《 ①からのつづき 》
Auschwitz: The Nazis and 'The Final Solution' は、
アウシュヴィッツ解放60周年を記念して2005年に放映された、BBCテレビのドキュメンタリー。
グレーニングはこれに出演し、若き武装親衛隊員としての当時の心境や、
戦後60年を迎えようとしている2005年現在の思いを率直に語った。
戦時中の彼は、ナチスの残忍な行為は正当化されると考えていたという。

「あのころ我々は世界観によって、ドイツは全世界に裏切られたと、
そしてユダヤ人による恐ろしい陰謀がドイツ人に対して企てられていると、完全に信じていました。」
《 しかし子供に罪はなかったことは明らかだったのでは? に対しては―― 》
「子供はその時点では敵ではありません。 が、いずれは成長して危険な存在になります。
彼等の体内に流れる血が問題なのです。」

(一部ですが、こちらで視聴できます。 グレーニングに関する部分は、3:30から8:13まで。)
上のドキュメンタリーには、グレーニングの出番はまだあった。 彼が描写する、当時のアウシュヴィッツ。
「メイン・キャンプは、小さな町のようでした。 食堂があり、映画館があり、劇場があり、ダンス・ホールがあり、
私が加入したスポーツ・クラブがありました。
毎晩ではなかったものの、親衛隊員たちはよく酔っ払いました。 酔ってベッドに入り、
電気を消すのが面倒になった隊員は、拳銃で電球を撃って消灯しました。 部屋の壁にはあちこち弾痕ができましたが、
誰も何も文句を言いませんでした。」
彼はアウシュヴィッツで横行していた腐敗に関しても証言した。
彼によると武装親衛隊員たちは、アウシュヴィッツに送られてきた人々から奪った現金・貴金属・貴重品・飲食物などを、
「すべて厳重に管理保管するように」 との規則にもかかわらず、自由に横取りしていた。
グレーニング自身も拳銃が欲しくなった際、同僚に入手を頼み、自分が管理していた現金から30ドルを失敬して支払いに充てた。
隊員の窃盗行為が上層部の耳に入り、ロッカーの抜き打ち検査が実施されたとき、グレーニングは現金輸送の任務でアウシュヴィッツを離れていた。
戻ってみると、彼のロッカーは 《検査が済むまで開けるべからず》 の意味で、封がされていた。 ロッカー内には盗品がある。
そこで彼は一計を案じ、同僚に手伝ってもらってロッカーの裏面を外し、横領品をすべて隠してから
何食わぬ顔でロッカーを検査させ、事なきを得た。
《 殺された人々から奪った品で自分自身の生活を豊かにしていたわけだが、
彼らに対して申し訳ないという気持ちになったことは?に対しては―― 》
「まったくありませんでした。 殺されたのは彼等だけではなかった。 至るところで、人が死んでいたのです。
申し訳ないなどと思っていたら、1分たりとも生き長らえることはできませんでした。」 と断言した。
2005年5月の “シュピーゲル” 誌におけるグレーニングのインタビュー記事はこちら。
An SS Officer Remembers: The Bookkeeper from Auschwitz
Part 1: The Bookkeeper from Auschwitz
Part 2: Counting the money of the dead
殺害には直接関与していなかったため、グレーニングは自分に罪があるとは考えていない。
彼は絶滅工場における自分の役割を、“ギヤの中の小さな歯車” と表現する。
グレーニングは、ガス室の叫び声を忘れたことは一度もないし、恥のあまり、アウシュヴィッツにも一度も戻っていない。
彼はユダヤの人々に対し、また彼らに対して犯罪を犯した組織の一部であったことに対し、罪悪感を抱いていると述べた。
生残者に赦しを請うことはできないので、神に赦しを請いたいと。
しかし公にホロコースト否認派を弾劾し、そうするために自らの過去を明らかにしたことにより、
グレーニング自身が戦争犯罪者として追及される結果になった。
戦後の長い間、囚人の殺害に直接関与していなかったナチスのメンバーは、罪を問われることはなかった。
グレーニングも過去に捜査の対象になったが、1978年に始まったグレーニングに関する捜査は、7年後に
「グレーニングが直接殺害に関与していたと証明されない限りは告発できない」 と結論された。
時は流れ、2009年7月。
ナチスの強制収容所で看守をしていたウクライナ人のジョン・デミャニュク(89歳)が
「少なくとも27,900人の殺害の幇助容疑」 で起訴され、2011年5月に有罪を宣告される。
ジョン・デミャニュク
過去に例がなかった、囚人の殺害には直接関与していなかった(と思われる)看守を有罪としたこの判決は、
元ナチス(とその協力者)の裁きにおいて新たなる道を開いた。
以前は元ナチスを告発するには、三つの目的を達する必要があった。
元ナチスを発見し、容疑者が犯した非人道的行為の十分な証拠を探し出し、司法に働きかけて告発を成立させなければならなかった。
しかしデミャニュクの有罪判決後は、強制/絶滅収容所で勤務していたという記録が残る元ナチスやその協力者を発見するだけでいいことになった。
「そこで何が起きているのかを知りながら強制収容所に勤務しただけで、十分に起訴できる」 ことになったのである。
“最後のナチス狩り” が始まった。
公にホロコースト否認を否定していたオスカー・グレーニングという元親衛隊員を見つけ出すのは簡単だった。
1944年の5月から7月に焦点を絞った検察側は、
137の列車で42万5千人のハンガリー系ユダヤ人がアウシュヴィッツに強制送還され、
うち少なくとも30万人が殺害されたこの期間、グレーニングは
『ナチス・ドイツを経済的により豊かにすることにより、その組織的殺害を幇助した』 と告発した。
今年4月20日に、リュ―ネブルクにおいて裁判がスタート。
彼の高齢と健康状態に配慮して、開廷時間は一日3時間までに制限された。
93歳のグレーニングは述べた。
「私が道徳上有罪なのは明らかです。 私は赦しを請います。
道徳上有罪な私が刑法上でも有罪かどうかは、法廷が決めることです。」
《アウシュヴィッツ犠牲者に正義を》 世間の関心の高さがうかがえる、裁判所の外の光景

