《 ローラ・インガルス・ワイルダー ③ からの続きです 》
結婚後のローラを追う前に、ローラの姉妹のことを先に書いておきます。
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ローラより2歳上の姉メアリー・アメリア・インガルス(Mary Amelia Ingalls)は、1865年1月10日(“父さん” と同じ日)生まれ。 ウィスコンシンの大きな森に “父さん” が建てた丸太小屋で誕生しました。 ローラ・インガルス・ワイルダーの “新作” Pioneer Girl によると、 『大草原』 シリーズにはメアリーとローラの相違点が多く記述されていますが、実際には二人はとても仲良しで、本を読んだり詩を書いたり針仕事をしたりを一緒に楽しんだそうです。 1979年5月。 14歳だったメアリーは重い病にかかり、その夏失明してしまいます。 (メアリーがかかった病ははしか、脳脊髄炎、脊髄膜炎、猩紅熱、あるいは高熱を伴った脳出血などとあれこれ推測されてきました。 2013年に発表された研究結果では、髄膜脳炎と結論づけられたそうです。) 失明したメアリーのため、ローラは彼女の “目” になって目に映ったものを言葉にしてメアリーに聞かせるようになりました。 メアリーが勉強を継続できるよう、二人は勉強も一緒にしました。
デ・スメットのあるサウス・ダコタ州には盲学校はありませんでしたが、州政府は目の不自由な住民が1852年に開校したアイオワ州ヴィントン(Vinton,Iowa)にある盲学校(現在の Iowa Braille and Sight Saving School) で学べるよう援助していました。 メアリーは16歳だった1881年11月23日に、同校に入学。 インガルス家は経済的に豊かではありませんでしたが、家族は一致団結してメアリーに望めるかぎりで最高の教育を受けさせる決意でいたのです。 ローラは裁縫店で12時間仮縫いをすることにより、一日25セントを稼ぎました。 収穫はブラックバードによって台無しになりましたが、盲学校のあるヴィントンに向かう長い列車の旅の途中、両親とメアリーは炒めたブラックバードを食べたそうです。 このことからも、家族は利用できるものはとことん利用してでもメアリーを盲学校にやる決心だったことが伺えます。 学校の記録によると、メアリーが入学した年には94人の学生がおり、過半数は女子でした。 1885年のアイオワ州の国勢調査によると、同盲学校には71人の男子学生と72人の女子学生がおり、女子学生の年齢幅は7歳から28歳でした。
この学校で寄宿生活をしながら、メアリーは失われた視力を補いつつ生活するためのスキルや技術を習得しました。 彼女の学業成績は抜群に優秀で、そのうえ音楽・裁縫・ビーズ細工・編み物・ハンモックと蝿除け網づくりにも秀でていました。 記録によると、メアリーは1887年から1888年にかけて休学しています。 理由は明らかではありませんが、病か資金不足のためと推測されています。 それゆえ7年のコースを8年かけて1889年6月12日に終えたメアリーはデ・スメットの家に戻り、その後は両親と暮らしました。 メアリーは “母さん” とともに積極的に教会や町の社交活動に関わり、日曜学校で子供たちに教え、馬用の蝿除け網を作って世帯収入に貢献したそうです。“父さん” が亡くなって10年後の1912年に、 “母さん” は “父さん” が建てて二人が住むサード・ストリートの家を、 “1ドルとたっぷりの愛情” と引き換えにメアリーに “売却” しました。
1924年4月の “母さん” の死はメアリーに大きな悲しみをもたらしたため、妹のグレース夫婦がしばらくメアリーと同居しました。 妹のキャリーもしばしばデ・スメットにやってきて滞在しました。 1927年6月、メアリーはキャリーに付き添われて同じサウス・ダコタ州のキーストーンにあるキャリーの家に滞在しに行きます。 キャリーとその家族との生活は大きな気分転換になるものと、メアリーはとても楽しみにしていたそうです。 キャリー宅に滞在中だった1927年秋、キャリーに手伝われてデ・スメットに戻る仕度をしていたメアリーは脳溢血を起こし、病院に搬送されます。 体に麻痺が残ったメアリーは、キャリーに看護されながらサナトリウムと病院で静養し、その後キャリーの家に戻りました。 なかなか回復しないメアリーがその年の8月になってもキャリーの元から戻らなかったため、グレース夫婦はサード・ストリートの家を賃貸に出し、マンチェスターの南にある自分たちの農場に帰りました。
