《 サリー機長の “あの日” からのつづき 》
2009年1月15日に起きた、ハドソン川の奇跡。
チェズリー・サレンバーガー機長(57歳)とジェフリー・スカイルズ副操縦士(49歳)は、
安全最優先で冷静沈着に困難な不時着水を成功させたことで、世界の称賛を浴びました。
メディアに囲まれる二人と、2009年2月24日にワシントンで開かれた事故調査審問会の冒頭でスタンディング・アプローズを受ける二人。
3名のベテラン客室乗務員――ドリーン・ウォルシュ(58歳)、ドナ・デント(51歳)、シーラ・デイル(57歳)――も、
状況を察知し機敏に対応し、乗客の迅速な脱出に大きく貢献しました。
その功績を讃えられ、1549便の乗員全員が、航空業連盟からマスターズ・メダルを授与されました。
(CBSのニュース・スタジオでインタヴューに答える乗務員たちの動画です。
サリー機長: Captain Sullenberger's Moment / 他の乗務員たち: In their Own Words)
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チェズリー・バーネット・ “サリー” サレンバーガー機長は、1951年1月23日にテキサス州デ二ソンに誕生。
スイス移民の末裔である父親は歯科医、母親は教師でした。 メアリー・ウィルソンという名のお姉さん(か妹さん)がいます。
幼い頃から飛行機の模型を作ることが大好きだったチェズリー少年は、近所にあった空軍基地で軍用機を見るうち
航空機の操縦に興味を持つようになりました。
聡明だったチェズリー少年は、12歳のときにメンサに入会できるほどIQが高かったそうです。
高校ではラテン語クラブの会長を務め、フルートを吹奏する特待生でした。
高校時代の友人たちによると、サリー機長はぺリン空軍基地(Perrin Air Force Base)のジェット機を見て
操縦に情熱を燃やすようになりました。
16歳のとき、自宅近くの私設滑走路で個人教官からエアロンカ・チャンピオンの操縦を習い、単独飛行を初経験。
1969年に優秀な成績で高校を卒業すると、米空軍士官学校に入学。 士官候補生としてグライダーのインストラクターも務め、
1973年の卒業時には、クラスの最優秀飛行士として表彰されました。
空軍士官学校で理学学士号を獲得していた彼はパデュー大学に送られ、産業心理学の修士号を獲得。
さらに北コロラド大学(The University of Northern Colorado)でも、行政学の修士号を獲得しました。
1975年から1980年まで、米空軍の戦闘機パイロットとしてF‐4戦闘機を操縦。 そのかたわら
フライト・リーダーと教官も務め、士官へと昇級し、レッドフラッグ演習の任務司令官も務めました。
米空軍にいたときは、航空機事故調査委員会のメンバーでもありました。
1980年に退役し、USエアウェイズの前身だった民間航空会社のパイロットに転身。
航空業務の安全性向上に情熱を注ぎ、安全関連の各種委員を務め、
パシフィック・サウスウエスト航空1771便墜落事故やロサンゼルス国際空港地上衝突事故など、
USエアウェイズ社の非常時における乗務員の危機管理訓練コースの開発と実施に大きく貢献し、何百人もの乗務員を
実際に訓練もしました。 危機的状況下での乗務員の心理を研究し、国際パイロット連盟の安全委員会の長も務めました。
2007年に組織の安全・実績・信頼性を高めるための指導を提供するコンサルタント会社も設立しています。
1989年に、フィットネス専門家でTVパーソナリティーでもあるロレイン “ロリー” さんと結婚。
お二人の間には二人の娘さん――ケイトさんとケリーさん――がいます。
最初の娘さんが生まれたのは、サリー元機長が42歳のとき。
平均より遅れて父親になった喜びを、コチラで垣間見ることができます。
「サリーはよく 『パイロットが生涯のキャリアの中で事故に遭うことなど非常に稀だ』 と言っていたので、
事故の心配は一度もしたことがありませんでした。 だから不時着水直後に彼から電話で 『事故があった』 と聞いたときも、
単なるマイナーな事故だと思ったのです。」 と、ロリーさん。
ショック状態のまま親友に電話をかけて 「娘さんたち(当時15歳と14歳)を迎えに行きなさい」 とアドバイスされたロリーさんは、
すぐに学校に電話し、「夫が飛行機を墜落させました。 10分で迎えに行くので、娘たちを事務室に呼んでおいて下さい。」 と
頼んだそうです。 「耳の速いレポーターたちに先に娘たちを捕まえられたくなかったのです。」
さすがサリー機長の奥様。 頭の回転が速い!
