ベルリンの壁崩壊は、ベルリン市民、ドイツ国民のみならず、全世界にとって歴史的な出来事でした。 あれから25年・・・
(・・・ 25年っ!? あれをニュースで見た記憶がしっかりある私・・・ 老いを感じるなぁ・・・・・ )
今日までベルリンは、25周年を記念するアート・プロジェクト Lichtgrenze (Light Border) により、壁のあった場所に照明灯が配置されていたそうです。 これらの照明灯は 「日曜日(=今日)の日没時に空に放たれる」 とのことでしたから、もう今頃は散り散りになって空に上っていったことでしょう。
プロジェクトの開会式で演説するベルリン市長。
きれい・・・・・ 皆さん、照明灯を見て、何を思った・・・・・?
周囲を東ドイツに囲まれ、『陸の孤島』 になってしまった西ベルリン。 東ドイツ国民が西ベルリンに逃亡するのを防ぐため、壁が築かれました。
ベルリンのあるショッピング・センターでは現在 『ベルリンの壁』 に関して展示がなされ、当時の監視塔が再現されているそうです。
1961年8月13日に突然始まった、ベルリンの壁の建設。 全長155kmあるそうです。
ベルリンのブランデンブルク門はちゃっかり東側に取り込んじゃった東独軍(下左)。 壁の建設が始まった数日後、東独兵のコンラート・シューマンは、すでに西ベルリンに逃れていた家族を追って、鉄条網を飛び越え西側に逃亡しました(下右)。 成功してよかった・・・
東側の家族親類に手を振る、西ベルリン市民(下左と中)。 1961年8月24日、西ベルリンに逃亡を図って銃殺された最初の犠牲者、ギュンター・リトフィン(下右)。
東ベルリンのベルナウアー街、1968年6月。 二重壁の間の無人地帯、1984年4月。
展望台から東側を眺めるケネディー大統領、1963年6月26日。 東側を眺める西ベルリン市民、1976年10月。
ブランデンブルク門背後の壁に集う東西ベルリン市民、1989年11月10日。 ベルリンの壁を壊し西側へと開放する東独警備兵、1989年11月11日。
西ベルリン市民を歓迎する東ベルリン市民。
ブランデンブルク門近くで始まった、クレーンを使っての壁の撤去作業。 壁が撤去されポツダム広場で入り混じる、東西ベルリン市民。
壁は記念碑/文化財的な意味で数箇所でその一部(約3km)が残され、また小部分ずつが記念品として保存・展示されるため世界各地に移送されたそうです。
ベルリンの壁を越えて西ベルリンに逃亡を図り射殺された東独市民は、合計192人。 しかし成功して西ベルリンに入れた東独国民も5000人以上いたそうです。 (ウィキぺディアより)
ベルリンの壁記念館(Gedenkstätte Berliner Mauer=Berlin Wall Memorial) に保存されている壁の一部を覗く人々(下左)と、同記念館に展示されている、壁を越えようとして殺された人々の写真(下右)。 ご冥福をお祈りします・・・・・。
ベルリンの壁で一番有名な検問所、チェックポイント・チャーリー。 その付近の壁を壊す市民を眺める東独の警察官。
1963年6月26日、チェックポイント・チャーリーの衛兵詰所を通過するケネディー大統領(下左)。 2014年9月24日の同じ地点には、再現された詰所のそばに衛兵役が立ち、観光アトラクションになっています。
ベルリンの壁が崩壊したとき、私は東京でOLしてました。 そういえば、その翌年にベルリンに出張に行った同期男性社員が、私がドイツ・ファンだったことを知っていたので、“チェックポイント・チャーリーの壁” の一部をおみやげに買ってきてくれましたっけ。 小さなビニール袋に入った、所々色のついたいくつかのコンクリートの破片でした。 今探してみたけれど見つかりませんでした・・・が、絶対捨てたりはしていないので、どこかに大切にしまい込んであるものと思われます。 (Kさんありがとう!本物であるとの保証はありませんが、私は本物と信じて大事にしていますからね! ・・・どこにしまったかわからなくなるほど。)
はからずも “ベルリンの壁を最初に開放した男” として歴史に名を残すことになった、ハラルト・イエーガー氏(現在71歳)。
