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カンブリア州の洪水

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ここのところ雨風の日ばかり続くイギリス。

週末はストーム・デズモンド(アメリカの“ハリケーン・カトリーナ”とかを真似てイギリスも嵐に名前をつけるようになったんか?)が

通過し、イングランド北西部、特に湖水地方を擁するカンブリアに大雨を降らせました。

12月の平均降水量、つまりひと月分の雨量を上回る雨が36時間以内に降り、あちこちで洪水・床上浸水の被害が出ました。

道路が消えてしまって、まるで運河の町です。

車の屋根近くまで水没してる ・・・・・

  

  

一度床上浸水してしまうと、屋内を完全に乾かすには半年から一年かかるそうです。

 

  

クリスマスが近いというのに、気の毒すぎる ・・・・・

 

搔き入れどきだというのに、ビジネスも台無し。

 

 

ランカスター大学は新年まで閉校され、被害を受けた学生寮に住む学生は、大学のホールに避難したそうです。

もしこれがレスターだったら、ムスメもホールで眠る羽目になっていたかも。

 

(カンブリアでは、2010年6月に12人連続射殺という物騒な事件がありました。

洪水は2009年にも起こっているし・・・ イングランドを代表する観光地のひとつなのに、不運続きだなぁ。)

 

 ノース・ヨークシャーの観光名所の断崖マルハム・コーブは過去何世紀も水が涸れていましたが、

週末の大雨の影響で滝が出現したそうです。

 (マルハム・コーブって、『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART 1 』 の撮影に使われたって!? 知らなかったわぁ。

 

 一時的に出現したこの滝は60mあり、イングランド最長の滝になるそうです。

あくまで一時的にですけどね。

 

アイルランドでは洪水にはまってしまったロバくんが、カヌーで接近した人に浮きを首に巻いてもらって無事救出されたそうです。

 

 

沈鬱な洪水のニュースは、せめてロバくんの笑顔で〆ましょう。

 

 

私は今日は3日ぶりの仕事オフでしたが、忙しい一日を過ごしました。

朝にはまず、日本の親戚への小包をふたつ持って郵便局へ。

そうしたら、さすがクリスマス前。

12人も並んでいて、順番が来るまで15分待ちでした。

そのあと買物をし、帰宅してクリスマス・ケーキとクリスマス・プディング・ビスケット焼き。

明日もオフなので、明日はケーキとビスケットのデコレーションをします。

クリスマス・カードとそれに添える手紙も書かなきゃならないし・・・ あぁ~忙しい!

 

でも床上浸水の被害にあった皆さんの苦労を思えば、文句なんて言ったらばちがあたりますね。

自宅で自分のしたいことができる無事に、感謝です。

 

 

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#YouAintNoMuslimBruv

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5日(土)夜、ロンドン東部のレイトンストーン地下鉄駅で、刺傷事件があった。 (★ はハイド・パーク。)

切符売場付近で男が一般市民を襲い、ナイフで無差別に3名に切りつけた。

うち一人は殴られ床に倒れたところを刺された。

男は “This is for Syria (シリアのためだ)” と叫んでいたという。

  

 付近にいた人々は大半が逃げ出し、残った数人も、被害者を助けたくとも男がいるため手が出せなかった。

やがて警官が駆けつけ、降参しようとしない男はテーザー銃で倒され、御用となった。

刺された人々の命に別状はないというのが不幸中の幸い。

  

 ロンドンの一般市民を傷つけることのどこが、シリアのためになるのか???

単に暴れたかっただけの不満分子で、大義名分が欲しくてシリアに言及しただけだろう。

 

 

そのときの動画はこちら

ところで男の逮捕劇の最中、居合わせた男性が男に “You ain't no Muslim bruv! (あんたはムスリムじゃないぜ!)” と

叫ぶのが2回聞こえるが、その後このフレーズがネットで大ヒットし、ツイッターのトレンディーなハッシュタグになったそうだ。

(二重否定になってしまっているので、正しくは You ain't a Muslim あるいは You're no Muslim だと思います。

それから bruv は bruvva の省略形で、brother の意味でロンドン南部で使われるスラングのようです。)

キャメロン首相は 「自分にはとてもできないことをしてくれた」 と、テロ行為を正当化するため

イスラムを利用することを弾劾してくれた男性を絶賛したそうです。

ツイッターで賞賛を浴びる、正体不明の Youain'tnoMuslimbruv! の男性。


アメリカでは次期大統領候補のドナルド・トランプがイスラム教徒の米国への入国を完全に禁止することを

提案しましたが、・・・・・冗談はカツラだけにして欲しい。


こんな短絡的なこと、私にだって朝飯前で言えるわいっ!

『ハリー・ポッター』 の作者J.K.ローリングも驚き呆れています。

どうか間違ってもこんなんが次期大統領になりませんように。


・・・と思っていたら、イギリスではドナルド・トランプの英国入国を禁止するオンライン署名が始められ、

すでに27万人の署名を集めたそうです。 もちろん私もすぐさま署名しました。

イスラム教徒をイスラム教徒だからという理由で誰彼見境なく入国禁止にしてしまえというのは

立派な差別であり、憎悪や対立を促進するだけだと思うので。

たとえば日本赤軍が海外でテロ活動を活発に行っていて、日本人が日本人だからという理由で

どこかの国に入国を拒否されたら、悲しくないですか? 私は悲しいし頭に来ますよ!


10万人を超える署名を集めると、国会で議題になる可能性大!?

それはいいことだわ。

第一イスラム教徒の米国入国を完全に禁止してしまったら、イスラム国との関係を悪化させたら、

一番困るのはアメリカの産業では?

ひょっとしたらドナルド・トランプは、すでに自分の墓穴を掘ってしまったかもですね。


ところで刺傷事件の舞台となったレイトンストーン地下鉄駅(Leytonstone Tube Station)ですが。

この駅にはヒッチコック映画監督の生涯と彼の代表作を描いたモザイク画が壁に製作されているそうです。

それというのも、ヒッチコック監督は1899年8月13日にレイトンストーンで生まれたから。

へぇ~知らなかった。 ヒッチコック監督はアメリカ人とばかり思ってました。

 

左は、私は知らなかったけど 『間違えられた男』。 でも下右は知ってる! 『裏窓』。 グレース・ケリーがそれは綺麗で・・・

 

北北西に進路を取れ』 と 『サイコ』 は、あまりにも有名ですね。 シャワーを浴びていてヒッチコック監督が 「ハァ~イ」 と登場したら、

そりゃ誰でも驚くわな。 下右は知らなかったけれど、『逃走迷路』 というんだそうです。

  

レベッカ』 と 『』。 鳥よりも、ヒロインの顔の方がコワイ。 ティッピー・ヘドレンがこれを見たら怒ると思う。

  

下左は私にはわかりませんでした。 下右は “父親ウィリアム・ヒッチコックが営んでいた青果と鶏肉の店の前で馬に乗るヒッチコック少年” とのことです。

 

 

監督が生まれた家はもう残っておらず、現在はその場所にガソリンスタンドがあるそうです。

ふぅ~ん。 ブログをやっていなかったら、おそらく知らずに終わっていただろうな。

(知ったからといって何かの役に立つわけでもないけれど。)

だからブログはやめられない!? 

 

 

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ドイツのクリスマス・マーケット in バーミンガム

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 去年ムスメと行った、バーミンガムで開催されているドイツのクリスマス・マーケット(前編後編)。

話のタネに一度行けば十分なので私は今年は行きませんが、ムスメは先週、行ったそうです。

大学のサークル仲間と一緒に。

 

OSTRICH (ダチョウ)バーガーに REINDEER (トナカイ) バーガー!?   (と、カンガルー・ステーキを食べたクチが驚く。

 

いろいろと売っていて面白かったけれど、

 一番心惹かれたのはガラスのボーブルだったそうです。 高価だし持ち帰る途中で壊してしまうのが怖くて買わなかったけれど。

そういえば私、ボーブル生誕の地について前に書きましたっけね。 あの村、ぜひ一度は行ってみたいものだわぁ・・・・・

 

 夕飯には半メートル(!)の焼きソーセージのホットドッグを、友達のジェニー(仮名)と半分こして食べたそうです。

ドリンクはスパイスのきいたトフィー・サイダー(ホット)にしたそうで・・・ どんな味がするんだろう!?

 

甘いものは別腹ということで、クレープとチョコレートコーティングされたブドウの串刺しも完食。

ブドウは残念ながら種なしではなかったそうです。

  

 

楽しかったようで、よかったね、ムスメ

 

 明日は部屋を掃除してベッドを作って、グロスター駅で待ってるからね~!!     

 

 

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サンタクロースは万能選手!

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イングランド北東部ミドルズブラのショッピング・モール、クリーヴランド・センター

先月そこで、心温まるシーンが居合わせた人によって映像に収められました。

クリスマスが近づくとショッピング・センターやモールに登場するサンタクロース。 

(イギリスではファーザー・クリスマスと言うのですが。)

サンタさん が 「ずっと良い子にしていたかい? クリスマスに欲しいプレゼントは何かな?」 というやつですね。

 

クリーヴランド・センターでも幼い女の子がサンタさんの膝に乗ったけれど、・・・話が進まない。

するとお母さんがサンタさんに説明します。 「ごめんなさい、その子、あまりよくお話ができないんです。」

すると驚いたことに、サンタさんの反応は: 「手話はできますか?」

お母さん: 「ええ、動物とかそういったものなら。」

それを聞いたサンタさん、女の子の注意を引いて ・・・・・

・・・・・ 会話が始まりました。 あとは二人の世界

嬉しそうなこの笑顔! お金には換えられない!! 

動画はコチラ。 この子が欲しかったプレゼントは、・・・・・

 

・・・・・スクーター   だったそうです。

クリスマスの朝にはツリーの足元に、ラッピングされたスクーターがあること請け合い! 

 

優しいうえに手話までできるサンタさんの動画がネットにUPされて以来、

心温まるシーンに感動した人々から賛辞が寄せられています。

このサンタさん、特別昇給に値すると思う!!

 

あの女の子はもちろんのことですが、サンタさんにも、幸せなクリスマスが訪れますように

 

 

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安い国際宅配便見っけ!

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過去、日本に小包を送る際の料金の高さに泣いてきたワタクシ。

先日思いついて、民間の国際宅配便でもっと安く送れないかとネットで探してみました。

そしたら、ビンゴ!

有名な UPSDHL も安くなくてガッカリしましたが、

郵便局から発送する料金の約1/3で届けてくれるというサービスを見つけました。

ipostparcels です。


 

 

しかもこの宅配サービスは、発送する小包を自宅や会社まで取りに来てくれるんです!

うちに来たのは、下左画像のような会社のロゴ入りのヴァンではなくてただの白いヴァンでしたが。

取りに来てくれた人のポロシャツに UKMail のロゴが入っていたので調べてみたら、

ipostparcels は UKMail の子会社でした。

 

 

 

どこかしらで見かけて馴染みのあったロゴマークです。

 

 

 

気になる料金を、比較してみましょう。 実際に送った、一番重かった小包を使って。

 

小包重量: 10.7kg

寸法: 幅53cm、奥行41cm、高さ24cm

 

ipostparcels の見積もりページに情報を入れていくと、配送料金は、

£48.58 (≒¥8,842)

 

郵便局の配送サービス Parcelforce の料金換算ページに情報を入れていくと、配送料金は航空便のお得なクラスのでさえ、

£140.25 (≒¥25,526)! 

 

Parcelforce、 ぼったくりもいいとこだ~! もう二度と使わんぞ~っ!!    

 

ipostparcels は初めて使ったので無事先方に届くまで心配でしたが、昨日の朝 『配達完了』 のお知らせがメールで入っていたので、

叔母ちゃんに電話してみました。 (国際電話も安くなって、1分2ペンス≒¥4未満でかけられます。)

ちゃんと無事に、中味(主にお菓子)もひどく破損することなく、届いたそうです。 とても喜んでくれていました。

 

ipostparcels のマイナス点を挙げておきますと、

① オンラインでの内容品記入のやり方がわかりにくかった

② 小包の自宅からの引き取りは 『午前9時半から10時半の間になる』 とメールが入っていたのに、

実際に来たのは45分遅れの11時15分だった

③ 見積もりでは3~4日で届くとのことだったが、ちょうど7日かかった

(今月8日午前中に引き取りに来てくれて、現地時間で昨日の15日午後に先方に到着)

 

でもこれらは、本当にマイナーなマイナス点。 続けてプラス点を挙げてみます。

① 料金がとぉ~ても安い

② 自宅に小包を取りに来てくれる (重い小包を郵便局に運ばなくてよい)

③ 先方への配達が完了すると、メールで知らせてくれる

 

マイナーなマイナス点を補って余りある、素晴らしいプラス点

私、もう二度と Parcelforce は使わないだろうな。


あ、ひとつだけ Royal Mail の名誉?のために付け加えておきますと。

2kgまでの小型包装物の日本への送料は ipostparcels も RoyalMail もそれほど変わらなかったので、

2kgを超えないよう気をつけて梱包してしまってあった小包は、そのまま郵便局から発送しました。

すると請求された送料が、私が予期していたものより安くなっていて(???)と思ったんですが、

何と RoyalMail、2014年10月20日に続けて2015年3月30日に、料金を変更していたんです。

半年も経たないうちにまた料金変更って!