メアリーは1928年10月17日(10月20日とする情報源もあり)に、肺炎と脳溢血による合併症のため63歳で亡くなりました。 メアリーの遺体はキャリーに付き添われて葬儀のためデ・スメットに戻り、メアリーはデ・スメットの墓地の両親の隣に葬られました。 メアリーはローラの 『大草原』 の物語が世に出る前に亡くなったため、インガルス一家がローラの著作により永遠の命を与えられたことを知ることはありませんでした。 メアリーのビーズ細工、点字板や聖書などはローラの終の棲家となったマンスフィールドにある博物館に保管されていますが、メアリーの所有物の大半はデ・スメットに展示されています。
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ローラの3歳半下の妹①キャロライン “キャリー” ・セレスティア・インガルス・スワンズィー(Caroline Celestia “Carrie” Swanzey)は、1870年8月3日にカンザス州の丸太小屋で誕生しました。 ローラの “新作” Pioneer Girl によると、キャリーは “父さん” とメアリーとローラが打ち棄てられたインディアンのキャンプを探検中に生まれたそうです。 メアリーとローラは、そこでインディアンのビーズを集めました。 家に戻ると黒人のお医者さんとロバートソンさんの奥さんがいて、赤ちゃんキャリーが母さんの脇で眠っていました。 ローラとメアリーは、拾ってきたビーズに糸を通して赤ちゃんにネックレスを作ろうと、しばらく忙しい時間を過ごしたそうです。
(ローラの 『大草原』 シリーズでは、赤ちゃんキャリーは第一作の、大きな森の家で生まれています。 これはローラが 『大きな森の小さな家』 に続く話をその後書き続けることになるとは、初作の執筆時には思いもしなかったためでした。 お話の上ではインガルス一家がカンザス州に到着したときにはキャリーはもう生まれていたので、 『大草原の小さな家』 でのキャリーの誕生を描くことはできなかったのです。)
ローラによると、小さく痩せて病弱だった子供時代のキャリーは、 『長い冬』 に描かれた1880年から1881年にかけての厳しい冬の辛苦に最も影響されました。 常に病気だったわけではないものの、キャリーが元気一杯に活動的な健康状態を楽しむことは、生涯一度もありませんでした。 ハイスクールを終えたキャリーは1887年に教師の免状を取得しましたが、先生の仕事は性に合わなかったのか短期間教えただけで教職を離れ、その後はデ・スメットの郵便局や種々の商店で働きました。 10代の終わりに 『デ・スメット・ニュース』 紙に植字工として雇われ、さらには州内の別の新聞社でも働くようになりました。 1902年の “父さん” の死後も、“母さん” とメアリーとキャリーはデ・スメットの “父さん” が建てた家で暮らし続けました。 (姉のローラと妹のグレースは、その頃には結婚して家を出ていました。)
最前列中央がキャリー
“母さん” とメアリーは遠出をすることはありませんでしたが、キャリーは旅行好きで、1903年にはマンスフィールドのローラとアルマンゾを訪ねています。 成人してからも喉の不具合、喘息、花粉症などに悩まされたキャリーは、1905年、快適な気候を求めてコロラド州で一年、その後の半年間をワイオミング州の従姉妹ルイーズ・クイーナー・スミスの家で生活しました。 健康状態が向上したキャリーはデ・スメットに戻り、1907年には当時の独身女性には珍しく自作農場を申請し、半年間そこに建てた掘建て小屋で暮らすという条件を満たして農場を獲得します。 その後はローカル新聞に雇われ、新聞の発行に関する様々な過程で才能を発揮します。
彼女の腕前は当時サウス・ダコタ州で多くの新聞社を所有していた実業家の下で働くチャンスを彼女にもたらし、キャリーは1909年から1912年にかけて州内の各地に派遣されたため、家を空けることが多くなります。 三人のうちで一番おしゃべりで元気だったキャリーの不在を、“母さん” とメアリーは寂しく思うのでした。 1911年。 ラシュモア山麓の町キーストーンに 『キーストーン・レコーダー』 紙の編集長として派遣されたキャリーは、そこで伴侶となる男性に出会います。
