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チェズリー・ “サリー” サレンバーガー機長

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 《 サリー機長の “あの日” からのつづき 》

 

2009年1月15日に起きた、ハドソン川の奇跡

チェズリー・サレンバーガー機長(57歳)とジェフリー・スカイルズ副操縦士(49歳)は、

安全最優先で冷静沈着に困難な不時着水を成功させたことで、世界の称賛を浴びました。

 

メディアに囲まれる二人と、2009年2月24日にワシントンで開かれた事故調査審問会の冒頭でスタンディング・アプローズを受ける二人。

 

 

 3名のベテラン客室乗務員――ドリーン・ウォルシュ(58歳)、ドナ・デント(51歳)、シーラ・デイル(57歳)――も、

状況を察知し機敏に対応し、乗客の迅速な脱出に大きく貢献しました。

その功績を讃えられ、1549便の乗員全員が、航空業連盟からマスターズ・メダルを授与されました。

(CBSのニュース・スタジオでインタヴューに答える乗務員たちの動画です。

サリー機長: Captain Sullenberger's Moment  /  他の乗務員たち: In their Own Words

 

 *       *       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

  チェズリー・バーネット・ “サリー” サレンバーガー機長は、1951年1月23日にテキサス州デ二ソンに誕生。

スイス移民の末裔である父親は歯科医、母親は教師でした。 メアリー・ウィルソンという名のお姉さん(か妹さん)がいます。

幼い頃から飛行機の模型を作ることが大好きだったチェズリー少年は、近所にあった空軍基地で軍用機を見るうち

航空機の操縦に興味を持つようになりました。

聡明だったチェズリー少年は、12歳のときにメンサに入会できるほどIQが高かったそうです。

高校ではラテン語クラブの会長を務め、フルートを吹奏する特待生でした。

高校時代の友人たちによると、サリー機長はぺリン空軍基地(Perrin Air Force Base)のジェット機を見て

操縦に情熱を燃やすようになりました。

16歳のとき、自宅近くの私設滑走路で個人教官からエアロンカ・チャンピオンの操縦を習い、単独飛行を初経験。

 

1969年に優秀な成績で高校を卒業すると、米空軍士官学校に入学。 士官候補生としてグライダーのインストラクターも務め、

1973年の卒業時には、クラスの最優秀飛行士として表彰されました。

空軍士官学校で理学学士号を獲得していた彼はパデュー大学に送られ、産業心理学の修士号を獲得。

さらに北コロラド大学(The University of Northern Colorado)でも、行政学の修士号を獲得しました。

     

 

1975年から1980年まで、米空軍の戦闘機パイロットとしてF‐4戦闘機を操縦。 そのかたわら

フライト・リーダーと教官も務め、士官へと昇級し、レッドフラッグ演習の任務司令官も務めました。

米空軍にいたときは、航空機事故調査委員会のメンバーでもありました。

 

1980年に退役し、USエアウェイズの前身だった民間航空会社のパイロットに転身。

航空業務の安全性向上に情熱を注ぎ、安全関連の各種委員を務め、

パシフィック・サウスウエスト航空1771便墜落事故ロサンゼルス国際空港地上衝突事故など、

米空軍国家輸送安全委員会の事故調査にも関わりました。

USエアウェイズ社の非常時における乗務員の危機管理訓練コースの開発と実施に大きく貢献し、何百人もの乗務員を

実際に訓練もしました。 危機的状況下での乗務員の心理を研究し、国際パイロット連盟の安全委員会の長も務めました。

2007年に組織の安全・実績・信頼性を高めるための指導を提供するコンサルタント会社も設立しています。

 

1989年に、フィットネス専門家でTVパーソナリティーでもあるロレイン “ロリー” さんと結婚。

お二人の間には二人の娘さん――ケイトさんとケリーさん――がいます。

最初の娘さんが生まれたのは、サリー元機長が42歳のとき。

平均より遅れて父親になった喜びを、コチラで垣間見ることができます。

       

 

 

「サリーはよく 『パイロットが生涯のキャリアの中で事故に遭うことなど非常に稀だ』 と言っていたので、

事故の心配は一度もしたことがありませんでした。 だから不時着水直後に彼から電話で 『事故があった』 と聞いたときも、

単なるマイナーな事故だと思ったのです。」 と、ロリーさん。


ショック状態のまま親友に電話をかけて 「娘さんたち(当時15歳と14歳)を迎えに行きなさい」 とアドバイスされたロリーさんは、

すぐに学校に電話し、「夫が飛行機を墜落させました。 10分で迎えに行くので、娘たちを事務室に呼んでおいて下さい。」 と

頼んだそうです。 「耳の速いレポーターたちに先に娘たちを捕まえられたくなかったのです。」

さすがサリー機長の奥様。 頭の回転が速い! 

 

   “ハドソン川の奇跡” を境に、無名の一パイロットだったサリー機長は一躍世界のヒーローに。

サリー機長の家族にとっても、驚嘆に次ぐ驚嘆の非現実的な毎日が続きました。

そんな一家の支えになったのが、人々から届いた手紙や、喜びや感謝のメッセージだったそうです。

 

不時着水から数日してようやくサリー機長が帰宅すると、一家は暖炉の前に集まり、サリー機長のため順番に

手紙を読み上げたそうです。 ある女性はこう書いてきました。

“昨年私は仕事を失い、家を失い、父を失って、何も信じられなくなっていました。

でもあなたが私に、ふたたび信じる心を取り戻してくれました。”

 

一家は、9/11からまだ完全に立ち直っていないニューヨークとニュージャージーの人々が、

1549便の乗員と救助チームに対して特別な連帯感を感じたのだろうと考えています。

“9/11で多くのすばらしい人々が犠牲になりました。 ニューヨークの人々は、死ぬまでに再度

あのような悲劇が起こることには耐えられなかったことでしょう。”

“私の息子はワールド・トレード・センターからハドソン川対岸まで、命からがら逃げました。

あの日の記憶は、家族の全員にとって今でも鮮明です。

あなたの飛行機がハドソン川への不時着に成功し全員が救われたのを見たことは、

あの忌わしい記憶を克服する大きな助けになりました。”

 

ここからは、サリー機長の奥様ロリーさんの言葉でどうぞ。 (2009年11月4日付エッセイの意訳です。)

 

「私たちは2万通の電子メールと、何万枚ものカードや手紙や小包やファクスを受け取りました。

南極を除くすべての大陸から手紙をいただきました。 花屋を開店できるほどの花も贈られました。

サンタクロースのステータスを得た夫の元に、“サレンバーガー機長”  “サリー” とだけ書かれた手紙が数多く届きました。

私のお気に入りはヨーロッパからのもので、“アメリカのヒーロー・パイロット”  宛てで、その下には

“親愛なる郵便局長さんへ、私は彼の住所を知りませんが、あなたは彼を見つけてくれると信じています。”

と書かれていました。

 

航空業界で働く人々とその家族たちには、特別な絆があります。 特に心を動かされた手紙は、ある女性から届きました。

彼女は、1996年にフロリダのエヴァーグレーズに墜落したバリュージェット592便の副操縦士の娘さんでした。

60 Minutes でサリーが言ったことを聞いて、手紙を書かずにいられなくなったそうです。

彼女は父親の最後の数分間の心境をくり返しくり返し想像しては苦しんできました。 事故調査員たちは、

父親は 『最後の最後まで墜落を避けようと必死で、恐れを感じることなく死んだはずだ』 と言ってくれたものの、

彼女はそれを信じることができずにいました。 でもサリーの話、彼が機の着水にのみ極度に集中していたことを

聞いて、ようやく心に平和を感じられたそうです。 私はその手紙を、その後何ヶ月もバッグに忍ばせていました。

 

『サリー機長は英雄視されることも注目を集めることも望んでいないのは知っているけれど、私たちにはヒーローが必要なのです』

と、多くの人が書いてきました。 人々は彼に、ヒーローの役割を続けて欲しがっているのです。

サリーと私は、感謝は両方通行でなければならないと信じています。 私たちが幸運にも受けた絶大なサポートと感謝を、

今度は私たちが、でき得る限り返していかなければならないと考えます。

 

ある少年は、サリーにこう書いてきました。 今年はプレゼントの予算を削らなければならないと。 彼の父親は

サリーの大ファンなので、できたらサリーにバレンタイン・デーのランチのサプライズ・ゲストになって欲しいと。

サプライズ・ゲストは無理でしたが、代わりにその父親に電話をすることにしました。

電話から離れたところにいた私にすら、サリーの正体を知ったその子の喜びに満ちた叫び声が聞こえてきました。

サリーはその子としばらく話したあと父親とも話をし、息子さんの思いやりを讃えました。

その晩私は、サリーの些細な行為がどれほどあの父子を幸せな気分にしたかを考えていたとき、思わず涙ぐんでいました。

 

この場を借りて、私たちに手紙を下さった皆さんに心からお礼を申し上げます。

皆さんの手紙にあった言葉を真似してしまって恐縮ですが――

“ありがとう” は、まったくもって不十分です。」

 

     

 

“ハドソン川の奇跡” 後、スカイルズ副操縦士は4月に仕事に復帰しましたが、サリー機長は議会で証言したり、

本を執筆したりするかたわらしばらく休養をとりました。 9月11日にシャーロット‐アトランタ間をテスト飛行。

10月1日に仕事に復帰しました。 USエアウェイズの計らいで、当日の相棒はスカイルズ副操縦士。

午前中にシャーロットからニューヨークのラガーディア空港に飛び、同日午後ラガーディアから

“ハドソン川の奇跡” の際の目的地だったシャーロットに、無事到着しました。

サリー機長の復帰がニュースになると、彼の便の航空券はたちまち売り切れになったそうです。

離陸前 「またハドソン川に降りることになる可能性は?」 と訊かれたサリー機長は、

Astronomical.” と答えたそうです。


 

 

ハドソン川の奇跡の翌年にパイロットを引退。 彼の最後のフライトは2010年3月3日の

フロリダ州フォート・ローダーデール発ノースカロライナ州シャーロット行き1167便で、不時着水時の相棒だった

ジェフ・スカイルズがこのときも副操縦士を務め、機長の奥さんロリーさんと1549便の乗客5人が搭乗したそうです。

客室乗務員で着水時に脚に裂傷を負ったドリーンさんも、同じ日に引退しました。 (ニュース映像はコチラ。)

 

2009年10月に出版されたサリー機長の回想録 “Highest Duty: My Search for What Really Matters” は

ニューヨーク・タイムズのベストセラー自伝に。 2012年5月には2冊目の著作 (Making a Difference:

Stories of Vision and Courage from America's Leaders) が出版されました。

サリー元機長は2011年5月から、CBSニュースの安全管理部門の専門家を務めているそうです。

             

 

本といえば・・・ 不時着水のときサリー機長は、図書館から借りていた本 “Just Culture: Balancing Safety and Accountability” を

コックピットの鞄のなかに置き去りにしていました。 電話して事情を説明すると、図書館は返却遅延料金を免除してくれました。

そのことを知ったニューヨーク市長は、サリー機長にニューヨーク市の鍵(名誉市民の象徴のようなもの)を

授与するとき、同じ本の新品もプレゼントしたそうです。

 

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 ・・・ 何ともまぁ、ビックリ! サリー機長は優秀なパイロットなだけではなかったんですね。

グライダーも戦闘機も乗りこなし、さらには安全管理や緊急時の心構えのエキスパートでもあって。

あの時あの1549便の操縦桿を握るのに、彼以上に望ましい人間は、ひょっとしたら、いなかったのでは!?

 

無事に機を着水させただけでなく、その後の行動も脱帽ものです。

通路を二度も往復して、全員が脱出したのを確認してから最後に脱出って・・・

沈みかけた船舶に乗客を残したままさっさと逃げ出した、どこかの国の船長さんとは対照的。

 

「全員無事救助されたのは、副操縦士や乗務員たちや救助チームの適切で迅速な協力があったからこそ」 と、

その後の態度も、あくまで謙遜で実直で控え目で。

バカなことや残酷なことや奇をてらったことをして動画や画像をUPして目立ちたがるヤカラが多い昨今、

サリー機長のような人は本当に貴重です。

パイロットとしてはもちろんのこと、一人の人間としての人格も完璧!

 

「家族ともっと多くの時間を過ごせるように」 早期引退を決めたサリー元機長ですが、

 

世界は貴方のような人を、もっともっと必要としています。

今後も人類のお手本として、ときどき表舞台に戻ってきてくださいね!

 

 

 《 内容的に、次回につづく 》

 

 

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映画 『サリー』 撮影開始!

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《 チェズリー・ “サリー” サレンバーガー機長からのつづき 》

 

今年7月11日付のニューズウィーク誌で、あの時を振り返るサリー機長

(内容に重複する部分がかなりありますが、何度聞いてもいい話なので載せちゃいます。

 

「それまで42年間近く空を飛んでいましたが、あれほどの困難に直面したことはありませんでした。

私の人生における最も困難な日になると悟りましたが、解決できる、あの日私が死ぬことはないと思いました。

(エンジン・トラブルの)原因がわかっていたことは大きな利点でした。 何が起こったんだ?と考えることに

時間を無駄にせずに済んだからです。 すぐに 『さあどうしよう?』 の段階に入ることができました。」

 

――何をするべきか、どうしてわかったのですか?

選択肢は3つしかありませんでした。 到達可能かもしれない滑走路はふたつありました。

しかしすぐに、遠すぎるとの結論に達しました。

巨大なジェット機を着陸させるのにニューヨーク市――地球上でも最も人口過密な都市のひとつ――で残された選択肢は、

ハドソン川しかありませんでした。 十分な長さと幅があり、試みるに値する滑らかさもあります。

ラガーディアに戻るかテーターボロに向かうかを管制官と相談する間に、双方とも遠すぎると悟りました。

そこで最終的に “ハドソン川に降ります。” と告げたのです。 あとは自分の決定に従うのみでした。

 

 ――ボイスレコーダーに録音された通信では、とても冷静に聞こえます。 実際そうでしたか?

冷静だったのはうわべだけです。 我々はプロとして冷静さを保つよう訓練されていますが、実際はまったく冷静ではありませんでした。

冷静でいられたはずがありません。 ストレスのため血圧と心拍数が急上昇し、認識範囲が狭まるのを感じていました。

 

――あの日の午後の最大の障害は何でしたか?

時間と仕事量です。 とてつもなく大きな仕事量と、とてつもなく短い時間――バード・ストライクから着水までの

208秒間に、多くのことをしなければなりませんでした。 自分たちに冷静を強いて無理矢理秩序を保ったことは、助けになりました。

最初の数秒間で、乗客と航空機の両方を救うことはできないとわかりました。

 

――航空機を救うことは重要でしたか?

ノー。 人々の命を救うつもりでした。 それが6千万ドルの航空機を水に入れることを意味するのなら、

それが私がやるべきことでした。 航空機についての心配はまったくしませんでした。

 

――最悪の場合、何が起こっていたでしょう?

エンジン停止状態では、滑走路に着陸する場合でも長いチェックリストがあります。 着水する場合も同じです。

私は着水はそれまでしたことがありませんでしたし、あのような大きなジェット機の着水は航空史でもあまり多くの例がありません。

チェックリストは3ページに及び、我々は最初のページしか読む時間がありませんでした。

そのため私は直感的に何をすべきかを知らなければなりませんでした。

 

――乗客に「衝撃に備えてください」と告げたのは、着水の直前でした。 あれは機内の秩序を保つためでしたか?

それとも時間がなかったからですか?