料金変更したのなら、古いのをネットから削除してくれんと気づかんわっ!!


もちろん料金は全体的に値上げされたんですが、なぜか国際小型包装物は値下げされていて。

1.75kg超えで2.0kg未満の小型包装物の日本(ゾーン1)への航空便での送料は、

£23.65 (≒¥4304) だったのが、£19.75 (≒¥3595) になっていました。

(これでもまだ、日本からイギリスに送る場合の送料よりずっと高いケド。)


 

話は変わって、日本に送ろうと買った、とてもかわいいコテージの形をした缶入りビスケット。

2つ買ったうちのひとつは、手元に置きたくなったので自宅用にしちゃいました。 (おいおい

で、先日缶を開けてみたんですが ・・・・・

開けた瞬間、(あれっ!? ビスケット、抜かれてる??) と本気で思いましたよ。

 

でもちゃんと入っていました。 量が少なかっただけで。

“ストロベリー&クリーム” と、“ベルギーの粒チョコ” と、“フルーツ&レモン” の3種です。

 

 

・・・ £10 (¥1820)も取るんだから、アンバランスに3包み入れるんじゃなくて、なぜせめて4包みにしなかった!? 

 

 

缶はとてもかわいいけれど、ぼったくられ感は拭えないわぁ。

 

ということで、日本の皆さんにはまったく役に立たない情報でした。

でもイギリスにお知り合いがいたら、ipostparcels のこと、ぜひ教えてあげて下さいね!

(って、もう知ってるのが常識?

 

 

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更年期障害?

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この春頃からだろうか。 仕事に対する意欲が薄れてきた。

何か全然別のことをしたくてたまらない気分になることがある。

でもそれは難しい。

私は何の資格もないし、快活でも話し上手でもないから接客は無理だし、第一言葉にハンデがある。

今の仕事に使ってもらえていることが、むしろラッキーなんだけど。

感謝すべき立場にあることは、わかっているんだけれど。

高齢者専門の精神病院で働き始めてから、来年2月で満8年になる。

もともと飽きっぽい性格だから、とうとう今の仕事にも飽きがきてしまったのだろうか?

 

8月に不穏行動のある認知症患者さんMさんに右腕をねじ上げられたことは、絶対に直接の原因ではない。

勤労意欲は、それより前から失われつつあったから。

不穏行動があった患者さんが、投薬治療で落ち着きを取り戻し、介護施設へと退院していくとほっとする。

そして空いた病室に入院してくるのは、退院していった患者さんと同じかそれ以上に不穏な行動をみせる患者さん。

そのためにある病棟なのだから、それが当然なんだけど。

(きりがないじゃない!)と、イライラするようになってきた。

理不尽なこととは、百も知りつつ。

 

大抵の患者さんは、入院当初は不穏行動があっても、治療のおかげで2~3週間もすると行動が落ち着いてくる。

でも私の腕をねじ上げたMさんは、私にとっては初めての例外。

入院して4ヶ月が過ぎたにもかかわらず、不穏行動は衰えを見せず、相変わらず2:1でスタッフが付き添わねばならない。

Mさんの奥さんは、片道150km近い距離を運転して、数日おきに見舞いに来、洗濯物を持って帰る。

もっと近くには、Mさんを受け入れられる病院に空きがないからだ。

そんな奥さんと一緒にいるときMさんが落ち着いていればいいのだが、理由もなく徐々に怒り出して、

奥さんに 「お前は役立たずだ」 「この馬鹿女」 などと罵詈雑言を浴びせたり、

奥さんを叩こう・蹴ろう・奥さんの首を絞めようとしたりすることも。

「世界一優しい人だったのに・・・・・」 と悲しげにつぶやく奥さんに、かける言葉も見つからない。

 

Mさんはナイフやフォークやスプーンを使って自分で食事を取ろうとはめったにしないので、

スタッフが何とか食べてもらおうと介助するのだが、そうするとスタッフに叩きかかったり、

一度口に受け入れた食べ物をスタッフめがけて吐き出したり、わざわざ自分の手で搔き出してスタッフに投げつけたり。

そんな状態なので、毎日少量しか食べたり飲んだりできていない。

なのに起きている間は、よほど疲れない限り5分と座ることはないから、当然体重は、どんどん落ちてきている。


前にもいたなぁ、そういう患者さん。

体力が続く限り歩き回り、やがて力尽きてベッドから起き上がれなくなり、

点滴はされてもどんどん体力は失われていき、ある日ご臨終・・・・・

危害を加えられないよう2歩離れてMさんと歩きながら、

(来年の今頃はMさんもう亡くなっているだろうな) なんて考えている自分がいる。

 

認知症病棟で現実を見過ぎてしまったのかな。

自分も50代に入り、認知症が他人事ではなくなったせいかな。

仕事に行くのが気が重いし、こんな気分で嫌々ながらお世話をするなんて、患者さんに対しても失礼だと思う。

それともこれって、更年期障害の症状のひとつかしらん。

私の閉経はほぼ完了しつつあるから、時期的にはピッタリだけど・・・・・。

 

私の勤労意欲は戻るのか? それとも私は、このままヒッキーになっていくのか?

今後の経過を見守りたいと思います。

 

でも続けたくなければ介護の現場から遠ざかれる私はラッキーだ。

在宅介護をしている身だったら、待ったなしで介護を続けなきゃならないのだから。

私が頻繁にチェックしている介護ブログがふたつある。

あしゅらさんは、理不尽な義父に 「自分が転倒したのはヨメのせい」 と(直接ではないけれど)なじられたし、

だださんは、18年も一緒に暮らした愛猫のアジャリさんを亡くした。

それでもひと休みすることなく、介護は続けなければならないんだもの。

 

オットーの両親は、現在89歳と87歳。

さすがに体力は衰えてきているし物忘れもひどくなりつつあるものの、

それに問題が全くないわけではないものの(これについてはいずれまた)、

認知症も未だ発症せず、よく二人で頑張ってくれていると思う。 有り難いことである。

でも、いつまで続くか、この状態!?

・・・・・ 休めるときに休んで、体力気力を温存しておくというのもアリかも。 ・・・・・ 

 

 

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いつでも帰れる場所があるということ

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12月に入り、じわじわと盛り上がるクリスマス気分。

テンションの低い我家なので (クリスマスのお菓子はムスメが戻ってから一緒に作ればいいか~) なんて

悠長に構えていたんですが、状況が変わったため急遽作りました。

とはいってもクリスマス・カップケーキと、去年初めて作っておいしかったクリスマス・プディング・ビスケットの2点のみですが。

  

 

 8日(火)の夜には例年通り、募金を集めるためのサンタクロースのフロート(山車)がまわってきました。

募金用のバケツを持ったボランティアの人がフロートに付き添って歩き、

募金をするため出てきた住民に、お金をバケツに入れてもらいます。

ムスメが幼い頃は、募金後少しだけ追っかけをしたこともあったっけ。

 今年のフロートはすごく小さめだけど、それでもムスメが帰宅する前で残念だったな。

 

 ムスメは11日(金)夜、無事グロスター駅に到着し、遅番後の私が駅から拾って一緒に帰宅しました。

去年の、生まれて初めて家を離れて暮らすようになってからのクリスマス休暇の帰宅と比べたら、

感動はお互いにかなり盛り下がっていましたが、それでもやっぱりウレシイ

 

さて、私がなぜ急遽クリスマスのお菓子を作ることにしたかですが。

ムスメに打診され、仲良しのティアを12日(土)から18日(金)まで泊めてあげることにしたからです。

一昨年の今頃、ムスメに嬉しい言葉を言わせるきっかけになってくれたティア。

話はちょっと長くなりますが、ティアはあの後、一年間のギャップ・イヤーを取って

働いて少しお金を貯めてから進学することにしました。

それで去年の秋から今年の夏までは、それまでと変わらず母親と弟妹とともに暮らしながら、地元で働いていました。

母親は町に子供服・子供用品のお店を開くというビジネスに手を出したんですが、

素人が何の考えもなく始めたものだから、赤字続きで一年ももたずに閉店に追い込まれました。

ティアはお店の賃借料を肩代わりするよう母親に要求され、実際に一部、肩代わりもしたそう。

学生ローンを組んでお金を借り、進学のため夏にロンドンに引越し、9月から大学生になり、

ようやく母親と距離を置けると思ったのですが、母親は変わらずお金を無心する電話を寄越し続けたそうです。

(もう無理) と電話に出ないようにしたところ、母親はティアが通う大学に直接電話をかけて、

「娘に電話に出るよう伝えてくれ」 と頼んだそうです。

どういうことなのかと訊かれたティアが事情を説明すると、大学当局からもやんわりと

「そういう親とは疎遠になるように」 勧告されてしまいました。

(注: ティアは内気で寡黙な子なので、事情はすべてムスメからの又聞きです。)

家を離れて初めてのクリスマス休暇だけれど、どうせお金を無心されるだけだから、家には帰りたくない。

でも地元の友達には会いたい。

そんなわけで、うちに泊まってもらうことになったのです。

クリスマスの時期は仕事でロンドンにいなければならないので、クリスマス前の約一週間を我家で。

クリスマス後にまた一週間ほど休めるときは、別の友達の家にお世話になることになっています。

 

ロンドンで一人でクリスマスを迎えるティアのために、ムスメその他は一足早いクリスマスの真似事をすることにしました。

14日(月)の晩は、狭い我家のムスメの部屋に、ムスメとティアに加えて寝袋持参で来たもう一人の友達が雑魚寝。

15日(火)の朝は、クリスマス・ツリーの足元に置いておいたお互いへのプレゼントや靴下を開け、

夕食時にはその日ブライトンから戻った4人目の友達も一緒に、手作りのロースト・ディナーで、

クリスマス のつもりでお祝い   しました。

(ディナー・シーンの背景に見える私の机が雑然としていることには目をつぶっていただければ幸いです。)

 

(オットーと私もディナーのおこぼれにあずかりましたが、なかなかの出来でしたよ。)


話が長くなりましたが、そんな訳で

(一足早くクリスマスを祝うのなら、クリスマスのお菓子もなきゃダメじゃない!)と思い、速攻で作ったのでした。

そうしてティアは、昨日(18日金曜日)ロンドンに戻っていきました。

が・・・・・

 

一人暮らしを始めて初めてのクリスマスなのに、親元に帰る気になれないなんて。

ティアの胸中を思ったら、何ともやりきれない気持ちになってしまった。

 

親がいる場所というのは、子供にとっては世界でただひとつの、

“いつでも帰れる、いつでも温かく迎えてもらえる場所” であるはずなのに。

子供が生まれてきたのは親が産むことを選んだ結果なのだから、親には子供を愛し、その成長を守る義務があるのに。

子供には親を選べないのだから。

 

なのに子供を愛さない、その成長を守ってくれない親の元に生まれてしまったら・・・?

 

帰れる家があるって、本当に幸せなことだと改めて思います。

私の両親は貧しかったけれど、兄と私を本当に大事にし、いつでも兄と私のことを最優先に考えてくれ、

経済的苦境にもかかわらず進学もさせてくれました。

だから親というものはすべてそういうものだと思って成長してきましたが、

その後そういう親ばかりではないことを知り、親への感謝の念、親に対する尊敬の念がぐっと深まりました。

運悪く “そういう親ではない親” の元で成長せざるを得なかった人たちを、本当に気の毒に思います。

そしてティアは、紛れもなくそういう人たちの一人。

 

最近興味深く読んだ発言小町のトピック 『中流家庭に生まれたかった。普通に育ちたかった。

私も子供の頃は自分の部屋を持っている友達がうらやましかったし、

思春期には (うちがもう少し豊かだったらな) なんても思いました。

でも大人になって世の中が見えるようになってからは、親に対してはただただ感謝するのみです。

 

このトピックの主さんは、まだ成人していないのかな?

もしもう成人して家庭も持っている方なのだったら、私はトピック主さんよりも、

そのご両親をお気の毒に思います。 「娘さん、残念な大人に成長されましたね・・・」 って。

 

わがムスメはもちろんのことですが、どうかティアの将来も、幸せで一杯になりますように! 