《ナチスによる恐怖の犠牲者との連帯》 と書かれた横断幕

裁判中の6月10日に誕生日を迎えたグレーニングは、94歳になった。
そして下された有罪宣告と、4年の禁固刑という判決。
裁判が始まったころ裁判所の外にいた、ネオ・ナチのメンバーのトマス・ウルフ。 このポーズ ↓ の意味は・・・?

裁判の傍聴を期待してうろついていた彼(前科アリ)は、「グレーニングは当時の犠牲者であり、今はドイツ司法の犠牲者だ」 と語ったそうである。
判決の翌日つまり今月16日付の “ザ・ガーディアン” 紙によると、
グレーニングは終戦後まもなく調査されようとしていた。
連合国戦争犯罪委員会の1947年3月6日付けの戦争犯罪容疑者リスト (14ページ目) に、約300の名に混じって、
彼の名が記載されていたのである。

しかしながら、国際情勢がそれを止めた。
ソ連の共産主義の脅威を感じた西側諸国は、西ドイツの再建が最優先と感じ、
ポーランドやユーゴスラビアなどの猛反対を押し切り、 “小物” の追及はそれ以上はしないことにしたのである。
(How Nazi guard Oskar Gröning escaped justice in 1947 for crimws at Auschwitz)
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Auschwitz: The Nazis and 'The Final Solution' のDVD。
これ私、今年5月に見ていたんですよね。 二度目のポーランド行きを控えて、予習のために。
オスカー・グレーニングの名も外見も何となく覚えていたので、彼に有罪判決が下ったというニュースを見たときすぐに思い出しました。
彼が起訴されていたことは知らなかったので、びっくりしたし、正直 (なぜ今頃になって・・・?) と思いました。
普段は執念深くて死刑制度にも大賛成派の私ですが、グレーニングに関しては、
有罪は納得しますが、禁固刑には執行猶予がつけられるべきと考えます。
理由は、彼は囚人の殺害には直接関わっていなかったこと。
そして近年、ホロコースト否認派に公的に反対証言をしていたこと。 この二つです。
彼のような “小物” を長年見逃してきたのは、ドイツの司法制度でした。
それを、時代が変わり世論も国際状況も変わったからといって、今さら94歳を禁固刑に処して、一体何が得られる? と思います。
しかもグレーニングは、ホロコースト否認を否定するため、沈黙を破った人です。
過去を隠し通してひっそりと暮らし続けることもできたのに。
法廷では沈黙を通したというジョン・デミャニュクとは対照的に、グレーニングは法廷でも、
自分のアウシュヴィッツでの体験を率直に語ったのに。
その勇気は、執行猶予に十分に値するのでは?
彼を禁固刑に処する代わりに、実社会で余生を送りながらアウシュヴィッツでの体験を
世界に発信してもらったほうが、よほど有意義では?
若きグレーニングは、アウシュヴィッツからの転属を願い出ていました。
最初と二度目にそれが却下されたとき、一体彼に何ができたでしょう?
任務を放棄すれば彼は処分を受け、代わりの誰かが彼の仕事を引き継ぎ、アウシュヴィッツは
それまでと同じように機能していったことでしょう。
誰だって、社会的弱者が辛い目に遭うところなどは見たくないはず。
もっと早く、 “小物” たちがまだ若いうちに罪を問うべきだったのに、それを怠ったのはドイツの司法制度だったのだから、
今さらグレーニングを 『ドイツの司法制度の過ち』 から目を逸らせるためのスケープゴートにするな!! と私は思います。
第一 “中物” どころか “大物” 親衛隊員の多くが、告発を免れて海外に逃げ、平穏な一生を終えたそうですし。
(あ、でももちろん、グレーニングが囚人の殺害や暴力に直接加担していたのなら話は別ですよ。
その場合は、たとえ何歳だろうと収監されるべきだと思いますし、
複数の殺害に直接関与していたのなら、死刑が妥当です。 高齢だって、慈悲は無用。)
と私がこんな風に思うのは、遠い異国に生まれた外国人で、直接的にはホロコースト被害者を誰一人知らないからなのでしょう。
もし私がアウシュヴィッツ生残者の家族だったら、おそらくグレーニングの有罪判決と禁固刑に大喜びするのでしょうね。
4日前(20日)、グレーニングと彼の弁護団は控訴したそうです。
私は彼が禁固刑を免れて、自由社会で最期を迎えられるよう祈っています。
ところでグレーニングの裁判中、彼と対面して彼を赦したアウシュヴィッツの生き残り女性がいました。
次回は彼女のことを書くことにします。
《 アウシュヴィッツの帳簿係 ‐ おわり 》
