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Channel: ハナママゴンの雑記帳
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ディアトロフ峠事件 ・ 前編

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『20世紀最大のミステリー』 なんて呼ぶ人もいるらしい、“ディアトロフ峠事件”。

2013年にこの事件を題材にした映画 『ディアトロフ・インシデント』 が製作されたときにニュースになり、

初めてこの事件のことを知りました。 (IMDb によると、映画の出来は今いちだったようですが。

そのうち記事にしようと思いつつ、たくさん読まなければならなそうなので面倒でつい先送りにしていましたが、

ようやく気が向いたので、今回はこの事件について書くことにします。

(今後も随時訂正や追加をすると思いますので、その点ご了承下さい。)

 

時は1959年2月2日だったというから、昭和にすると34年。 戦後の奇跡的な復興と高度経済成長に向けて、

日本国民が頑張っていた頃ですね。 “ALWAYS三丁目の夕日” に描かれたような、郷愁を誘う時代。

10人の若いロシア人(男性8名・女性2名)が、酷寒のウラル山脈北部でのスキー・トレッキングに出掛けました。

大学の学生とOBから成る20歳から25歳の9名と、事件が起きた日が偶然38歳の誕生日だった1名。

何が起きたかは、ウィキの ディアトロフ峠事件 で詳しくお読み下さい。

 

ブリノフ・チーム/地元兵士たちとヴィジャイ村で写真に収まるディアトロフたち        木こりのベースで木こりたちとポーズを取る一行      

 

 

まぁ~なんとも不気味な事件・・・・・ 若く健康でスキー・トレッキングの経験も積んだ9人が、テントを切り裂いて

酷寒の雪原に服装も靴も整えないまま飛び出すなんて。 いったい何が彼らをそうさせたんだろうっ?!

 一行の死に至るまでの経緯を、「彼らの日記や写真を基にした」 というネットからの情報をもとに

(=誤りも含まれているでしょうが)、たどってみたいと思います。

The Group Journal - Diatlov Incidnt は興味深いです。)

 

ウラル北部にあるホラート・シャイフル(Kholat Syakhl)山―― 一行が誤って入り込んでしまった山――は、

マンシ語では “死の山” を意味するそうです。

でもこれは死者の山を意味するわけではなくて、猟鳥が極端に少ないことからそう呼ばれるようになったため。

確かにかつて、9人のマンシ人狩人がこの山で一晩過ごしたら、のちに全員遺体で見つかったという事件はあったそうですが。

そしてその事件が “死の山” の由来だとする向きもありますが。

マンシ人はこの山が呪われていると信じ、避けるそうです。

 

トラックでヴィジャイ村から木こりのキャンプに向かう一行

 

“死の山” の左肩に、今日ディアトロフ峠と呼ばれる場所があります。 1959年にロシア人の若者9人が不可解な、そして

早過ぎる死を迎えた地です。 登山と長距離スキー・トレッキングの経験豊かな10人は、イゴール・ディアトロフをリーダーに、

1月23日にスヴェルドロフスク(今日のエカテリエンブルク)を出発。 最終目的地はマンシ語で “そこに行くな” を意味する

オトルテン山でした。 列車とバスとトラックを乗り継いで、25日午後2時頃にルート上では人が居住する最後の地である

ヴィジャイ村(Vizhai)に到着。 ディアトロフたちと同じ大学から同様にスキー・トレッキングにやって来たブリノフ・チームは、

ディアトロフたちとは異なる目的地を目指してこの日ヴィジャイ村を出発して行きました。

ちなみにヴィジャイ村は2010年夏の森林火災で全滅してしまったため、今は存在しないそうです。


ディアトロフ・チームは1月26日、まずトラックでヴィジャイ村を出発。 長く寒くみじめな旅のあと、木こりたちのキャンプに到着。

暖かい歓迎を受けた彼らは個室を与えられ、夕食後は何人かは映画を見に行き、残りのメンバーは皿洗いと掃除をしました。

翌27日は、馬を使って地質学者の廃村まで装備を運びました。 約20の家屋が残っていたものの、一夜を過ごせる状態にあったのは

そのうちの一軒だけでした。


 

 

 

1月28日。 赤痢にかかったユーリー・ユーディン(22歳)が、ヴィジャイ村に引き返すことを余儀なくされます。


                                                     転んだジナイダを助けるユーリー・ユーディン

  

ユーリー・ユーディンに別れを告げるジナイダ(下左)と、リュドミラ(下右)

   