 

 

 

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チャールズ皇太子のクリスマス・カード

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チャールズ皇太子がカミラ夫人と再婚してから、早くも11回目となる今年のクリスマス。

皇太子が親しい人々に送るクリスマス・カードの今年の画像はこれ ↓ だそうです。

皇太子67歳、カミラ夫人68歳。 相変わらず仲むつまじいご様子。

皇太子の過去のカードの画像を振り返ってみましょう。

 

1981年、故ダイアナ妃と結婚。                 1982年、ウィリアム王子が二人に加わります。  

 

1983年と、                          ハリー王子も加わった1984年。

  

1985年の画像では、ダイアナ妃はカメラを見ていません。 そして1986年までには、

二人の間の溝はすでに修復不可能になっていたと考えられています。

 

スペイン国王の客として夏を過ごしたマヨルカでの画像を使った1987年と、別居状態が本格化していた1988年。

  

1989年には公務のとき以外はほとんど一緒に姿を見られなくなり、

1990年までにはダイアナ妃はチャリティー活動に深く関わるようになります。

  

1991年のクリスマス・カード画像は、チャールズ皇太子とダイアナ妃が一緒に写った最後のものとなりました。

王子たちの表情が冴えないのも、偶然とは思えない?

二人が別居に踏み切った1992年の画像は、ふたたび冴えない表情の王子たちのみ。

 

 息子たちとリラックスした様子の1993年の皇太子と、

カミラ夫人がようやく前夫と離婚したものの、ダイアナ妃がテレビのインタビュー番組で爆弾発言をした1995年の画像。

  

  1996年、チャールズ皇太子とダイアナ妃は離婚。 1997年のクリスマス・カード画像に使われたのは、ダイアナ妃事故死の

すぐ前に撮影された写真だそうですが、三人揃って笑顔って、何だかちょっとなぁ・・・・・

  

 (イギリスでは家族親類に不幸があっても 『喪中につきクリスマスのご挨拶を遠慮させていただく』 ようなことはしませんが、それでもねぇ・・・。)

 

チャールズとカミラ夫人が一緒に目撃されるようになった1999年と、

成人した息子たちと共に “考える人” のポーズをとる2002年。

 

 それぞれの子供たちにも祝われ、2005年に再婚したチャールズ皇太子(当時56歳)とカミラ夫人(同57歳)。

翌2006年にはカミラ夫人の娘の結婚式に揃って出席。

  

 2008年の画像はユーモアたっぷり。 アスコット競馬場での画像が使われた2009年。

 

  2010年の画像は、スキーをする二人のもの。 2011年にはウィリアム王子とケイト妃が成婚し、

バッキンガム宮殿のバルコニーでチャールズ皇太子はカミラ夫人の孫娘を抱き上げました。

  

  2013年の画像は、ふたたびアスコット競馬場でのもの。

昨年の画像は、ハリー王子が主催したチャリティー・イベントでの二人のものでした。

  

 

そして最初の、今年の画像に戻ります。

 

 

こうして順繰り見てしまうと、やはり歴然としていますね。 チャールズ皇太子とダイアナ妃の間には愛がなかったことが。

二人が寄り添っているのなんて、最初の数年のうちだけだもの。 それ以降は微妙に距離を置いて、

表情もまるで演じているかのような作り笑いだし、ボディータッチなんて皆無。

一方チャールズ皇太子とカミラ夫人は、いつも心から幸せそうに微笑んでいて、

今年の画像もまるでラブラブ状態にある若いカップルみたい。


わかった。 認めます。 皇太子はダイアナ妃とでは幸せになれなかった。

でもそれは、カミラ夫人という他に想う人がいながら愛してもいない女性と結婚した自分のせいであって。

成人したてのダイアナ妃にはそんなことは気づけなかったはずで、ダイアナ妃は彼女なりに、

幸福な家庭を築くことを願って王室に入ったことでしょう。


誰かを想う気持ちは止められないから、カミラ夫人を想っていたって仕方ないです。

でもだからといって、愛のない結婚などするべきではなかった。

おかげでダイアナ・スペンサーという、うら若き女性の人生を狂わせたのですから。

ダイアナ妃は民間の富豪とでも結婚していた方が、どれだけ自由に暮らせたことか・・・・・。

(あ、同じことは美智子妃や雅子さまについても言えますけどね。)


ダイアナ妃が王子たちを産んでくれたおかげで、アンドリュー王子の(?)な娘が女王になる可能性を

ほぼなくしてくれたことはありがたいですが。


チャールズ皇太子とカミラ夫人が不幸になれ!とまでは思いませんが、

仲むつまじい二人を見ても、心の底から微笑ましいとは思えない、

今でもダイアナ・ファンの私です。

 

 

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“Just One Dog”

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まためぐってきました、12月23日・・・ 私にとっての 『スタンリーの日』。

それゆえ今日は、過去5年間の今日と同じ記事になりますが、どうぞご勘弁くださいますよう 

 

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動画は   こちらです。


 たくさんの犬がいて・・・ たくさんの物語があります

でもこれは、ただ1匹の犬の物語です

同時にある人の物語でもあります


 2009年12月23日 午後3時


 アニマル・レスキュー・グループからきた人が、殺処分率の高いアニマル・シェルターの通路を歩いていきます

 クリスマスの2日前・・・ でもこれらの動物のうち多くは生きて新年を迎えることはないというのが、辛く悲しい現実です

 その人は今日、ある犬を救うためにここに来ました

もう一ヶ月もここにいる、ネグレクトされていたコッカーの女のコ

 そのコッカーの顔は神経質に引きつり、頭はひくつきます

でもこれは、そのコッカーの話ではありません・・・

 そのコッカーは手厚く世話をされ、やがて新しい家族を見つけてもらえます

 

ではいったい だれの物語?

 

その人はその犬を見て立ち止まります・・・ 心臓の鼓動が 一瞬止まります

 そう・・・ これはこの犬の物語です 

 

この犬は悲しみにあふれ 打ちのめされ すべての希望を失っています

 皮膚はひどい、しかしながら治療可能な感染症に侵されています 

 赤むけた皮膚は 痛むに違いありません ― 片目も感染症にかかっているようです

右目は閉じたまま 左目もべたついています

 そしてその人 初めてその犬を見たその人は・・・

その犬のことが頭から離れなくなります ― その犬は、いつ殺処分にされてもおかしくありません

 犬はおどおどと内気そうですが、ビスケットを取るしぐさはやさしいものです


 何ができるでしょう?

 このシェルターには、まだ若く健康で、新しい家族を見つけてやれる犬がたくさんいます

すべての犬が、同じように救われるに値します

 でもこの犬は、特別に救いが必要にみえます

 そこでその人は・・・ あるひとつのことをすることにします

 

2009年12月23日 午後8時

 

その人はその犬の写真と動画を人々にメールで送り、助けを求めます

 メールを受け取った人たちは、それぞれが・・・

あるひとつのことをすることにします

 自ら付け加えた救いを乞うメッセージとともに、メールを転送します

 

午後10時までには、寄付の申し出が入り始めます・・・ でもその犬を受け入れるというレスキュー・グループはまだありません

 その犬はまだ知りません・・・ が、たくさんの人々、その犬を見たこともない人々の一人一人が、

ただひとつのことをしています

 

ただ一匹の犬のために

 

そして、夜のうちに、何かが起こります・・・

 

2009年12月24日 午前10時

 

あるレスキュー・グループが、受け入れを申し出ました!

 さらに多くの人々が、助けを申し出てきました

 ある獣医は低料金でその犬の治療をすることを申し出ました!

 ある人は、その犬を連れ出すためにシェルターに急行します ― 今日は早じまいするからです

 別の人は、クリスマス・イヴであるにもかかわらず遅くまで待っていてくれるという獣医のところに犬を運びます

 また別の人は、犬に名前をつけました・・・ もう番号ではありません・・・

 

犬の名前はスタンリーです!

 

別の人、また別の人、そのまた別の人・・・

 皆が皆、寄付を申し出るため獣医のところに電話しています

 その間中ずっとスタンリーは、自分に何が起ころうとしているのかまったく知りません

 尻尾をよく見ていてください・・・ その尻尾は今まさに、ちょっぴり、ほんとうにちょっぴり、振られようとしています

あぁ・・・ こんな光景を見たいがために、私たちは生きているのです!

 

よしよし、スタンリー! いい子だね!
 

『クリスマスの奇跡』 でしょうか? 

 

それともこれは、たくさんの人が、

ほんのちょっとだけ手を休めて、ただひとつのことをすることにしたから・・・?

 

ただ一匹の犬のために

 

スタンリーはあなたを知らず、あなたにありがとうも言えず、あなたに会うことも多分ないでしょう

 でもあなたがクリスマスを祝っているとき、

スタンリーは動物病院で手厚く世話され、あなたのおかげで取り戻した命を慈しんでいます

 

アニマル・レスキュー・グループをサポートしてくれてありがとう!

 そしてスタンリー、私たち人間に二度目のチャンスを与えてくれてありがとう

 

メリー・クリスマス、スタンリー!

 

 

 スタンリーはその後    このカップルに引き取られ、今は幸せに暮らしています。

 

 

 ケイトーを亡くしたあと悲しみを紛らわせるため、『新しい家族募集中の犬』 のサイトを見ていた私。

 この動画はそこにリンクされていて見つけました。 ちょうど一年前に投稿されたものでした。

 今年も多くのペットが、暖かい家で優しい家族とクリスマスを迎えることでしょう。

 でもその陰で、多くの動物が明日の命も知れずにシェルターで過ごしています。


シェルターにいる動物の一匹でも多くが、スタンリーのように新しい家族に恵まれますように・・・

 

≪ 2010年12月23日 ≫

 

 *       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

 人間に遺棄されても自分では運命を逆転できない動物にとって、アニマル・レスキューやアニマル・シェルターは最後の希望。

 名声を求めることも高額の報酬を望むこともなく、ひたすら動物のため活動を続ける動物愛護・保護グループのスタッフには頭が下がります。

 個人的には褒章って、各界の成功者・功労者よりも、そのような人にこそ贈られて欲しいです。

 

動物愛好家の方は、ぜひ “Just One Dog” を転載して普及にご協力下さいませ! 

 

 

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地味~なクリスマス

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昨日(12月24日)は何と、甥っ子②(義妹の下の息子)の誕生日でした。

甥っ子②がムスメには自分の誕生日に絶対に来て欲しいと懇願したため、

遅番で出勤前に私がウスターの義妹宅までムスメを送り届けました。

 

さすがクリスマス・イブ。 M5高速道路、渋滞はしていなかったけれど普段よりは混んでいました。

我家から義妹宅までは67km。 安全運転で50分かけて到着しました。 ムスメは昨夜は義妹宅にお泊まり。

 

義理の家族内では大人同士のプレゼント交換は廃止したので、プレゼントは子供にしか用意しなくてよくラクです。

もちろんオットーと私はムスメにはプレゼントをあげますが。 それからオットーと私もプレゼントを交換しますが。

ムスメは先月の誕生日とクリスマスを合わせて 「今持っているのよりいいカメラが欲しい」 そうですが、

まだどれにするのか決めかねているので 「一時保留にさせて」 とのこと。

 

そんなわけで、今朝の我家のクリスマス・ツリーの下は寂しいものでした。 青っぽいのと黒っぽいのが、二人の甥っ子へのプレゼント。

赤っぽいのは私からオットーへのプレゼント。 ラッピングされていないのはオットーから私へのプレゼントです。

ラッピングされていないのには理由がありまして。 甥っ子たちへのプレゼントと私へのプレゼントを

送料が無料になるようまとめてアマゾンに注文したんですが、そのため一緒に届き、私が開けてしまったんです。

オットーから私へのプレゼントはDVDとは聞いていましたが、何の映画かは開けるまでのお楽しみだったのに・・・

それで 「もう見られちゃったのなら包装はいいね」 となり、私も 「いいよ(包装紙の節約になる!)」 と同意したわけです。

 

 受け取るクリスマス・カードも年々少なくなりつつある我家。 あと10年くらいでゼロになるのが理想です。

 

地味なクリスマス・グランプリがあったら、我家はかなりいい線いくと思うな!

