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今日ポーランドで (5)

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ポーランドに来てから、なぜか早朝目が覚めるとそのまま寝つけなくて。

寝不足・暑さ・歩き疲れ・花粉症のため、やや・・・ かなりバテ気味になってきました。

今日はできるだけ早く寝たいので、午後見に行った日本庭園のことだけ書きます。

 

 中心部からは4kmくらい離れているので、トラムで行きました。 ヴロツワフの東の郊外にある庭園は、その名も〝白梅園”。

 

 1913年に世界博が開催された際、シュトツィニツキ(?Szczytnicki)公園に造成されたもの。

 日本ファンだったフリッツ・フォン・ホーホベルク伯が牽引力となって、日本人庭師アライ・マンキチ氏の協力のもと完成しました。

  

 博覧会後は借り物を含め多くの建物が撤去されましたが、池と小道と南側の斜面部分は残ったそうです。

 

 残念ながら、ツツジもアヤメ(菖蒲かな?←無知)もシーズンを終えたあとでした。

そんな中、辛うじてまだ咲いていたツツジのこの色  きれい! 私好み!!

 

 1996年から1997年にかけて日本大使館の協力を得て修復と造園が実現したものの、

でも1997年の洪水で破損されてしまい、

1999年10月にようやく再オープンの運びとなったそうです。 

  

ポーランドのヴロツワフで日本庭園を見られるなんて・・・ 

 日本庭園を歩いてシアワセそうなポーランド人その他外国人を見るのはウレシイ

 

ここがポーランドだなんて、忘れてしまいそうです。

ポーランド、夏は暑く冬は寒いから、京都と似ていてちょうどいいのかも?

 

ルート終盤の石庭には、石のひとつに造園に尽力した人の名前が刻んであるようでした。  (←読めない

 

 

 入場料は4PLN(≒¥134)。  ・・・ 安すぎるんじゃ?!

 

帰り道、気になっていたキーホルダーをついついまた見てしまい、

ついつい買っちゃいました。 正面からでないと目が見えないワンコ。

買ったのは後方の屋台からです。 ヴロツワフ訪問の記念になるから、ま、いいさ!

ちなみにお値段は15PLN(≒¥503)でした。

 

 

明日は4日ぶりの移動日で、クラクフに戻ります。 部屋から見るこの黄昏も、今日で最後と思うと寂しいな ・・・・・

 予報通り今日の最高気温は26℃。 にわか雨は降らず、観光に適した一日でした。

これから何日か、しのぎやすい日が続きそうです。

(助かった ・・・!

 

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今日ポーランドで (6)

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今朝は、一週間前にポーランド入りしてから初めての雨! でもおかげでひんやりと心地よく、移動日には適していたかもです。

 

 バス・ステーションまで1.5kmくらいだから40分みれば大丈夫。 と思ったけれど、

出るのがちょっと遅れてクラクフへのバスの発車時刻の35分前になっちゃいました。

途中写真を撮ったり、必要ないのに鉄道駅まで歩いたりもしてしまい・・・

これもすべて、昨晩もう一度バス・ステーションの位置を確かめておかなかった自分のせいです、はい。

(でも本当に本当に、疲れていたんだものぉ・・・。)

しかもバス・ステーションは、まさかの大がかりな工事中!

焦って通りがかりの女性に聞いたら、「仮設のバス・ステーションは、あの大きな建物の向こうですよ。」

10時5分前に、無事到着しました。 あぁ~焦った!

 

ヴロツワフからクラクフ行きのこのバスは、イギリスを発つ前にネットで申し込んでおきました。

3時間10分も乗るにもかかわらず、乗車料金はたったの20PLN+予約料1PLN=21PLN(≒¥707)!

しかも、しかも・・・ 発車後しばらくしたら、美人乗務員さんがビスケットと飲みものをサービスしてくれたんです。

  

 ホットな飲みものを頼んだ人には、後からお湯を注いでくれました。

私は紅茶を頼んだんですが、残念ながらミルクはなく砂糖のみ。 すごく熱かったので、冷ましてから飲みました。

バスは2階建てで、乗車率は60%くらい。 私は2階の最後列に陣取り、快適な旅を楽しみました。

 

 車窓の風景は、ほとんどのどかな田舎。 高速道路の料金所は、どこも同じようなものですね。

 

ほぼ定刻どおりにクラクフのバス・ステーションに到着。

クラクフは晴れていました。 でもこれまでほど暑くはなく、風もあってしのぎやすかったです。

 

 

 今日から4泊する部屋は、ホリデー・アパートメントのここ。 真中のクリーム色の建物です。

 部屋主さんは感じのよい金髪のマダムで、英語でいろいろくれ教えてくれるし、

部屋は広くてきれいだし、何より天井が高くて(5m近い?)ビックリ!

