ガザからの携帯電話から聞こえる6歳の声は、小さくてかすかだった。
「戦車が隣にいて、動いているの」
パレスチナ赤新月社の緊急コールセンターに座っていたラナは、自分の声を落ち着かせようと努めた。
「とても近くに?」
「とても、とても」 小さな声が答えた。
「迎えに来てくれる?とても怖いわ」
ラナにできることといえば、会話を続けることだけだった。
6歳のヒンド・ラジャブは、ガザ・シティで銃撃戦に巻き込まれ、親戚の遺体に囲まれながら叔父の車の中に隠れて助けを求めていた。
ラナの声は、ヒンドが慣れ親しんだ世界とつながる唯一の細い糸だった。
ヒンドはその日、叔父、叔母、5人の従兄弟とともにガザ市の自宅を出発した。
2024年1月29日の月曜日だった。
その日の朝、イスラエル軍は人々に、街の西側の地域から避難し、海岸沿いの道路に沿って南へ移動するよう伝えていた。
ヒンドの母ウィッサムは、自分たちの住んでいる地域で激しい砲撃があったことを覚えている。
「私たちは恐怖を感じ、逃げ出したいと思っていました。空爆を避けるために、あちこち逃げ回りました」
一家は、より安全な避難場所であることを期待して、街の東にあるアフリ病院に向かうことにした。
ウィッサムは上の子供と一緒に徒歩で向かった。ヒンドは叔父の車、黒のキア・ピカントに乗せてもらった。
「とても寒くて、雨が降っていました。私はヒンドに雨の中を歩かせて辛い思いをさせたくなかったので、車に乗るように言いました」
車が出発するとすぐに、同じ方向から大きな銃声が聞こえたという。
ヒンドの叔父が市内の有名なアル・アズハル大学に向かって車を走らせると、車は不意にイスラエル軍の戦車と鉢合わせしたと思われる。
彼らは安全のために近くのファレス・ガソリンスタンドに車を停めたが、銃撃を受けたようだ。
車内で家族は親戚に助けを求めた。
そのうちの一人は、80キロ離れたヨルダン川西岸にあるパレスチナ赤新月社の緊急本部に連絡した。
午後2時半頃だった。
ラマラにある赤十字のコールセンターのオペレーターは、ヒンドの叔父の携帯電話番号に電話をかけたが、電話に出たのは叔父の15歳の娘、ラヤンだった。
録音された通話の中で、ラヤンは赤新月社のスタッフに、両親と兄弟が全員殺されたこと、車の横に戦車があることを伝えた。
「彼らは私たちに向かって発砲しているわ」 と彼女は言い、銃声と叫び声が続いて会話は終わった。
赤新月社が電話をかけ直すと、出たのは6歳のヒンドで、恐怖におののく彼女の声はほとんど聞き取れなかった。
間もなく、車内で生き残ったのは彼女のみであり、まだ銃撃戦の真っ只中にいることが明らかになった。
「座席の下に隠れて。誰にも見つからないように」
赤新月社がイスラエル軍に救急車の出動を許可するよう訴える間、オペレーターのラナ・ファキは何時間もヒンドと電話をつなぎ続けた。
「彼女は震え、悲しみ、助けを求めていました。彼女は親族が死んだと言いました。でもそのあとで、『眠っている』 と言ったんです。
だから私たちは彼女に 『眠らせてあげて、邪魔をしたくないから』 と言いました」
ヒンドは繰り返し何度も何度も、誰かが迎えに来てくれるよう頼んだ。
「あるとき彼女は、暗くなってきたと私に言いました。私の家はどれくらい離れているのかとも訊きました。
私は麻痺したようで、無力だと感じました」
通報開始から3時間後、ようやく救急車がヒンドを救出に向かった。
その間に赤新月社のチームは、ヒンドの母親ウィッサムと連絡を取り、彼女の電話回線をつなぎ合わせた。
母親の声を聞いて、ヒンドがさらに泣いたことをラナは覚えている。
「彼女は私に電話を切らないでくれと懇願しました」 とウィッサムはBBCに語った。
「私は彼女にどこか怪我をしているか聞き、それから一緒にコーランを読んで気をそらし、一緒に祈りました。