 結果的に彼は、急病になって命拾いしました。 同行していたら、まず間違いなく彼も死んでいたでしょう。

ユーディンはほんの数年前の2013年4月27日に、75歳で亡くなりました。

後日インタビューの中でユーディンは、地元民がディアトロフに何かを警告しようとしていたのを耳に挟んだと語ったそうです。

ユーディンにはその内容は聞こえず、ディアトロフは警告を迷信として取り合いませんでした。

ディアトロフはユーディンに、ヴィジャイ村への帰還は 〝2月12日を予定しているが、遠征の難易度を考慮すると

14日あたりが現実的だろう” と語っていたそうです。

 

9名になった一行は、遠征を続けます。 以下の画像は撮影日時も順番も適当ですのでご注意。


    ニコライ、リュドミラ、セミョーン、ジナイダ                休憩中のセミョーン、ユーリー・ドロシェンコ、ディアトロフ  

 

                                                                  オースピヤ川近くで日記をつけるジナイダ

  

 

一行はロズヴァ川(? Lozva)に向かいましたが、積雪は前年より少なく、解けかかった雪がスキー板の下にくっつくので

苦労しました。 午後5時半に前進をやめてキャンプを張り、キャンプファイアーの周囲で歌を歌ったり愛について語り合って

晩を過ごしました。 暖房や雪を解かす目的で持参したストーブは、(極端に熱くなるため)誰もその隣で眠りたがらず、

その晩ちょっとした議論の種になったようです。

 

1月29日、一行はマンシ人が造った古い道をたどってロズヴァ川からオースピヤ川(? Auspiya)へと遠征を続行しました。

風がほとんどない日で、気温は-13℃でした。

1月30日もオースピヤ川に沿って遠征を続けますが、対岸までずっと凍った部分が見つからず、一行は川を渡るのに

苦労したようです。 天候も荒れ始め、-13℃から-17℃あった午前中の気温は、夜には-26℃まで下がりました。

強い南西風が吹き始め、厚く垂れ込めた雲から雪も降り始めます。 オースピヤ川はまだ渡れておらず、

キャンプを張った頃には風は強い西風に変わっていました。 この日も前進は困難で、17kmしか進めませんでした。


         ロズヴァ川近くで、ニコライとセミョーン              リュドミラ、ユーリー・クリヴォニシチェンコ、ニコライ、ルステム     

 

 

1月31日。 西からの強風が吹いていましたが、空は澄み渡っていました。 雪は止んでいたものの、木々から

風で飛ばされてくる雪が、まるで雪が降り続いているかのように視界を悪くしていました。 この日はハードな一日だったようで、

日記にはこう記されていました。

“今日は特に困難だった。 視界が悪く、一時間に1.52kmしか進めなかった。 前進するために新たな方法を

編み出さなければならなかった。 最初に誰かがバッグを残して前進し、皆のところに戻ってきて10分か15分ほど

休む。 これを交代ですることにより、先へ先へと道を作ることができた。”

一行は徐々にオースピヤ渓谷を離れ、上へ先へと前進を続けます。 積雪は1.22mしかなく、一行は晩までには

疲れ切り、火を焚くための穴を掘ることもできませんでした。 高原の端に到着できたので、余分な装備と食料を

帰路に供えて森の中に備蓄しました。 日記に記載があったのは、この日が最後でした。

 

  

  メンバーたちの最後の写真のうちの一枚                     フィルムの最後に残っていた奇妙な画像    

 

 

状況から判断すると、2月1日は遅いスタートを切ったようです。 その日は4kmしか前進できませんでした。

(帰路に備えての装備と食糧の備蓄はこの日の午前中に行われたとする情報源も。)

また吹雪に遭ったため方向を誤り、予定していたルートから西に外れて “死の山” の頂上に向かう斜面へと入り込みました。

誤りに気づいたリーダーのディアトロフは、木々に守られて強風をしのぎやすいし焚き木も見つけられるであろう

1.5km離れた森に戻ることはせず、午後4時頃 “死の山” の斜面にキャンプを張ります。

目的地オトルテン山まで10kmの地点でした。 (10マイル=16kmだったとする情報源も。)

彼らはおそらく午後6時か7時頃に夕食をとりましたが、テント内の食べ物が片づけられていなかったことから、

その最中に 9人全員をパニック状態に陥らせる何かが起こったようです・・・・・

 

2月20日に捜索救助活動が始まり、その後警察と軍隊も加わり、26日に上空を飛んでいた航空機から、

半ば雪に埋もれた置き去りにされたテントが発見されました。

(異なる画像が出てきたので両方載せておきます。)

 

 

内部から大きく切り裂かれていたテントの中には、スキー・食糧・靴・暖かい衣類・カメラ4台・ナイフ・フラッシュライトなど、

酷寒の地を生き抜くために役立つ品々が多く残されていました。

それは9人全員が大急ぎで、命からがら雪原に飛び出したことを物語っています。

テント内には現金と列車の切符も残っていたため、強盗に遭った可能性も除外されます。

のちに検分されたテントは、奇妙なことに支柱に切り込みが入っていたそうです。

予備の支柱は持参していなかったのに、誰がなぜ、故意に支柱を損傷しようとしたのでしょうか。

 

