《 前編からのつづき 》
[ 警告: この記事は犠牲者の実際の遺体写真を含みます ]
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発見された順番に、遺体の検死報告を見てみましょう。
(Dyatlov Incident - The Bodies / Dyatlov Pass Incident - Medical Autopsy)
テントを発見した翌日、救助隊はテントから1.5km離れた森にあるヒマラヤスギの下で、まず二つの遺体を発見します。
ユーリー・ドロシェンコ(下左)とユーリー・クリヴォニシチェンコ(下右)のものでした。 近くには焚火の痕跡がありました。
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ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ は、当時21歳になったばかり。
以前ジナイダ(チームの一人で事件発生当時はリーダーのディアトロフと交際中だった)と交際し彼女の両親に
会ったこともありましたが、その後別れました。 でも彼女とディアトロフとはその後も良い関係を保っていたそうです。
半袖シャツとベストを着、毛糸のズボンの上に短パンを履いていた。 ズボンは右側が長さ23cmにわたって
大きく裂け、左側にも13cmの裂け目があった。 内側にも腿の部分に裂け目ができていた。
両足には毛糸の靴下を履いていて、左の靴下は焦げていた。 頭には何もかぶっていなかった。
頭部右側の髪が焦げていた。 両耳と鼻と上下の唇は血で覆われていた。 右の脇の下に2x1.5cmの打撲傷。
右肩内側に2x1.5cmのふたつの擦過傷と、ふたつの切り傷。 右腕前腕部の肘近くに、4x1cm、2.5x1.5cm、
5x5cmの茶褐色の打撲傷。 両手の指の皮膚に破れ。 両脚上部の皮膚に打撲の跡。 顔面と両耳に凍傷。
右頬に、口から流れ出た泡沫状の体液。 この体液は、死ぬ前にドロシェンコの胸部がひどく圧迫されたことを
示しているとする医者もいた。 木から落下した可能性もあった。 しかしこれらの点は最終的には
考慮されず、死因は低体温症とされた。
(遺体のどちらが誰だったのかは、説明がなかったので不明です。)
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5日後に24歳の誕生日を迎えるはずだった ユーリー・クリヴォニシチェンコ の遺体も、ヒマラヤスギの下で発見されました。
シャツと長袖シャツを着、水泳パンツとズボンと左足にだけ破れた靴下を履いていた。 靴はなし。
額に0.3x1.8cmの痣。 左のこめかみ部分にも痣。 側頭筋への損傷に起因する、
右側前頭部と後頭部の拡散出血。 鼻の先端が欠如。 両耳に凍傷。 右胸に7x2cmと2x1.2cmの痣。
両手に痣。 左手の甲の皮膚が2cmの幅で剥離。 右手の皮膚が口の中に残留。 両腿に打撲傷と小さな搔き傷。
左臀部に10x3cmの痣。 左脚外側に6x2cmと4x5cmの擦過傷。 左脚に2x1cm、2x1.5cmと3x1.3cmの痣。
左脚に10x4cmの火傷。
この2人が軽装だったのは、おそらく最初に死んだあと、生存に必死な仲間に衣類を剥ぎ取られたためと考えられています。
またウィキペディアなど他の情報源では、この2人は “下着しか身につけておらず靴も履いていなかった” とされています。
次に発見された三遺体は、ヒマラヤスギとキャンプの間にそれぞれ離れて、キャンプの方向に頭を向けて倒れていました。
リーダーだった イーゴリ・ディアトロフ (23歳)。 事件現場は、後日彼の名をとって名づけられました。
山岳遠征の経験に富み、沈着で思慮深い無線工学の学生でした。
遺体はヒマラヤスギとキャンプの間の木から300mの地点で、仰向けの状態で発見されました。
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ディアトロフの遺体は頭には何もかぶっておらず、ズボンの上にスキーズボンをはき、長袖シャツ、セーターと
ボタンのはめられていない毛皮のコートを着ていた。 右足に毛糸の、左足に面の靴下を履いていたものの、
靴は履いていなかった。 ポケットナイフと、交際していた一行のメンバーのジナイダ・コルモゴロワの写真を
身につけていた。 額に小さな擦り傷。 左眉の上に茶褐色の擦り傷。 唇に乾いた血。 下あごの門歯が欠如しているが、
状態からみてトレッキングのかなり前に失われた様子。 右前腕の手首近くと右手の平に暗赤色の引搔き傷。