時間がなかったからです。 アナウンスをしなければならないことはわかっていました。 乗客への警告は、最重要事項です。

私はアナウンス前に、慎重に言葉を選ぶため途方もなく長い時間、おそらく3、4秒を費やしました。

興奮をみせず、自信に満ちて聞こえるよう努めました。 理由があって、ふたつの特別な言葉を選びました。

“Brace” は乗客に緊急着陸が迫っていることを教え、客室乗務員には衝撃の強い着陸の際

怪我をしないよう乗客を助けることを指示します。

さらに私は、咄嗟に “impact” という言葉も選びました。 その言葉によって、着陸がきついものになること、

そのため衝撃に備えることがとても重要だというイメージが鮮明になると考えたのです。

そこで “This is the captain; brace for impact.” とアナウンスしました。

着水になることには言及しませんでした。 乗客にクッションや救命胴衣を探したりせず、

衝撃に備える姿勢をとることに集中して欲しかったからです。

 

――着水の瞬間、何が頭をよぎりましたか?

機体が破損することなく着水できれば、水没するまでに救助される自信がありました。

とても寒い日だったので、迅速に救助されることはとても重要だったのです。

マンハッタンを歩いた経験から、79番桟橋からフェリーが発着することを知っていました。

 

――お祝いはしましたか?

驚くべき偶然ですが、ジェフと私はお互いを振り向きざま 「思ったよりひどくなかったね。」 と言いました。

しかしまだ問題が残っていたので、お祝いしている暇はありませんでした。

最初の部分は解決しましたが、川から155人を救助するという部分が残っていたからです。

通路を2回往復し、誰も取り残されていないことを確認しました。

巨大な航空機を川に着水させるという問題を解決したあとに、誰かを別の原因で死なせるつもりはありませんでした。

 

――あの日のことが甦ることはありますか? トラウマになっているということは?

悪夢を見たのは、ほんの数週間のことでした。 その後は記憶を反芻し、あの日について話し、書くことができました。

大変だったのは、以前と同じように眠ることでした。 医者にかかっていたにもかかわらず、血圧と心拍数が

約10週間も上がったままだったのです。 最初の数日間は、一度に一時間以上は眠れず、脳を休めることもできませんでした。

とくに夜遅くに、あれこれ後知恵で思い悩みました。

 

――幸い後知恵批判されるようなことはありませんでしたね?

それは正確ではありません。 全員が助かったものの、我々が取った行動は事故調査で分析されねばなりませんでした。

あらゆる段階で下した我々の決断が正しいものだったと確証され我々の行動の正当性が認められるまでには、何ヶ月もかかりました。

多くの人々は、この部分をご存知ないのです。

 

――ヒーローと呼ばれることをどう思いますか?

それは私が迅速に慣れねばならなかったことです。 58年近くも無名の人生を送ってきた私が、

数分で世界的な有名人になってしまったのですから。

 私はあの話の案内人になったような気がします。 多くの人々にとって、私はあの話の公の顔だからです。

もちろん私は、あの成功に終わった結果は多くの人々の努力の賜物だったことに言及することを忘れません。

あの便に乗っていた人々の人生は、あの日を境に変わりました。

まさに “前と後” で人生を分けるような出来事だったのです。 人々の注目を集めることは、私の人生体験の一部となりました。

良い結果に終わったこと、良い話であることに本当に感謝しています。 人々に希望を与える話の公の顔であることは

とても大事な役目であり、今後もこの役目を敬意をもって大切にしていくつもりです。

 

――正直にお答えください。 他のパイロットでも成功したと思いますか?

それを知ることは不可能です。 他の多くのパイロットが同じようなことをしたと思いますが、結果を知ることはできません。

 

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2010年にTLCが放映したという、とても良くできたドキュメンタリーを見つけました。

いつまで見られるかわかりませんが、リンクを貼っておきます。

Brace for impact : The Chesley B. Sullenberger Story

 

1549便の窓側の席の乗客気分を味わうには、これがいいかも。

Hudson Crash - US Airways Flight 1549 - Reconstruction from inside the plane

 

このドキュメンタリーも、不時着水後に救助されるまでの詳細が描かれていてなかなかです。

Air Crash Investigation - US Airways Flight 1549 Hudson River Runway

 

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私がブログを始める前に起きたこの奇跡。 いつか記事にしたいと思っていました。

今回なぜようやく重い腰を上げることになったかというと・・・・・ サリー機長の自伝的映画が製作されていると知ったからです。

 

           

 

クリント・イーストウッドが監督で、サリー機長を演じるのはトム・ハンクス

 

今月始め、ハドソン川沿いで目撃されたお二人。 トム・ハンクスはサリー機長に似せるため口髭をたくわえていますね。

 

  

 ジェフ・スカイルズ副操縦士役のアーロン・エッカートもいます。

 

 緊急救助員たちがいるところをみると、不時着水後の救助シーンを撮影しているのかな?

 

  

 

 きびきびとニューヨークの街を歩くクリント・イーストウッド。 85歳とは思えない!  

 

 

 映画はサリー機長のベストセラー自伝 “HIGHEST DUTY” を基に製作されるそうです。

サリー機長についてもハドソン川の奇跡についても調べつくした感のある私ですが、

サリー機長ファンになっちゃったしイーストウッド監督でトム・ハンクス主演とあっては、これは見逃せないわぁ。

 

映画 “Sully” の公開を、楽しみに待つとします

 

 

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奇跡の批判と事故調査報告書

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《 ハドソン川の奇跡 番外編 》

 

 “ハドソン川の奇跡” に関する記事をあれこれ読んできました。

中にひとつだけ、驚いたことに批判的なものがあったので、それについても書いておこうと思います。

 2010年5月4日付だから、国家運輸安全委員会の事故調査の結論が出た日のウォール・ストリート・ジャーナル紙の、

“Hudson Miracle” Gets Closer Look です。 (以下は私のシロウト意訳であることをご了承くださいませ。)


  

  


 “ハドソンの奇跡” 検証される (アンディー・パストー記者)


昨年起きたUSエアウェイズジェット機のハドソン川への緊急着水に関する最終報告が火曜日に発表され、

チェズリー・ “サリー” サレンバーガー機長は、冷静で決断力のある “ハドソン川の奇跡” のヒーローとして輝き続けることになった。

しかし何千ページに及ぶ証言や証拠から成る調査資料には、英雄として讃えられる機長がラガーディア空港に戻れた

可能性があったとの示唆が含まれている。 シミュレーターで事故を再現したとき、パイロットたちは繰り返し仮想の航空機を

ラガーディアに帰還させることに成功した。

 

それらの結果は国家輸送安全委員会の調査員や他の航空安全専門家たちによる、“サレンバーガー機長の

不時着水という選択が正しいものだった” という満場一致の結論には何の影響も及ぼさなかった。

機長にも副操縦士ジェフリー・スカイルズにも、数分前に離陸したばかりのラガーディアへの帰還を試みた場合、

突然70トンのグライダーと化してしまったエアバスA320型機がマンハッタン上空を無事通過できるという保証はなかった。

USエアウェイズの元エアバスパイロットで現在は安全コンサルタントを務めるジョン・コックスによると、地上で巻き込まれた人々の

犠牲も考慮に入れれば、 「(ラガーディア帰還という選択が)誤っていた場合の負のリスクは壊滅的でした」。

「サレンバーガー氏は別の選択をすることもできました。」 と、安全委員会の元メンバーのキティー・ヒギンズ。

「しかし彼は、彼がもち得たベストの情報を使い、自身の経験と本能に従って決断を下したのです。」

 

スポークスマンを通じ、サレンバーガー氏はコメントを避けた。 昨年出版された彼自身の著書によると、彼は

人口過密な地区の上空を飛んでラガーディアに引き返すことも考慮した。 しかし 「(一度ラガーディア帰還を決めたら)

それ以外の選択肢はなくなり、(選択が誤りだったら)地上の人々を何人死なせることになったかわからない」 ため、

「絶対に到達できると確信できなければならなかった」。

現在の安全委員会メンバーたちも、同様に感じている。 シミュレーターに座った乗務員たちには、大きなアドバンテージが

あったからだ: 目前に迫る緊急事態の性質を、彼らはすでに知っていた。

 

15ヶ月に及んだ検証で、サレンバーガー氏は別の論争にも巻き込まれることになった。 種々の電子機器により

パイロットの注意が散漫になるという問題である。 安全規則により、機が離陸のため移動を始めた瞬間から高度約1万フィートに

達するまで、コックピット内部ではいかなるタイプの携帯電話も使用を禁止されている。 降下・着陸と異常事態の発生時なども

同様で、コックピットでの仕事量が増大する間は、携帯電話や個人のラップトップ使用が禁じられているのである。


1549便の場合、コックピットのボイス・レコーダーには、ラガーディア空港で離陸に向け地上を移動(taxiing)していた機内で、

サレンバーガー氏がUSエアウェイズのマネージャーに、搭乗した乗客数を携帯電話で報告する声が残されていた。

その時管制官が移動の指示を送ってきたため、通話を終えたサレンバーガー氏はすぐに副操縦士に

「何だって?」 と訊いている。  (注: サリー機長は副操縦士に離陸をまかせていました。)

事故調査員たちは departure roll (→すみません、意味がはっきりわからないんですが、たぶん滑走路の

スタート地点についてから、加速を始めて機体が地面を離れるまでの走行のこと?) の開始10分前にされた

この通話が、フライトに影響を与えたとは考えなかった。

月曜日にサレンバーガー氏のスポークスマンは、このボイス・レコーディングに関してコメントを控えた。

 

報告書によると、フランス・ツールーズにあるエアバスの製造本部で、2ダース近いシュミレーション飛行が

エアバスのテスト・パイロットを含む経験豊かな飛行士によって行われた。

ラガーディア空港の最も近い滑走路に帰還する試みは、4回中4回とも成功した。 別の滑走路に着陸する、あるいは

機体がよりひどい損傷を受けていたという想定下では、9回中3回が成功した。

いずれの場合も、エンジンに問題が発生した直後にラガーディアに引き返したパイロットのみが、到達に成功した。 委員会の

報告書は、「実世界ではバードストライクを認識してから行動を決めるまでには時間差が生じる」 として、

シミュレーションのシナリオは非現実的だと結論づけた。

 

航空産業と政府の関係者によると、約一年前に完了したシミュレーション結果は、それでもなお調査員たちの間に

驚きと議論を巻き起こした。 エアバス関係者は、パイロットたちの英雄的行為を後知恵批判しているとみなされる可能性を

恐れるあまり、早い段階では結果を非公開とすることを安全委員会に持ちかける動きすらあったという。

データは最終的には安全委員会の公式ファイルに収まったが、それにもかかわらずエアバスと安全委員会の関係者は、

1549便の乗務員が成し遂げたことをいかなる形でも批判しているように見られることを避けるため、

結果を重要視しようとしていない。


その後引退した銀髪の機長は、155人を救った国民的象徴になった。 ホワイトハウスやTVインタビューで讃えられ、

国産のヒーローとしてのサレンバーガー氏の評判は高まる一方だった。 6桁の額の著作契約を難なく手に入れ、

ローズ・パレードのグランド・マーシャルを務め、講演者として引張りだこになった。 1549便の乗務員たちが

ワシントンにある国立航空宇宙博物館で讃えられたのは、つい先週のことだ。

 

エアバスと安全委員会のスポークスマンは、コメントを控えている。 上位調査員たちが 「シミュレーションは

詳細な検証の 『重要な部分』 だった」 と述べたものの、政府と航空産業の専門家たちは、その問題は

火曜日の公聴会で、比較的簡単に言及されるに留まるだろうと語った。 (終)

 

 *       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

 上の記事を読んだとき、私はすでに動画でナショナル・ジオグラフィックス・チャンネルの、“ハドソン川の奇跡” の

事故調査とその結論に関する番組(2011 Air Crash Investigation - Hudson Splash Flight 1549)を見ていたので、

えっ? あれってサリー機長の行動が正しかったと正式に結論づけたでしょ?? と思いました。

そこで、しつこい私は国家運輸安全委員会の事故報告書も探してみました。

 

 事故の概要はこちら。

Loss of Thrust in Both Engines, US Airways Flight 1549 Airbus Industrie A320-214, N106US

 

2009年1月15日の東部時間15:27頃、USエアウェイズ1549便のエアバスA320-214型機は、鳥の群れに衝突したあと

両方のエンジンの推力をほぼ完全に失った。 その結果同機は、ラガーディア空港から約8.5マイル離れたハドソン川に不時着水した。

150名の乗客と5名の乗員全員は、前部と両翼上の出口から機外に脱出した。 乗員1名と乗客4名が重傷を負い、

機体は著しく損傷を受けた。

 

事故の生存率には、(1)事故後のパイロットたちの決定内容と緊急事態管理、(2)偶然同機が脱出シュート/ボート

を含む緊急着水に備えた装備をされていたこと、(3)脱出段階での客室乗務員のパフォーマンス、そして(4)緊急救助者が

事故現場に近在し即座に対応可能だったこと、が貢献した。 (以下略)

 

 

事故報告書(全196ページ)はこちら。

US Airways Flight 1549 Airbus A320-214, N106US

Weehawken, New Jersey

January 15, 2009

冒頭の記事で批判されていた二点に関連する部分を抜いてみましょう。

 

 

(1) サリー機長の携帯電話の使用 (第157ページ)

 (付録B: コックピット・ボイス・レコーダーの記録からの抜粋です。

私がざっと見た限り、事故調査報告書の本文中にはこの件に関する言及は全くありませんでした。)


           15:15:12     [チャイムの音]

          15:15:15     サリー機長: はい、1549便の機長です。 乗客数の訂正を願います。 1-4-8、プラス2プラスACM。

                       [携帯電話を使ったコミュニケーションの模様。]

          15:15:19     カクタス1549、 ノースウエストに続いてタワーをモニター願います。

          15:15:32     サリー機長: そうです・・・ どうも。 第4滑走路ですね、どうも。

                       [携帯電話を使ったコミュニケーションの模様。]

          15:15:38     サリー機長: 何だって?

          15:15:40     スカイルズ副操縦士: ノースウエストに続けとのことです。

          15:15:41     サリー機長: ようし、じゃあ行くとするか。

 

このあと滑走路の離陸のためのスタート位置につき、離陸のための加速を始めたのが15:25:06。

・・・どこに問題が?!

機長様が搭乗した乗客数の最終報告をする必要がある?することもある?のは知りませんでしたが、

万一事故があった時のためにも、正確な乗客数をつかんでいることはとても大事です。

そりゃ搭乗ゲートでもカウントしていますが、機内の乗務員からも報告があればダブルチェックできて完璧。

私用電話したわけでもないんだし、些細なことで騒ぐな~!

と、批判記事を書いた記者に私は言いたい。

 

 

(2) シミュレーションの結果 (第89ページ)


事故機がラガーディアあるいはテーターボロ空港に到達可能だったか否かを決定するため、シミュレーション飛行が行われた。

その結果、いずれの空港にも無事到達するためには、航空機はバードストライク直後に空港を目指していなければならなかった。

実際にはエンジン推力の損失程度の認識や次の行動の決定に時間を要するため、バードストライク直後に空港を目指すことは

現実的ではない。 1549便の時間差を忠実に再現したシミュレーション(バードストライクから35秒後にラガーディアの

13番滑走路に向け進路変更)では、到達は不成功だった。 それゆえ国家輸送安全委員会は、空港を目指す代わりに

ハドソン川に不時着水するとの機長の決定は、乗客乗員の生存の可能性を最も高めたと結論する。


・・・ 空港を目指すべきだったなどと、一言も言ってないし。 それどころか不時着水がベストの選択だったと

認めてくれてるし。 何回シミュレーションして何回成功/不成功だったかなどの詳細は省かれているけれど、

それは必要ないと判断されたからでは?