          

 

テントから斜面を1.5km下ったところにある森に向かって8~9人分の足跡が続いていましたが、

500mほど行ったところで雪に覆われて見えなくなっていました。 足跡の多くが、靴はおろか靴下も履いていませんでした。

しかしながら、その時は救助隊はまさか全員が死亡しているとは考えもしなかったので、現場の状況保存には

あまり注意が払われませんでした。 テント発見直後に 「勢い余ってテントを裂いて開けてしまった」 と後日告白した

救助隊のメンバーもいたそうです。 そのためテントの裂け目のどこからどこまでがディアトロフ・チームによって

内側から切り裂かれたかの判断は、かなり困難なものとなりました。

テントの近くには小用を足した痕跡もありましたが、これはおそらく他のメンバーより服装が整っていた

セミョーンかニコライのものだろうと考えられました。

用を足すため暖かく着込んだメンバーが外に出た途端に異常事態に直面し、その結果他のメンバーも

裸足で逃げ出す事態になったのでしょうか。

 

テント周辺を捜索する救助隊                            テントから続いていた足跡    

 

 

翌2月27日に、テントから1.5kmほど下った森の入口付近で最初の二遺体――両方とも男性――が発見されました。

ヒマラヤスギの根元にふたつの遺体が横たわり、近くには小さな焚火の痕跡(下右)がありました。

遺体は両方とも軽装で、靴を履いていませんでした。

  

 ヒマラヤスギは下の方の枝が切られていたため、おそらく焚き木にされたようです。

樹皮の裂け目には人間の皮膚や血が付いているのが発見され、また枝が地面から5mほどの高さまで

折れていたことから、一行のうちの誰かが両手を傷つけながらも木によじ登ったと推測されました。

高い位置から何か――おそらくキャンプ――を探すために?

(下右は、同じ木の近年の画像。)

 

 

さらにヒマラヤスギとテントの間で、別々に二遺体――男性と女性――が見つかりました。 男性の遺体がヒマラヤスギから300m、

女性のものが630m離れた地点で、テントに戻ろうとしていたかのようにテント方向に頭を向けて横たわっていました。

 

3月1日(2日という情報源も)に、一行が備蓄した55kgの装備と食糧が発見されました。 衣類とスキー靴とスキー板も

一対ありました。 現場一帯を検証していた専門家たちは、「雪崩が起きた可能性は極端に低いため、雪崩が事件の

原因だった可能性は除外する」 との結論を出しました。

 

3月5日にヒマラヤスギとテントの間、ヒマラヤスギから480mの地点で、男性メンバーの遺体がもうひとつ発見されます。

この遺体もテント方向に頭を向け、先に発見された二遺体の中間辺りで雪に埋もれていました。

体の下の雪が一度解けたあとふたたび凍っていることから、他のメンバーとは異なり彼だけは、

体がまだ暖かいうちに倒れたようでした。

 

残る4人の遺体は、春の雪解けが始まってからようやく、5月4日に見つかりました。 彼らは体温を守るため雪に

避難用の穴を掘り、雪との直接の接触を少なくするため杉の木の枝や死んだ仲間の衣類で内壁を覆っていました。

穴は例のヒマラヤスギから森に75mほど入った、厳しい風から保護される位置にありました。

火をおこしたものの、長くは保てなかった形跡がありました。

         避難用の穴


しかし奇妙なことに、4人の遺体は避難穴の内部ではなく、穴からすぐの渓谷で発見されました。

彼らがその場で死んだのか、それとも雪解けが彼らを発見された場所へと移動したのかは不明です。

この4人は他の5人より整った服装をしていましたが、遺体の状況は明らかに5人とは異なりました。

4人のうち2人が両眼を、さらにそのうち1人は舌まで、失くしていたからです。 検死により4人が頭蓋や肋骨を損傷し、

内出血を起こし、一部に擦過傷や火傷を負っていたことがわかりました。 さらなる謎は、数人の衣類から

高い線量の放射能が検知されたこと、またそもそも捜査当局が放射能探知を主張したことです。

 

また4人のうちの1人は、他のメンバーには知られていなかった5台目のカメラを首から下げていました。

暖かい服装も整えず防衛用のナイフも持たずに-30℃の外気に飛び出したのにカメラを忘れなかったとは、

奇妙なことこの上ありません。 しかもそのカメラ内のフィルムは 「水で損傷を受けてしまっていた」 と、

後日当局から報告されたそうです。

 

 

《 つづく 》

 

 

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