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右手の中手指節関節に茶褐色の傷。 左手に茶紫色の傷、第2指と5指に浅い傷。 両膝に痣。 右脚の
下部1/3に打撲傷。 両方の踵に1x0.5cmと3x2.5cmの赤色の擦過傷。 内出血あり。
内臓には損傷なし。 死因は低体温症。 ユーリー・ユーディンは後日、ディアトロフが着ていた長袖シャツは
ユーディンが出発のときドロシェンコにあげたものだと証言した。 ドロシェンコが死亡したあと
ディアトロフが遺体からシャツをもらいうけたと考えられる。
ディアトロフの右手の拳の傷は、 “殴り合いをしてできたような傷だった” とする情報源もありました。
当時リーダーのディアトロフと交際中だった ジナイダ・コルモゴロワ (22歳)。
経験豊かなハイカーで、あるとき毒ヘビに噛まれましたが、 “他のメンバーに迷惑をかけたくない” と痛みに耐えながら
荷物運びの助けを辞退するほどの根性の持ち主だったそうです。
彼女の遺体はヒマラヤスギからキャンプに向かって630mの地点で発見されました。
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遺体は帽子をふたつかぶり、長袖シャツとセーターとシャツをもう一枚と、袖口が裂けたセーターをもう一枚着ていた。
綿の運動用ズボンと、足元に小さな穴が3つ開いたスキー用ズボンをはき、軍用マスクを着けていた。
靴下は3足履いていたものの、靴は履いていなかった。
低体温症に起因するものと思われる髄膜の腫れ。 指骨に凍傷。 手の平を含む両手に無数の傷。
胴体右側を囲むように、29x6cmの長い傷。 死因は低体温症とされた。
ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン (23歳)は寡黙なところがあるものの、
性格は正直で運動神経も抜群、マラソンが好きだったそうです。 父親は別の大学の教授。
彼のうつぶせになった遺体は、ヒマラヤスギからキャンプに向かって480mの地点で発見されました。
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ルステムは長袖シャツの上にシャツをもう一枚着、さらにセーターを着てズボン2本と靴下4足をはいていた。
右脚にはブーツも履いていた。 ポケットからは310ルーブルとパスポートが発見された。
さらにナイフ、ペン、鉛筆、櫛、マッチ箱と靴下片方を身につけていた。
(下は異なるふたつのサイトから見つけた彼の画像です。 腕の位置やシャツの柄が違っているのは、2枚着ていたというシャツの一枚を脱がせたから?)
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額に茶褐色の小さな擦過傷がふたつ。 長さは1.5cmで2本の間隔は0.3cm。 右目蓋に茶褐色の傷。
鼻血の痕跡。 腫れた唇。 顔の右半分に腫れと、異なる形の小さな擦過傷。 左半分に擦過傷。
右前腕の皮膚に裂傷。 両手の中手指節関節に痣。 左腕と左手の平の中央に、茶色の小さく丸い痣。
左頚骨に2.5x1.5cmの傷。 頭蓋骨前部に骨折。 側頭筋に内出血。 鈍器による打撃の可能性があるものの、
致命傷とは考えられず。 ただそのショックにより低体温症が加速された恐れあり。
残る4人の遺体は事件後3ヶ月も経ってから、捜索を手伝っていたマンシ人と彼の犬により発見されました。
発見場所は、ヒマラヤスギから森に75m入った渓谷の深い部分の4m近い積雪の下。
近くには4人が掘ったらしい避難用の穴がありました。
これら4遺体のうち2遺体は、目立つ外傷がないにもかかわらず、まるで交通事故に遭ったかのような
骨まで達するほどのひどい内部損傷を受けていました。
またリュドミラとセミョーンとアレクサンドルの着衣からは、高い線量の放射能が検知されたそうです。
(放射能の線量は低いものだったとする情報源もあり。)
トレッキングの写真の大半を撮っていた、最年少の リュドミラ・ドゥビニナ (20歳)。
歌うことと写真を撮ることが好きで、旅行クラブでも活発に活動していました。
1957年の旅行中、別の旅行者が手入れしていたライフルが暴発し怪我を負いましたが、
搬送中一言も泣き言を言わず、チームに迷惑をかけたことばかりを気にしていたそうです。
彼女の遺体は小川の中でうつぶせの状態で発見されました。
(下右は、リュドミラとニコライの遺体写真とされています。 おそらく上がリュドミラ?)