キャリーと継子たち
キャリーは1912年8月1日、42歳の誕生日の2日前に、男やもめで16歳年上のデイヴィッド・N・スワンズィー(1854年4月18日-1938年4月15日)と結婚します。 デイヴィッドは1899年に結婚して二人の子供をもうけましたが、妻のエリザベスを1909年6月に亡くしました。 彼は開拓者で、ラシュモア山(Mount Rushmore)の名づけ親の一人として知られた人物です。 (デイヴィッドは1885年に、それまで決まった名前がなく勝手に様々な名称で呼ばれていたラシュモア山を、ニューヨーク出身の法律家で実業家のチャールズ・ラシュモアと地元の試掘者のウィリアム・チャリスとともに登山していました。 ラシュモアがその山の名を尋ねたとき、チャリスが冗談で 「これまでは名前がなかったが、今決まりましたよ。 これからはラシュモア山と呼びましょう。」 と言い、この呼称が自然に広まって、定着したのだそうです。)
結婚によりキャリーは、デイヴィッドの二人の子供、メアリー(1904-1969年、当時8歳)とハロルド(1906-1939年、当時6歳: 英文ウィキのキャリーのページではハロルドの生没年は1908-1936年となっていますが、他の情報源ではすべて1906-1939年のようなのでこちらを採用します)の継母となったため、思い切りよく仕事を辞め、サウス・ダコタ州のキーストーン(Keystone)で子供の世話に専念します。 体が弱かったハロルドの健康状態を向上させようと、キャリーは献身的に努力しました。 スワンズィー一家は毎年デ・スメットで数週間を過ごしたそうです。
1924年に “母さん” が亡くなると、キャリーは妹のグレースとともに、姉のメアリーの世話をしました。 1926年にキーストーンの家にメアリーを迎えたキャリーは、メアリーが居心地よく楽しく過ごせるよう最大限の努力をしました。 1927年秋、キャリーに手伝われてデ・スメットに戻る仕度をしていたメアリーは、体に麻痺を残す脳出血に襲われます。 キャリーはメアリーがサナトリウムと病院を経てキャリー宅に戻るまで、メアリーの看護を続けました。1928年10月、メアリーは最後の脳出血を起こし、10月17日に亡くなります。 メアリーが遺言でキャリーに遺したデ・スメットの家は、1930年代は種々の家族に賃貸に出されました。
健康で頑丈な男に成長したキャリーの継子ハロルドは、ラシュモア山の彫刻に携わったためモニュメントの足元の花崗岩壁にその名が刻まれています。 4人の大統領の巨大な彫刻で知られるラシュモア山は、採鉱が絶えたキーストーンの町の貴重な観光収入源になりました。キャリーたちの家はラシュモア山に続く道路の脇にあり、キャリーもラシュモア山の彫刻に大いに関心を持っていたそうです。 キャリーの夫デイヴィッドは1938年4月9日に亡くなり、キーストーンの墓地の前妻の隣に埋葬されました。 翌1939年に若くして自動車事故で死亡した息子ハロルドも、両親とともに眠っています。
キャリーの夫 デイヴィッド・N・スワンズィーと、
その墓碑
インガルス家の歴史に興味を持っていたキャリーは、ローラが自らの思い出を基にした物語を書くことに大乗り気で、子供時代の思い出をローラと分かち合って協力しました。 キャリーが一番好きな物語は、 『この楽しき日々』 だったそうです。 1941年秋。 71歳になっていたキャリーは、病気だった7歳下の妹グレースの世話をするためマンチェスターに向かいました。 グレースはその年の11月に亡くなりました。 1944年、キャリーは “父さん” が建てたデ・スメットの家を売却します。 同年10月、キャリーはマンスフィールドのローラとアルマンゾを訪ね、再会を楽しみました。
ローラとグレース同様、キャリーも糖尿病を患い、その合併症から1946年6月2日に75歳で亡くなりました。 キャリーの葬儀はキーストーンの教会で行われましたが、遺言によりキャリーはデ・スメットの墓地に、両親姉妹とともに眠っています。 キャリーが後半生の35年間を暮らしたキーストーンの郵便局の傍らには、キャリーとデイヴィッドが暮らした場所を示す銘板が掲げられています。 またヴィクトリア時代の学校を改造して開館された 『キーストーン歴史博物館(Keystone Historical Museum)』 では、キャリーの生涯に関する展示や思い出の品を見ることができるそうです。