  

 リビング・ダイニング・ミニキッチンがひと部屋にあり、寝室とバスルームは別です。

こんな素敵な部屋に私だけで泊まらせてもらうなんて、何だか申し訳ないみたい ・・・・・

 ヴロツワフもよかったけれど、やっぱり一度来て土地勘があるクラクフに来るとほっとします。

前回お土産のチョコレートを買った Karmello のカフェで、ホット・チョコレートとクロワッサンをいただきました。

 

 

2年ぶりのクラクフ。 そこにいるだけで幸せな気分になれる素敵な街です。

さぁ、明日は何をしようかな?

 

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今日ポーランドで (7)

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今日はトラムに乗って、プワシュフ強制労働キャンプの所長だったアーモン・ゲートに与えられていた Red House を見に行きました。

すると意外なことに、家の中から何やら物音が。 それに 『売家』 の表示(横断幕みたいなの)が、取り外されてる!

どうやらこの家、ようやく売れたようです。 傷みがかなり激しそうだけど、新しい持ち主さん、頑張って修復してステキな家にしてね!

(さぁ、バルコニーのある家の裏側を拝見)と裏手にまわってみたら、

残念ながら表側の道と並行する裏道は、途中で終わって突き当りには別のお宅がありました。

 

そうか、そういうことになっていたか・・・

でもまぁ、この家が売れたのがわかっただけでも収穫だったから、気にしない気にしない。

 

トラムで2駅ほど戻って、前回見なかったあるものを探しに行きました。

ゲットーの壁の名残り②の裏手にあたる丘を上っていくと、

 

生い茂る雑草の中に、目指していたものを発見。

オーストリア=ハンガリー帝国時代だった1853年から1861年にかけて建設された都市要塞の名残りの砦、Fort 31 Benedykt です。

  

 かなり長いことうち棄てられていたようです。 頑丈そうだし、もったいない気も。

 

ちなみに昨日あたりから花粉症が治まりつつあったのに、この砦訪問で一気にぶり返しました・・・


砦のすぐ近くにあるのは、とても小さい聖ベネディクト教会。

その教会の裏手に立つと、クラクフ・ゲットーが実際にあったあたりが眼下になります。

こちらによると、映画『シンドラーのリスト』で馬に乗ったリアム・ニーソン演じるシンドラーが

解体されるゲットーを彷徨う赤いコートの女の子を見つめるシーンはここで演じられたそうです。

 今は新緑でかなり見えなくなっていますが。

 

 

 そのあと戦前にユダヤ人の多くが住んでいたカジミエシュ地区を散策し、前回見逃したものを見ました。

細長い広場のようなシェロカ通り。 北側には小さな緑地があり、

ホロコーストの犠牲になったすべてのクラクフ在住だったユダヤ人に捧げる慰霊碑が立っています。

 

この通りの12番地は、ヘレナ・ルビンシュタインの生まれた家。

なるほど、たしかにホテル兼レストランになっていました。

 

 スピルバーグ監督もよく通ったという、ユダヤ料理の有名なレストラン Ariel。

今日はオールド・シナゴーグ内の博物館を見るつもりだったのに、なぜかもう閉まっていました。

閉館まで15分しかなかったからかな!?

 

代わりにレムー・シナゴーグに入ってみました。 このシナゴーグは、右隣にユダヤ人墓地があります。

 ツアーのグループがシナゴーグ内に入ったところだったので、先に墓地を見に行きました。

 

この墓地、クラクフがドイツに占領されていた第二次大戦中にめちゃめちゃに破壊され、ドイツ軍にゴミ捨て場として使われたそうです。

墓石は戦後に掘り出され、再建されました。

  

 シナゴーグ内部はかなり損傷が激しく、〝修復費用のため” として見物料を5PLN(≒¥168)徴収していました。

 

 

 今日のランチは、と~っても行ってみたかった安くておいしいレストラン(ミルク・バー) 〝スマコウィキ” へ。

 