 

オットー両親も89歳と87歳になり、(たとえ料理を分担して持ち寄りにしても) 大勢に集まられるのは大変そうなので、

今年は始めて義両親宅には集まらず各家庭でそれぞれクリスマス・ディナーを済ませて、午後遅くに

義両親宅に簡単な夕食に集まろう、ということになっていました。

ところがオットー両親、「やっぱり皆に来て欲しい」 と直前になって心変わり。

でも少食のオットーは 「どうせたらふく食べさせられるだけだから」 と行きたがらず、私も毎年同じな

クリスマス・ディナーには未練がなかったので、私たちだけは家で普通のランチをすることにしました。

ちょっと奮発してステーキと、野菜とチップスです。 これ、オットーの分。 本当に一定量した食べたがらない人なんです。

(私がケチして食べさせないわけではナイ。)

 

午後3時をまわってから、オットー手づくりのスロー・ブランデーをミニ・ボトルに詰めたものを手土産に、オットー両親宅に行きました。

車で10分の距離なのでラクです。

スローは別名ブラックソーンとも言うそうです。 スローの果汁で色づけされ、ロゼと赤ワインの中間みたいな色になっていました。

味見したら、ブランデーだけあって、すごく強かったです。

 

 

甥っ子たちへのプレゼントも持ってオットー両親宅に到着したら、

義妹のウクライナ人の夫(私と同様食べることが趣味)は、6.5kgもある豚の骨付きハムを持参していました。

  

 ナイフで削ぎ切りにしたものが、下右の右端の赤っぽいハムです。 残念ながら所々固かったし塩気も強すぎて、私には今ひとつでした。

  

 

 おいとまする前に、集合写真を撮影。

左から義父(89歳)、義妹(49歳)、甥っ子②(昨日9歳になったばかり)、義妹の夫(44歳)、甥っ子①(11歳)、私(53歳)、

ムスメ(20歳)、オットー(57歳)、義母(87歳)、義弟②(53歳・独身)。 犬のシンディーは5歳です。

義弟①一家3人はサウジアラビア在住のため抜けています。

 

(ムスメと私を除いて、ほんと皆さん文字通り鼻が高いんですよね。 ・・・つい “アダモステ” を思い出してしまう私。)

 

 オットーからの私へのプレゼントは以下のDVD3本でした。

転々』 と 『桃さんの幸せ』 と 『冷たい熱帯魚』。

    

 

 ちなみに私からのオットーへのプレゼントは、ブルーレイの 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』 とDVD 『Kajaki』。

          

 

有休の残りを消化しているオットーは、11月から毎週水曜日はお休みだったし、先週末から来週末までは16連休。

ムスメのホリデーは、あと2週間。

私はちょこちょこ仕事が入っているけれど、ムスメがレスターに戻ってしまう前に、

3人一緒に全部視聴してしまえたらいいな! 

 

 

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クリスマス・イブの事故

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クリスマス・イブの午前10時半頃、ケント州ウェスタラム(Westerham)で事故がありました。

街角のコーヒーショップ COSTA COFFEE の側面に、自動車が突っ込んだのです。

 

  

  

 側面には大きな窓があったけれど、床まで全部が窓だったわけではなく、下部には壁部分もあったそうです。

画像から察するに、地面から30cmほどの高さまでかな?

 

 この事故で、店内にいた客のうち70代女性が死亡。

事故車の運転手とその乗客1名を含む5人(重傷4人・軽傷1人)が病院に搬送されました。

 

外で手当てを受ける女性。 まだ救急車が到着する前でしょうか。

 

 突っ込んだ車は黒のアウディ・A4で、車の屋根を切り離して内部から2名が救出されました。

 

 低い壁だったとはいえそれを突き崩してここまで店内に入り込んだのだから、事故車はかなりのスピードを出していたのでしょう。

目撃者によると、その場で死亡が確認された女性は 「腰掛けていた椅子からカウンターの向こうまで跳ね飛ばされた」 そうです。

 

  

  

めちゃめちゃの店内。 クリスマス・ショッピングの合間にお茶をしているところに、まさか車が突っ込んでくるとは。

しかも、よりにもよってクリスマスの前日に・・・・・

せめて完全壁部分に突っ込んでいれば、死者を出さずに済んだかもしれないのに。

亡くなった女性は、クリスマスに家族に会うため町に来ていたらしいです。

ご冥福をお祈りします・・・・・

 

事故を起こした車は、コーヒーショップに突っ込む前にも駐車車両にぶつかり、前を走っていた車にも後ろから追突していました。

事故車は 「時速60マイル(96km)は出ていたと思う」 と、追突された車の運転手。

  

事故翌日はクリスマス・デーのためもともとお休みだっただろうけれど、当然26日も休業の COSTA COFFEE。

再開にはしばらくかかることでしょう。

 

 

車を運転していたのは、88歳男性。 突然心臓発作とか脳溢血に襲われた?

それともグラスゴーのゴミ収集トラックの運転手のように、発作により一時的に意識を失う可能性があることを隠してハンドルを握っていた

それとも高齢のため運転操作を誤り、パニックに陥った?

 

オットー父89歳が現役で運転しているため、高齢ドライバーの事故のニュースは他人事じゃありません。

私自身を含め、誰だって、いずれは高齢ドライバーの仲間入りをすることだし。


事故原因が明らかになったら、続報をお届けします。

 

 

 

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洪水のヨーク

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先週末、ふたたび大雨に襲われたイングランド北部。

私が昨秋訪れた古都ヨークでも、ウース川とフォス川が氾濫してしまいました。

資料画像 ↓ と比べてみると、ウース川の岸辺が水没してしまっているのが一目瞭然です。

 レンダル橋の西岸に立つバーカー塔の脇の道路も水没してしまっています。 (下右は、昨秋私が撮った写真です。)

 

ヨーク城の一部だったクリフォード・タワーの足元の道路も水没。

すぐ西にウース川、東にフォス川が流れていますから、・・・・・無理ないですね。

 

下は昨秋の私の写真です。 角度が違っていてすみません。

 

独特の形状から、見つけやすいです。 クリフォード・タワー。

 

本当に立派なミンスターでした。 ヨークにはぜひまた行きたいです。

手前の水没した緑地は競馬場だそうです。

1357年にその大部分が建築されたという、Merchant Adventurers' Hall

ホールを取り巻く庭の部分は、水没してしまいました。

 

下は昨秋に私が撮った写真です。

 

自分が訪れたことのある町が洪水に遭ってしまうなんて・・・・・

 

「クリスマスから新年を古都ヨークで過ごそう!」 と喜び勇んで訪れていた観光客も少なくなかったはず。

 

洪水の被害に遭った何千人もの住民が、避難を余儀なくされたそうです。

 

  

  

  

  

陸軍・消防隊・山岳救助隊などが夜を徹して孤立してしまった住民をボートで救助しました。

 

  

この水深では、普通の乗用車は使えませんものね。

 

 

牛のワンジー が、緊張を和らげてくれます?!

  

 

私にもなんとなく見覚えのある風景が、水没してしまっています・・・・・

 

 

 

ところ変わって・・・・・

グレーター・マンチェスターのサマーシート(Summerseat)村にはアーウェル川にかかる橋の上に閉店したパブがありましたが、

増水した川の水量に圧倒されて損壊してしまいました。

 

突然損壊したのは、26日(土)午前9時12分。 近くに人はいたものの、橋を通過中の人がなかったのが幸いでした。

  

 

  築200年のこの建物は、元は背後にある製綿工場の社員食堂兼保育所として使われていました。

近年はパブになっていましたが閉店し、近い将来集合住宅に改築されることになっていたそうです。

 

 

 

イングランド北部は今夜も大雨が予報されていますから、まだ気が抜けません。

よりによってクリスマスから新年にかけてのお祝いシーズンに被災された皆さんに、心からお見舞い申し上げます。

 

沈鬱なニュースは、希望を持てる画像で〆ましょう。

   

レスキュー・チームの皆さん(上右)、ちゃんとガーデン・チェアーに座っていらっしゃる!

そうそう、その調子。 困難なときにもユーモアを忘れず、頑張ってくださいね!!

 

 

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謹賀新年

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新年が到着すると、盛大に花火を上げる都市が多いですね。

でも今年のパリは、テロ事件を受けて花火はキャンセルされ、ライトアップとイルミネーションでお祝いしたそうです。

でも正直言って、日本人の私にはその方がずっとしっくりきます。

それに倹約主婦の私には、「きれいだなー」 で終わってしまう花火は税金の無駄遣いに思えて仕方なくて・・・・・

ライトアップとイルミネーションで十分では???

さもなくば 「とっておきの豪華な一発」 だけを上げて、浮いた予算は病院・警察・教育などの充実に有効利用する。

もしくは貧しい国々の子供たちを助けるための基金にする。 とか。

花火をイルミネーションと効果音で再現して節約するというテもありますね。

毎年毎年年が明けるたびに無駄遣いしなくても・・・・・ と、ムダの嫌いな小市民主婦は思ってしまうのです。

 

それはさておいて、パリと東京の画像をお借りして、新年のご挨拶をさせていただきますね。

 

元日の私は遅番で仕事でしたが、

明日も明後日も遅番で仕事ですが、

日本の皆様は三が日をめいっぱい楽しんでくださいね。 私の分も。

 

(あぁ~お雑煮食べた~い、お汁粉食べた~い ・・・・・ 

(情けないですが、自分で作る ↑ という選択肢はありません・・・汗。)

 

 

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27回目の命日

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今日――1月4日――は、1989年に日本中を震撼させた凶悪事件、

『女子高生コンクリ詰め殺人事件』 の被害者・古田順子さん(享年17歳)の27回目の命日でした。

1月7日に 『昭和』 が終わり、翌日 『平成』 が始まったあの年。

ドラム缶にコンクリ詰めにされて遺棄された順子さんの遺体は、3月29日まで発見されることはありませんでした。

 

現在の社会の主流になりつつある20代30代の人は、事件について多少は知っているのでしょうか。

事件が発覚したとき私は27歳で、東京で忙しいOL生活を送っていて、事件については新聞で読んだだけでした。

今思うと、あまりの残虐性に新聞は詳しい報道を控えていたように思います。

 

『コンクリ詰め殺人』 ということだったので 「数日間暴行を受けた被害者がコンクリに固められた」 と解釈していましたが、

もしそうだったら、被害者はずっと早く楽になれていたことでしょう。

実際には被害者は41日間という長期にわたって監禁され、その間ずっと、

想像を絶する凄惨な性的・身体的・精神的暴力を受けていたのです。

その内容をネットで読んで知ったのは今から15年くらい前でしたが、

詳細を読んだその晩は動悸が高まったままで神経も張り詰め、なかなか寝つけなかったのを覚えています。

 

詳細を読みたいという方は、どうか自己責任で読んで下さいますよう。

無限回廊 - 女子高生コンクリ詰め殺人事件

上記リンクに比べれば、記述が抑え気味のウィキはこちら。

ウィキペディア - 女子高生コンクリ詰め殺人事件

下記リンクは、記事をクリックすれば文字が拡大して読みやすくなります。

週刊新潮 - 「監禁」 再逮捕の元少年が 「女子高生コンクリ詰め殺人事件」 で行った 「鬼畜行為」 のすべて

フジTVの事件検証番組の動画はこちらです。 鮮明でない画質が、逆に時代を感じさせます。

 『女子高生監禁コンクリート詰め殺人

順子さんの葬儀における同級生の弔辞が悲しすぎる・・・・・

 

高校卒業を控え、就職も決まり、大好きなドラマの最終回に間に合うようにと自転車で急ぎ帰宅途中だった順子さん。

18歳の誕生日を目前に、その命を、将来を、奪われるなんて・・・・・

しかも41日間にわたる、想像を絶する恐怖・絶望・苦痛のあとで。

あんな事件に巻き込まれていなかったら、今月18日には45歳の誕生日を迎えていました。

結婚して子供を産み、ご両親にお孫さんをプレゼントしていたでしょうか。

それとも独身のまま仕事と私生活を充実させていたでしょうか。

そんな彼女の未来は、最悪のときに最悪の場所を通りかかってしまったために、無残に奪われました。

被害者が順子さんでなかったら、おそらく別の誰かが代わりに被害者になっていたことでしょう。

 

普通の神経を持った人間なら、他の人間や動物を傷つけることはなかなかできません。

相手に感情移入し、相手の苦痛を想像し、生理的嫌悪を覚えるからです。

でもこの犯人たちは、4人もいながら誰も監禁・暴行をやめなかった。

監禁に使われた家の両親は、監禁に気づいていながらも息子の暴力と世間体を怖れて警察に通報しなかった。

順子さんが監禁されていたことを約100人もの人間が知っていながら、誰も警察に届けなかった。

法治国家日本で。 信じられません。

 

4人の実行犯は少年法に守られて主犯のAでさえ懲役20年でしたが、

犯した罪が大人をも震撼させる凶悪なものなら、年齢による保護など撤廃してしまえ!と思います。

少年Bは2004年に監禁致傷の再犯で懲役4年を受けたし、2008年に釈放された主犯の少年Aは2013年に

振り込め詐欺で逮捕された(完全黙秘のため証拠不十分で不起訴処分に)というし。

未成年の重罪者を少年法で守るのは矯正と更生が期待できるからでしょうが、それが成功したとはとても言えません。

 

三島女子短大生焼殺事件の犯人の男の死刑執行に、アムネスティ、社会党 福島みずほ氏、

日弁連山岸憲司会長らが法務省に強く抗議したそうですね。

「日本政府は、生きる権利をはじめとする人権保障の大原則に立ち戻り、死刑の執行を停止し、死刑廃止に向けた

国民的議論を速やかに開始すべきである。」 などの意見を出して。

・・・・・死刑制度賛成の私には、本当に不思議に思えます。

利己的な理由で残忍な殺人を犯した犯人に生きる権利があるというなら、被害者の生きる権利はどうしてくれる?