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ローラより10歳下の妹②グレース・パール・インガルス・ドウ(Grace Pearl Ingalls Dow)は、1877年5月23日にアイオワ州バー・オークの、当時家族が賃借していた家で生まれました。 グレースはローラより10歳も年下だったため、ローラが結婚して家を出た時もまだ8歳で、そのため 『大草原』 シリーズでは影の薄い存在になっています。
グレースが生まれたバー・オークの家 赤ちゃんの頃のグレース
成長したグレースは勉強して教師の資格を取り、デ・スメットから11kmほど離れたマンチェスター(Manchester) の町で教鞭を取りました。 1901年10月16日に、24歳のグレースは両親の家で、18歳年長の農夫ネイサン・ウィリアム・ドウ(1859年4月25日-1943年5月13日)と結婚。 その後はマンチェスター郊外の農場で農夫の妻として働くかたわら、社交活動やクラブ活動にも参加し、ローカル新聞のため記事を書いたりもしたそうです。 メアリーと暮らしていた “母さん” の死後は、キャリーとともにメアリーの世話をしました。 グレース夫婦には子供はありませんでした。
グレースは1941年11月10日に、夫に先立って糖尿病による合併症からマンチェスターで亡くなりました(享年64歳)。 グレースもその2年後に死没した夫も、インガルスの家族とともにデ・スメットの墓地に眠っています。
サウス・ダコタ州マンチェスターの町は、最初の郵便局が開かれた1881年6月29日に正式に設立しました。 当時のサウス・ダコタ州に数多くあった、西部と東部を結ぶ鉄道の中継地として置かれた町のひとつで、町名は最初の郵便局長だった C.H.Manchester から名づけられました。 しかし20世紀に入ると鉄道の重要性が薄れたため、町は急速に衰退し、住人は職を求めて転出していきました。 1986年に決まった鉄道の廃止により町の運命は決定づけられ、2003年までには町には半ダースほどの建物しか残っていませんでした。 2003年6月24日、町は竜巻に襲われ、マンチェスターはゴースト・タウンと化しました。 2007年6月25日、町を記念する碑が建立されました。 記念碑に彫りこまれた元住民の名の中には、グレースとネイサン・ドウの名前も含まれているものと思われます。
1991年のマンチェスター 2004年の同町 記念碑のセレモニー
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ついでと言っては何ですが、TVシリーズで好きだったオルデン牧師についても調べてみました。 エドウィン・ハイド・オルデン牧師は、1836年1月14日(“父さん” と同年生まれで誕生日も4日遅いだけ!)生まれ。1863年9月23日にアナ・ウィットモアと結婚した彼は、二人の息子(1866年生まれのジョージと1873年生まれのフレデリック)を授かります。 妻に先立たれた彼は、1897年1月22日にキャリー・ジョンソンと再婚します。
会衆派教会の牧師としてウォルナット・グローヴに赴任したオルデン牧師は、インガルス一家と知り合いました。 ウォルナット・グローヴを離れたインガルス一家は、もう二度とオルデン牧師に会うことはないと思いましたが、オルデン牧師は思いがけずサウス・ダコタ州のデ・スメットに現れ、彼自身も予期していなかったインガルス一家との再会を喜んでくれました。 1880年2月、彼は当時インガルス一家が住んでいた “測量技師の家” で、デ・スメットで最初の礼拝を行いました。 メアリーが失明したことを聞いた彼はインガルス一家に、アイオワ州ヴィントンにある盲学校のことを話します。 それを聞いた家族は、何が何でもメアリーをその学校に送ることを決意するのでした。
TVシリーズのオルデン牧師 本人
しかしノース・ダコタに原住民との仲介役として赴いた彼は、「立場を利用してけちな詐欺行為を何件かはたらいたため、原住民から嘘つきとみなされて命を脅かされるようになった」 と1878年8月15日付のニューヨーク・タイムズに報じられたそうです。 その後は彼は、聖職者の役目に戻り、1911年5月6日に75歳で死没しました。
(ウィキペディアからの情報ですが、『けちな詐欺行為』 って ・・・ ホントに ・・・???)