もっとも批判記事を書いた記者は 「詳細を省いたこと自体が、サリー機長の批判に消極的な証拠」 と言うのでしょうね。


ウィキペディア英語版には、もう少し詳しいシミュレーション結果についての記述がありました:

1549便がラガーディアの13番か22番滑走路、あるいはテーターボロの19番滑走路に到達可能だったかどうかを

実験するため、国家運輸安全委員会は、フランスでエアバス・シミュレーターを使って何度かテスト飛行を行った。

パイロットたちは当時の状況や機体の動きについて、事前に十分に情報を与えられた。 15回のテスト飛行中、無事

いずれかの空港に到達できたのは8回だった。 委員会は報告書の中で、これらのテスト飛行の条件は非現実的

だったとしている: 「シミュレーション・パイロットたちがしたような即座の方向転換は、実際の状況を反映するものではない。」

サリー機長がしたように35秒後にラガーディアの22番滑走路へと進路を取ったシミュレーション飛行は、墜落に終わった。

(この記述の参照源は、リンクをクリックしてもエラーと出てしまったので確認できませんでした。)



ついでながら、国家運輸安全委員会の調査結論の、大事な部分だけ抜き書きしときます。


事故報告書の結論 (第119ページ)

 

エンジンは両方とも、それぞれが大きな鳥(約8ポンド≒3.6kg)を少なくとも2羽ずつ吸い込み、うち1羽ずつがエンジンの

中核部分に達して飛行を維持するに十分な推進力の供給を妨げるほどの機械損傷を起こすまで、正常に作動していた。

 

両エンジン故障チェックリストは当事故には完全には適用できないものの、当事故においては最も適切なチェックリストであり、

このチェックリストを使用した乗務員の判断は米国航空基準に添うものである。

 

低高度で両エンジン故障が起きた場合のチェックリストがもしあったのならば、チェックリストに最後まで目を通すことは

可能であった可能性が高い。

 

空港への不時着を試みる代わりにハドソン川への不時着水を選んだ機長の決断は、当事故の生存の可能性を最も高めた。

 

パイロットたちのプロフェッショナリズムと状況処理能力は、

機体の制御を維持し着水時の衝撃における生存率を高めることに貢献した。

 

 

 

 


いや~、さすが大事故だっただけあって、本当に詳細に調べられるんですね。 機長と副操縦士の背景とか、

事故の72時間前まで遡っての生活パターン(何時に起きて何時間飛行して何時に就寝したかなど)まで含めて。

サリー機長、事故調査後に正式に自分の行動の正当性が認められたときは、本当に安堵したことでしょう。

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

冒頭の批判記事へのコメントふたつです。

 

「テスト・パイロットはいずれの空港への帰還も15回中8回しか成功させなかった。

そんな危険を誰が冒す? カミカゼだけだ。」

 

「何たるたわごとの山だろう。 私は世界中の空港の中でも最も頻繁にラガーディアで離陸と着陸を経験してきたが、

両方どころか片方のエンジンを失っただけでも、旋回してラガーディアに引き返そうなどとする旅客ジェット機のパイロットは

一人も思い浮かばない。 滑走路が長いJFKに向かうだろう。 サリー機長がJFKに向かえなかったのは、遠すぎたからだ。

 

 ラガーディアの滑走路はとても短く、オーバーランはなく、滑走路の終わりには防壁や深い溝や桟橋があるだけだ。

上昇気流や下降気流も多い。 経験豊かなパイロットでさえ、初めてラガーディアに向かうときはかなり緊張する。

 

エンジンを失ったサリー機長には限られた量のエネルギーしか残されておらず、彼はそのエネルギーを正確に使わなければならなかった。

高度と速度を調節させながら、意図したタッチダウン地点までもたせなければならなかった。 NASAのコンピューターが取り除かれた

スペースシャトルのように。 それが、不時着水を選択したことが正しい理由だ。 彼は水面が水平で滑らかなことを知っていた。

川を選ぶことで彼は、滑走路の終点のように正確な地点に着地する必要性も除去した。

 

奇跡とは、パイロットたちが決して訓練することのない状況――両方のエンジンを失うという――に

陥りながら、サリー機長がものの数秒のうちにこれらの決定を成し得たということだ。

 

くだらないシミュレーターの件など忘れてくれ、サリー。 君は真のヒーローだ!」

 

 *       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

 2つめのコメントをした人、よくぞ言ってくれました!

“ハドソン川の奇跡” とは、サリー機長が一人の犠牲者も出さずに1549便を不時着水させたことではなく、

208秒というものすごく限られた時間の中で最も適切な判断を下したことにあるのです。

208秒――3分と28秒なんて、私のような凡人には、緊急事態にあわあわして迷っている間に

あっという間に過ぎてしまう時間です。

なのにその超短時間でサリー機長は、決断を下し、行動に移し、見事に成功させた。

 

一度ラガーディアかテーターボロに向かう選択をしていたら、ふたたび方針を変える余裕はありませんでした。

滑走路に到達できたらもうけもの、でも到達できなかったら大惨事。

155人の命、プラス地上の数知れぬ命を握らされて、誰がそんな賭けに出られますかっ?!

だから、ハドソン川を選んだのは正解だったのです。

 

それにたとえ不時着水に失敗して犠牲者を出していたとしても、不可抗力で起きた事故だし少なくとも地上の人々を

巻き込まなかったのだからと、サリー機長を責める人はいなかったのでは?


さらに、たとえシミュレーションで毎回同機が無事ラガーディアなりテーターボロなりに到達できていたという

結果が出ていたとしても、サリー機長を責めることは誰にもできなかったはず。

前代未聞の緊急事態に突然陥ったサリー機長は、高度・速度・現在位置などをふまえて、

文字通り秒を争う限られた時間の中で、本能と勘と経験からくる決断をしなければならなかったのですから。

机上の計算はおろか、ゆっくり考える時間もなかったのですから。


誰もが陥ることを恐怖するような厳しい状況の中で、サリー機長が下した決断は成功し、

一人の死者も出さずに済み、しかも厳正な調査のあと正しいものだと結論された。

その後サリー機長が英雄と讃えられ、講演に引張りだこになり、高額の著作契約を得るのも

当然のことです。 彼はそれに値する偉業を達成したのですから。

 

あのつまらない批判記事を書いた記者も、もし自分か自分の大切な誰かが1549便の乗客だったら、絶対にあんな記事は

書けなかったはず。 そしてああ書いておきながら、もしサリー機長が空港を目指して到達できずに墜落し、乗客乗員はもとより地上にも

多数の犠牲者を出していたら、手の平を返したように 「ハドソン川に不時着水を試みるべきだった」 なんて書いていたんだろうな。

 

サリー機長がスポークスマンを通じてコメントを避けたのは、コメントするに値する内容ではなかったからだと私は思います。

あの記者・・・ 内容のない粗さがし記事しか書けないのなら、何も書かずに気分転換のため休暇をとって充電でもしてくればいいものを。

ということで、批判記事は却下!無視!!でよろしい。 が、サリー教信者  となった私の結論です。

 

まぁいいわ。 どのみち来年公開される映画 『サリー』 が、サリー機長のすでに高い評判を、

さらに確固たるものにしてくれること請け合いだから。

 

それにしても、あそこにハドソン川が流れていてよかった。

もしハドソン川が流れていなかったら、どうなっていただろう・・・・・?

たとえそうでも、私には、サリー機長が何とかして乗客乗員全員を救ってくれていたような気がします。

何かはわからないけど。

 

って、そこまで言っちゃうと狂信的かな・・・? 

 

 

《 ハドソン川の奇跡 - おわり 》

 
 

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バック・トゥ・ザ・フューチャー・デイ!

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21日は、 “バック・トゥ・ザ・フューチャー・デイ” だったそうですね!

パート2でマーティとドクがタイムトラベルしたのが、未来の2015年10月21日だったから。

(すみません・・・ 私はパート2と3は初作ほど面白かった印象がなく、うろ覚えなんです・・・

BBCの朝のニュースでも話題になっていましたよ。 映画で予想された2015年までに発明されているものの

何が当たって、何が外れたかなんて。 

 

 

この日マイケル・J.フォックスとクリストファー・ロイドは、マーティとドクに扮して

ジミー・キンメル・ライブ! に出現したそうです。 (ムスメがリンクを送ってくれました

 

 

もちろん、デロリアンとともに。 動画はコチラ

 

セルフィーを撮ろうとするキンメルと、 「???」 顔のマーティとドク。

 

突然観客席から立ち上がり、メガホンを通して 「うるさすぎる~!」 と文句を言うオジサンは・・・

おお~、テーマソングを歌い、初作にちょい出演もしたヒューイ・ルイスさん!

(ちょっと肥った? ← 大きなお世話)

“少し前に失業して今はステージ・マネージャーをしている” という “ビフ” も、端っこから手を振ってちょこっと出演。

 

当日は、マンハッタンにある AMC Loews Lincoln Square でも

マイケル・J.フォックス、クリストファー・ロイド、ヒューイ・ルイスに加えて

リー・トンプソンとクローディア・ウェルス(1作目でジェニファーを演じた女優さん)も集まり、お祝いしたそうです。

 

過去の関連記事はこちら。

 

加齢なる?対決! メイクと現実       俳優マイケル・J.フォックス

 

第一作から30年後の今も、大好きな映画の出演者たちの元気な顔を見られるのは嬉しい。

 本当に素敵な映画を、ありがとう! 

 

 

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グロスターシャー・ウォーリックシャー蒸気鉄道

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読書の秋をしていたもので、久しぶりの更新です。

 

昨日(10月28日水曜日)は、患者さんの遠足の付き添いでお出掛けしてきました。

午前10時に病院を出発。 患者さん10人とスタッフ8名がミニバスと乗用車に分乗し、

チェルトナム競馬場のすぐ隣にあるチェルトナム競馬場(Cheltenham Race Course)駅へ。

 

そう。 遠足は、蒸気列車の旅をすることだったのです。 グロスターシャー・ウォーリックシャー蒸気鉄道で。 (サイトはコチラ。)

  

 

この鉄道路線、もともとはグレート・ウエスタン鉄道のチェルトナム~ストラトフォード・アポン・エイボン~バーミンガム線の

一部として1906年に完成し、コッツウォルズを走っていたそうですが、その後衰退。

1976年にウィンチクムで脱線事故があり、その結果線路が損傷を受けたため閉鎖されたそうです。

1979年に線路が解体され、多くの建物が撤去されました。

 

私達はまずラヴァトンまで行き、折り返してからトディントン ★ で降りてガーデン・センターを見物し、お茶しました。

 

 しかし!蒸気鉄道を愛する地元民と鉄道愛好家が協力して活動を開始。

路線や保全施設を借り受け、チェルトナム競馬場駅からブロードウェイまでの線路を再建する許可を獲得しました。

1984年から始まった作業により、線路はもとより信号機その他の必要設備が再建され、

現在チェルトナム競馬場駅から19km北東のラヴァトン(Laverton)まで列車が行き来しています。

途中の停車駅はゴザリントン(Gotherington)、ウィンチクム(Winchcombe)、トディントン(Toddington)。

ちなみにラヴァトンには駅はありません。

観光客に人気のブロードウェイまで、あとほんの3.2km(ウィキによると4.8km)だそう。

ブロードウェイまで到達できるようになったら便利だし、絶対人気を呼ぶと思う。 頑張って~!

 

チェルトナム競馬場駅に入ってきた蒸気機関車です。 おぉ~  (蒸気列車は初めてなので舞い上がる私。)

再建された競馬場駅は、アン王女によって2003年にオープンされたそうです。

 競馬場駅のプラットホーム。 競馬場は町の北郊にあり、田園風景に囲まれています。 客車内部はレトロでいい感じ。

 

 競馬場駅を10:55に出発し、12分後の11:07にゴザリントン駅着。 仕事を忘れ、左右のドアを行き来して写真を撮りまくる呆れた私(汗)。

 

 可愛らしい小屋には GOTHERINGTON SIGNAL BOX と書かれていました。 どの駅も、レトロ調で統一されていました。

 

 赤い葉はほとんどないけれど、それでもなかなか綺麗なイギリスの黄葉です。

朝降っていた小雨は病院を出る頃には止んでくれてホッ。 お昼頃からお天気になるとの予報だったので、それに期待していました。

 11:18、二つめの停車駅、ウィンチクム駅に到着。 町自体はこの駅から1.5kmほど離れているそうです。 ウィンチクムは

スードリー城(Sudeley Castle)があることで有名。 その敷地内にある礼拝堂には、ヘンリー8世の6人目のお妃だった

キャサリン・パーが埋葬されているそうです。 5分停車してから、11:23にウィンチクム発。

 

黄葉した木々と青々とした牧草。 そういえば私、初めての海外旅行でドイツに行ったとき、季節は秋で、牧草が青々としていたのに

驚いた覚えが。 日本の牧草や芝生って、秋には枯れ草色になりませんか? なります・・・よね?

 トディントンに11:33着、11:35発。 帰路にトディントンで下車したので、写真はそのときにまとめて貼ります。

トディントンを出て10分後、駅はなく周囲は畑だけのラヴァトン着。 ここで10分停車したあと、折り返してトディントンに戻りました。

この頃車内でお弁当(病院で人数分用意してくれた、サンドイッチ・ポテチ小袋・バナナ・ビスケット2枚・

オレンジジュースのセット)を食べました。 予報通り天気が良くなってきてくれてよかった。

 

ラヴァトンにはプラットホームもないので、外に出ることもできませんでした。

11:55に発車し、12:05トディントン着。 ここで一時下車しました。 線路を渡って、駅舎のある側へ。

下右写真の左手の車両、覚えておいてくださいね。

 

 レトロなスーツケースが積まれ、レトロな看板が掲げられ、レトロな量りがありました。

 

 トディントン駅です。 ホームの端にはピクニック・テーブルがあり、お弁当を食べている人がいました。 のどか・・・

 

 駅を出て、足を伸ばすため正面にあるガーデン・センターに入りました。

続けて隣接するカフェでお茶に。 高齢の患者さんたちですから、一時間ほどゆっくりしました。 (私達の患者さんは写真には写っていません。)

 

 先ほど線路を渡るときに左手にあった車両。 その内部はギフトショップ兼ちょっとした博物館になっていました。

 

妙に色白で腕の長すぎるマネキンがいました。 暗くなってから見たら怖いと思う。

  

 帰りの列車に乗り込みます。 電動車椅子がまっすぐ乗り込める客室(下左写真右手の写っていない部分)もありました。

普通の乗車席は板張りでまたレトロです。

 

 駅にいる人たちが手を振ってくれるのがウレシイ  さようなら、トディントン駅・・・・・

 

 田園風景を満喫しながら、チェルトナムへと戻ります。

 

 14:45トディントン発、14:55ウィンチクム着。 14:56ウィンチクム発、15:08ゴザリントン着・発。

 

 動く列車の中で足を踏ん張って、パノラマも撮ってみました。 線路は実際には曲がってなくてまっすぐです、念のため。

 クリーヴ・ヒル(Cleeve Hill、下左)が見えれば、競馬場(下右)はすぐです。

 

 15:19、チェルトナム競馬場駅に到着。 全員無事でした。

ちなみに乗車運賃は、チェルトナム競馬場からラヴァトンまでの一日有効の往復券で16ポンド(≒¥2960)みたいです。

(・・・たかっ!  付き添いで、病院もちで、助かった!)

 

ミニバスに乗って、病院に戻りました。 途中の街路沿いにも黄葉した木々が。

 

 

 デブ症出不精で興味ないところには行きたくない私ですが、この遠足は楽しかった!

でも我を忘れて写真を撮りまくったから、もう遠足の付き添いにはお呼びがかからないだろうな、きっと・・・?