日本には死刑制度があると知りながら殺人を冒したということは、つまり生きる権利を失うリスクを自ら冒したということなのだから、

「それ相応の覚悟があって重罪に及んだ」 と解釈していいはずです。

被害者が一人だったにもかかわらずこの犯人を死刑にしてくれた裁判長に、敬意を表します。

死刑制度廃止論者の人たちって、たとえ自分の大切な家族や友人が自己中心的な理由で惨殺されても、

犯人に極刑を望まないのでしょうか。 罪を憎んで人を憎まずで?

だとしたらすごいことですが、私にはとても辿り着けない心境です。

 

『女子高生コンクリ詰め殺人事件』 のことを知ってから、年末になると被害者・順子さんを思うようになりました。

世間が師走で忙しく、でもクリスマスと新年の期待に気分を高揚させているころ、暴虐の限りを尽くされていた順子さん。

最後に家族や友人に思いを馳せられたのは、いつのことだったのでしょう。

「死」 が 「生」 を打ち負かしてしまったのは――たとえ即時に救出されても死が回避できない状態になった瞬間は――

いつだったのでしょう。

 

なのに27年後の今、4人の実行犯が社会復帰してのうのうと暮らしているのがやりきれません。

赤の他人の私ですらこれほど激しい憤りを覚えるのだから、順子さんのご家族は、とくにご両親は、

どのような思いで事件後の毎日を生きて来られたことか・・・・・

お母様は事件の詳細を知って精神を病まれてしまったそうですが、その後回復されたことを願ってやみません。

 私は幽霊や怨霊の存在は信じていませんが、こういう場合に限っては、そういうものが存在して欲しい。

加害者たちを呪って祟って死に追いやることで、順子さんに無念を晴らしてもらいたい。


『女子高生コンクリ詰め殺人事件』 は 「日本の犯罪史上においても稀にみる重大かつ凶悪な犯罪」 などと

表現されていますが、日本のみならず海外でもそう認識されつつあるようです。

動画 10 Most Terrible Deaths in History (歴史上最も恐ろしい死トップ10)でも、最悪の第1位に選ばれています。

(注: この動画に含まれている被害者の遺体画像はもちろん実物ではなく、映画 『コンクリート』 からのものだと思います。)

世界でも最も安全な国のひとつである日本でこんな事件が起こったこと、そして他にも多くの凶悪事件が起きていることが、

とても恐ろしいし残念です。

 

このマンガニュースで描かれているように、順子さんを殺した4人が、

高齢になって死が近づいてきたとき地獄のような罪の意識に苛まれることを心から願います。

そして死後は、永遠に地獄の業火に焼かれますように。

 

     

 

最後になりましたが、

古田順子さんのご冥福を、心からお祈りいたします。

合掌。

 

 

 

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Facebook の浅知恵

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一昨年2月に、グロスターで元交際相手に刺殺されたホリー・ガザードさん

昨秋久しぶりに、彼女の名前がニュースになりました。 それというのも・・・・・

 

 

 

ホリーさんは別れを告げられたことを受け入れられなかった元恋人に刺殺されましたが、

予期せぬことだったため、彼女の Facebook のページには、まだ殺人者アッシャー・マスリンと一緒に写った

画像が9つ掲載されたままでした。

もちろんホリーさんの家族や友人にとっては、見るのもおぞましい画像です。 でも画像は、自分たちには削除できない。

そこで Facebook にそれらの画像の削除を依頼したのですが、拒否されたのでした。 (注: 過去形です。)

 

父親ニックさんとホリーさん                             母親アマンダさんと   

 

 

ホリーさんの父親のニックさん: 「あれらの画像は私たち遺族に苦悩とやるせなさしかもたらしません。

そのため私はホリーの Facebook ページは出来るだけ訪れないようになりました。

ホリーとの良い思い出、一緒に過ごした楽しい時だけを覚えていたいのに、あれらの画像を見ると辛くなるからです。

そこであれらの画像を削除してくれるよう Facebook に要請したのですが、Facebook は

ポリシーに反するからと拒否しました。 でもあのポリシーは誤りです。」

 

『ユーザーが死亡した場合は当人のプロフィールはその生涯の記念として凍結保存する。』

というのが Facebook のポリシー。

Facebook 代表者: 「我々は亡くなったユーザーの思い出をそのまま残すため、アカウントもプロフィールも

亡くなったときの状態のまま記念保存します。

今回のような悲劇的な状況下では辛い記憶を呼び起こすでしょうが、記念保存されたアカウントは

亡くなった方のプライバシーを保護するためにデザインされています。」

 

行き詰まったニックさんは、メディアに状況を訴え出ました。 それが昨年10月末(26日・27日)のこと。

28日にオンライン署名運動が始まり、私も署名しました。

ようやく11月10日になって、Facebook は要請された9つの画像を削除。

署名は11,000人分以上集まり、中には画像の削除を Facebook に直訴してくれた人もいたそうです。

ニックさんは家族を代表し、協力してくれた人々と Facebook に感謝のコメントを発表しました。

 

一件落着。 ですが・・・・・

ホリーさんのご両親にとっては、愛娘の Facebook ページにその愛娘を惨殺した男の画像が居座っていたわけで。

二度と見たくない、見るのもおぞましいと感じるのは当然です。

モンスターSNSとはいえ、運営しているのは血の通った人間のはず。

遺族の立場に自分を置き換えてみたら、その気持ちは察して余りあるはず。

なぜすぐに削除してあげなかった?

なぜ思い余ったニックさんがメディアに訴え出て、オンライン署名運動が始まって、

2週間も待たなければならなかった??

 

ポリシー以前に尊重すべきことがあったでしょうがっ!

あ~腹立つ。 Facebook やっていなくてよかったわぁ。

 

日本でも凄惨なストーカー事件が後を断ちません。 元交際相手のストーカー化というのは、洋の東西を問いませんね。

ストーカーが殺人行為にまで及ぶケースは稀でしょうが、それでも皆さん、

SNSにUPする画像の選択には、くれぐれもご注意くださいね・・・・・

 

 

 

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ディアトロフ峠事件 ・ 前編

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『20世紀最大のミステリー』 なんて呼ぶ人もいるらしい、“ディアトロフ峠事件”。

2013年にこの事件を題材にした映画 『ディアトロフ・インシデント』 が製作されたときにニュースになり、

初めてこの事件のことを知りました。 (IMDb によると、映画の出来は今いちだったようですが。

そのうち記事にしようと思いつつ、たくさん読まなければならなそうなので面倒でつい先送りにしていましたが、

ようやく気が向いたので、今回はこの事件について書くことにします。

(今後も随時訂正や追加をすると思いますので、その点ご了承下さい。)

 

時は1959年2月2日だったというから、昭和にすると34年。 戦後の奇跡的な復興と高度経済成長に向けて、

日本国民が頑張っていた頃ですね。 “ALWAYS三丁目の夕日” に描かれたような、郷愁を誘う時代。

10人の若いロシア人(男性8名・女性2名)が、酷寒のウラル山脈北部でのスキー・トレッキングに出掛けました。

大学の学生とOBから成る20歳から25歳の9名と、事件が起きた日が偶然38歳の誕生日だった1名。

何が起きたかは、ウィキの ディアトロフ峠事件 で詳しくお読み下さい。

 

ブリノフ・チーム/地元兵士たちとヴィジャイ村で写真に収まるディアトロフたち        木こりのベースで木こりたちとポーズを取る一行      

 

 

まぁ~なんとも不気味な事件・・・・・ 若く健康でスキー・トレッキングの経験も積んだ9人が、テントを切り裂いて

酷寒の雪原に服装も靴も整えないまま飛び出すなんて。 いったい何が彼らをそうさせたんだろうっ?!

 一行の死に至るまでの経緯を、「彼らの日記や写真を基にした」 というネットからの情報をもとに

(=誤りも含まれているでしょうが)、たどってみたいと思います。

The Group Journal - Diatlov Incidnt は興味深いです。)

 

ウラル北部にあるホラート・シャイフル(Kholat Syakhl)山―― 一行が誤って入り込んでしまった山――は、

マンシ語では “死の山” を意味するそうです。

でもこれは死者の山を意味するわけではなくて、猟鳥が極端に少ないことからそう呼ばれるようになったため。

確かにかつて、9人のマンシ人狩人がこの山で一晩過ごしたら、のちに全員遺体で見つかったという事件はあったそうですが。

そしてその事件が “死の山” の由来だとする向きもありますが。

マンシ人はこの山が呪われていると信じ、避けるそうです。

 

トラックでヴィジャイ村から木こりのキャンプに向かう一行

 

“死の山” の左肩に、今日ディアトロフ峠と呼ばれる場所があります。 1959年にロシア人の若者9人が不可解な、そして

早過ぎる死を迎えた地です。 登山と長距離スキー・トレッキングの経験豊かな10人は、イゴール・ディアトロフをリーダーに、

1月23日にスヴェルドロフスク(今日のエカテリエンブルク)を出発。 最終目的地はマンシ語で “そこに行くな” を意味する

オトルテン山でした。 列車とバスとトラックを乗り継いで、25日午後2時頃にルート上では人が居住する最後の地である

ヴィジャイ村(Vizhai)に到着。 ディアトロフたちと同じ大学から同様にスキー・トレッキングにやって来たブリノフ・チームは、

ディアトロフたちとは異なる目的地を目指してこの日ヴィジャイ村を出発して行きました。

ちなみにヴィジャイ村は2010年夏の森林火災で全滅してしまったため、今は存在しないそうです。


ディアトロフ・チームは1月26日、まずトラックでヴィジャイ村を出発。 長く寒くみじめな旅のあと、木こりたちのキャンプに到着。

暖かい歓迎を受けた彼らは個室を与えられ、夕食後は何人かは映画を見に行き、残りのメンバーは皿洗いと掃除をしました。

翌27日は、馬を使って地質学者の廃村まで装備を運びました。 約20の家屋が残っていたものの、一夜を過ごせる状態にあったのは

そのうちの一軒だけでした。


 

 

 

1月28日。 赤痢にかかったユーリー・ユーディン(22歳)が、ヴィジャイ村に引き返すことを余儀なくされます。


                                                     転んだジナイダを助けるユーリー・ユーディン

  

ユーリー・ユーディンに別れを告げるジナイダ(下左)と、リュドミラ(下右)

   

 結果的に彼は、急病になって命拾いしました。 同行していたら、まず間違いなく彼も死んでいたでしょう。

ユーディンはほんの数年前の2013年4月27日に、75歳で亡くなりました。

後日インタビューの中でユーディンは、地元民がディアトロフに何かを警告しようとしていたのを耳に挟んだと語ったそうです。

ユーディンにはその内容は聞こえず、ディアトロフは警告を迷信として取り合いませんでした。

ディアトロフはユーディンに、ヴィジャイ村への帰還は 〝2月12日を予定しているが、遠征の難易度を考慮すると

14日あたりが現実的だろう” と語っていたそうです。

 

9名になった一行は、遠征を続けます。 以下の画像は撮影日時も順番も適当ですのでご注意。


    ニコライ、リュドミラ、セミョーン、ジナイダ                休憩中のセミョーン、ユーリー・ドロシェンコ、ディアトロフ  

 

                                                                  オースピヤ川近くで日記をつけるジナイダ

  

 

一行はロズヴァ川(? Lozva)に向かいましたが、積雪は前年より少なく、解けかかった雪がスキー板の下にくっつくので

苦労しました。 午後5時半に前進をやめてキャンプを張り、キャンプファイアーの周囲で歌を歌ったり愛について語り合って

晩を過ごしました。 暖房や雪を解かす目的で持参したストーブは、(極端に熱くなるため)誰もその隣で眠りたがらず、

その晩ちょっとした議論の種になったようです。

 