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その後が気になる登場人物のもう一人は、アルマンゾの友人だったキャップ・ガーランド。 ローラが当初はアルマンゾよりも興味をもっていた、金髪碧眼で輝くような笑みを見せる若者です。
キャップ・ガーランド(本名オスカー・エドマンド・ガーランド)は、1864年12月27日生まれ。 8歳上の姉セーラと2歳上の姉フロレンスがいました。 キャップが10歳のとき父親が死亡。 母親と二人の姉とともにデ・スメットに来たのは、彼が15歳だった1880年のことでした。 母親は町で民宿を始め、キャップは学校に通い始めました。 教師の資格を取った姉のフロレンスは、キャップも通うセカンド・ストリートにある小さな学校で教えることになりました。 礼儀正しく魅力的な明るい笑顔を見せる彼は、すぐに級友たち、特に女の子たちの間で人気者になります。
その冬デ・スメットは異常なほど吹雪に次ぐ吹雪に見舞われ、列車による町への物資の供給がストップし、商店から食べ物は消え、住民は次第に飢えていきます。 その頃住民の間には、デ・スメットの南東の自作農民が小麦を蓄えているとの噂がありました。 でも吹雪と吹雪の間にはほんの一日ほどしか間がなかったため、誰も単なる噂を頼りに命の危険を冒す気にはなれなかったのです。 しかし、このままでは住民は飢え死にしてしまう――キャップ・ガーランドとローラの未来の夫アルマンゾが、危険を冒して小麦を調達してくる役を買って出ました。
片道約24kmの旅は、二人を町からどんどん遠ざけていきました。 気温は-35℃にまで落ちています。 柔らかい雪に脚を取られて馬が倒れると、アルマンゾかキャップが馬具を外して馬を溝から助け出してやらねばなりません。 あきらめるわけにはいきませんでした。 飢えたデ・スメットの人々が、切実に小麦を必要として待っているのですから。
少年期?のキャップ 姉セーラ(左)とフローレンス 成人後のキャップ
やがて遠方にかすかな明かりが見え、二人は全速力でそちらに向かって進みます。 噂通り小麦を蓄えていた農夫は、最初は 「必要な蓄えをしておかなかった住民たちが悪い」 と小麦を売ることを渋りますが、二人に説得されて小麦を売ってくれます。 小麦を橇に積んだ二人は、農夫がその晩はそこに泊まるようにと必死で止めるのを押し切って、デ・スメットに向かって帰途につきます。
柔らかい雪で馬が転倒すると、積んだ小麦のため馬具を外すのは往路よりずっと困難でした。 ようやく町に到達するというときに町の方向を見ると、黒雲が北西の方向から広がってきているのがわかり、二人は残された時間は数分しかないことを悟ります。 町に着く直前に吹雪が襲い、二人のまわりを雪が狂ったように渦巻き始め、二人には何も見えなくなりました。 そのとき突然、二人はアルマンゾの馬小屋に着いたことに気がつきます。 こうして町の住民は救われ、ローラも後年 『大草原』 の物語を執筆することができたのでした。
成人したキャップは馬を使って他の農場を手伝い、脱穀作業チームの技師も務めました。 1891年11月3日。 キャップはオーガスト・ラーソンの自作農場での脱穀を手伝っていました。 午後4時頃、脱穀機のボイラーが突如爆発し、二人が死亡、二人が重傷を負います。 キャップは死亡した二人のうちの一人でした。 未婚だった彼は、まだ26歳という若さでした。 キャップはサウス・ダコタ州ウイロー・レイクにあるコリンズ墓地に、1913年に死没した母親マーガレットと、デ・スメットに移住してきたのち亡くなった祖母イライザとともに眠っています。
(知らなかった・・・・・ デ・スメットの住人を飢えから救った英雄の、早すぎる死。 運命は本当に不公平です。
ローラがキャップと結婚していたら、若くして未亡人になっていたのかも。 キャップのご冥福をお祈りします・・・・・)
《 ローラ・インガルス・ワイルダー ⑤ につづく 》