 

 

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ハロウィーン仮装コンテスト ・ ワンコ版

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昨日はハロウィーン  でしたね。

私は遅番で帰宅は午後10時でしたが、幸い “トリック・オア・トリート” は来なかったそうです。

オットーも私も、 “トリック・オア・トリート” には全面的に反対。 それというのも、

ずっと昔にお菓子をあげたことがあったんですが、お金でなかったからと、あからさまに嫌な顔をしたんですよね、その子供たち。

それで何もあげないようになったんです。 だいいち、ろくに仮装もしていなかったし!

そして4、5年前のこと。 久しぶりにやってきた子供たちに、「うちはトリック・オア・トリートはやらないから、ごめんね」 と言って

何もあげなかったんです。 が・・・・・ 翌朝、オットーの車に引っかき傷がつけられているのを発見! 

断られた腹いせに、子供のうちの誰かがやったとしか思えない。 それ以来、心底トリック・オア・トリートが嫌いになりました。

オットーによるとハロウィーンはもともとアメリカだけの習慣だし、オットーが子供の頃はトリック・オア・トリートなんて

やる子供はいなくて、1980年代頃から始まった悪習だそうです。 アメリカかぶれの結果?

親が付き添うならまだしも(付き添って来られてもそれはそれで困るが)、

たとえグループでとはいえ暗くなってから子供だけを外に出して、

赤の他人の家を訪れて物(というよりお金?!)乞いさせるなんて、とてもじゃないけど賛成できません。

歳のせいでアタマが固くなったと思われるなら、それで結構。

こんな悪習は、できるだけ早く廃れてほしいわっ!


気を取り直して、楽しいニュースです。

ニューヨークのトンプキンズ広場というところでは、毎年ハロウィーン近くに犬の仮装コンテストが催されるそうで、

第25回目が24日(土)に開催されました。 (注: 下のポスター画像は今年のものではありません。)

       

 

ワンコと聞いては、じっとしてはいられない。 さっそく画像を検索してみました。

まずは私が選んだグランプリ からご紹介。 かわいいです。 よくできてるし。

  

犬 → ホットドッグの連想で、ホットドッグは定番みたいですね。

そうそう、今年のだけでなく過去の画像も混じってしまっていると思いますので、その点ご了承ください。

  

 ポム・フリッツ(=フライドポテト)にされちゃったポメラニアンがかわいすぎ・・・

  

 SUSHI DOG も登場。 左の海苔巻には、ちゃんとわさびとガリもついてます。 

 

     ロブスターになったチワワくん、溺れてるっ!?                 大丈夫みたい、よかった。 ・・・寝てただけ?   

 

 かわいいし、すごく凝った舞台装置。

 

なぜに針山ピンクッション?                                                                

  

画像とマッチしている ↓ ところがグッド・アイディア。                                              

 

   ホットドックの屋台かな?                   クジャク?                  ピアノ・マンもついてます。

  

      何だかわからないけどカッコイイ。        ボーダー・コリーも乗せてくれてありがと。    ドナルド・トランプ? 犬が気の毒すぎ・・・ 

  

       これ、ユニーク。                すごい、ちゃんと馬らしく見える。           仮装というよりコスプレ?  

  

               スーパーマンも定番ですね。                       飼主さんも参加して、オズの魔法使い。

  

 トイ・ストーリーのウッディと、ウォーリーの犬(あくまでメインはワンコです)と、超人ならぬ超犬ハルク。

  

 デロリアンに乗ったマーティに、E.T.・・・・・ なつかしい。

 

ハリー・ポッターに出てくるフラッフィー(三頭の犬)のバリエーションあれこれ。

 

 皆、なかなかの出来!

 

 ZOLTAR ↓ って何?誰?と思ったので調べてみました。 ラスベガスにあったり(下中)、映画 『ビッグ』 でトム・ハンクス演じる

主人公の願いを叶えたりする、どうやらアメリカでおなじみの、運命占い機の占い師の一人みたいです。

ゾルター・マシーンのサイトはこちら

ゾルター・プレミウムは8500ドル(百万円ちょい)だけど、エコノミー・ゾルターなら5500ドル(66万円)で買えるみたいですよ。

さ、あなたもワタシもゾルターのオーナーに  ・・・・・!?

  

      恐竜。かわいい。                                これはティガーですよね?

 

 飼主とのコラボ。 というより、飼主自身が仮装したかったものかと。 (ちなみにグランプリに輝いたのはこのお三方お三匹 ↓ だそうです。)

 

ワンコの表情がどちらも同じで笑える。   ・・・もしかして別の年の、同じワンコと飼主さん???

 

 「自発的に参加したんじゃないんですぅ~!」 という心の叫びが聞こえてきそう。 

 

 舞台装置が本当に凝ったものも。

 

 もう仮装とは呼べないレベルです。

 

 クモの仮装で、恐怖の巨大殺人蜘蛛を思い出しちゃいました。 

 

 下はコンテストとは関係ありませんが、かわいいのでついでに載せちゃいます。

 

 

犬って、本当に、いいなぁ~!

笑ってるこのコも、   可愛すぎ! 

 

もっと見たい!という方は、ダックスフント・パレードもどうぞ。

 

 

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ムスメのハロウィーン

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親に似て地味~~~で、全っ然いまどきの大学生らしくないムスメ。

ハロウィーンをどう過ごしたかというと・・・・・

 金曜日にハウスメイトたちと、かぼちゃを彫刻。

 

 これがムスメのだそうです。 なかなかうまい!   (←親カバ?)

 暗闇で見ると、雰囲気が出ていいわぁ~。 

 

ハロウィーン当日だった土曜日は、ハウスメイトのジェニー(仮名)がご馳走を作ってくれたそうです。

バターナット・スクォッシュ(butternut squash)・ほうれん草とフェタ・チーズのパイと、

フィロ・ペイストリーを使って作った三角形のパイと、かぼちゃの種のローストと、

チョコレート・ケーキまで!

 

(ハウスメイトにご馳走になってばかりのムスメ・・・ 女子力で完全に出遅れてる・・・・・ 

 

 

ムスメたちが6人でシェアする家には、何をトチ狂ったかハロウィーンの一週間前、24日の土曜日に、

何の仮装もしていない子供たちがやって来て “トリック・オア・トリート!” したそうな。

何も用意していなかったのでそう言ったら、ぶぅぶぅ言いながら去ったそうです。

 

なのでハロウィーンの夜にはちゃんとお菓子を用意して待っていたのに、

肝心のハロウィーンその日には、なぜか誰も来なかったそう。

 

ムスメたちはジェニー作のご馳走を食べながら、ホラー映画 The Babadook を見たそうです。

続けてアメリカン・ホラー・ストーリーも。

 

地味すぎる今月20歳。 さすが血は争えませんね。

でも私は、そんなムスメが好き


肌も露わな格好で出掛け、飲みすぎて醜態をさらしたり、公僕のお世話になったりするよりはずっといいですもん。

   

 

どうして節度をわきまえてお酒を楽しめないのかなぁ・・・・

下戸の私には、さっぱりわかりませんわ。

(そう言う私は、節度をわきまえて食べられない人ですが。

 

 

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サリー機長の “HIGHEST DUTY”

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読書の秋だからというわけではありませんが、読み終えました!

ハドソン川の奇跡のサリー機長が書かれた本。

この本を基に映画製作が進行中と聞き、読んでみたくなったので。

(パイロットを引退されたので正しくはサリー元機長ですが、ここではサリー機長で通します。)

 

4歳の頃はお巡りさんか消防士になりたかったけれど、5歳のときは飛行士になると決心していたというサリー機長もといチェズリー少年。

 

8歳のころ、飛行機の模型をもらって喜ぶチェズリー少年と、湖に釣りに出かけた父親と妹さんとチェズリー少年。

  

 

空軍士官学校の厳し~い訓練と勉強に耐え抜き、戦闘機パイロットを務めたあと、旅客機のパイロットに転身。

(空軍士官学校の描写を読んでいて、映画 『愛と青春の旅だち』 を思い出した私。

 

    

 

8歳年下の奥様ロリーさんとは、1989年6月に結婚。 サリー機長は38歳でした。

現在も仲睦まじいお二人です。

 

  

 

ハドソン川の奇跡に関してあれこれ読んでいた時、英語版ウィキには 「養子として迎えた娘が二人」 と

ありましたが、他では一切そういう記述はなかったので、(ウィキの誤り???)と思っていました。

サリー機長によるというブログ記事 Never Too Old To Be A Dad にも、

「ケイトが生まれたとき私は42歳・・・」 という記述があったし。

 

でも二人の娘さん、養女でした。

子供を望んだものの妊娠の兆候がなく、辛い不妊治療も続けましたが、やがて妊娠を断念せざるを得なくなり、

養子を迎えることにされたそうです。

 

長く複雑な養子の申し込みプロセスを経て、妊娠したけれど子供は育てられないという夫婦や母親と会い、

養い親として選ばれ、お産が始まると病院に駆けつけ、生まれたその日のうちに赤ちゃんを引き渡されて

自宅に連れ帰り、育児を始めたのだそうです。

 

サリー機長は1951年1月23日生まれですが、偶然2人の娘さんも、1月生まれ。

長女のケイトさんは1993年1月19日、次女のケリーさんは1995年1月の・・・ 多分7日生まれだそうです。

多分というのは、1月6日に陣痛が始まってから、24時間後に生まれたと記述されているからです。

 

     

 

先ほどのブログ記事からは、サリー機長とロリーさんの、親としての娘さんたちに対する愛情と強い責任感がひしひしと伝わってきます。

私が特に感銘を受けたのは、この部分。

 

妻と私は、娘たちが幼い頃から、下の者に対する話し方はせず、相手が大人であるかのように話してきました。

二人の理解能力には驚かされました。 子供たちはまるでスポンジのように自分たちを取り巻く世界を吸収し、

意味がわからないままロリーや私が口にした言葉をオウムのように繰り返しました。

 

旅客機のパイロットとして週のうち少なくとも4日は私は家にいられなかったので、家で過ごす時間はとても貴重でした。

長い時間二人を膝にのせ、本を読んで聞かせました。 読んで学ぶことに喜びを抱くようになった二人は、

幼くてまだ読めないにもかかわらず、おもちゃの代わりに本を持ってベッドに行くようになりました。

私たちが読んでやったことの記憶をたどって、本のページを繰りながらお互いに “読んで” 聞かせてやるのです。

そんな二人をこっそり覗き見るのは、私たちの大きな喜びでした。

 

いいお父さん、もとい、いいご両親だなぁ・・・。 特に最初の、「親だからといって子供に対して

見下した物言いをしない」 という部分。 頭が下がります。

うちのムスメを育児中に聞きたかったわ・・・・・ 

 

  

 

HIGHEST DUTY には、娘さんたちにいつサリー機長と奥様が、二人は養女であることを告げたのか

記述がありませんでしたが、こうして著作に堂々と含まれている以上、おそらくずっと前に伝えてあったのではないかと思います。

このご一家を見ていると、家族としての繋がりを支えるのは、血でも遺伝子でもなくて、

愛情なのだとつくづく思います。 実の親子より親子らしいもの。

こんな素敵な両親に育てられて、娘さんたち、本当にラッキー!

 

   

 

パイロットなんてすべてに秀でた頭脳明晰な人しかなれないのだから、一度パイロットになればあとは

高給が保証されて残る人生何の心配もなし・・・ と、私は思っていました。

だから 「以前は宇宙飛行士に続いて尊敬される職業」 だったパイロットが、現在は

「バス運転手よりは上かもしれないけれど、年金では負ける」 と聞いて目からウロコ。

航空会社の経費削減により、パイロットはフライト中の食べものを自分で用意しなければならないそうです。

ファーストクラスの乗客がステーキを頬張るとき、コックピットでサンドイッチを食べる機長たち。

 

1549便の前のフライトが遅れたためランチの時間がなくなったサリー機長は、

フライト中に食べるつもりでサンドイッチを買っていましたが、哀れそのサンドイッチはハドソン川に沈んだそうです。

 

良心に従い、常に正しいことをするよう心がけて生きてきたサリー機長。

安全性の向上に真摯な態度で臨んできたサリー機長。

 

 

 ハドソン川の奇跡は、世間が大いに耳を傾ける価値のあるサリー機長にスポットライトを当てるべく、

神様が起こした事故だったんじゃないか? そんな風に、私には思えます。

ご本人もおっしゃるように、事故前は一市民でしかなかったのですから。

しかし、5分のフライトが、すべてを変えた。

 

理数系はからきしだし航空関係にも興味皆無の私ですが、サリー機長の真摯な生き方に魅せられ、

HIGHEST DUTY は辞書を片手に6日で読み終えました。

1549便に関する部分は後半に入るまで始まりませんが、それでもまったく飽きることはなかったです。

学ぶことが多く、読んでよかった。 クリスマス休暇で戻ったら、ムスメにも読ませようと思っています。

 

あの日の1549便の機長が、サリー機長ではなかったら?

他のパイロットにも、無事に機体を不時着水させることはできたかもしれません。

でも、わずか208秒間に現状を把握し、最善を選択し、実行に移せたか? となると・・・

大いに疑問です。

 

次回の里帰りが待ち切れないので英語で読むしかありませんでしたが、

今度里帰りしたら買っちゃうかもしれません。 邦訳版。

映画化も進んでいることだし! 皆様もいかがですか、たとえばクリスマス・プレゼントとか・・・

 

(注: 私は静山社とは一切関係ありません。)

 

 

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『大草原のビッチの告白』 ①

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今回は、“HIGHEST DUTY” の前に読み終えた本について書きます。


1970年代から80年代にかけて大人気を博したTVシリーズ 『大草原の小さな家』。

あのドラマで主人公ローラの宿敵の意地悪ネリーを演じたアリソン・アーングリムが2010年に出版した、

『大草原のビッチの告白』 ! 

 

         

(私もかなりの 『大草原・・・』 ファンだったので数年前にこの本を買ったものの、つん読にしていました。 ようやく読んだので、印象に

残った部分について書きます。 邦訳はまだ出ていないようなので、シロウトの私の意訳でよろしければお読みくださいませ。)

 

 意地悪ネリーは、オルソン夫人とともに悪役として欠かせない存在でしたよね   あの二人がいなかったら、

ウォルナット・グローブの住人が善人ばかりだったら(ゲストの悪役は除く)、面白味は半減していたことでしょう。

 

 アリソンは、1962年(私と一緒!)1月18日生まれ。 『大草原の小さな家』 のローラ役、メアリー役のオーディションに

続けて落ち、ネリー役のオーディションに呼ばれたのは12歳だった1974年5月17日のことでした。

俳優兼マネージャー業を切り盛りしていたアリソンの父親トアが、彼女に同行。 アリソンは原作を読んだことはありませんでした。

渡された脚本のページを繰っていたアリソンは、妙なことに気がつきます。 ネリーは、それまでの子役のキャラクター――親の言うことを

よく聞き、信じられないほど退屈なことにもわざとらしい喜びをみせる――とは全然違うことに。

「ね、お父さん?」

「何だい?」

「この子、何ていうか、すごいビッチよね?」

父親に言われてネリーの台詞を読んだところ、父親は涙が出るまで笑い転げ、息を弾ませながら言いました。

「何てこった、いいかい、何も変えるんじゃない。 今読んだように、そのまま読むんだよ!」

    

 

 部屋に入ると、3人の男がいました。 マイケル・ランドンと、プロデューサーのケント・マックレイと、もう一人。

オーディション用に渡されたのは、ネリーが作文にかこつけていかに自分の家が金持ちで、自分の家はどんなに豪華で贅沢かを

とつとつと読み上げる部分でした。

「私の家は、ウォルナット・グローブで一番素敵な家です。 どの部屋にも絨毯が敷かれています。 ディナー・セットは

3つあります。 毎日使うものと、日曜日に使うものと、特別な重要なお客さんがみえたときに使うものです・・・・・」

アリソンの試し読みを聞いていた3人は大きくのけぞり、お互いを肘で突つき合い、うち一人が

「最後の部分だけ、もう一度読んでくれるかな?」

「はい、」 答えたアリソンは指示を求めました。 「どんな風に変えて読んだらいいですか?」

すると 「何も変えないで! 全く同じように、もう一度読んでみて。」 と3人。 ・・・

ネリー役は、その場でアリソンに決定したそうです。

    

 

(ローラ役とメアリー役には落ちたのに、ビッチのネリー役にはその場で決まった。 これって心配すべきことじゃないのかな?)