 クラクフ在住のPさんEliilEさんが揃ってお勧めする、安くてオシャレでしかもおいしいレストランなのです。

ポーランドのロールキャベツ 〝ゴウォンプキ” を、サラダ、アイスコーヒーと一緒に頼んでみました。

美味しかった~ ゴウォンプキ、ひき肉とごはんがしっかり包まっているので腹もちもいいです。

ゴウォンプキ10PLN(≒¥336)、サラダ6PLN(≒¥201)、アイスコーヒー9PLN(≒¥302)で、合計25PLN(≒¥840)。

安い~ 嬉しくなったのでチップは5PLN(≒¥168)置いてきました。

 

夕方は大広場が見えるカフェの窓際に陣取り、ティラミスとアイスコーヒーでリフレッシュ。

ティラミス15PLN(≒¥504)、アイスコーヒー15.50PLN(≒¥520)という、〝大広場価格” でした。

  

 締めは、夕飯代わりのポンチキ改めポンチェク。 Pさんの個人的ポンチェクランキングで堂々1位に輝いた、

〝ミハウェク” のポンチェクです。

1個2PLN(≒¥67)でした。 でもほんと、しつこくなくて柔らかくもちもちで軽めで、いくらでも食べられそう

 

 

そんなわけで、非常に不健康な食生活を送っているワタクシです。

 

 

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今日ポーランドで (8)

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今日はヴィエリチカの岩塩坑を見に行きました。 ヴィエリチカはクラクフから10kmほど。

列車でもバスでも行けるので、行きは列車、帰りはバスにすることに。

クラクフ中央駅から20分ほどで、ヴィエリチカに到着です。

駅から5分も歩けば岩塩坑に着きます。 個人旅行者は前もってガイドツアーを申し込む必要はありません。

10時15分頃に着いた私は、10時半の英語のツアーに入れてもらえました。 (英語のツアーは30分毎。)

入場料は79PLN(≒¥2650)、写真・ビデオ撮影料は10PLN(≒¥335)でした。 ツアーの人数は、30名強といったところ。

オーディオ装置をもらって、まず初めに下りの螺旋階段を延々と、永久に続くかと思われるくらい(大げさ)、降りました。

 (注: 下右の階段ではありません。)

 

ガイドさんの説明を聞きながら、岩塩でできた伝説のシーンや偉人の彫像や、岩塩採掘の様子を再現した模型を見たりします。

 

危険を伴うこんな地下で働くようだった昔の人や馬は、まさに命懸けだっただろうなぁ・・・・・

 

地底湖がふたつありました。 塩分率が高いので、入水すると体は浮くそうです。 下右の湖では、昔はボート遊びができたそうです。

しかしながら、第一次大戦中のこと。 ドイツ兵たちが乗ったボートが転覆し、彼等は死亡。

体は浮くので、溺死したのではなく、救出に手間取る間にひっくり返ったボート内の空気がなくなり、窒息死したそうです・・・

 

岩塩坑のハイライトは、ここ! 聖キンガの礼拝堂です。

 シャンデリアを含め、すべてが岩塩の彫刻でできているというから驚き!

  

この岩塩坑、安全性が危ぶまれるようになったため1996年に採鉱をやめました。

ただし、岩塩坑を安全な状態に保つため、今でも水分は取り除き続けていて、

環境保護のため採取された塩水を沸騰させると、年間1万6千トン(!)の岩塩が取れるそうです。 (質はともかく。)

 

「地下だから気温は12~14℃しかない」 と聞いていたので一応ジャケットを持って行きましたが、必要ありませんでした。

ずいぶん(3kmくらい?)歩いたからかな? それとも夏季だったから??

 

ガイドツアーが終わったのは、2時間強後の12時40分頃。

お腹が空いていたので、出口に向かう途中にあるセルフのカフェ・レストランでお昼にしました。

ミートボールとビゴス(牛肉とザワークラウトの煮込み)とコーヒーで、30PLN(≒¥1005)でした。

 

このあとオプションとして博物館も見学(一時間ほどかかるそう)できるそうで、せっかくだから見学するつもりでしたが、

グループでしか入れないらしく、「今グループが出たばかりだから30分待ち」 だと言われたのでやめました。

 

地上へは、エレベーターで一気に戻れます。 (ほっ・・・・・

 

出口前に、お土産品ショップ。 これは・・・ カエル?