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リュドミラは半袖シャツ・長袖シャツと2枚のセーターを着ていた。 遺体は下着と長靴下と2本のズボンで覆われていた。
外側の衣類は火で損傷を受けたのち破れていた。 小さな帽子と暖かい靴下2足も着けていた。 3足目の靴下は
ちぐはぐなものだった。 彼女は足を守ろうと、セーターを脱いで半分に切っていた。 片方で左足がくるまれていた。
もう片方は雪の上に落ちていた。 リュドミラには、目立つ大きな外傷があった。
舌と舌下筋肉の欠如。 両眼とその周辺の軟組織も失われ、部分的に骨が見えていた。
鼻軟骨が壊れて平らになっている。 右側の第2・3・4・5肋骨と、左側の第2・3・4・5・6・7肋骨が骨折。
上唇の軟組織が欠如し、歯と上あごがむき出しになっている。 右心房に大量の内出血。
左大腿部に10x5cmの打撲傷。 左こめかみ部分に4x4cmの組織損傷、頭蓋の一部にも損傷。
胃に約100gの凝固血液が残っていたことから、舌が取り除かれた時点では心拍と血流があったと
する説もある。 死因は右心房への内出血、複数の肋骨骨折と内出血とされた。
セミョーン・ゾロタリョフ (事件当日が38歳の誕生日)はメンバーの中では最年長。
1941年10月から1946年5月まで大祖国戦争で戦いました。
彼の出身民族の同年代男性の生存率が3%だったことを考えると、非常に幸運だったといえます。
戦後軍事工学を学び、シベリア南部でツアーガイドやインストラクターをしていました。
セミョーンだけは他のメンバーと異なり、ディアトロフ一行とは初対面でこの遠征に参加。
もともとは別の遠征に参加する予定でしたが、 “急病にかかった母親をついでに訪ねたい” と、数日の違いしか
ないにもかかわらずディアトロフ・チームの遠征への変更を希望し、ディアトロフたちも快く彼を受け入れたそうです。
本名はセミョーンでありながら、なぜかサシャ、あるいはアレクサンドルと名乗っていました。
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セミョーンの遺体は帽子ふたつ、マフラー、半袖シャツと長袖シャツ、黒いセーター、上の二つの
ボタンが外れたコートを身につけていた。 死因が低体温症でないことはすぐに見てとれた。
下半身には下着とズボン2着とスキーズボンを履いていて、新聞と硬貨何枚かと磁石その他数点の品を
身につけていた。 足には靴下と、“ブーカ” と呼ばれる手作りの暖かい革靴を履いていた。
あの服装で避難穴にこもっていれば、生存は可能だったとされる。
遺体は首からカメラを下げていて、これは生存者ユーリー・ユーディンを驚かせた。
彼が知る限り一行が持っていたカメラは4台で、それらはすべてテント内に残されていたからだ。
残念なことに雪解け水がフィルムを損傷していた(と当局は発表)。 しかし疑問は残る。 なぜセミョーンはカメラを持って
テントを飛び出したのか。 なぜ彼はトレッキングにカメラを2台持参したのか。 うち1台は毎日使用されていて、
皆が認識し、テントに残されていたため救助隊によって発見された。 しかしもう1台はその存在を隠されていて、
セミョーンの死後に初めて発見されたことになる。
(セミョーンの2台目のカメラについては、事件後 “その存在自体を当局に否定された” とする情報源もあります。)
遺体からは両眼がなくなり、左眉周囲の軟組織は7x6cmの大きさで欠けて骨が露出。
右側の第2・3・4・5・6肋骨に骨折。 頭部右側に8x6cmの裂傷。 頭蓋骨が露出。
リュドミラとセミョーンの遺体には、共通の損傷パターンが見られた。 二人の身長や体型が異なったにも
かかわらず、損傷の方向と強度が似通っていた。
検死を担当した医師によると、 “リュドミラとセミョーンの体内損傷の程度は大きな自動車事故に遭ったに等しい”。