彼女は私が言ったすべての言葉を、私に続いて繰り返しました」
救急車の乗員であるユセフとアフマドが、自分たちがその場所に近づいていて、イスラエル軍による立ち入り検査を
受けようとしていることをオペレーターに知らせたのは、日が暮れてからだった。
オペレーターが彼らの同僚から、あるいはヒンドから聞いたのは、それが最後だった。
二人の救急隊員、そして彼らが救助に向かった6歳の少女との連絡は、永久に途絶えた。
ヒンドの祖父バハア・ハマダはBBCに、少女と母親との通話はもう少しの間だけ続き、ウィッサムが最後に聞いたのは、
車のドアが開く音と、「遠くに救急車が見える」 とヒンドが言ったことだったと語った。
「毎秒毎秒、胸が熱くなります」 と、ウィッサム。
「救急車の音を聞くたびに、『もしかしたら娘かもしれない』 と思うんです。
すべての音、すべての銃声、すべての落下ミサイル、すべての爆弾 - 私はそれが、私の娘に向かっているのでは、と考えてしまいます」
ガザにいる赤新月社のチームも、ヒンドの家族も、イスラエル軍が支配する戦闘地域内のその場所にたどり着くことはできなかった。
「夜がとくに辛いです」 オペレーターのラナは言う。
「目を覚ますと、耳元で 『迎えに来て』 というヒンドの声が聞こえるのです」
BBCはイスラエル軍に、その日の同地域での作戦の詳細と、ヒンドの失踪と彼女を救出するために派遣された救急車について尋ねた。
24時間後、私たちは再び尋ねたが、彼らはまだ確認中だと言った。
「国際司法裁判所はどこにあるのです? なぜ大統領たちは椅子に座っているのですか?」 ヒンドの母、ウィッサムは尋ねる。
娘の失踪から1週間。ウィッサムは毎日毎日、ヒンドが生きて戻ってくるという断固とした希望を胸に、アフリ病院に座って待ち続けている。
「娘のものを持ってきて、今か今かと、娘を待っています。どうか皆さん、私の娘のことを、忘れないでやってください」
《 昨年2月5日のBBCニュース記事を、意訳させていただきました。》
悲しいことに、ヒンドちゃんと二人の救急隊員の安否は、最悪なかたちで明らかになってしまいました・・・。
救助を求めていた6歳のガザ少女、遺体で発見 家族や現場に向かった救急隊員も死亡 - ロイター/ YouTube
ガザ地区 電話で助けを求めていた6歳の女の子 死亡確認 - NHK NEWS
* * *
皆さん覚えていましたか、この事件? 私は忘れられませんでした。
ただ一人生き残った、わずか6歳の女の子まで射殺するって・・・・・・
しかも、彼女の救出に向かった、救急隊員までも・・・・・・
まごうかたなき戦争犯罪じゃないですかっ!?
また、このような記事も読みましてね。
アウシュビッツ生存者の子がパレスチナのために声をあげるわけ - NHK国際ニュースナビ
ヒンドちゃんの命日の二日前の今日は、アウシュビッツ解放80周年記念日でした。
アウシュビッツを二度も訪れた私、迫害され想像を絶するような残虐行為の犠牲になったユダヤ人には深い悼みと同情を感じてきましたが、
今はその気持ちが、少し冷めつつあります。
迫害される苦しみを知っているはずのユダヤ人が、なぜガザ地区の一般市民に、あそこまで非道になれるのか、と。
同時に、(やはり人類というものは、殺し合いをやめられない生き物なのだな) と、絶望的な気持ちにもなります。
ふたつの世界大戦が終わり、戦後の経済成長期に生まれ育った私。
今になって振り返ると、70年代80年代は、希望に満ちた本当に良い時代だったなぁと。
これから世界はどこに向かうのでしょうね?
未来が不確定なことこの上ない今、人間に寿命があるのは悪いことではないな、と思ってしまいます。
ヒンド・ラジャブちゃんをはじめとする、
イスラエル・ハマス戦争で犠牲になったすべての方々のご冥福を、
心からお祈りいたします。・・・・・