 

岩塩グッズ。 カラフルでかわいいです。 買いませんでしたが。

 

ヴィエリチカ岩塩坑の本館です。

近くの広場には、

3Dの絵が描かれていました。 (写真が下手で3Dに見えない・・・

 

路線バス(304番)でクラクフに戻りました。 列車は3PLN(≒¥100)でしたが、バスは4PLN(≒¥134)でした。

バスはプワシュフ強制労働キャンプ跡地に立つ Memorial of Torn-out Hearts のそばを通りました。

イスラエルの旗を掲げたグループが訪問中のようでした。

 

ヴァヴェルも見えました。 そうそう、ジョックに会いに行かなくちゃね!

 

今日はさすがにサンダルでは行けなかったので運動靴を履いていました。

宿に戻って足を洗ってスッキリ。 サンダルをつっかけて菓子パンを買いに行きました。

広場(大広場ではないやつ)のベンチでチョコ・クロワッサンをかじり、パンくずを落としてやったらハトにモテました。

 

 

疲れたけど充実した一日だったなぁ。 でもクラクフ滞在もあと一日・・・ さみし~。

こうしてひと月くらい、クラクフで暮らしたい気分だわぁ。

 

 

≪ オマケ ≫

今日見かけたハンサムくんです。 (あ、今はイケメンというのか。)

ケイトーのこと、思い出しちゃった・・・

 

 

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今日ポーランドで (9)

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明日は朝起きたら仕度して空港に向かうだけなので、クラクフも、今日が最後。

今日はまず、聖マリア教会の塔に上りに行きました。 2年前はちょうど修復工事中で上れなかったので。

塔への小さな入口は、教会に向かって左側にあります。 入口の写真に写っているのは、私が下りてきたあとの、次のグループです。

こっちの方が子供のグループが混ざった大人数だったので、先のグループでよかったぁ!

 

階段は石段で始まり、途中から木製に。 その木の階段も、途中から新しそうなモダンで頑丈なものになっていました。

そっか、2年前はこれを建設中だったのかもね。 塔上に着いて見えたのは、・・・

 

  フロリアンスカ通りと、                            ズームインしたヴァヴェルの丘です。

 

大広場と織物会館。 あぁ、長い階段を上ってきた甲斐があった・・・ 

(朝10時前だったので、広場はまだ空いていました。)

 

この時間帯のヘイナル・マリアツキの担当はこの方でした。

写真撮影をお願いしたら、帽子をかぶりビューグルを持って下さいました。 親切!

一緒に写真を撮ってくれたりもするようです。 (私は自分の写真はイヤなのでお願いしませんでしたが。)

 

9時40分に始まった塔見物。 塔上について間もなく10時になり、ヘイナル担当者さんはまず鐘を10回鳴らします。

次に順繰りに、4つの窓から四方に向けてビューグルで短い曲、しかも途中で終わる曲を吹き、

下の観光客の拍手に応えて手を振りました。

  

 正時になったら担当者さんはビューグル吹きで忙しいから、塔の見物人は追い出されるのだと思っていました。

なぁんてラッキー

今日の担当者さんが写った絵葉書を買ったら、サインして下さいました。 これは後日、ちゃんとスキャンしてUPしたいと思います。

 

 それから今日は、ヤギェウォ大学の英語ツアーに参加して、ずっと見たかったこれを見ました。

 

アンジェイ・ワイダ監督が大学に寄贈した、数々の映画賞です。 あのオスカー像を、ワイダ監督が握られたのねぇ・・・

 

ランチのあとは、暑い中を休み休みゆっくり歩いて、ジョックに会いに行きました。

2年ぶりだね~、ジョック!

 

 クラクフに来た以上、ジョックに挨拶しなきゃ。 最終日になってごめんね、また来るからね!

 

今日もランチにスマコウィキに行ったのですが、まさかの満席。

(一昨日は遅ランチになってしまい、入ったのが午後4時近かったから空いていたのかも。)

仕方ないので、クラクフ在住のPさんおススメのココ食堂に行ってみました。

こちらもかなり混んでいましたが、相席させてもらってランチにありつけました。

スマコウィキのが美味しかったので、またゴウォンプキ(ロールキャベツ)を頼んじゃいました。

 

これまでずっと、外食は一日一回できていたのですが、今日は最終日なので夕飯にスマコウィキに行き、

グヤーシュのバックウィートとピクルス添えをいただきました。

ランチ時も夕食時も、飲みものはコンポート

 

チップ込みでランチが17PLN(≒¥572)、夕食が22PLN(≒¥740)でした。

 

 夕食に入ったのは午後8時近くだったので、スマコウィキは空いていて、2階席に陣取れました。

ほんとオシャレな店内。 そのうえ美味しいし安いなんて・・・・・

 

うぅ~む。 スマコウィキ、イギリスダーズリーに輸入したいぞっ!

