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Channel: ハナママゴンの雑記帳
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ロッカビー爆破事件③: 悲劇から生まれた絆

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1988年12月21日の晩。

ローズバンク・クレッセントと交差するパーク・プレイスに住むピーター・ギーゼック(当時35歳)は、

3人の子供たちをベッドに入れおやすみのキスをすると、階下に戻って訪ねてきていた義兄に合流した。

居間のテレビはマイケル・アスペルの“This Is Your Life”を放映していた。

空から唸るような音が響き出し、(何だろう?)と訝った彼は立ち上がって窓辺へと歩いた。

彼が驚き見守る中、明るく輝く光――パンナム103便の残骸――が空から落下してきた。

30分ほど前にヒースロー空港を離陸した103便は、19:03には破壊された機体の残骸と燃え上がる航空機燃料を、

ロッカビーの町に降り注いでいた。パートタイムの消防士だった義兄は、直ちに出動した。

 

同機に乗り合わせた不運な乗客たちの遺体も、彼らの私物とともに町の通りや家や庭や、周辺の農地に落下した。

しかし現在65歳のピーターには、ただ一人の犠牲者がこの悲劇の象徴となった。

リンジー・オテナセック、21歳。シラキュース大学の学生だった。

 

《 ★: ピーター・ギーゼックが当時住んでいた家 》

 

103便の胴体部分が地面に激突すると、ピーターの家の裏窓が割れ照明が消えて真暗になった。

恐怖にかられた子供たちは、叫びながら階下に駆け降りてきた。

ガラスや残骸が家中に散らばり、強い航空機燃料の臭いがした。

  

 

 

「懐中電灯をつかんで外を照らしてみたんです。そこいらじゅうに飛行機の残骸と遺体がありました。

でも私の心に刻まれたのは、リンジーです。彼女の名前を知ったのは、ずっと後のことでしたが。

彼女は私の裏庭の生垣に、顔を下にして横たわっていました。青いセーターを着、靴を片方だけ履いていました」

 

 

 

彼の近所から、60以上の遺体が発見された。

 

今日に至るまで、現在85歳のリンジ―の母親ペギーは、ふたつの小さな小石を大切にしている。

ピーターからもらった、彼の庭の小石。

6人いる子供たちのうちの末っ子リンジーが亡くなった場所を、忘れないために。

 

事件から約1年後、ピーターが庭仕事をしていると、彼の門の外の歩道に二人の女性が立っているのが見えた。

彼を見た女性が声をかけてきた。「私の娘のリンジーは、あなたの庭で発見されたと聞きました・・・?」

話しかけてきた女性は、メリーランド州バルティモアから来た、リンジーの母親ペギーだった。

 

ロッカビーの住民は、同じような状況の遺族が町を訪れることに慣れていた。

そのためリンジーの母親の訪問は意外なことではなかった。

「あの娘さんの身元を知ることはありませんでしたが、彼女のことを忘れたことはありませんでした」

 

庭もその近所も、それまでにはすっかりきれいに片付いていた。生垣は取り払われ、新しい小石が敷かれていた。

「どこで、そしてどんな状況下で娘さんを見つけたのかを、正確に伝えました。お母さんはとても感謝していました」

 

ペギーが小石を拾い上げると、涙をこらえながら、ピーターは言った。

「リンジーの思い出としてお持ち帰りください」

 

 庭で拾った103便の  残骸を手にしたピーター

 

 ピーターとペギーは、今でもクリスマス・カードを交換し、花を贈り合う。

「私自身に今21歳の娘がいるので、ペギーさんがあの夜失くしたものがどれだけ貴重だったか、いっそう胸にこたえます・・・」

 

 事件後しばらくは、危険なので家に帰ることができなかった。

「隣人たちの家や庭の損壊状況を見て初めて、自分たちがどれだけ死と隣り合わせだったか思い知りました」

 

シャーウッド・クレッセントの事件後(上)と現在(下)

 

 

 事件後30周年の節目を迎え、ペギーは語った。

 

「ピーターと会ったことは決して忘れません。私の大切な娘が、彼の庭で発見されたのですから。

私たちを見留めたピーターは『なぜここにいらしたのかわかっていますよ』と温かく迎えてくれました。

リンジーが落ちた場所の隣に立った私は、ふたつの小さな小石を拾い上げたのです。

それ以来ずっと毎日、机の上にある小石を見、娘とロッカビーの人々のために祈ります。

ピーターと彼の家族とは特別な絆ができました。彼らはずっと、私たち家族の一部であり続けることでしょう。

 

「リンジーは私の末っ子でした。クリスマスで家に戻るのをとても楽しみにしていて、

耳の不自由な子供たちの先生になるのが夢でした。

墜落事故があったからと、リンジーが乗った便をチェックするよう電話で促してくれたのは、彼女の友達です。

パンナムから電話がきてリンジーがあの便に搭乗していたと聞かされたとき、私たちの心は壊れました。

なかなかロッカビーを訪れる気になれず、ようやく行けたのは、1年後でした。

行ってよかった。心が温まりました。町の人々が本当に優しくて。」

 

高齢のためふたたびロッカビーを訪れることはないと思っていたペギーは、今年バルティモアに『ロッカビーが来た』ことを大喜びした。

ロッカビーのサイクリスト・チーム――事件当時は最年少の警官だったコリン・ドランスを含む――が

Cycle to Syracuse と名づけたチャリティー・サイクリングを企画・実行し、9月にスコットランドを出発。

1988年12月に帰郷できなかったシラキュース大学の35人の学生の追悼式典に参加したのだ。

彼らのサイクル・ルートが自宅からわずか2マイル(3.2km)しか離れていないと知ったペギーとその家族は、

彼らに会いに出掛けた。

「私の小石を持参し、彼らに見せ、彼らは永久に私の心の特別な場所を占めることを伝えました。

彼らが成し遂げたことは本当にポジティブで素晴らしいことです。私は皆さんの温かさを、決して忘れません。」

 

ロッカビーの墓地には、ロッカビー爆破事件の犠牲者全員の名前が刻まれた慰霊碑がある。

 

 

30年前の今月21日、クリスマス直前に起きた惨事。

多くの家族が埋めようのない深い悲しみと喪失感を被りました・・・・・。

 

犠牲になった方々のご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

《 関連記事: ロッカビー爆破事件①: 当時と今

          ロッカビー爆破事件②: タイムライン

          パンアメリカン航空103便爆破事件の容疑者 》

 

 

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