子供心に気になったアリソンは父親にそう尋ねますが、父親はこう言っただけでした。

「靴が合うなら、履けばいいさ!」

あとは 「何だってセットにあんな大金をかけるんだ? 一年後にまだ続いていたら奇跡だ!」 などなど・・・

 

『大草原の小さな家』 の屋内シーンはすべて、初期はパラマウント・スタジオで、1978年からはMGMスタジオで撮影されました。

屋外シーンに必要なすべての建物――インガルスの家と納屋、オルソン商店兼家屋、教会兼学校、ハンソンさんの水車つき材木工場、

ベイカー先生の診療所と郵便局、鍛冶屋など――は、パラマウント・スタジオから64km離れたシミ・ヴァレーSimi Valley)にある

ビッグ・スカイ放牧場を10年契約で借りて、そこに建てられました。 建物はすべて外壁と屋根はあれど、中味は空っぽだそうです。

そのため月曜日に学校の入口で 「おはようございます、ビードゥル先生」 と言って校舎に入ったあと、

木曜日に教室内で自分の席につくシーンが撮影される、みたいなことになりました。

 

アリソンの父親は俳優兼マネージャー業を営み、母親も女優兼声優で多忙だったため、アリソンの付き人はマリオン伯母さん(母親の姉)が

務めてくれたそうです。 マリオン伯母さんはアリソンをお気に入りの姪っ子としてかわいがり(他には姪っ子はいなかったけれど)、

気さくで誰とでもすぐに打ち解けられるマリオン伯母さんは、撮影現場のアリソンの心強い保護者になってくれました。

   

 

アリソンの髪を担当したのは、映画 『俺たちに明日はない』 のボニーのボブ・スタイルを生み出したというベテランのグラディスさんで、

アリソンに長年の経験に基づく忠告をくれたり、これまで接してきたスターたちの裏の顔を教えてくれました。

メイクを担当してくれたのは、マリリン・モンローの専属のメイク・マンだったというホワイティーさん。

彼はアリソンに、マリリン・モンローからのプレゼントだというマネークリップを見せてくれました。 それには

“While I'm still warm” と彫りこまれていたので、その意味を訊こうとしたアリソンでしたが、彼はそれをそそくさとしまってしまい、

グラディスさんが 『何も訊いちゃだめ!』 という眼差しで首を振ってアリソンを止めたため、訊けませんでした。

後でグラディスさんが話してくれたことによると・・・

マリリン・モンローはよく、笑ってホワイティーさんに冗談を言ったそうです。

「ホワイティー、あなたのメイクは本当にすばらしいわ。 私が死んだら、また私が温かいうちにメイクをしてちょうだいね。」

そしてある日、 “私がまだ温かいうちに” と彫られたマネークリップをプレゼントしてくれました。 それは二人の間のジョークの、

ちょっとした記念品になるはずでした。 マリリン・モンローが36歳の若さで、悲劇的な死を迎えるまでは。

そしてホワイティーさんは、実際に葬儀社に赴き、マリリン・モンローに死化粧を施したそうです。 そのことは

ホワイティーさんに大きな精神的打撃を与え、克服するには多量のアルコールを要しました。 ・・・・・

  

 

  ネリーのトレードマークの縦巻きロールは、当初はスタイリストさんがまっすぐな地毛を苦労してカーリング・アイロンで

巻いていましたが、苦労を省くため、やがてかつらが作られたそうです。 ネリーのかつら作りを一任されたのは、トップ・ヘア・スタイリストの

ラリーさん。 有名なかつらアーティストに作ってもらったオーダーメイドのかつらは、アリソンは値段を教えてもらえませんでしたが、

『TVショー用に作られたかつらとしては、当時最も高価なもののひとつ』 だったそうです。

 ネリーのかつらは、ネリーが飛んでも跳ねてもずれないよう内側についた金属製の櫛と無数のヘアピンで固定されていて、

装着直後や頭の向きを変えたときにヘアピンが頭皮に食い込んで痛かったそうです。 長いことかつらをつけていなければならなかった日や

激しく動かなければならなかった日は、櫛とヘアピンが頭皮を傷つけることもありました。 かつらを外して頭皮を指で

探ると、指に血がつくことも。 そうするとグラディスさんが、シー・ブリーズをたっぷり使って頭皮を感染症から守ってくれました。

始めは痛んでひりひりしたけれど、やがてずっといい気分になったそうです。

 

ラリーさんは駆け出しの頃、ベティ・デイヴィスの洗髪をすることになり、若く経験の浅かった彼はブランドものの

シャンプーをすべて揃え、掃除をし、タオルを用意し、身のすくむ思いで大女優の登場を待ったそうです。

やってきたベティ・デイヴィスに、どもらないよう気をつけながら数々のシャンプーを見せるラリーさん。

ベティ・デイヴィスはブランドもののシャンプーをすべて無視し、タオルをつかむとシンクに向かいました。

「いいのよ、ハニー」 彼女は言いました。 「ドレフト(Dreft)でざっとすすぐから!」

ベティ・デイヴィスはラリーさんの目の前で洗濯用洗剤 を使って自分で髪を洗い、二人はその後良い友人になりました。

彼女は地に足のついた率直な人で、彼を困らせたことは一度もなかったそうです。

  

 

アリソンがメリッサ・ギルバートに初めて会ったのは、初めてスタジオ入りして衣装に着替えていたときのこと。

誰かが扉をノックし、開けたらそこには長いお下げ髪をして、そばかすがあって、「見たこともないような大きな前歯」 をした

小さな女の子がいました。

「私は歳の割には背が低い方だったけれど、9歳くらい(実際には当時10歳になったばかり)だったメリッサは、バッグの中に

収まりそうなほど小さかったわ――バッグをかじってやすやすと脱出できたでしょうけれど。」

  

 

 メリッサは撮影現場のあれこれに関する情報や助言をくれたあと、アリソンに警告しました。

「あのメリッサ・スー・アンダーソンには気をつけて。 とっても危険だから。 本当にワルなの、大嫌い。」

マリオン伯母さんが 「あらあら、本気じゃないわよね? 大嫌いだなんて、そんなことはないわよね?」 とたしなめると、

「本当よ! 私はあの子が大嫌いだし、あの子も私が大嫌いなの。 あの子私を殺そうとしたのよ。 あなたのことも殺すわよ、

チャンスがありさえすればね!」 そうしてメリッサは走り去ったそうです。 

 

アリソンが初めてシミ・ヴァレーに行ったとき、季節は夏。 息詰まるような暑さの中、髪をアイロン・カーラーでカールされ、何重もの

衣装をつけて、長いこと出番を待っていました。 出番の撮影は昼食後になることになり、当時の悪癖で朝食を食べていなかった

アリソンは、さっぱりとサラダにでもしておけばよかったものを、おいしそうなステーキを選んでしまいます。 午後、ようやく

意地悪ネリーのデビュー・シーンになりました。 メリッサ・ギルバートとメリッサ・スーに歩み寄り、じろりと蔑むような一瞥を与え、

「田舎ものね!」 と言い捨てればいいだけでした。 でも・・・

暑い中長袖のドレスを着て待つ間に、アリソンは意識が朦朧とし、二人のメリッサの姿がよく見えなくなっていました。

でもシミ・ヴァレーにデビューする大切な日に(ヤワな子だな)と思われたくなかったため、我慢していました。 そのため

二人のメリッサにアリソンが投げた言葉は、まるで病床でつぶやく声のようになってしまい、当然やり直しになります。

撮り直しが始まった直後、アリソンは完全に失神してしまい、アンモニアと塩の錠剤を使って正気づかされます。

マリオン伯母さんに連れられてエアコンのきいたドレッシング・ルームに入ったアリソン。 しばらく休んで桃を食べたら、

ずっと気分が良くなりました。 30分か45分後に外に出ると、心配してずっと外で待っていたメリッサ・ギルバートに迎えられました。

メリッサはマリオン伯母さんにこう言っていたそうです。

「彼女は大丈夫よね? 元気になってくれなくちゃ! ケンカのシーンだって、まだ撮ってないんだから!」

競争しながら、丘を駆け下りたアリソンとメリッサ。 それが二人の友情の始まりでした。

二人はお互いの家に泊まりがけで遊びに行くようになり、アリソンはお嬢様メリッサの豪華な暮らしを、メリッサはアリソンの

親に放任された暮らしを、それぞれ別世界のように楽しんだそうです。

二人でお店に入って別々に歩いていると、メリッサは他の客に 「気をつけて! あっちにネリーがいたわよ!」 と

警告されることもたびたびあったとか。

 

 

皆さん覚えていますか? 『キャンプ』 のエピソード。 ローラとネリーが川で溺れかけるんですよね。

たしかネリーが先に川に落ち、ネリーを助けようとしてローラも川に落ちたような。

そのシーンの撮影のとき、二人は衣装の下にウェットスーツを着て腰まで水に入りました。 凍えるように冷たい水から

体を守るためです。 撮影の準備が整うのをその状態で待って、待って、待って・・・・・ 突然メリッサが言いました。

「どうしよう、私おしっこしたい!」

「・・・そう聞いたら、私もしたくなっちゃった・・・!」

二人はアシスタント・ディレクターに駆け寄りトイレに行きたいと訴えますが、返ってきた答えは無慈悲なものでした。

「あのね、それにはちょっと問題があるんだよ。 君たちを丘の上のトイレに連れて行くには車で行かなきゃならないし、

トイレに着いたらまず衣装を脱いで、さらにウェットスーツを脱がなきゃならない。 それからまたウェットスーツを着て、衣装を着て、

丘を下って来なきゃならない。 そうすることにどれだけ時間がかかるか、わかるかな?」

二人は呻きました。 ウェットスーツは、乾いた状態でタルカム・パウダーをたっぷり使ってさえ着るのに苦労したのです。

濡れてしまったそれと衣装を着るとなったら、その大変さは想像したくもありませんでした。

「いいかい、ランチまであとほんの一時間半だ。 それまでには終わるから、もう少し我慢してくれるかな?」

溜息をついて、すごすごと川に戻る二人。

  

 インガルスの子供たちより多く植物を採集しようと欲張り、ウルシにやられてひどい目に遭うオルソン夫人とウィリー。

 

 ふたたび腰まで水に浸かり、ひたすら待つ二人。 やがて足の感覚がなくなり、唇が少し青ざめてきました。

アリソンがメリッサの様子をうかがうと、彼女は笑みを浮かべていました。 でも何か変。 自然な素敵な笑みじゃなくて、

満足したようなにたにた笑いで、両目は少し大きめに開いていて。

「やだ、やっちゃったなんて言わないで!」 アリソンが言うと、

「やってみなさいよ。 暖まるわよ。」 とメリッサ。

「やだわ、下品すぎるわよ、メリッサ!」

「いい、しっかり聞いて。 やっちゃいなさい。 一度に少しずつね。 ウェットスーツ全体が暖まるから。

それに、まだ12時半よ。 まさかあと一時間も待てるなんて言わないわよね?」

メリッサの言う通りでした。 アリソンは凍えていて暖まる必要があったし、おしっこも我慢の限界にきていたのです。

そこで勇気を出してメリッサの忠告に従ったら、・・・彼女の言う通りでした。

もちろんウェットスーツは、使用後衣装係に回収され・・・ どんな騒ぎがあったかアリソンの耳には届きませんでしたが、

その後二人がトイレを我慢させられることは二度となかったそうです。

   

 

 アリソンが 『大草原・・・』 のネリーとしてTVに初登場したのは、1974年9月18日。 家族皆でテレビの前に集まり、

ネリーが口を開くたびに大笑いしたそうです。 翌日は学校がありました。 (クラスの誰かはあれを見たかな?) 少し遅れて

学校に着いたアリソンは、生徒の大半がすでに校舎に入っていたので、少なくとも休み時間まではリアクションを見ることはないと

安心しました。 しかしそれは誤りでした。 上階にいたある女子生徒がアリソンを見てあんぐりと口を開け、大きくこだまする

ような声で叫びました。 “You biiiitchhhh!!!!”

凍りつくアリソン。 まさか自分に向かって言っているとは思えず周囲を見回すも、誰もいない。 私のことか。

ネリーに対するリアクションが今後こういうものになるのなら、今ここで、自分の態度を決めなきゃ。 間違いは許されない。

主導権を握らなきゃ駄目。 今逃げ出したりびくつかされたり恐れを見せたりしたら、私の今後はそれで決まってしまう。

するべきことはひとつしかない。

立ち止まったアリソンは、まっすぐに姿勢を正し、声のした方向を向き、顎を突き上げ、できるだけ大声でできるだけ勇敢に

“THANK YOU !”

と叫ぶと、まるで舞台の上にいるかのように、深くお辞儀をしました。

このことはアリソンに、『大草原・・・』 が今後続いていくなら、自分はずっとタフにならねばならないと気づかせたそうです。

  

 

でもネリーを演じるようになって助かったこともありました。 学校で女子のいじめっ子グループに悩まされていたアリソンでしたが、

ある日校庭で、筋肉質で体格のいい本物の不良女子グループに取り囲まれます。 「あんた、アリソン?」

「そうよ」 相手がなぜ自分の名前を知っているのか訳がわからないまま答えるアリソン。

「 『大草原の小さな家』 に出ている子?」 敵意のこもった尋問モードで続ける相手。

「え・・・え、そうよ」 妙なことになってきたぞ。

「ネリー役をやってるよね?」 この会話は一体どういう方向に進むんだろう?

「ええ、そうよ」 この答えを後悔することになるのか否かわからないまま答えるアリソン。

「あんた、ネリーだね? あんたはワルだよ、上出来! あの間抜けなローラ・インガルスをやっつけてくれるんだから!」

不良たちは皆笑顔で、嬉しそうにアリソンに彼女の 『悪さ』 を楽しんでいると話してくれました。 彼女たちはアリソンの、

敵ではなくファンだったのです。 その日以降、アリソンがいじめっ子に悩まされることは二度とありませんでした。

 

1974年、テレビの新シーズンを祝うパーティーが、ハリウッドで催されました。

第1シリーズ放映を控えた 『大草原・・・』 関係者でパーティーに招待されたのは、出演に加えて製作・脚本・監督を務めていた

マイケル・ランドンただひとり。 でもそんなこと、アリソンの父テオはお構いなしでした。

「パーティーに行くから紛れ込ませてやる」 という友人のゴシップ記者の言葉に乗り、アリソンに高価なドレスを買って着せ、

自分は教会のセールで2ドルで手に入れたタキシードを着てパーティーに乗り込みます。

2ドルとはいえ、それは実は掘り出し物でした。 ある俳優がブランドものを多数含む衣類をそっくり教会に寄付してくれ、

ブランドなど知らない高齢のボランティアがラルフ・ローレンのシャツに50セントなどという値をつけていたからです。

ランチ時間に、他のボランティアたちが気づくまで。

テオは運よく午前中のうちに、ズボンやシャツやネクタイやスーツやタキシードを50ドルほどで買い込んでいました。

50ドルは実際には、ネクタイ一本の値段であるべきだったところを。

   

千ドル近い高価なドレスに身を包んだアリソンと2ドルのタキシードを着たテオは、ハリウッドのトップ・スターたちに

紛れ込み、招待されてそこにいるかのように振る舞います。

やがて、二人に気づくマイケル・ランドン。 パーティーにいるべき 『大草原・・・』 の関係者は自分だけのはずなのに!?