ウィキのベルリンの壁崩壊にも登場しておられます。
1989年11月9日の夜。 東独国家保安省の士官だったイエーガー中佐(当時46歳)は、ボルンホルマー街検問所を守っていました。 『旅行許可に関する出国規制緩和』 の一部が誤って発表されたため、東独市民は壁の開放を求めて検問所に集まってきました。 イエーガーは上官に電話で照会しましたが、上官は 「規制は従来通りで何も変わっていないのだから、必要な書類を持たぬ者は通すな」 と言うのみ。 午後9時までには群集はあまりにも膨大な数に膨らみ、パニックしかけたイエーガーは電話に向かって 「何とかしなければなりません!」 と叫んでいました。
「最も騒々しい者たちだけにスタンプを押してやって(これにより彼等は東ベルリンに戻れなくなる)西ベルリンに出してやれ」 との命令が届いたので実行しましたが、その戦略は裏目に出ました。 騒々しい者たちが西側に通されることを学習した群集は、ますます騒ぎ始めたのです。 軍部も政府も群集をコントロールをできなくなっていることに気づいた同僚や部下たちは、イエーガーに何とか状況を打開するよう懇願します。 約2万人の 「壁を開けろ!」 との要求は殺気立っていきます。 このままでは暴動が起こり、流血沙汰は避けられない――上からの命令がないまま、意を決したイエーガーは午後11時30分、検問所を開放しました。 検問所を抜けて西側へとなだれ込む人波は、明け方まで続きました。 その晩イエーガーと同僚の頬を濡らした涙はしかし、喜びの涙ではなく悲しみと恥と怖れの入り混じった涙でした。 彼等はその晩、長年自らを支えてきた思想と信念の基盤の崩壊を見たからです。
イエーガーの父親は、東独国境警備兵の最初の一人でした。 父親は第二次大戦後、国境警備兵になることを条件にシベリア抑留から早期解放されました。 社会主義を崇敬して成長したイエーガーは、1961年、壁の必要性を情熱的に信じつつ、建設されるベルリンの壁を警備しました。 その28年後には、壁の撤去と東西ドイツ統一につながる壁の開放を命じることになるとは露知らず。
「壁が開放されたあと、我々は目の当たりにしているものが信じられず、ショック状態に陥りました。 我々の周囲で世界が崩れていくように感じたのです。 我々の市民が、大量に出て行く。 彼等は我々の市民です。 我々は泣きました。 上層部に裏切られたと感じました。 失敗したのはシステムと指導者たちだけではない。 我々も失敗したのです。 それは恐ろしい認識でした。」
しかし30分ほどしてイエーガーたちは、西ベルリンに入った東ベルリン市民が、喜びのため歓声を上げ、手を叩き、泣いていることに気づきます。 「幸福感に酔いしれる群集を見て、我々の涙は喜びの涙に変わりました。 同僚が私のところにやって来て、“ハラルト、東ドイツはこれで終わりだな” と言い、私はその認識に愕然としました。」
壁が撤去されたあとも、イエーガーはドイツの再統一は信じなかったし、特に望みもしなかったそうです。 東独軍に移籍されたあと失職した彼は、貯金をかき集めてボルンホルマー検問所があった場所から数百メートルの距離にあるキオスクを買い、店を営むようになりました。 「“国家保安省のブタなぞから新聞を買うな” と野次る客もいたけれど、市民の多くは私のしたことを褒めてくれました。」
退職したイエーガーは、現在はベルリンの北東にあるヴェアノイヒェン(Werneuchen)村の社会主義時代のフラットに、妻と暮らしています。 25年前に同胞市民に旅行の自由を与えた彼ですが、自らがその自由を楽しむようになったのはつい最近のこと。 先月リバプールを訪れた彼は、大学で聴衆に、自分の体験を語りました。 明日(11月10日)は、韓国のテレビ局の取材に応じる予定だそうです。 イエーガー氏は、北朝鮮と韓国の分裂は、将来はベルリンの壁と同じ道を行くことになるだろうと確信しています。 「遅かれ早かれ韓国(朝鮮)人は、ドイツ人と同様、お互いを探し当てられるでしょう。」
今も世界各地に存在する、国土を、国家を、国民を、分断する壁。
地球上からそんな壁がすべてなくなる日は、果たして、来るのでしょうか・・・?