 

 

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無事帰宅

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今朝は8時半にタクシーで宿を出て、まっすぐ空港に。

タクシーの中から、コシチュシュコ山が見えました。 (この面白い山についてはさっくりとこちらでどうぞ。)

まだ行ったことのないこの山の見物は、次回ということにしましょう。

 

20分強で、バリツェ空港に到着。

料金表示は43.4PLN(≒¥1456)だったので、チップ込で50PLN(≒¥1678)渡しました。

 

小さな空港なのでお店も少ないし、拡張工事中で落ち着かないのでまっすぐ搭乗ゲートに行き、腰掛けて待つことに。

二年前と同じゲートのようでした。

10:10発のエジンバラ行きが出た後の、11:00発が私の乗るブリストル行き。

Wi-Fiのシグナルが低すぎたので、ノートブックで写真を整理して過ごしました。

ようやく搭乗時間に。

 

クラクフは今日も暑くなりそうです。 そうか、クラクフは6月は暑いのか。 二年前が、例外中の例外だったのね・・・ 

今度来るときは、5月か9月あたりがいいかな?

小腹が空いたので、ブルーベリー・マフィンとココアを買いました。 両方で£3.6(≒¥690)。 たっか~!

 

2時間10分後、無事ブリストル空港に到着。 お天気は曇で、地面は濡れていました。 気温は18℃。

涼し~、さすがイギリス! ポーランドでさんざ焦がされたので、ひんやり空気が肌に心地いいのです。

 

着陸がイギリス時間で午後12時半、すべてが済んで自由になれたのが午後1時。

シャトルバスで駐車場に戻り、キーをもらって帰途につき、無事帰宅したのが午後2時20分でした。

(イギリス時間はポーランド時間より一時間遅れ。)

 

今回は気に入ったお菓子を、バラの量り売りで買ってきました。

スーパーにそうして置いてあるのを見たので袋入りのと値段を比べてみたら、バラ売りのほうが少しだけ安いので。

クラクフ駅の隣のショッピング・センターにカルフールが入っているので行ってみたら、ものすごく種類が多くて迷いました。

板チョコは、昨夕宿近くのコンビニで買ったものです。

 

チョコレート・コーティングされたソフト・ビスケットのようなのも、コンビニで買いました。

NESTEA は、滞在中よく飲んで気に入ったのでムスメにも飲ませようと思います。

紅茶がベースでほんのり甘くて、ピーチ、トロピカル、シトラスなどの風味がついています。

イギリスでも売ってほしい~!


今回、ポーランドのフォーク・アート模様の品をたくさん見ました。

気に入ったので、マグ(自分用)、2枚しか入っていないコースター(ムスメと自分用)、しおり(ムスメ用)を買いました。

 

ポーランド陶器の小さな花瓶も、ユーワクに負けて買ってしまいました。

マグは21PLN(≒¥704)、花瓶は20PLN(≒¥671)でした。  (安いと思う。

 

 

 本当に本当に楽しかったです、ポーランド。

出発前は(11泊12日なんて長すぎたかな? ホームシックにかかっちゃうかな?)なんて思ったけれど、

いざ始まってみたらそんなことはまったくなくて。

特にクラクフは居心地が良く、(一ヶ月くらいここでのんびり過ごせたら・・・・・)と心から思いました。

 

毎日暑い中をよく歩いたので、仕事に行くよりずっと疲れたけれど、本当に実り多いホリデーでした。

 久しぶりの我家で、今夜はよく眠れそう

 

 

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終わる一年目

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あと2週間で、ムスメの大学生活一年目も終わり。 約3ヶ月の長い夏休みに入ります。

試験は終わったし、もう家に戻ってきてもいいのですが、

「まだいるハウスメイトたちと、最終日までここで過ごすね」 と。

ホームシックにかかって涙にくれていた一学期と比べたら、大進歩

そういう私自身も、(よかった、じゃああと2週間はムスメのベッドで眠れるな・・・ ) なんて。

空っぽのムスメの部屋を見ては涙ぐんでいたワタシはどこに?!