1月29日、一行はマンシ人が造った古い道をたどってロズヴァ川からオースピヤ川(? Auspiya)へと遠征を続行しました。

風がほとんどない日で、気温は-13℃でした。

1月30日もオースピヤ川に沿って遠征を続けますが、対岸までずっと凍った部分が見つからず、一行は川を渡るのに

苦労したようです。 天候も荒れ始め、-13℃から-17℃あった午前中の気温は、夜には-26℃まで下がりました。

強い南西風が吹き始め、厚く垂れ込めた雲から雪も降り始めます。 オースピヤ川はまだ渡れておらず、

キャンプを張った頃には風は強い西風に変わっていました。 この日も前進は困難で、17kmしか進めませんでした。


         ロズヴァ川近くで、ニコライとセミョーン              リュドミラ、ユーリー・クリヴォニシチェンコ、ニコライ、ルステム     

 

 

1月31日。 西からの強風が吹いていましたが、空は澄み渡っていました。 雪は止んでいたものの、木々から

風で飛ばされてくる雪が、まるで雪が降り続いているかのように視界を悪くしていました。 この日はハードな一日だったようで、

日記にはこう記されていました。

“今日は特に困難だった。 視界が悪く、一時間に1.52kmしか進めなかった。 前進するために新たな方法を

編み出さなければならなかった。 最初に誰かがバッグを残して前進し、皆のところに戻ってきて10分か15分ほど

休む。 これを交代ですることにより、先へ先へと道を作ることができた。”

一行は徐々にオースピヤ渓谷を離れ、上へ先へと前進を続けます。 積雪は1.22mしかなく、一行は晩までには

疲れ切り、火を焚くための穴を掘ることもできませんでした。 高原の端に到着できたので、余分な装備と食料を

帰路に供えて森の中に備蓄しました。 日記に記載があったのは、この日が最後でした。

 

  

  メンバーたちの最後の写真のうちの一枚                     フィルムの最後に残っていた奇妙な画像    

 

 

状況から判断すると、2月1日は遅いスタートを切ったようです。 その日は4kmしか前進できませんでした。

(帰路に備えての装備と食糧の備蓄はこの日の午前中に行われたとする情報源も。)

また吹雪に遭ったため方向を誤り、予定していたルートから西に外れて “死の山” の頂上に向かう斜面へと入り込みました。

誤りに気づいたリーダーのディアトロフは、木々に守られて強風をしのぎやすいし焚き木も見つけられるであろう

1.5km離れた森に戻ることはせず、午後4時頃 “死の山” の斜面にキャンプを張ります。

目的地オトルテン山まで10kmの地点でした。 (10マイル=16kmだったとする情報源も。)

彼らはおそらく午後6時か7時頃に夕食をとりましたが、テント内の食べ物が片づけられていなかったことから、

その最中に 9人全員をパニック状態に陥らせる何かが起こったようです・・・・・

 

2月20日に捜索救助活動が始まり、その後警察と軍隊も加わり、26日に上空を飛んでいた航空機から、

半ば雪に埋もれた置き去りにされたテントが発見されました。

(異なる画像が出てきたので両方載せておきます。)

 

 

内部から大きく切り裂かれていたテントの中には、スキー・食糧・靴・暖かい衣類・カメラ4台・ナイフ・フラッシュライトなど、

酷寒の地を生き抜くために役立つ品々が多く残されていました。

それは9人全員が大急ぎで、命からがら雪原に飛び出したことを物語っています。

テント内には現金と列車の切符も残っていたため、強盗に遭った可能性も除外されます。

のちに検分されたテントは、奇妙なことに支柱に切り込みが入っていたそうです。

予備の支柱は持参していなかったのに、誰がなぜ、故意に支柱を損傷しようとしたのでしょうか。

 

          

 

テントから斜面を1.5km下ったところにある森に向かって8~9人分の足跡が続いていましたが、

500mほど行ったところで雪に覆われて見えなくなっていました。 足跡の多くが、靴はおろか靴下も履いていませんでした。

しかしながら、その時は救助隊はまさか全員が死亡しているとは考えもしなかったので、現場の状況保存には

あまり注意が払われませんでした。 テント発見直後に 「勢い余ってテントを裂いて開けてしまった」 と後日告白した

救助隊のメンバーもいたそうです。 そのためテントの裂け目のどこからどこまでがディアトロフ・チームによって

内側から切り裂かれたかの判断は、かなり困難なものとなりました。

テントの近くには小用を足した痕跡もありましたが、これはおそらく他のメンバーより服装が整っていた

セミョーンかニコライのものだろうと考えられました。

用を足すため暖かく着込んだメンバーが外に出た途端に異常事態に直面し、その結果他のメンバーも

裸足で逃げ出す事態になったのでしょうか。

 

テント周辺を捜索する救助隊                            テントから続いていた足跡    

 

 

翌2月27日に、テントから1.5kmほど下った森の入口付近で最初の二遺体――両方とも男性――が発見されました。

ヒマラヤスギの根元にふたつの遺体が横たわり、近くには小さな焚火の痕跡(下右)がありました。

遺体は両方とも軽装で、靴を履いていませんでした。

  

 ヒマラヤスギは下の方の枝が切られていたため、おそらく焚き木にされたようです。

樹皮の裂け目には人間の皮膚や血が付いているのが発見され、また枝が地面から5mほどの高さまで

折れていたことから、一行のうちの誰かが両手を傷つけながらも木によじ登ったと推測されました。

高い位置から何か――おそらくキャンプ――を探すために?

(下右は、同じ木の近年の画像。)

 

 

さらにヒマラヤスギとテントの間で、別々に二遺体――男性と女性――が見つかりました。 男性の遺体がヒマラヤスギから300m、

女性のものが630m離れた地点で、テントに戻ろうとしていたかのようにテント方向に頭を向けて横たわっていました。

 

3月1日(2日という情報源も)に、一行が備蓄した55kgの装備と食糧が発見されました。 衣類とスキー靴とスキー板も

一対ありました。 現場一帯を検証していた専門家たちは、「雪崩が起きた可能性は極端に低いため、雪崩が事件の

原因だった可能性は除外する」 との結論を出しました。

 

3月5日にヒマラヤスギとテントの間、ヒマラヤスギから480mの地点で、男性メンバーの遺体がもうひとつ発見されます。

この遺体もテント方向に頭を向け、先に発見された二遺体の中間辺りで雪に埋もれていました。

体の下の雪が一度解けたあとふたたび凍っていることから、他のメンバーとは異なり彼だけは、

体がまだ暖かいうちに倒れたようでした。

 

残る4人の遺体は、春の雪解けが始まってからようやく、5月4日に見つかりました。 彼らは体温を守るため雪に

避難用の穴を掘り、雪との直接の接触を少なくするため杉の木の枝や死んだ仲間の衣類で内壁を覆っていました。

穴は例のヒマラヤスギから森に75mほど入った、厳しい風から保護される位置にありました。

火をおこしたものの、長くは保てなかった形跡がありました。

         避難用の穴


しかし奇妙なことに、4人の遺体は避難穴の内部ではなく、穴からすぐの渓谷で発見されました。

彼らがその場で死んだのか、それとも雪解けが彼らを発見された場所へと移動したのかは不明です。

この4人は他の5人より整った服装をしていましたが、遺体の状況は明らかに5人とは異なりました。

4人のうち2人が両眼を、さらにそのうち1人は舌まで、失くしていたからです。 検死により4人が頭蓋や肋骨を損傷し、

内出血を起こし、一部に擦過傷や火傷を負っていたことがわかりました。 さらなる謎は、数人の衣類から

高い線量の放射能が検知されたこと、またそもそも捜査当局が放射能探知を主張したことです。

 

また4人のうちの1人は、他のメンバーには知られていなかった5台目のカメラを首から下げていました。

暖かい服装も整えず防衛用のナイフも持たずに-30℃の外気に飛び出したのにカメラを忘れなかったとは、

奇妙なことこの上ありません。 しかもそのカメラ内のフィルムは 「水で損傷を受けてしまっていた」 と、

後日当局から報告されたそうです。

 

 

《 つづく 》

 

 

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ディアトロフ峠事件 ・ 中編

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《 前編からのつづき 》

 

[ 警告: この記事は犠牲者の実際の遺体写真を含みます ]


 

 

 

発見された順番に、遺体の検死報告を見てみましょう。

(Dyatlov Incident - The Bodies / Dyatlov Pass Incident - Medical Autopsy)


 

テントを発見した翌日、救助隊はテントから1.5km離れた森にあるヒマラヤスギの下で、まず二つの遺体を発見します。

ユーリー・ドロシェンコ(下左)とユーリー・クリヴォニシチェンコ(下右)のものでした。 近くには焚火の痕跡がありました。

        

 

ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ は、当時21歳になったばかり。

以前ジナイダ(チームの一人で事件発生当時はリーダーのディアトロフと交際中だった)と交際し彼女の両親に

会ったこともありましたが、その後別れました。 でも彼女とディアトロフとはその後も良い関係を保っていたそうです。

半袖シャツとベストを着、毛糸のズボンの上に短パンを履いていた。 ズボンは右側が長さ23cmにわたって

大きく裂け、左側にも13cmの裂け目があった。 内側にも腿の部分に裂け目ができていた。

両足には毛糸の靴下を履いていて、左の靴下は焦げていた。 頭には何もかぶっていなかった。

頭部右側の髪が焦げていた。 両耳と鼻と上下の唇は血で覆われていた。 右の脇の下に2x1.5cmの打撲傷。

右肩内側に2x1.5cmのふたつの擦過傷と、ふたつの切り傷。 右腕前腕部の肘近くに、4x1cm、2.5x1.5cm、

5x5cmの茶褐色の打撲傷。 両手の指の皮膚に破れ。 両脚上部の皮膚に打撲の跡。 顔面と両耳に凍傷。

右頬に、口から流れ出た泡沫状の体液。 この体液は、死ぬ前にドロシェンコの胸部がひどく圧迫されたことを

示しているとする医者もいた。 木から落下した可能性もあった。 しかしこれらの点は最終的には

考慮されず、死因は低体温症とされた。


(遺体のどちらが誰だったのかは、説明がなかったので不明です。)

       


 5日後に24歳の誕生日を迎えるはずだった ユーリー・クリヴォニシチェンコ の遺体も、ヒマラヤスギの下で発見されました。

シャツと長袖シャツを着、水泳パンツとズボンと左足にだけ破れた靴下を履いていた。 靴はなし。

額に0.3x1.8cmの痣。 左のこめかみ部分にも痣。 側頭筋への損傷に起因する、

右側前頭部と後頭部の拡散出血。 鼻の先端が欠如。 両耳に凍傷。 右胸に7x2cmと2x1.2cmの痣。

両手に痣。 左手の甲の皮膚が2cmの幅で剥離。 右手の皮膚が口の中に残留。 両腿に打撲傷と小さな搔き傷。

左臀部に10x3cmの痣。 左脚外側に6x2cmと4x5cmの擦過傷。 左脚に2x1cm、2x1.5cmと3x1.3cmの痣。

左脚に10x4cmの火傷。

 

この2人が軽装だったのは、おそらく最初に死んだあと、生存に必死な仲間に衣類を剥ぎ取られたためと考えられています。

またウィキペディアなど他の情報源では、この2人は “下着しか身につけておらず靴も履いていなかった” とされています。


次に発見された三遺体は、ヒマラヤスギとキャンプの間にそれぞれ離れて、キャンプの方向に頭を向けて倒れていました。


 

リーダーだった イーゴリ・ディアトロフ (23歳)。 事件現場は、後日彼の名をとって名づけられました。

山岳遠征の経験に富み、沈着で思慮深い無線工学の学生でした。

遺体はヒマラヤスギとキャンプの間の木から300mの地点で、仰向けの状態で発見されました。

  

ディアトロフの遺体は頭には何もかぶっておらず、ズボンの上にスキーズボンをはき、長袖シャツ、セーターと

ボタンのはめられていない毛皮のコートを着ていた。 右足に毛糸の、左足に面の靴下を履いていたものの、

靴は履いていなかった。 ポケットナイフと、交際していた一行のメンバーのジナイダ・コルモゴロワの写真を

身につけていた。 額に小さな擦り傷。 左眉の上に茶褐色の擦り傷。 唇に乾いた血。 下あごの門歯が欠如しているが、

状態からみてトレッキングのかなり前に失われた様子。 右前腕の手首近くと右手の平に暗赤色の引搔き傷。

 

右手の中手指節関節に茶褐色の傷。 左手に茶紫色の傷、第2指と5指に浅い傷。 両膝に痣。 右脚の

下部1/3に打撲傷。 両方の踵に1x0.5cmと3x2.5cmの赤色の擦過傷。 内出血あり。

内臓には損傷なし。 死因は低体温症。 ユーリー・ユーディンは後日、ディアトロフが着ていた長袖シャツは

ユーディンが出発のときドロシェンコにあげたものだと証言した。 ドロシェンコが死亡したあと

ディアトロフが遺体からシャツをもらいうけたと考えられる。

ディアトロフの右手の拳の傷は、 “殴り合いをしてできたような傷だった” とする情報源もありました。



当時リーダーのディアトロフと交際中だった ジナイダ・コルモゴロワ (22歳)。

経験豊かなハイカーで、あるとき毒ヘビに噛まれましたが、 “他のメンバーに迷惑をかけたくない” と痛みに耐えながら

荷物運びの助けを辞退するほどの根性の持ち主だったそうです。

彼女の遺体はヒマラヤスギからキャンプに向かって630mの地点で発見されました。

        

遺体は帽子をふたつかぶり、長袖シャツとセーターとシャツをもう一枚と、袖口が裂けたセーターをもう一枚着ていた。

綿の運動用ズボンと、足元に小さな穴が3つ開いたスキー用ズボンをはき、軍用マスクを着けていた。

靴下は3足履いていたものの、靴は履いていなかった。

低体温症に起因するものと思われる髄膜の腫れ。 指骨に凍傷。 手の平を含む両手に無数の傷。

胴体右側を囲むように、29x6cmの長い傷。 死因は低体温症とされた。

 


ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン (23歳)は寡黙なところがあるものの、

性格は正直で運動神経も抜群、マラソンが好きだったそうです。 父親は別の大学の教授。

彼のうつぶせになった遺体は、ヒマラヤスギからキャンプに向かって480mの地点で発見されました。

        

ルステムは長袖シャツの上にシャツをもう一枚着、さらにセーターを着てズボン2本と靴下4足をはいていた。

右脚にはブーツも履いていた。 ポケットからは310ルーブルとパスポートが発見された。

さらにナイフ、ペン、鉛筆、櫛、マッチ箱と靴下片方を身につけていた。

(下は異なるふたつのサイトから見つけた彼の画像です。 腕の位置やシャツの柄が違っているのは、2枚着ていたというシャツの一枚を脱がせたから?)