なのに外側には打撲傷も擦過傷も残されていないことから、まるで強力な力に肋骨が折れるまで締めつけられたようで、
“人間の手で加えられる類の損傷とは思えない” そうです。
アレクサンドル・コレヴァトフ (24歳)は勤勉で几帳面なリーダーシップのある学生でした。
(下右は、アレクサンドルとセミョーンの遺体とのことです。 おそらく下がセミョーン。)
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遺体は帽子と靴は着けていなかったものの、暖かく着込んでいた。 上半身には袖なしシャツ、長袖シャツ、
セーター、フリースのセーター、スキー・ジャケットを着ていた。 スキー・ジャケットの左袖には周囲が焦げた
25x12x13cmの大きな穴が開いていた。 右袖も7-8cmの長さで数箇所で裂けていた。
ジャケットの前は開いたままだったが、これは低体温症で死にゆく人間にしては妙なことである。
ポケットには鍵・安全ピン・紙・錠剤があった。
下半身にはショーツ、軽いズボン、スキーズボン、さらにカンヴァス・ズボンを履いていた。
右ポケットにはじっとりとぬれたマッチ箱が入っていた。 靴は履いていなかったものの、
両足に手編みの毛糸の靴下をはいていた。 靴下には焦げた箇所があった。 右足には毛糸の靴下の下に
軽い靴下をもう一枚はいていた。 左足も同様にして3枚の靴下をはいていた。 左足首に包帯が巻かれていたが、
救急箱はテントに残されていたため、包帯が巻かれたのは事件前だったと思われる。
両目のまわりの軟組織と両眉が欠如。 頭蓋骨が露出。 鼻が折れ、耳のうしろに3x1.5cmの裂傷。
ねじれた首。左膝の内部組織に拡散出血。 指と足に肌の軟化・白色化。 これは生きた皮膚が
湿った環境に浸漬された場合に見られるものと同じ状態。 皮膚は全体的に、やや紫色を帯びた灰緑色。
折れた鼻と耳のうしろの傷から、誰かと争った可能性がある。 首をねじるというやり方は、特殊部隊の
暗殺法のひとつを思わせる。
ニコライ・チボ=ブリニョーリ (23歳)は政治犯強制収容所で生まれました。
フランス人の共産主義者だった父親は、スターリン時代に処刑されたそうです。
友人たちによると彼は明るく、エネルギーに溢れ、ユーモアのセンスがあり、キャンプ旅行では常に
周囲に気を配り、自分より若いものや弱いものの荷物を運ぶのを手伝ったりしたそうです。
母親には 「これを最後のトレッキングにする」 と約束していました。
(下右は、ニコライとアレクサンドルの遺体とのことです。 どちらが誰かは不明。)
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ニコライは頭に帽子をふたつかぶり、上半身にはシャツ、裏返しになったセーター、シープスキンの上に
毛皮のジャケットを着ていた。 右ポケットには毛糸の手袋・硬貨3枚・櫛・数枚の紙。
下半身には下着、スェットパンツ、綿ズボンとスキーズボンを履いていた。 両足に手編みの毛糸の靴下と
冬靴を履いていた。 左腕にふたつの腕時計。 ひとつは8:14、もうひとつは8:39で止まっていた。
背中・首と両腕に死斑。 頭蓋骨側頭部に、前頭部と蝶形骨まで延びる複数の骨折。
この損傷を受けたあとでは、おそらく動くことは出来なかった。 なのに全員が自力でテントを飛び出しているため、
ニコライの頭蓋骨骨折は事件の雪崩原因説を否定するものと考えられた。
上唇左側に痣。 前腕部下部に10x12cmの内出血。
セミョーンとニコライがきちんと着込んでいたことから、 “二人は事件発生時、用を足すため外に出ていた” と
見る向きもあるそうです。
《 つづく 》
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