 

ムスメの “学生寮” は一戸建ての家で、1階に6人、2階に6人が住んでいます。 ムスメは1階。

2階の住人とはほとんど顔を合わせることがないので、結局親しくなるのは同じ階の住人。

でももう3人が家に帰ってしまったので、今はムスメのほか2名しか1階にはいません。

一昨日はうち一人セーラさん(仮名)の誕生日だったので、ムスメともう一人のセシリーさん(仮名)とで、サプライズを用意したそうです。

 

屋内を飾りつけるため、ムスメの部屋で風船をたくさん作り、                  バースデー・ケーキを手づくり。     

 

 

当日朝、ダイニング・ルームを飾りつけ、カード、プレゼントとサプライズの朝食をセッティングしてから

二人でセーラさんを起こしに行きました。

(あまりにお粗末なので、それがサプライズ・・・なわけではありません。 誤解なきよう。

 

 

「手づくりのバースデー・ケーキなんて初めて!」 と、セーラさん、大感激してくれたそう。

(あ、これは夜暗くなってからケーキカットしたときの写真だそうです。)

 

朝食後はそれぞれまたベッドに戻ってうだうだ。 ランチは一緒に食べ放題レストランに行ったそうです。

そのあとは、もうひとつのサプライズの映画のプレゼント。 見たのはこれ。

 

CIAのアナリストとしてデスクワークしか経験のなかったスーザン(メリッサ・マッカーシー)が、

任務中に殺された相棒の代わりに潜入捜査官になる・・・ というスパイ・コメディーのようです。 トレイラーはこちら

 

とても面白くて、セーラさんは何度も大笑いしていたとか。 ムスメ、「良いチョイスだった」 と喜んでいました。

 

夕食?は、子供のパーティーのように好きなお菓子を好きなだけつまむスタイルにしたそうです。

オマケのプレゼントは、“ソーントンズ” のメッセージ入りチョコレート。

    

夜はダイニング・ルームに毛布を持ち込んで、三人寄り添ってホラー映画を見たそうです

 

ムスメより3歳年長のセーラさんは今学期を最後に韓国に帰ってしまうので、「もう会えないなんて、とても残念・・・」 とムスメ。

でも今はメールもSNSもあるから、つながっていようと思えばいつまでだってつながっていられるもの。

お互いその気があれば、絶対また会えるし!

 

残りの2週間、楽しく過ごすのだよ、ムスメ

 

 

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魅惑の国・ニッポン

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夢のように楽しかった10日間(出発日と帰国日含まず)のポーランドから戻ってみれば、

あっという間に日常に逆戻り。 (今週は5日も仕事が入ってるし・・・

でも仕方ない。 旅行はもちろんのことだけど、人間、存在しているだけでもお金がかかる。

次回の旅行を夢見ながら、また地道に頑張るとしよう。

 

オットーは3週間くらい前から腰痛に苦しんでおりまして、居間のソファにすら心地よく座ることができず、

「これの方がちょっとましだから」 と、居間にガーデン・チェアーを持ち込んで座るくらいでした。

そういう私も、この春から徐々に腰痛が出てきたので、姿勢に気をつけています。 (年取るって哀しいなぁ ・・・

そういう訳で、短時間しかかがめないオットーは、庭仕事ができず。

それで今日は私の貴重な仕事オフの日だったのですが、

裏庭の雑草で伸びすぎて目に余るもの、種子がこぼれる前に抜いてしまわなければならないものを、

朝食後抜きました。 バケツに2つ、取れました。

それから旅行に使ったバッグや靴をきれいにして、しまって、1階のホコリ払いと掃除機かけ。

シャワーとシャンプーをして、散歩がてらダーズリーへ。

帰宅してようやくPCの前に座れたときには、すでに午後3時20分になっていました。 その後夕飯の仕度もあったし。

旅行記書きたいのに、遅々として進まないわけだわぁ。

 

ダーズリーへの途上にあったお宅のハンギング・バスケットがあまりにも素敵だったので、撮らせていただきました。

 