ローラでもメアリーでも母さんでさえもなく、よりによってネリー・オルソンを演じる子供がここにいる。

自宅のダイニング・ルームからマネージャー業を営む父親を背後に控えて。

驚いて (この馬鹿どもは、一体ここで何をしてるんだ?) とでも言いたげに口をあんぐり開けたランドンでしたが、

彼が何か言う前に、カメラマンたちが二人を見留めて 「マイケル、彼女の隣に立って!」 と言って撮影を始めました。

瞳をきらりと光らせたランドンは、アリソンを見て笑いながら首を振り、カメラマンたちの要求に応えた(上左)そうです。

 

 

 《 つづく 》

 

 

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カンガルー・ステーキ

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私事で忙しくて、ブログの更新がなかなかできませ~ん

別に大したことしてるわけじゃないんですが、何をしているかというと、ほら4月に里帰りしたでしょう?

あの時突撃でお邪魔したにもかかわらず、泣いて17年ぶりの再会を喜んでくれた父方の叔母さん

あのあと実家に行った私は両親の古い写真のアルバムを引張り出し、写真の写真をたくさん撮ってきたんです。

自分で欲しかったからではありますが、そうだ!叔母さん用に焼き増しを注文してアルバムを作り、

おもてなしのお礼のささやかな小包に同封したらきっと喜んでもらえる! と思ったんです。

 

クリスマスに間に合うようにするには、今月中に発送しなきゃ。 と思ってようやく重い腰を上げて

写真の選択とサイズカットを始めたんですが、これが思ったより時間がかかって・・・・・

悪いのは自分なんですけどね。 春からこっち半年もあったのに、11月に入るまで始めなかったんだから・・・・・ 

 

そんなわけで、もうしばらくブログは開店休業状態が続くかと。

今日はささっと更新です。 今日食べたものについて。

タイトルからもうバレバレですが、カンガルーのステーキ!

ディスカウント・スーパーで冷凍肉を見つけて、好奇心から買っちゃいました。

300gで3.99ポンド(744円)と、まずまずのお値段。

 

解凍した肉はかなり色が濃くて、ケモノ臭がしたような気がします。 パックに入っていたのは一枚肉ではなく、

1パックに3片ずつが入っていました(下左)。 厚みがけっこうあったので、ひとつずつを横にスライスしました。

タレを作って漬け込んでおいたのを、サラダ油とバターでフライパン焼きに。

 

焼くうちにかなり縮みました。 マッシュポテト、芽キャベツとニンジンとベーコンのクリーム煮(カレーではない)と一緒に

おいしくいただきました。 カンガルー肉、歯ごたえがありましたがなかなかおいしかったです。

それにさすが運動神経抜群のカンガルーだけあり?脂肪分はほとんど・・・というか全然、なかったです。

(カンガルー、許せ。)

 

 

先週の土曜日は、オットーのリクエストで散歩のついでにスロー・ベリーを摘みました。

スローの茂みがなかなかなくてあきらめかけたところに、ようやく発見。

 

 そのまま食べても酸っぱくておいしくないスロー・ベリー

オットーはこの実を使って、久しぶりにスロー・ジンを作りたくなったそうです。

  

 下戸の私たちですが、甘いリキュールはたまに飲みます。

必要以上に収穫できたので、帰りにスーパーに寄って砂糖とブランデーを買いました。

帰宅後すぐにスロー・ジンを作ったオットー。 ひと月ほど置けば飲めるそうです。

もとい、ブランデーで作ったからスロー・ブランデーですね。

オットーの作り方はウィキぺディアの作り方よりずっと大雑把で、スローベリーをよく洗い、フォークでぶすぶすとキズをつけ、

ボトルに詰め、砂糖とブランデーを加えただけでした。

さて、味はいかに!?

 

 

 散歩の途中、輝くように綺麗な葉がありました。

 イギリスでは自然の中にはほとんど赤い葉っぱを見かけないので、紅葉を見るのは、たとえ庭木でも嬉しい!

  

 

今週はあまり日が差していません。 典型的なイギリスの秋だわ・・・・・

明日から4日連続で仕事だというのに、明日は嵐っぽい天気になるというし。

あとひと月でムスメが戻るから、それを楽しみに頑張るとするか

 

 

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パリの同時多発テロ

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11月13日金曜日。

① 午後9時17分: スタッド・ド・フランスの外で最初の自爆が発生。 自爆はあと2回起こり、サッカー・ファン1人が死亡。

② 午後9時25分: 2つのレストランの客に向け、テロリストが銃を乱射。 15人が死亡。

③ 午後9時29分: 黒装束のテロリストが2つのレストラン客を襲撃。 5人死亡。

 

注: 下図の時間はイギリス時間なので、パリの現地時間はそれより一時間遅い午後9時台でした。

 ④ 午後9時38分: 2人のテロリストが歩道のテーブル席にいた客19人を射殺。

⑤ 午後9時43分: テロリストがカフェの外で自爆。 犠牲者なし。

⑥ 午後9時49分: 銃で武装した3人のテロリストがバタクランで開催されていたコンサート会場を襲い、

観客に床に伏せるよう命じ、無差別に射殺。 89人が死亡。

 

テロ発生時、ちょうどスタッド・ド・フランスにてドイツ-フランスの友好試合を観戦していたというオランド大統領。

側近にテロ事件を緊急報告され、ボディーガードに守られた大統領は直ちに警備管理室に移動しました。

 

ピッチに下りるよう促された観客たち。 訳がわからず、(???)だったことでしょう。

 

自爆したテロリストたちは競技場内に入って観客たちを脅し、大規模な殺到を起こさせて死者数を増やす目論見でしたが、

警備員に阻まれて入場できず、スタジアム外で自爆するしかなかった。 そのため犠牲者は少なくて済んだ。 ということです。

 

 

金曜夜の開放感を楽しんでいた、罪もない人々。 ・・・・・ひどすぎる・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

犠牲者を悼み、パリとの連帯を表明するためフランス国旗の三色にライトアップされた、世界のランドマークたち。

ワールド・トレード・センターと、サンフランシスコ市庁舎です。

 

10年前に同時テロがあったロンドン。

 

トラファルガー広場には多くの人々が集まってパリの犠牲者を悼み、テロに対する団結を新たにしました。

 

 ベルリンのブランデンブルク門と、ブリュッセルの市庁舎。

 

メルボルンの市庁舎と、ベルファストの市庁舎。

 

シドニーのオペラ・ハウスと、オークランド博物館。

 

シドニーの市庁舎と、ベルファストの市庁舎・・・重複しちゃったけど、綺麗だからいいや。

 

コルコバードのキリスト像と、上海のテレビ塔。

 

 

・・・東京はどうしたのぉっ!? と思ったら、ようやく今夜(15日夜)、東京タワーがライトアップされたようですね。

 

 

 爆発物を仕掛けたベストを装着した少なくとも8人のテロリストたちは、3つのチームに分かれてパリを襲った模様。

うち少なくとも2人は、シリアからの難民を装ってギリシャ経由でEU圏内に入ったようです。

バタクラン劇場で自爆したテロリストの死体から発見された偽造?パスポートによると、彼は1990年生まれの25歳。

 

テロリストの死体から発見されたシリアのパスポートと、スタッド・ド・フランスの外で自爆したテロリストの “残骸”

 

 

 シリア難民を装ってトルコ経由でギリシャに入国し、Leros 島で難民登録したのは10月3日でした。

 

 

 11月5日にオーストリアのザルツブルク-ミュンヘン間の高速道路で検問にあったフォルクスワーゲンのゴルフから、

大量の武器が発見されていたそうです。

 ダッシュボードにある小物入れからリボルバーが見つかり、小物入れの壊された奥壁の向こうには

自動小銃AK-47が隠されていました。

さらに捜索すると、車体は7丁のAK-47と、拳銃5丁と、手榴弾7つと、起爆装置などが隠されたあとで溶接されていました。

逮捕されたあと黙秘を続けている51歳の運転手はモンテネグロから来たムスリムで、カーナビの目的地はパリになっていました。

この件はインターポールには報告されたものの、ベルリンの反テロ活動部門には詳細は送られませんでした。

この男も今回のテロと関わりがあったと考えられています。

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

テロ事件は、残念ながら、根絶は不可能でしょうね。 いつの時代にも、どこの土地にも、不満分子は必ずいる。

中には超過激な破壊思想を持ってしまう者もでてきてしまう。

異国間の行き来が便利に容易になった今、すべての人間を徹底的に検査するなんて無理だと思います。

テロを未然に防ぐには、セキュリティー・チェックを100回中100回成功させなければならない。

一方テロリスト側は、100回中1回だけ成功すればいいだけですから。

 

自爆するテロリストは、親の気持ちを考えたことがあるのかな。

(親が 『聖戦戦士の息子(娘かも)よ、よくやった!』 なんていう親の場合を除く。)

否、考えたことなどないからこそ、自爆なんていう最悪の親不孝ができるんだろうな。

テロ行為でいったい何が変えられると信じて、自爆していくんだろう。

せっかく生まれてきた命を粗末にするに値する、いったい何が見えたんだろう。

そんな死に急がなくとも、誰だっていつかは例外なく死ぬのに。

 

パリの犠牲者のご冥福をお祈りします。・・・・・

 

 

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パリ ・ その後

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13日のテロ事件の犠牲者に哀悼を捧げる献花や献キャンドルが膨らみ続けるパリ。

 

 

 

BBC Breakfast News のレポーターのグレアム・サッチェル氏はそんなパリから今朝、

ふたたび希望が見えつつあることを生中継していたんですが、

 

感情が昂ぶり、予定より早くレポートを切り上げなければなりませんでした。 (動画はこちら。)

   

 

「・・・・・ 昨夜は信じられないほどの人出がありました。 ここでも、そしてエッフェル塔でも、夜の祈りが捧げられました。

エッフェル塔は赤・白・青にライトアップされ、希望の象徴のようでした。 ・・・・・

・・・・・ すみません、・・・ すみません ・・・・・」

 

スタジオの女性キャスターが慰めるように 「グレアム、・・・」 と声をかけると、

 

「これで終わりたいと思います。 ここパリには確実に希望が戻りつつあります。」

 

そしてサッチェル氏は画面から退場。

 

“ ・・・ Last night it was incredibly busy.  There were vigils here, there were vigils at the

Eiffel Tower. The Eiffel Tower was lit up in red, white and blue,

which I think is a sign of hope.  ・・・ Sorry, ・・・ so sorry. ・・・”

 

“Graham, ・・・”

 

“I will leave it there.  There is certainly hope here in Paris.”

 

 

 

今日は私、仕事がオフだったので、ちょうどこの生中継を見ていたんです。 プロのレポーターが感情に負けるなんて

めったにないことなので、つられて私の目も潤んじゃいました。 テロのあった現地に立って、テロの傷跡を目の当たりにして、

犠牲者の写真や悲しみに打ちひしがれる人々を見てレポートしているのだもの、感情が昂ぶるのは人間として当然。

46歳のサッチェル氏は三人の息子さんがいるそうだから、犠牲者に自分の息子を重ね見てしまったのかもしれません。

私も一緒です。 ムスメが先週パリにいることだって有り得たんですから。

 

レポーターは、レポーターである前に人間。

サッチェル氏にはその後、SNを通じて賞賛と激励のメッセージが寄せられ、サッチェル氏はそれに感謝しているそうです。

 

 

 

 

テロ事件後初めて三色にライトアップされたという、昨夜のエッフェル塔。

 

 

今夜はロンドンのウェンブリー・スタジアムで、フランス-英国間のサッカーの友好試合が予定通り行われました。

 

 

もちろん厳重な警備体制の下で。

 

  

普段はあまり仲のよろしくないフランスとイギリス。 かつてないほどの連帯感が見られるのは嬉しいことです。

 

 試合に先駆け、テロ犠牲者を悼んで花を捧げるウィリアム王子やキャメロン首相たち。

  

試合を中止するという案も浮かびましたが、両国チームの選手に聞いたところ、全員が 「予定通り行いたい」 と希望したそうです。

いとこがテロの犠牲になったという、フランス・チームの Lassana Diarra 選手(下右)も含めて。

 

 

13日(金)夜、バタクランのテロリストから逃げるため、窓からぶら下がったこの女性(動画はこちら)。

どうなったか心配していたんですが ・・・・・

無事引き上げてもらって助かっていたことがわかりました。 なんと彼女(20代)妊娠中で、下にいる人々に

「妊娠してるの! 助けて!」 と叫んでいたそうです。

まだ妊娠初期の段階なので、三ヶ月に入るまではと恋人にも両親にも打ち明けていませんでした。

彼女の恋人はニュースで動画を見て彼女の妊娠を知ったそうです。

 

・・・ よかった~、助かって!!

テロを生き延びた彼女には、もう怖いものなんて何もないことでしょう。

出産なんてきっと朝飯前。

元気な赤ちゃんが生まれますように!

 

 

 

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お菓子の買い込みと代車

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ただ今4連休中で、今日が連休3日目。

叔母さんに送るアルバム作りは着々と進んでおります。

天気がずっと悪いので、残念ながら?散歩に行けず、その分アルバム作りに時間をつぎ込めました。

昨日はグロスターに行く用事があったので、帰りにタウンに寄り、コテージ型の缶に入ったビスケットを買いました。

私が現在寝起きしている2階のムスメの部屋に溜め込まれつつある、アルバムと一緒に送るお菓子。

あのあと(そうだ、父方の叔母さんだけでなく、同様に4月に会えた母方の叔母さんと私の従兄妹にもアルバムを

作って送ろう!)と思い立ったので、お菓子もその分増量です。

 

かわいいコテージ型缶入りビスケットは、デパート DEBENHAMS のもの。

下左画像が表、下中が裏側です。 ビスケット450g入り。

私の職場である病院で、クリスマス・ギフトのカタログを何気なくめくっていて見つけました。

2缶しか残っていなかったのが残念。

(今ウェブサイトを見てみたら、このビスケットはもう載っていませんね。 売れ過ぎて品切れになっちゃったのかな?)

  

近所のスーパーで買った、マクビティーのチョコレート・ビスケット。 左が650g、右が400g入り。

 

スイスのリント社の “リンドール” (337g)は、本当においしいですよね。 私も大好き。  

イギリスのソーントンズ社の “モーメンツ” (250g)も、手軽なので買ってみました。

  

 

さて、昨日なぜグロスターに行ったかというと。 グロスターにあるホンダの修理工場に、車を引き取りに行かねばならなかったのです。

車を持って行ったのは一昨日で、修理が完了するまで待つつもりでした。 ところがストックしていなかった部品があり、

入荷は翌日になるため、代車で帰ることを勧められたのです。

 

私のと同じホンダ・ジャズ(日本ではフィットと言うらしいですね)だけど、できたてのホヤホヤ、ピッカピカの新車!

しかもオートマ!! 私はマニュアル車しか運転したことがなかったので、緊張しました。

昨日の朝、我家の車道に停まっていた代車の新車くんです。

こんなに新しい車がここに停まることなど後にも先にもおそらくこれきりなので、記念撮影。

   

後部にホンダの修理工場のウェブ・アドレスが入っているのが残念だけど。

  

計器盤?もハイテク仕様。 まだ600マイルほどしか走行していないこんな新車を私のような未熟者に貸すって・・・・・ 太っ腹!