  

額に茶褐色の小さな擦過傷がふたつ。 長さは1.5cmで2本の間隔は0.3cm。 右目蓋に茶褐色の傷。

鼻血の痕跡。 腫れた唇。 顔の右半分に腫れと、異なる形の小さな擦過傷。 左半分に擦過傷。

右前腕の皮膚に裂傷。 両手の中手指節関節に痣。 左腕と左手の平の中央に、茶色の小さく丸い痣。

左頚骨に2.5x1.5cmの傷。 頭蓋骨前部に骨折。 側頭筋に内出血。 鈍器による打撃の可能性があるものの、

致命傷とは考えられず。 ただそのショックにより低体温症が加速された恐れあり。



残る4人の遺体は事件後3ヶ月も経ってから、捜索を手伝っていたマンシ人と彼の犬により発見されました。

発見場所は、ヒマラヤスギから森に75m入った渓谷の深い部分の4m近い積雪の下。

近くには4人が掘ったらしい避難用の穴がありました。

これら4遺体のうち2遺体は、目立つ外傷がないにもかかわらず、まるで交通事故に遭ったかのような

骨まで達するほどのひどい内部損傷を受けていました。

またリュドミラとセミョーンとアレクサンドルの着衣からは、高い線量の放射能が検知されたそうです。

(放射能の線量は低いものだったとする情報源もあり。)

 


トレッキングの写真の大半を撮っていた、最年少の リュドミラ・ドゥビニナ (20歳)。

歌うことと写真を撮ることが好きで、旅行クラブでも活発に活動していました。

1957年の旅行中、別の旅行者が手入れしていたライフルが暴発し怪我を負いましたが、

搬送中一言も泣き言を言わず、チームに迷惑をかけたことばかりを気にしていたそうです。

彼女の遺体は小川の中でうつぶせの状態で発見されました。

(下右は、リュドミラとニコライの遺体写真とされています。 おそらく上がリュドミラ?)

  

リュドミラは半袖シャツ・長袖シャツと2枚のセーターを着ていた。 遺体は下着と長靴下と2本のズボンで覆われていた。

外側の衣類は火で損傷を受けたのち破れていた。 小さな帽子と暖かい靴下2足も着けていた。 3足目の靴下は

ちぐはぐなものだった。 彼女は足を守ろうと、セーターを脱いで半分に切っていた。 片方で左足がくるまれていた。

もう片方は雪の上に落ちていた。 リュドミラには、目立つ大きな外傷があった。

舌と舌下筋肉の欠如。 両眼とその周辺の軟組織も失われ、部分的に骨が見えていた。

鼻軟骨が壊れて平らになっている。 右側の第2・3・4・5肋骨と、左側の第2・3・4・5・6・7肋骨が骨折。

上唇の軟組織が欠如し、歯と上あごがむき出しになっている。 右心房に大量の内出血。

左大腿部に10x5cmの打撲傷。 左こめかみ部分に4x4cmの組織損傷、頭蓋の一部にも損傷。

胃に約100gの凝固血液が残っていたことから、舌が取り除かれた時点では心拍と血流があったと

する説もある。 死因は右心房への内出血、複数の肋骨骨折と内出血とされた。

 


セミョーン・ゾロタリョフ (事件当日が38歳の誕生日)はメンバーの中では最年長。

1941年10月から1946年5月まで大祖国戦争で戦いました。

彼の出身民族の同年代男性の生存率が3%だったことを考えると、非常に幸運だったといえます。

戦後軍事工学を学び、シベリア南部でツアーガイドやインストラクターをしていました。

セミョーンだけは他のメンバーと異なり、ディアトロフ一行とは初対面でこの遠征に参加。

もともとは別の遠征に参加する予定でしたが、 “急病にかかった母親をついでに訪ねたい” と、数日の違いしか

ないにもかかわらずディアトロフ・チームの遠征への変更を希望し、ディアトロフたちも快く彼を受け入れたそうです。

本名はセミョーンでありながら、なぜかサシャ、あるいはアレクサンドルと名乗っていました。

 

       

セミョーンの遺体は帽子ふたつ、マフラー、半袖シャツと長袖シャツ、黒いセーター、上の二つの

ボタンが外れたコートを身につけていた。 死因が低体温症でないことはすぐに見てとれた。

下半身には下着とズボン2着とスキーズボンを履いていて、新聞と硬貨何枚かと磁石その他数点の品を

身につけていた。 足には靴下と、“ブーカ” と呼ばれる手作りの暖かい革靴を履いていた。

あの服装で避難穴にこもっていれば、生存は可能だったとされる。

遺体は首からカメラを下げていて、これは生存者ユーリー・ユーディンを驚かせた。

彼が知る限り一行が持っていたカメラは4台で、それらはすべてテント内に残されていたからだ。

残念なことに雪解け水がフィルムを損傷していた(と当局は発表)。 しかし疑問は残る。 なぜセミョーンはカメラを持って

テントを飛び出したのか。 なぜ彼はトレッキングにカメラを2台持参したのか。 うち1台は毎日使用されていて、

皆が認識し、テントに残されていたため救助隊によって発見された。 しかしもう1台はその存在を隠されていて、

セミョーンの死後に初めて発見されたことになる。

(セミョーンの2台目のカメラについては、事件後 “その存在自体を当局に否定された” とする情報源もあります。)

遺体からは両眼がなくなり、左眉周囲の軟組織は7x6cmの大きさで欠けて骨が露出。

 右側の第2・3・4・5・6肋骨に骨折。 頭部右側に8x6cmの裂傷。 頭蓋骨が露出。

リュドミラとセミョーンの遺体には、共通の損傷パターンが見られた。 二人の身長や体型が異なったにも

かかわらず、損傷の方向と強度が似通っていた。


検死を担当した医師によると、 “リュドミラとセミョーンの体内損傷の程度は大きな自動車事故に遭ったに等しい”。

なのに外側には打撲傷も擦過傷も残されていないことから、まるで強力な力に肋骨が折れるまで締めつけられたようで、

“人間の手で加えられる類の損傷とは思えない” そうです。

 


アレクサンドル・コレヴァトフ (24歳)は勤勉で几帳面なリーダーシップのある学生でした。

(下右は、アレクサンドルとセミョーンの遺体とのことです。 おそらく下がセミョーン。)

      

遺体は帽子と靴は着けていなかったものの、暖かく着込んでいた。 上半身には袖なしシャツ、長袖シャツ、

セーター、フリースのセーター、スキー・ジャケットを着ていた。 スキー・ジャケットの左袖には周囲が焦げた

25x12x13cmの大きな穴が開いていた。 右袖も7-8cmの長さで数箇所で裂けていた。

ジャケットの前は開いたままだったが、これは低体温症で死にゆく人間にしては妙なことである。

ポケットには鍵・安全ピン・紙・錠剤があった。

下半身にはショーツ、軽いズボン、スキーズボン、さらにカンヴァス・ズボンを履いていた。

右ポケットにはじっとりとぬれたマッチ箱が入っていた。 靴は履いていなかったものの、

両足に手編みの毛糸の靴下をはいていた。 靴下には焦げた箇所があった。 右足には毛糸の靴下の下に

軽い靴下をもう一枚はいていた。 左足も同様にして3枚の靴下をはいていた。 左足首に包帯が巻かれていたが、

救急箱はテントに残されていたため、包帯が巻かれたのは事件前だったと思われる。

両目のまわりの軟組織と両眉が欠如。 頭蓋骨が露出。 鼻が折れ、耳のうしろに3x1.5cmの裂傷。

ねじれた首。左膝の内部組織に拡散出血。 指と足に肌の軟化・白色化。 これは生きた皮膚が

湿った環境に浸漬された場合に見られるものと同じ状態。 皮膚は全体的に、やや紫色を帯びた灰緑色。

折れた鼻と耳のうしろの傷から、誰かと争った可能性がある。 首をねじるというやり方は、特殊部隊の

暗殺法のひとつを思わせる。

 


ニコライ・チボ=ブリニョーリ (23歳)は政治犯強制収容所で生まれました。

フランス人の共産主義者だった父親は、スターリン時代に処刑されたそうです。

 友人たちによると彼は明るく、エネルギーに溢れ、ユーモアのセンスがあり、キャンプ旅行では常に

周囲に気を配り、自分より若いものや弱いものの荷物を運ぶのを手伝ったりしたそうです。

母親には 「これを最後のトレッキングにする」 と約束していました。

(下右は、ニコライとアレクサンドルの遺体とのことです。 どちらが誰かは不明。)

      

ニコライは頭に帽子をふたつかぶり、上半身にはシャツ、裏返しになったセーター、シープスキンの上に

毛皮のジャケットを着ていた。 右ポケットには毛糸の手袋・硬貨3枚・櫛・数枚の紙。

下半身には下着、スェットパンツ、綿ズボンとスキーズボンを履いていた。 両足に手編みの毛糸の靴下と

冬靴を履いていた。 左腕にふたつの腕時計。 ひとつは8:14、もうひとつは8:39で止まっていた。

背中・首と両腕に死斑。 頭蓋骨側頭部に、前頭部と蝶形骨まで延びる複数の骨折。

この損傷を受けたあとでは、おそらく動くことは出来なかった。 なのに全員が自力でテントを飛び出しているため、

ニコライの頭蓋骨骨折は事件の雪崩原因説を否定するものと考えられた。

上唇左側に痣。 前腕部下部に10x12cmの内出血。


セミョーンとニコライがきちんと着込んでいたことから、 “二人は事件発生時、用を足すため外に出ていた” と

見る向きもあるそうです。



《 つづく 》

 

 

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ディアトロフ峠事件 ・ 後編

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《 中編からのつづき 》

 

近年の雪がない季節のディアトロフ峠に、発見されたテントのモノクロ写真を重ねたらしい画像です。

 

 クローズアップするとこんな感じだそうで・・・・・ 遠くに赤丸で囲んであるのが、一行が逃げて行った、1.5km離れた森ってことでしょうね。

こうして見ると、森はキャンプサイトよりかなり低い位置にあることがよくわかります。

 

 

現場の状況がわかりやすいイラストを見つけたので拝借。



遺体の位置関係がデタラメではありますが、それぞれの発見場所をイラスト化したものもありました。

 

本当に本当に、不気味な事件・・・・・

スキー遠征に慣れた一行だから、いや慣れていなくとも常識でわかるだろうけど、

きちんと着込まずに酷寒の雪山にいたら、長く持ちこたえられないことはわかっていたはず。

いったい何が、若さと体力と知力を備えた9人の若者を、パニック状態でテントから飛び出させたのか。

彼らは何を怖れてなかなかテントに戻れなかったのか。 リーダーのディアトロフを含む3人は戻ろうと決心したらしく

杉の木とテントの間で発見されましたが、途中で力尽きてしまったらしいところをみると、

テントを逃げ出してからかなりの時間が経っていたようですもんね。

そしてテントを飛び出してから6~8時間後には、9人全員が死亡していた・・・・・


こちらのサイトで、事件の経過が時間を追って推測されています:


2月1日午後6時から7時頃: 一行、夕食をとる。

午後7時から10時頃: 一行のうち数名は就寝前にくつろぐ。 テントを飛び出したときしっかり着込んでいなかった者も

いたところをみると、何の異常も感じずそれゆえ何の懸念もなく休んでいた様子。

午後9時半から10時半頃: ディアトロフ峠事件発生。 発生時刻は遺体の胃の内容物の消化状態から

推定されたもの。 パニックした一行のメンバーたちは種々の着衣状態のままテントを切り開き、

近くの森まで駆け下る。 酷寒の外気温の中では凍死するまで長くはかからないことはわかっていたのに、

なぜテントを切り開いた? なぜ通常の方法でテントから出なかった?