“ハドソン川の奇跡” を境に、無名の一パイロットだったサリー機長は一躍世界のヒーローに。
サリー機長の家族にとっても、驚嘆に次ぐ驚嘆の非現実的な毎日が続きました。
そんな一家の支えになったのが、人々から届いた手紙や、喜びや感謝のメッセージだったそうです。
不時着水から数日してようやくサリー機長が帰宅すると、一家は暖炉の前に集まり、サリー機長のため順番に
手紙を読み上げたそうです。 ある女性はこう書いてきました。
“昨年私は仕事を失い、家を失い、父を失って、何も信じられなくなっていました。
でもあなたが私に、ふたたび信じる心を取り戻してくれました。”
一家は、9/11からまだ完全に立ち直っていないニューヨークとニュージャージーの人々が、
1549便の乗員と救助チームに対して特別な連帯感を感じたのだろうと考えています。
“9/11で多くのすばらしい人々が犠牲になりました。 ニューヨークの人々は、死ぬまでに再度
あのような悲劇が起こることには耐えられなかったことでしょう。”
“私の息子はワールド・トレード・センターからハドソン川対岸まで、命からがら逃げました。
あの日の記憶は、家族の全員にとって今でも鮮明です。
あなたの飛行機がハドソン川への不時着に成功し全員が救われたのを見たことは、
あの忌わしい記憶を克服する大きな助けになりました。”
ここからは、サリー機長の奥様ロリーさんの言葉でどうぞ。 (2009年11月4日付エッセイの意訳です。)
「私たちは2万通の電子メールと、何万枚ものカードや手紙や小包やファクスを受け取りました。
南極を除くすべての大陸から手紙をいただきました。 花屋を開店できるほどの花も贈られました。
サンタクロースのステータスを得た夫の元に、“サレンバーガー機長” “サリー” とだけ書かれた手紙が数多く届きました。
私のお気に入りはヨーロッパからのもので、“アメリカのヒーロー・パイロット” 宛てで、その下には
“親愛なる郵便局長さんへ、私は彼の住所を知りませんが、あなたは彼を見つけてくれると信じています。”
と書かれていました。
航空業界で働く人々とその家族たちには、特別な絆があります。 特に心を動かされた手紙は、ある女性から届きました。
彼女は、1996年にフロリダのエヴァーグレーズに墜落したバリュージェット592便の副操縦士の娘さんでした。
60 Minutes でサリーが言ったことを聞いて、手紙を書かずにいられなくなったそうです。
彼女は父親の最後の数分間の心境をくり返しくり返し想像しては苦しんできました。 事故調査員たちは、
父親は 『最後の最後まで墜落を避けようと必死で、恐れを感じることなく死んだはずだ』 と言ってくれたものの、
彼女はそれを信じることができずにいました。 でもサリーの話、彼が機の着水にのみ極度に集中していたことを
聞いて、ようやく心に平和を感じられたそうです。 私はその手紙を、その後何ヶ月もバッグに忍ばせていました。
『サリー機長は英雄視されることも注目を集めることも望んでいないのは知っているけれど、私たちにはヒーローが必要なのです』
と、多くの人が書いてきました。 人々は彼に、ヒーローの役割を続けて欲しがっているのです。
サリーと私は、感謝は両方通行でなければならないと信じています。 私たちが幸運にも受けた絶大なサポートと感謝を、
今度は私たちが、でき得る限り返していかなければならないと考えます。
ある少年は、サリーにこう書いてきました。 今年はプレゼントの予算を削らなければならないと。 彼の父親は
サリーの大ファンなので、できたらサリーにバレンタイン・デーのランチのサプライズ・ゲストになって欲しいと。
サプライズ・ゲストは無理でしたが、代わりにその父親に電話をすることにしました。
電話から離れたところにいた私にすら、サリーの正体を知ったその子の喜びに満ちた叫び声が聞こえてきました。
サリーはその子としばらく話したあと父親とも話をし、息子さんの思いやりを讃えました。
その晩私は、サリーの些細な行為がどれほどあの父子を幸せな気分にしたかを考えていたとき、思わず涙ぐんでいました。