 

グロスターにあるホンダ・ガレージ(下左は資料画像)です。 修理工場はこの裏手にあります。

  

いやぁ~、自分のでない車を運転するって緊張しますね。 やっぱり私は、マニュアルでも10歳でも、

慣れた自分の車の方がいいです。 オートマチック、ラクで良かったけど、一度あれに慣れてしまったら、

私にはもうマニュアルには戻れない気がするし。

(イギリスではオートマはあまり普及しておらず、お値段もマニュアル車より高いです。)

見た目も新車のジャズはスタイリッシュ過ぎて、スタイリッシュから程遠い私には不似合い感ハンパない。

やっぱり私は、乗り慣れた10歳のジャズくんで十分。 このジャズくんの命が尽きるまで、お付き合いしたいと思います。

  

10歳にしてはキレイって? じつはジャズくんを引き取りに行ったら、ぴかぴかに掃除してくれてあったんです!

外側だけでなく、内側も! 汚れていた床までキレイ~に。

 

修理に出す前にざっと掃除するつもりでしたが、雨続きだったのであきらめたんです。 掃除しとかなくてよかった。

・・・じゃなくて!

掃除してくれた方、ありがとう!

 

代車の提供もここまで高水準の掃除も、初めてのことでした。

VWのスキャンダルで揺れたクルマ業界なので、顧客を繋ぎ止めるためサービスを強化させているのかなぁ?

 

 

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R. I. P. ディーゼル ・・・・・

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パリの連続多発テロの首謀者の潜伏先での銃撃戦で、殉死した警察犬のディーゼル。

7歳のメスのベルジャン・シェパードだったそうです。

 

 ハンドラーとともに現場に赴いたディーゼル。

  

 これがディーゼルの最後の画像となってしまいました。

 女性テロリストの自爆に巻き込まれての殉死だということです。

ディーゼルを巻き添えにして自爆した女テロリストは、ベルギー生まれの26歳、Hasna Aitboulahcen。

宗教には関心なく、コーランを読んだこともなく、酒好きで髪をブロンドに染め、普段はジーンズを履いていたという彼女。

ひと月ほど前に突然ムスリムの伝統的な衣服とヴェールを着けるようになったそうです。

26歳の若さで、何を死に急いだものか・・・・・ 理解できません。

 

ディーゼルの悲報を知った世界中の人々から、追悼のメッセージや画像がSNに寄せられました。

 

  

 

平和を守るため闘ってくれたディーゼル。

本当にありがとう。

天国には、きみのために特別な場所が用意されているからね。

 

ディーゼルの相棒だったハンドラーの方のショックも、測り知れないことでしょう。

一日も早く立ち直ってくれますように。

 

ディーゼルの一生は、千人万人のテロリストを合わせても比較にならないくらい、ずっと貴重な意義あるものでした。


Rest In Peace, Diesel ..... 

 

 

 

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サプライズ・プレゼント

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先週20歳の誕生日を迎えたムスメ。

なのに、あぁなのに、ダメ母はバースデー・カードを送るのを忘れてしまったのですよ。

買ってはあったんだけどなぁ・・・ 

サプライズ・プレゼントの手配は忘れなかったんだけどなぁ・・・

 

ムスメ、今年は地味な誕生日を過ごしたそうです。

エッセイの提出期限が迫っていたし、大学構内のお店でのバイトもあったしで忙しかったので、特別に出かけたいとも思わず。

でも誕生日当日は、友達が集まってロースト・ディナーを料理しお祝いしてくれたそうです。

(黒っぽい糸コンブ状のものは、紫キャベツのゆでたのだと思います・・・たぶん。)

 

 

プレゼントもいただきました。

 

 

バースデー・ケーキも用意してくれました。 ムスメ、何をお願いしたのかな?

 

 

ふた月ほど前ダーズリーを歩いていたら、お店のウィンドーの中にクッションがあったんです。

テリアか何かの犬の絵がプリントされた。

で、(ボーダー・コリーならよかったのにな)と思い、続けて(そうだ、自分の写真をプリントしたクッションを

作ってくれるサービスがあるんじゃないか?)と思いついたんです。

ネットで探してみたら、ありました~!! コチラ

そんな訳で、ムスメへのサプライズ・プレゼントはこれ。 ムスメ、と~っても気に入ってくれました

見た瞬間は、思わず泣いてしまったそうだけど。

 

誕生日の数日前に、ムスメの元に届いたクッション。 ムスメ、誕生日まで開けずに待ったそうです。

包みの外側にクッションと記載されていたのでクッションとはわかっていて、

誕生日前に電話で話したとき、「ボーダー・コリー(のクッション)ならいいな」 と言っていました。

ふっふっふっ・・・・・ たしかにボーダー・コリーだったでしょ? それも特別な!

 

念のため、クッションの元の画像はこちら ↓ です。

 

あ、ちなみにこのクッションは、メインのプレゼントとは別のサプライズ・プレゼントです。

「バースデー・プレゼントとクリスマス・プレゼントを合わせてもらっていい?」 というリクエストにお応えして。

来月半ばにクリスマス・ホリデーで戻って来るムスメ。

さて、一体何をおねだりしてくることやら?

 

あとひと月ちょっとでクリスマス。 ケイトーも一緒だった最後のクリスマスから、もう6回目になるのか ・・・・・

 

クッションを大喜びしてくれたムスメの心の中には今もケイトーが生き続けていると知り、私も嬉しい。

ムスメにとってケイトーは、人生最初の14年間を一緒に生活した兄貴分弟分だものね。

これからも私たちを、特にムスメを、見守っていてね、ケイトー! 



《 オマケ: 3年前のクリスマスにムスメが手づくりしたカードです  》

( 関連記事 『ケイトーのクリスマス』 はコチラ。)


 

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初霜

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昨日(11月23日月曜日)の朝、初霜が降りました。

(南西部のこの辺りで11月に初霜は、珍しいと思う。

前夜は私は遅番だったため、車道の先に停まっているのは私の車。 オットーが出勤するため、車の入れ替えをしなければなりません。

もちろん車の窓にも霜がびっしりだったため、この冬初の霜の掻き落としをしました。 メンドーな季節の到来です。

午前8時10分の外気温は、-1℃でした・・・・・

裏庭はこんな感じ。

少ししたら日が差してきて、少しあったかい気分になれました。

今朝は同じ時間に6℃ありましたから、例年並みに戻っていました。 よかった。

 

昨日は遅番でしたがチェルトナムに用事があったため、早くに家を出て用事を済ませたあと、タウン・センターをぶらつきました。

オシャレなお店よりも庶民的なお店が並ぶ Lower High Street は、現在再開発中です。

 

オシャレなお店が並ぶ High Street はこちら。 12月に入ると、平日ですらクリスマスの買物客で賑わいますからね。

来月は寄りつかないようにしようっと。

 

いまどき公衆電話が残ってるんだ! めずらしい! しかも使ってる人がいる!! と感動して

思わず証拠写真(?)を撮ったのですが、どうやら電話、壊れていたらしく、

使おうとしていた男性が毒づいているのが聞こえました。 ・・・気の毒に・・・

 

リージェント・アーケード内に毎年お目見えするクリスマス・ツリーです。

  

ムスメが小さい頃は、一緒に内部をくぐり抜けたものでした。 懐かしいなぁ・・・・・

 

最近お化粧直しされたばかりの、リージェント・アーケードの正面入口です。

そこからそれほど離れていないところに、八百屋さんの屋台が。 これも、いまどき珍しいかも。

 

倹約主婦の私。 ランチは99ペンス・カフェで、トマトとモツァレラのパニーニのトーストとココアにしました。

それぞれ99ペンスなので、合計1.98ポンド(≒¥384)です。

以前入った99ペンス・カフェは Lower High Street にあるため現在休業中でした。

もう一軒あるのを見つけておいてよかった。 こっちの方が狭いけれど、目的が叶えばそれでいいのです。

 

ハイ・ストリートの案内板の下方にあった画像。 19世紀の始め頃のハイ・ストリートかな?

現在と見比べても、何となく面影があるような。 同じ辺りかどうかはわかりませんが。

 

また Lower High Street を歩いて、スーパーの駐車場においてきた車に戻ります。

 

こうして新旧並べて見る(下右)と、たしかに古いビルは古ぼけた時代遅れのデザインであることがわかります。

 

再開発後のこのあたり、いったいどんな風になるのかな?

楽しみ~

 

 

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お菓子の荷づくり

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この春里帰りした際、福島県の親類を突撃訪問したムスメと私。

にもかかわらず温かく迎えてくださった皆さんに心ばかりのお礼がしたくて、お菓子を買い込みました。

先日記事にしたの(下左)に加えて、さらにアレコレ買い足し。

乗りかかった船なので、実家や兄の一家やお世話になった友達にも送ることにしました。

 

農家の形の缶も素敵だったけど、お店の形のこれも素敵!

 

イギリスのクリスマスには欠かせないミンス・パイに、私の好物のシュトレン(・バイツ=ひとくち大になったやつ)です。

ミンス・パイはものすご~く甘いので、普通の大きさ6個入りではなくミニのが12個入ったやつにしました。

 

紅茶が好きなべつの叔母さん用にハーブ・ティーとフルーツ・ティーと、我家でいつも飲んでいる紅茶も。

 

子供がいるお宅用に、子供向けのお菓子です。

 

甘いものばかりで参るだろうから、甘くないものもね。 

 

シナモン風味のビスケットは、私の好物です。 チョコレートでつつまれたスパイシーで柔らかいビスケット、レープクーヘンも好き。 

 

ただ今三連休の2日目が終わるところ。 初日の昨日のうちに、荷づくりの大半は済ませました。

 

 

 

それにしてもつい溜息が出てしまうのが、日本に小包を発送する際の料金の高さです。

2kgまでなら小型包装物として航空便で比較的安めに送れますが、それでもかなり高い。

 現在の Royal Mail の料金表によると、日本への小型包装物の航空便での送料(日本はゾーン1)は:

 1.0kg     £12.85  (≒¥2,364)

       1.25kg    £15.55  (≒¥2,861)      

 1.5kg     £18.25  (≒¥3,358)

 1.75kg    £20.95  (≒¥3,855)

 2.0kg     £23.65  (≒¥4,352)

船便でなら2.0kgが£13.80(≒¥2539)とかなり安くなりますが、でも配達に6~8週間かかってしまう。

年が明けてずっと経った間の抜けた頃にクリスマスのお菓子が届いてもねぇ・・・ モノによっては賞味期限も切れてるだろうし・・・

それにイギリスには、私が日本から(そしてドイツから)よく利用していたSAL便(スタンバイ航空便)

というものがないのです。 残念ながら。

 

興味が沸いたので、日本からイギリスへの小型包装物の送料を調べてみました。

        航空便 / SAL便 / 船便

1.0kg     ¥1860 / ¥1080 /  ¥770

1.5kg     ¥2310 / ¥1580 /   ―― 

2.0kg     ¥2760 / ¥2080 / ¥1080

イギリスからより、ずっと安いやんけ! うらやましい・・・  というより、イギリスの料金が高すぎ!!

 

そしてさらにぼったくられ感が増す のが、2kgを超える小包の送料です。

今回一番大きいものは8.3kgあるんですが、仮に日本からイギリスへそれを送るとするとその送料は、

航空便なら  ¥15,400

SAL便なら  ¥11,500

船便なら     ¥6,200

 

でもイギリスから日本(ゾーン11)に送る場合は、

航空便なら Express (速達: 3日~)で  £162.95 (≒¥29,983)

        Priority (優先: 4~6日)で   £145.10 (≒¥26,698) 

        Value (お得: 6~8日)で   £133.65 (≒¥24,592)  

 

なんでこんなに高いの~ ・・・・・   しかも Economy (船便 : 46~51日) でさえ、

£130.95 (≒¥24,095) !

配達にひと月半からふた月もかかるくせに航空便のお得便と料金は大差ないって・・・

それでも船便を選ぶ人、いるんだろうかっ?!

 

そんな訳なので、できるだけ重さを2kg以下に抑えようと、同じ宛先への小包を二つに分けたりしました。

別途で送るクリスマス・カードに添える手紙で事情を説明すればいいかと。

 

・・・ でも、待てよ ・・・・・

以上の配達料金はすべて郵便局(Royal Mail)扱いの場合ですが、国際電話が民間サービスを使って

安くかけられるようになったみたいに、海外への小包配達も、安くできるサービスが出てきてるんじゃないのかな?

うん、ネットで探してみよう!

中味よりずっと高くつく送料を黙ってぼったくられるなんて、シャクだもんね。

 

 

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ジャファ・ケーキ

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荷づくりの合間にネットしていて、こんな記事を見つけました。

復活希望! あのお菓子をもう一度

 記事中で言及されている 『発言小町』 の 「復活してほしいお菓子」 のトピック主さんが

復活してほしいもののトップに挙げている、「オレンジジャムのはさんであるチョコでコーティングされたクッキー」 ・・・・・

あれっ、これってジャファ・ケーキみたい!

 

日本を離れて23年。 今や日本には何でも輸入されているから、ジャファ・ケーキもあるものだと思っていました。

ジャファ・ケーキが恋しがられているなら、日本に送る小包に追加しなくちゃ!

ということで、スーパーに行って早速買ってきました(下左)。

トリプル・パックだから、12個が縦長に包装されたのが3つ入っているようです。

 

 

そっか、日本では市販されていないのかぁ。 アマゾンでは買えるみたいだけど、12個で1020円=1個85円!?

スーパー・テスコで特売になっていた私のトリプル・パック(36個入)は1.49ポンド(≒276円)でしたから、

3で割ると、12個で92円、1個なら7.7円!

ジャファ・ケーキ、日本では貴重品ですね。 こっちで納豆が貴重品なのと同様に。


マクビティーは日本では明治が輸入元とありますが、明治のマクビティーの商品ラインナップには、

確かにジャファ・ケーキは載っていませんね。

日本で恋しがられているのなら、輸入してあげればいいのになぁ。

 

ジャファ・ケーキは私も好きですが、食べ始めるとやめられないのであまり買わないようにしています。

柔らかスポンジとオレンジ・ゼリーとチョコレート。 おいしいのは当たり前。

 

 

1830年にスコットランドのエジンバラで創業したユナイテッド・ビスケット社。 創立者ロバート・マクビティーの

名を取って、“マクビティー” がブランド名のひとつになりました。

ジャファ・ケーキ(Jaffa Cakes)が世に出たのは、1927年。 ジャファ・オレンジからその名がつけられたそうです。

ビスケット大の直径6.4cmの丸くて薄いスポンジにオレンジ風味のゼリーが載せられ、上面がチョコレートでコーティングされたジャファ・ケーキ。

マクビティーがジャファ・ケーキを商標登録しなかったため、他のビスケット製造会社や大手スーパーも、

ジャファ・ケーキの名で自社製品を出しています。

 

「ジャファ・ケーキはケーキなのか、それともビスケットなのか?」 が、1991年に付加価値税の争点になったそうです。

それというのは、英国では大抵の消耗品やサービスに付加価値税(VAT=Value Added Tax=消費税)が課されます。

レストランでの飲食や温かいテイクアウェイの食べものにも17.5%が課税されます。

でも生きていくために必要な食料品は課税対象になりません。

そのため英国人にとって必需品である ビスケット、ケーキ、チョコレートがけのケーキはもちろん非課税です。

ただチョコレートがけのケーキは非課税ですが、チョコレートがけのビスケットには課税されます。

(外食やテイクアウェイと同様、チョコレートがけのケーキはよくても、なぜかチョコレートがけのビスケットは贅沢品とみなされるんですね。

「その大きさと形、そしてビスケットの代わりとしてよく食べられるという事実から、ジャファ・ケーキはビスケットである」

という税務局の主張に対し、マクビティー側は 「スポンジをベースにしたジャファ・ケーキは、まぎれもなくケーキである。

その証拠に、古くなるとビスケットは柔らかくなりケーキは堅くなるが、ジャファ・ケーキは堅くなる。」 と反論。

判決はマクビティーの主張を受け入れたものとなり、ケーキと認められたジャファ・ケーキには付加価値税は課されないことになったそうです。

 確かにチョコレートがけのビスケットは高いのに、ジャファ・ケーキは安め! ・・・ひとつ利口になったわぁ。

 

ジャファ・ケーキのケーキなんてのも2013年に出たそうです。 でも売れ行きが不調だったのか、その後打ち切りになったもよう。

 

 

 

 頑張ってジャファ・ケーキを自作する人もいるようです。 どれもおいしそう

下左はプロのシェフによる Homemade jaffa cakes

  

 ケーキ版のジャファ・ケーキもまたしかり。

 

下右はプロのシェフによる Jaffa Cake Cheesecake。 これもおいしそう

 

 チャリティー・イベントかな? 下左はジャファ・ケーキの超大型版ですね。

下右は、ジャファ・ケーキで作ったストーンヘンジ。

 

 

 いろいろ画像を見ていたら、久しぶりにケーキを作りたくなってきちゃった。

ムスメが戻って来たら、一緒にジャファ・ケーキ・ケーキづくりに挑戦してみようかな?