メンバーたちは最初は散り散りの方向に走ったが、300m前後の距離で一緒になったらしいことが、

発見された足跡からわかっている。

午後10時から11時頃: 絶望的な寒さの中、しかし何らかの理由でテントに戻ることを死ぬほど怖れ、

メンバーたちは焚火をする。 彼らはその場に2時間ほどいたらしい。 焚火は多少の助けにはなるが、

焚火だけではやがて全員が凍死することが明らかだ。 ヒマラヤスギは大木だが、それでも

テントからはかなり低い位置にある。 メンバーの誰かが、おそらくテントの様子をうかがうために、木に登る。

絶望し正常な判断力を失いつつあったディアトロフとジナイダとルステムが、テントに戻ろうとする。

すでに低体温症、あるいは別の原因で半死の状態にあった3人は超人的な努力をするも、

それぞれが途中で力尽きる。

2月2日午前0時から1時頃: 残るメンバー6人は希望をもって待つが、何も起こらない。

ユーリ・ドロシェンコとユーリー・クリヴォニシチェンコが低体温症で死ぬ。

(2人はディアトロフたちがテントに向かう前に死に、それがディアトロフたちに行動を起こさせた可能性もある。)

午前0時半から1時半頃: 残る4人は、死んだ2人から衣類をもらい受ける。 リュドミラはユーリー・クリヴォニシチェンコの

ズボンを半分に切り、両足をそれで包む。 4人は森の奥へと進むことにする。

4人が負傷したのはこのときである可能性が高い。 渓谷へと下りた4人は固まって互いを暖めようと試みるが、

ニコライが死亡。 続いてリュドミラが胸部損傷と低体温症で死亡。 セミョーンがリュドミラのコートをもらい受ける。

午後12時45分から1時45分頃: セミョーンが胸部損傷と低体温症で死亡。

午後9時半から11時半頃: 1人残されて凍え、怖れ、疲労困憊したアレクサンドルは、決して目を覚ますことのない眠りに落ちる。

事件後のあるとき: 森の奥に進んだ4人が死んでから遺体が発見されるまでの間に、何ものかが

リュドミラの舌を引きちぎる。

(セミョーンとリュドミラの両眼が失くなっていたことについての言及はありません。)

 

原因を説明しようとするセオリーはいくつかありますが、どれも決め手に欠けているんですね。

事実をちゃんと織り込んでいないセオリーも少なくないですし。 まぁ事実とされたものが、じつは

間違いだった。 とか、真実を隠すためのでっち上げだった。 とかの可能性もありますが。

何たって舞台は、冷戦時代のロシアでしたからね。


いくつかのセオリーをマンガにしたものを見つけたので、これもこちらから拝借しちゃいました。

 

・・・キャンプを移動するなら、ちゃんと暖かく着込んで装備をまとめてから移動するのでは・・・?

 

うん、当時のソ連政府ならやりかねない!と、 『チャイルド44』 を夢中になって読んだ私には思えます。

でもこれでは、外傷を残さずに圧死させられた二人の死因が説明できません。 当時の新兵器?!

テントに向かった3人のうち1人が大量出血していたというのも初耳だし。

 

個人的には単純に雪崩だったと信じたいですが、でもそれでは遺体の着衣から放射能が検知されたことや、

両眼や舌がなくなっていたことの説明がつきません。

現場の斜面も緩やかすぎて雪崩は起きにくいし、起きた形跡もなかったと結論されたし・・・・・

 

落雷や静電気でショック死では、やはり両眼や舌をなくしたうえ圧死状態にあった2人の説明がつきません。

 

 雪男なら2人を圧死させることはできたかも。 でも放射能の説明がつきません。 テントに走った3人だって、

そのうち1人しか闘ったような跡はなかったのでは? “「雪男を見た」 と書かれた日記” というのも初耳だし。

 

 

その他にも・・・

★ メンバーの誰かが西側のスパイで山で西側の誰かと会うことになっていたが、その面会が悪い方向に進んだ

★ シベリア強制収容所から逃げてきた犯罪者の犠牲になった

★ 極秘の軍の最新兵器の試験場に入り込んでしまい、巻き添えをくった

★ UFOでやってきた宇宙人に殺された

★ 見てはいけないものを目撃したため政府に暗殺された

★ 他のメンバーに知られていなかったカメラを持っていたセミョーンは、実はKGBの極秘の任務についていた

★ ディアトロフの手に殴り合いをしたような傷があったのは、(多分ジナイダをめぐって)他のメンバーとケンカになったから

★ スキーヤーたちは自然に発生した低周波音の影響でヒステリー状態に陥り、パニックしてテントから飛び出した

・・・などといった憶測が飛んでいるようです。


私個人としては、先ほどの事件経過を時系列に推測したサイトの管理人さんが後々のページで

書いておられる “雪崩と渓谷への転落セオリー” が一番あり得るんじゃないかと思っています。

どういうセオリーかというと:

吹雪のため予定のコースを外れて “死の山” に入り込んでしまった一行だったが、疲れ切っていたし翌朝のスタートに

都合のいい位置だったため、何もさえぎるもののない斜面だったにもかかわらず、緩やかな斜面にテントを張った。

でも軽度の雪崩に襲われるかもしれないという不安はあった。 夕食後にくつろいでいたとき、遠くに轟音が聞こえる。

それは遠くで実際に起きていた軽い雪崩だったかもしれないし、ソ連軍部が秘密裏に行っていた軍事演習あるいは

新型戦闘機のテスト飛行のエンジン音だったかもしれない。 雪崩が迫っていると思い込みパニックしたメンバーたちは、

テントを切り開いて逃げ出す。 真暗闇の人里離れた雪山。 テントの状態を見極めようにも、何も見えない。

テントは雪崩でつぶれてしまったかもしれないが、このままではどうせ皆死ぬ。 3人がテントに向かうが、途中で力尽きる。

2人が杉の木の下で凍え死ぬ。 残る4人は森の奥に進むが、渓谷の深い部分に転落する。 うち1人が頭蓋骨骨折を、

2人が重傷の内部損傷を負うが、雪がクッションになったため、内部損傷を負った2人には目立つ外傷は残らない。

やがて4人も、損傷と低体温症で死ぬ。 うち2人の両眼と1人の舌は、野生動物によって奪われる。

メンバーの衣類から検知された放射能は、工学部学生だった彼らが実験中に付着したものだった。


このセオリーに傾く一方で、ミステリーはミステリーのままであり続けて欲しいという願望もあったりします・・・



9人の若者が命を失った現場には、その後慰霊碑が建てられたようです。

背景が森になっているから、最初の2人の遺体と焚火の跡が発見された場所かな?

 

 

今の季節だと、あたり一帯はこんな風に雪景色でしょうね。

 

 

 

 

急病のため遠征から脱落し、結果として命拾いしたユーリー・ユーディンは、かつて言ったそうです。

“もしひとつだけ神様に質問できるなら、 『あの晩私の友人たちにいったい何が起こったのですか?』 と尋ねたい。”

(彼自身はソ連軍部がこの事件に深く関与していて、真実の隠蔽に大きな役割を果たしたと信じていたそうです。)

 

私も、そしておそらく世界中が知りたいっ!ですが、今となっては真実は永久に明らかにならないかもしれませんね。

真実をすすんで話してくれそうな人々は、あの夜に全員亡くなってしまったのだから・・・・・。

 

犠牲者たちのご冥福をお祈りします。

(興味本位で散々詮索したくせに白々しい ↑ ですが。

 

 

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ネコとキュウリ

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ゴハンに夢中になっているネコたち。

後ろにそ~っとキュウリを置くとどうなるか・・・・・

 

・・・・・は、コチラでご覧くださいね。 音楽がうるさすぎるので、音なしの方がいいかもです。

ムスメが教えてくれた動画です。

ネコごめん。 でも可笑しすぎ! 

 

1月も後半に入り、ちょっぴりずつ日が延びてきたように思います。

夕方カーテンを閉めようとして、蛍光色のジャケットを着たワンコを発見!

窓ガラス越しなのでうまく撮れませんでしたが。 ズームアップしたらほんと変

 

でもワンコのジャケットは、遠目でもしっかり光っていました。

飼主さんの安全も向上するし、グッド・アイディア!

 

 

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映画 『ベイマックス』

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11歳の甥っ子にクリスマス・プレゼントの一環として贈ったんです。

ディズニー映画 『ベイマックス』 のDVD。

英語の原題は “BIG HERO 6”。

 

どのDVDを贈ろうかとネットで探していて、人気も評価もなかなか高かったので選びました。

主人公が日本人みたいなので私もそのうち見てみたいと思っていたら、

ムスメが友達から借りてきてくれ、一緒に見ることができました。 見てよかった! 

 

風景がとにかくきれい

物語の舞台はサンフランシスコと東京を併せたような未来都市・サンフランソウキョウ。

日本的要素がたっぷり盛り込まれていて、しかも中途半端でなくきちんと丁寧に描かれていて、

感銘を受けました。

夜景もきれいです。 

 みたらし団子・・・ わらび餅・・・ まんじゅう・・・ どれも食べたいっ!

簡単には食べられない環境にいる私には、ムゴイわぁ・・・ このシーン・・・・・

 

 不慮の火事で亡くなってしまった、弟思いのタダシお兄ちゃん。

 

“ベイマックスの顔は神社の鈴をモチーフにしている。”

って、今知りました。 なるほどね~、納得。

 

叔母さんの飼い猫の名は “モチ” で、もちろん三毛ネコ。

 

ベイマックスは癒し系の看護ロボット。 敵を倒すための戦闘用ロボットではないんですね。

 主人公のヒロが単独で活躍するのではなく、友人たちがそれぞれの持ち味を活かして協力してくれたことで敵に勝てたというのもいい。

 

 最初は無表情に見えたベイマックスも、物語が進むにつれて愛すべき存在になっていって。

ヒロとベイマックスの別れのシーンでは、不覚にも目が潤んじゃいました。 ただのアニメなのに! しかも子供向けの!!

・・・・・しょーがないでしょ?! 感動したんだからっ。 

 

[ 日本語吹き替え版プレビュー映像(8分強)がこちら、英語版面白シーン集(11分強)がコチラで見られます。]

 

 

《 BIG HERO 6 に隠された10のメッセージ 》

という記事をネットで読んだので、ついでと言っては何ですが、紹介させてくださいな。

どれも小さすぎて 「わかるわけないじゃん~っ! 」 ものですが。

 

(1) 『アナと雪の女王』 のハンス王子の指名手配書。 『アナと・・・』 見ていないので知らなかったけど、悪役だったんですね。 納得。

(2) お巡りさんのバッジの名前は “Gerson” ですが、これは脚本の Daniel Gerson の名をもらったそうです。

  

 (3) お巡りさんの机の上に、 『ボルト』 の写真。

(4) 大理石像として、ハンス王子ふたたび登場。 でもロケットと化したベイマックスに粉々に砕かれてザマミロ!なのです。

 

(5) ヒロのコンピューターの上に 『シュガー・ラッシュ』 の主人公レック・イット・ラルフのフィギュア。

(6) ヒロの設計図(?)に現れる A113 というのは、アメリカのアニメ作品のインサイド・ジョーク!? ・・・初めて知りました。

 

(7) グラフィティに描かれているのは、 『ベイマックス』 と同時上映された短編映画 『愛犬とごちそう』 の主人公ウィンストン。

(8) ビルボードに 『シュガー・ラッシュ』 の広告。

 

 (9) 別のビルボードに、 『チキン・リトル』 の広告。

(10) フレッドの父親としてカメオ出演(?)しているのは、映画の原作となった作品を世に出したマーベル・コミックの大物スタン・リー

  

 も一度言うけど・・・・・ ほとんどがちっさすぎて、わからんわぁ~!! 

 

 

ということで、久々にアニメに感動させられました。 本当に見てよかった・・・

 私にとっては 『ナウシカ』 に次いで2番目に好きなアニメとなりました。


 

 

未見の方には、心からおススメします!


それにしても、鈴に泣かされたのか、私は・・・・・ orz

 

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