この場を借りて、私たちに手紙を下さった皆さんに心からお礼を申し上げます。
皆さんの手紙にあった言葉を真似してしまって恐縮ですが――
“ありがとう” は、まったくもって不十分です。」
“ハドソン川の奇跡” 後、スカイルズ副操縦士は4月に仕事に復帰しましたが、サリー機長は議会で証言したり、
本を執筆したりするかたわらしばらく休養をとりました。 9月11日にシャーロット‐アトランタ間をテスト飛行。
10月1日に仕事に復帰しました。 USエアウェイズの計らいで、当日の相棒はスカイルズ副操縦士。
午前中にシャーロットからニューヨークのラガーディア空港に飛び、同日午後ラガーディアから
“ハドソン川の奇跡” の際の目的地だったシャーロットに、無事到着しました。
サリー機長の復帰がニュースになると、彼の便の航空券はたちまち売り切れになったそうです。
離陸前 「またハドソン川に降りることになる可能性は?」 と訊かれたサリー機長は、
“Astronomical.” と答えたそうです。
ハドソン川の奇跡の翌年にパイロットを引退。 彼の最後のフライトは2010年3月3日の
フロリダ州フォート・ローダーデール発ノースカロライナ州シャーロット行き1167便で、不時着水時の相棒だった
ジェフ・スカイルズがこのときも副操縦士を務め、機長の奥さんロリーさんと1549便の乗客5人が搭乗したそうです。
客室乗務員で着水時に脚に裂傷を負ったドリーンさんも、同じ日に引退しました。 (ニュース映像はコチラ。)
2009年10月に出版されたサリー機長の回想録 “Highest Duty: My Search for What Really Matters” は
ニューヨーク・タイムズのベストセラー自伝に。 2012年5月には2冊目の著作 (Making a Difference:
Stories of Vision and Courage from America's Leaders) が出版されました。
サリー元機長は2011年5月から、CBSニュースの安全管理部門の専門家を務めているそうです。
本といえば・・・ 不時着水のときサリー機長は、図書館から借りていた本 “Just Culture: Balancing Safety and Accountability” を
コックピットの鞄のなかに置き去りにしていました。 電話して事情を説明すると、図書館は返却遅延料金を免除してくれました。
そのことを知ったニューヨーク市長は、サリー機長にニューヨーク市の鍵(名誉市民の象徴のようなもの)を
授与するとき、同じ本の新品もプレゼントしたそうです。
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・・・ 何ともまぁ、ビックリ! サリー機長は優秀なパイロットなだけではなかったんですね。
グライダーも戦闘機も乗りこなし、さらには安全管理や緊急時の心構えのエキスパートでもあって。
あの時あの1549便の操縦桿を握るのに、彼以上に望ましい人間は、ひょっとしたら、いなかったのでは!?
無事に機を着水させただけでなく、その後の行動も脱帽ものです。
通路を二度も往復して、全員が脱出したのを確認してから最後に脱出って・・・
沈みかけた船舶に乗客を残したままさっさと逃げ出した、どこかの国の船長さんとは対照的。
「全員無事救助されたのは、副操縦士や乗務員たちや救助チームの適切で迅速な協力があったからこそ」 と、
その後の態度も、あくまで謙遜で実直で控え目で。
バカなことや残酷なことや奇をてらったことをして動画や画像をUPして目立ちたがるヤカラが多い昨今、
サリー機長のような人は本当に貴重です。
パイロットとしてはもちろんのこと、一人の人間としての人格も完璧!
「家族ともっと多くの時間を過ごせるように」 早期引退を決めたサリー元機長ですが、
世界は貴方のような人を、もっともっと必要としています。
今後も人類のお手本として、ときどき表舞台に戻ってきてくださいね!
《 内容的に、次回につづく 》