 

 

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ベッキー・ワッツ事件 : 判決下る

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今年2月19日(木)にブリストルで行方不明になったベッキー・ワッツ(敬称略)。

16歳だった彼女は3月2日(月)に、損壊された遺体となって発見された。

    

 

殺人容疑で逮捕されたのは、継兄(父親の再婚相手の息子)であるネイサン・マシューズ(28歳)と、

そのパートナーであるショーナ・ホーア(21歳)。

 

ベッキーの実父のダレン・ギャルズワージーは、13年前からマシューズの母親アンジーと、

双方の子供たちを交えて同居。 二人は2013年に結婚した。

マシューズ、ホーアとベッキーが一緒に写ったその日の写真(下左)。

  

 

ベッキーの実父ダレン・ギャルズワージーによると、その昔幼なかったベッキーはマシューズが大のお気に入りで、

“ネイサン” が初めて口にした言葉だった。

しかし成長するにつれてベッキーはネイサンを怖れるようになり、友人にそう漏らしていたという。

友人によると、ネイサンは20歳だったときに8歳のベッキーの内腿に触った。

それがきっかけでベッキーは彼を警戒するようになった。

 

暴力的なポルノに溺れていたマシューズは、内縁の妻のホーアとともに、小柄なティーンの女性に対する性的欲求を満たすため

ベッキーの誘拐を計画。 (ベッキーの身長は155cm。)

先月上旬に下された判決は、マシューズが殺人、ホーアが故殺(殺意がなかった殺人)で有罪というものだった。


「自分勝手で母親に敬意を払わないベッキーを脅かして懲らしめるため誘拐しようと思ったが、誤って殺してしまった。

自分は単独犯で、ショーナ(・ホーア)は一切犯行に関与していない。 自宅浴室でベッキーの遺体を損壊していた間は、

トイレが詰まってしまって使えないとショーナに嘘をつき、彼女を中に入れなかった。」 というのが、マシューズの供述。

彼の告白通り、ベッキーの遺体と衣類とアイフォーンとラップトップは、マシューズの自宅から80mほどしか

離れていない友人宅の物置小屋で発見された。 遺体は首、膝の上、両肘と両手首で切断されていた。

   

 

故殺で有罪になったホーアは、昔の級友たちによると “夢想家” で、「自分は癌に侵されている」 と嘘をついたこともある。

マシューズによるとホーアは事件当時双子を妊娠していたが、その後妊娠状態は終わったということだ。

マシューズとホーアの間には、すでに子供がいる。

ベッキー殺害への関与を一切否定したホーアだが、犯行時に使われたマスクからは

マシューズのものに加えてホーアのDNAも検出された。

      

 

2月19日(木)防犯カメラに捕えられた、ベッキーの家に向かうマシューズの車、黒のザフィーラ。

ベッキーの死亡時間は確定できないが、彼女は午前11時03分に友人に最後のテキスト・メッセージを送っている。

 

犯行現場となったのは、ベッキーの部屋だった。

多発性硬化症を患うベッキーの継母の体が不自由なため、マシューズとホーアはときどき手伝いに来ていた。

二人のための合鍵が外に隠してあり、それを使って二人は屋内に入った。

 

マシューズはマスクを付けてベッキーの部屋に忍び込んだが、彼女の激しい抵抗に遭いマスクを外されて顔を見られたため、

その場で絞殺したと考えられている。 このときマシューズとホーアは、2つのスタンガンを違法所持していた。

ベッキーの遺体を車の後部に積み込んだあと、二人はベッキーが実父・継母と住む家で、さらに8時間を過ごした。

その後2マイル(3.2km)も離れていない自分たちの家(4)へと戻った。


ベッキーの部屋

 

 

1 ベッキー・ワッツ、自宅の自室で2月19日に殺害される

2 ベッキーの死の2日後、マシューズがDIY店で排水管の洗浄剤・電動丸のこ・マスクとゴーグルを購入。

3 マシューズとホーア、スーパーマーケットでラブル・バッグ(*)とラップを購入。

(* ラブル・バッグ=瓦礫を詰めて運ぶための、大きくはないが非常に強いビニール袋。)

 

4 ベッキーの遺体が損壊された、マシューズとホーアの家

5 ベッキーの損壊された遺体が発見された、カール・デメトリアスとジェイディーン・パーソンズの家

 

80ポンド(≒¥14,800)の電気丸のこ・ゴーグル・マスク・バッグ・ラップ・テープなどを購入した二人は、続く3日間でベッキーの遺体を

8つに解体して包装し、スーツケースや箱に詰め、2月24日早朝に80mしか離れていない物置小屋(5)へと運んだ。

ベッキーの遺体には、死後につけられた刺し傷が15箇所にあった。 また胴体中央部には長い切り傷がつけられていた。

遺体には40に上る痣も残っており、ベッキーの抵抗の激しさを物語っている。 これはマシューズの

「誤って殺してしまった」 という供述と矛盾し、彼の殺人罪での有罪判決の決め手のひとつとなった。

  

 

過去に陸軍訓練生だったマシューズは、「死体安置所に入り込んで死体を好きにできる」 ことや 「簡単に人を殺せる方法を学んだ」 ことを、

幼馴染の友人に自慢していたという。 友人はたちの悪い冗談だと聞き流していたが。

 

入口から見た浴室(下左)と、バスタブの足元側から見た入口(下右)

  

犯行の一年半ほど前からマシューズは “ゴミ貯め人” となり、外で不用品を拾っては家に持ち帰った。

「他人にとってはゴミでも、自分にとってはまだまだ十分使用可能。 修理して売れる。」 と。

そのため屋内はどの部屋も廃品で一杯。

  

ジューサー(下左)と調理台(下右)が見えるから、ここはキッチンらしい。

 

寝室のドアからベッドまでが唯一の障害物のないスペースで、彼らは寝室で生活していたという。

ホーアによると、お湯も暖房も使うことはなかった。 マシューズが 「金がかかりすぎる」 と言ったから。

この環境で幼児を育てていた??? ・・・・・子供が保護されていたことを祈る! (ニュース記事では触れられていませんでした。)

  

 防犯カメラに捕えられた、遺体損壊に必要な品を購入するマシューズと、その領収書。

   

 

ベッキーの損壊遺体が発見された物置小屋。 この家に住む二人はマシューズに頼まれて遺体の隠匿に協力した。

「中味が何なのか知らなかった」 と主張する二人だが、協力と引き換えに大金を約束されていたことが

テキスト・メッセージとして残っていた。 (二人に言い渡された刑は不明。)

 

 

マシューズは1987年生まれ。 父親は彼が生まれる前に母親のアンジーを捨てて去ったらしく、

彼の出生証明書には父親の名前がない。 7歳のときから、母方の祖父母としばらく暮らした。

陸軍の訓練生になったが、165cmと平均以下の身長だった彼は、些細なことで腹を立てて物を投げる一面があった。

2009年に陸軍を去ったマシューズは、間もなくホーアと出会う。

ホーアの母親リサ・ドノヴァンによると、ホーアは当時14歳で義務教育中だった。 そのため娘が20代のマシューズと交際することを、

母親は快く思わなかった。 マシューズは、二人が出会ったときホーアは16歳になっていたと主張する。

マシューズは、23歳のとき祖父母の家を出て16歳になったホーアと暮らし始める。 定職に就いていた様子はなく、

ピザや中華料理の配達をしていた。 彼はひどい苦痛をもたらす線維筋痛症に罹っていたという。


シングル・マザーだったリサ・ドノヴァンは、ショーナ・ホーアを産むとまもなく再婚した。

ドノヴァンは3人の異なる男を父親とする子供を、ホーアを含めて8人産んでいた。

学校に上がる前に保護されたホーアは、その後6つの里親家庭を転々とした。

ホーアの父親はアイルランド人でアーネストといい、ドノヴァンとの間にホーアを含めて4人の子供をもうけている。

アーネストは2003年に再婚し、二人の子供がいる。 彼がホーアの成長にどれほど関与したかは明らかになっていない。

母親ドノヴァン(下右)と連絡を取り続けていたホーアは13歳のとき母親と暮らせるようになったが、

マシューズとホーアが出会い、マシューズがホーアを支配し始めると疎遠になった。

マシューズはホーアが肥りすぎだからとパイを食べることを許さず、煙草を買うための金をくれず、

二人が友人を訪ねるときは友人にガソリン代を請求したという。

   

 

同棲を始めると、短気なマシューズはホーアに暴力をふるうようになった。 二人の関係が悪化すると、マシューズは

買春することもあったという。 昨年11月、二人は “小柄でかわいい女の子” をさらうことを計画し始めた。

同性愛を “実験” してみたことがあったというホーアも、小柄なかわいい女の子の誘拐に乗り気だった。

しかし二人の目は、やがてベッキーに向けられる。

「マシューズは面と向かってベッキーを脅したこともある。」 と、ベッキーの友人。

「どんな風に彼女を殺すかを実際に言葉にして。 ベッキーは本当に怖がっていたわ。」

 

二人の刑が言い渡されたのは、有罪判決の二日後の11月13日(金)。

マシューズは 『最低収容期間33年』 の終身刑、ホーアは 『同17年』 の刑を受けた。

つまり仮出所を申請できるようになるまでマシューズは33年、ホーアは17年待たなければならない。

 

18歳から23歳の三人の子供をもつディンジマンズ判事(51歳)は、尊厳を保ち続けたベッキーの家族に

敬意を払う言葉を述べ始めたとき感情に圧倒され、涙をこらえながら一時休止しなければならなかったという。

 

“ I should like to pay public tribute to the family of Becky for the dignified way

in which they have conducted themselves throughout these proceedings.

Hearing the evidence during the trial has been difficult for anyone,

but it is plain that it has been an immense burden for the family. ”

        

(注: イギリスの法廷では、判事さんはこのようなかつらを伝統としてつけなければなりません。 ・・・気の毒・・・

 

実父ダレン(51歳)は、判決後改めて悲嘆と憤怒を明らかにした。

「自分の息子のように愛してきたのに――今は嫌悪している。 ベッキーは私の末っ子だった。

苦痛は言葉にはできない。 アンジー(ダレンの妻でマシューズの実母)と私はこの世の地獄を味わわされた。

あの二人には、自らの命でもって償ってもらいところだ。」

マシューズの恐ろしい犯罪にもかかわらず、ダレンはアンジーと別れる意図はないという。


下の写真の左端はベッキーの実兄。 ベッキーが殺された2月19日は、彼の20歳の誕生日だったそうだ。

 

(ベッキーさんが行方不明になったとき、私はベッキーさんが月経中であることを公表したこの実父さんが怪しいと思っていました。

本当に申し訳ありませんでした!   ・・・月経の公表は今でもヘンだと思うケド。)

 

 

刑が言い渡された日、ネイサン・マシューズが母親アンジー(49歳)に宛てて送っていた手紙が公表された。

 汚い字で読み辛いので、タイプしたものがついていました。

「母さんは 『なぜ』 と僕に聞きたいだろうけど、言ったことが曲解されるといけないから

事件については何も語らないよう言われてるんだ。

でも起きたことは、起こすつもりじゃなかった。」

 

 

・・・と、後悔も懺悔もその片鱗すら見えませんね。

裁判中だったから仕方なかった・・・ なんては思わない!

内縁の妻ともども地獄に堕ちろ、この変態男!!

この二人、捕まらなければ新しいフレッド&ローズ・ウエストになっていたかもしれない。

と思っていたら、ベッキーさんの父親も同じことを言っていました。


 ベッキーさんの実母は、元通りに縫合されたベッキーさんの遺体に、遺体安置所で対面したそうです。

縫合の痕を隠すため、手首には包帯が巻かれていたそうです。

同じ母親として、場面を想像しただけで目が潤みます・・・

 

ベッキーさんの父親とマシューズの母親が出会ったときに、ベッキーさんの運命は決まってしまったのか。

どうすれば違う、もっとましな結末を迎えることができたのか。

小柄で華奢だったベッキーさん。 二人がかりで襲われたら、ひとたまりもなかったでしょう。

いくら変なところのある継兄とはいえ、一緒に暮らしたことのある身内に襲われるなんて・・・・・

まさに人生これからという16歳で、暴力的に断たれた命、奪われた未来。

酷すぎて、言葉もありません。

 

ベッキーさんのご冥福をお祈りします。 ・・・・・

 

 

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ナゾの物体

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先日裏庭にゴミが落ちていた。

ここのところ雨と風の強い日が多くて。 雨の合間にやっと拾いに行った。

丸まった紙クズとばかり思っていたら・・・・・

 

紙クズじゃなくて、もっとしっかりした物体だった。 何コレ???

  

 

一見ラードか何かに見えるけど、触ってみると脂っこさはなくて、ほんの~り赤みがかっている。 ラードよりというより、マーガリンの柔らかさ。

  

 

容器になにやらプリントされていた。

スコットランド製、チェリーのフレーバー? 賞味期限2017年9月??

夜帰宅した好奇心旺盛なオットーに見せたら、早速これを手がかりにネットでサーチし、正体が判明。

 

Horse Licker といって、馬になめさせるものだそうです。 おやつ代わりに、そして暇つぶしに。

  

 

 なるほどね~! 一人で過ごす時間が長いもの、何か楽しめるものがなくちゃかわいそう。

おやつをなめると下のボールが揺れる、おもちゃになったタイプ(下中)もあるのか。

(注: 下左と右は、ホース・ソルトという塩の塊かもしれません。)

  

 

馬には縁のない生活をしているから、馬のおやつなんて思いもよらなかった。

でも我家は住宅地にあって、一番近い馬のいる草原だって300mは離れているんだけど?

誰かがその辺に捨てたのを、キツネか何かが拾ってカジカジしたあと、うちの裏庭に置いていったのかな?

 

ケイトーがいた頃は毎日のように(ケイトーのトイレのため)裏庭に出ていたけれど。

ケイトー亡きあとは、めったに出ることがなくなってしまった。

ふと右手に目をやったら、オットーが種から育てて地面に植えたカエデが、いつの間にか大きくなっていた。

最近の強風のせいで?もう葉はかなり落ちちゃっていたけれど。

 

キレイ・・・・・  やっぱり紅葉はいいっ!! 

  

散歩中に紅葉を探しておきながら、自分の家の裏庭はすっかりネグレクトしていたわぁ。

来年は鑑賞してあげなくちゃね。

 

 

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