暮らし、部屋を間貸ししたり洗濯を請け負ったりして生計を立てました。 1918年にキャロラインが病に伏せると、グレースとその夫が来てキャロラインが回復するまで二人と一緒に暮らしました。 “母さん” キャロラインはイースター・サンデーだった1924年4月20日の午後5時頃、病のため84歳で亡くなりました。 1928年にメアリーが亡くなるとチャールズが建てたインガルスの家は賃貸に出され、1944年には人手に渡りましたが、1972年に 『ローラ・インガルス・ワイルダー記念協会』 が買い取ってリフォームし、翌年博物館としてオープンしました。
チャールズが建てたデスメットの家を終の棲家とした “父さん” と “母さん” は、デスメット墓地(De Smet Cemetery)に、娘のメアリー、キャリー、グレースとその夫、孫(生まれて12日で亡くなったローラの息子)とともに眠っています。 (ローラ自身はアルマンゾと娘のローズとともに、人生の大半を暮らしたマンスフィールドに眠っています。)
ローラの近親の墓 皆を見守るように右端にそびえるチャールズの墓碑
墓碑はチャールズのものに近い順に、キャロライン、ローラとアルマンゾの生後12日で死亡した息子、メアリー、キャリーのもののようです。
ローラの末妹グレースと夫のお墓も同じ墓地にあるはずですが、位置はよくわかりませんでした。
インガルス一家の旅路
ぺピン ~ インディペンデンス間は、なんと995km!
そんな長距離を、家財道具すべてを積み込んで、幌馬車で移動したとは ・・・・・
農作業はもちろんのこと、狩猟用の銃弾を手作りし、家まで建ててしまうチャールズ父さんの、何と器用で働き者なこと。
おまけにヴァイオリンまで弾けるんですからね。
キャロライン母さんは母さんで、家電のない時代に家事労働をすべて手でこなし、家族の服を縫い繕ろい、
そのうえバターやチーズまで手づくりしてしまうとは。
何度も何度も逆境に陥りながら、お互いを励まし合い、力を合わせて子供たちを守りぬいた二人。
昔の人は、すごかった。 偉かった。
現代の生活はローラの子供時代と比べたら格段に便利で楽になっているはずなのに、
『大草原』シリーズを読むと、強い家族愛で結ばれたインガルス一家は、
現代人よりもずっと満ち足りて幸せそう。
もちろんそれは、子供向けに書かれた物語だからかもしれないけれど ・・・
物語にはされなかった辛苦や困窮もたくさんあったんだろうけれど ・・・
インガルス一家は、私の理想の家族。 TVドラマ化され大人気になったため
『大草原』シリーズと出会えて、本当に良かった ・・・
《 ローラ・インガルス・ワイルダー ④ につづく 》