工場が移転されたので、その跡地、加えてその背後にあった牧草地が切り崩され、住宅地として開発が進んでいます。

あの家々の背後の真中あたりに、幼かったムスメが昔、「ハナのコンピューター・トゥリー」 と腰掛けて遊んだ木がありました。

低い枝に座ると、ちょうどその前にもう一本、机ができたみたいに別の枝がのびている木があって、

そこに座ったムスメは飽きることなくキーボードを叩く真似をして喜んだものです。

その間ケイトーは一人で近所を探索して。

・・・・・ なくなっちゃったんだなぁ、あの木。

そりゃ、ただの木だけれど。

もう二度と見ることはない、できないとわかると、写真を残しておかなかったのが悔やまれます。

見慣れた当たり前の風景も、そのうち必ず変わる。 私の実家の周辺なんて、もはや以前の面影なし。 大変な変わりようです。

諸行無常ってやつですね。 何だか、ちょっぴり、寂しいな ・・・

 

フットパスの脇は雑草が伸び放題! その花粉は、ポーランドで始まった今年の私の花粉症に貢献してくれています。

 

青とピンクが混じったかわいい花も咲いていました。            スポーツ・グラウンドには移動遊園地が来ていました。  

 

 

で、突然ですが。

 

 

 

 

 

8日(月)午後9時にBBC2で始まったそうです。 Japan: Earth's Enchanted Islands

3回のシリーズで、“本州” と “南の島々” と “北海道” が紹介されます。

地元の人々が、自然との調和と動物との共棲を模索しながら生きる様子を、自然美をたっぷり織り込んで見せてくれるようです。

初回はオットーが録画しておいてくれ、もう見ました。 昨日のは録画しましたが、まだ見ていません。

美しい映像で日本を紹介してもらえると、日本人の私はやはり嬉しい。

 2回目と3回目が楽しみ

 

そういえば、最近お話する機会のあったある患者さんの息子さんのマイケルさん(仮名)。

40代半ばくらいのマイケルさん、7年前に日本に旅行したことがあるそうです。

日本をものすごく楽しみ、ものすごく好きになってくれていました。

 

「本当に不思議なんだけれど、着いた瞬間から居心地が良くて・・・ まるでずっと前から日本を知っていたように感じたんだ。

皆すごく親切で、ある若い男性なんて、英語で道を尋ねたけど英語は通じなくて、でも身振り手振りで教えてくれた。

ところがしばらくしたら、彼、走って追いかけてきてね。 『間違った方向を教えてしまった』 と。

ものすごく蒸し暑い日だったのに ・・・ かえってこちらの方が恐縮してしまったよ。

あんな、まるで 『自分はここに属している』 みたいな感覚は初めてだった。 異国なのにね。

前世の僕は日本人だったのかもしれないね(笑)。 日本には、絶対にまた行きたいと思ってる。」

 

祖国を良く言われると、やはり嬉しくなっちゃいます。

それに慣れない土地、ましてや異国では、困ったときに受ける親切は、身に沁みて嬉しいもの。

私もポーランドで、いろいろと親切にしてもらいました。

困ったときはお互い様。

困った様子の人を見かけたら、ためらわずに声を掛けるようにしようっと。

 

 

《 お知らせ 》

今後しばらくは旅行記ブログに時間を注ぎますので、こちらのブログの更新は滞りがちになると思います。

申し訳ありませんが、どうぞよろしく ・・・・・

 

 

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ブロードウェイとバイブリー

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昨日(20日土曜日)は、コッツウォルズにドライブ に行きました。

日本からヨーロッパ出張に来た友人のSさん(♂)が、ついでにイギリスに寄ってくれたので。

Sさんは私の元同僚で、奥さんは私の友人。 (その昔、私が友人を会社のイベントに招いたのがきっかけで二人は出会った。)

 

出張慣れしたSさんは、レンタカーを借りてきてくれました。 メルセデス・ベンツの新車

Sさんのお言葉に甘え、運転はお任せしました。 やはり乗り心地は、私の10歳になるホンダ・ジャズくんより・・・ あとは言う必要なし。

 

数多ある美しいコッツウォルズの町や村のなかで、ブロードウェイとバイブリーに行くことにしました。

ブロードウェイといっても、ニューヨークには関係なくて。 イングランドはウスターシャー州にある町(村?)です。

ブロードウェイBroadway)には、約1時間後に到着。

 まずランチにすることにし、ハイ・ストリートの端にあったこのホテルに入ってみました。

裏手に増築部分があって、明るく新しくきれいなレストランがありました。

 

Sさんはチキンとタルト、私はリゾットとクリーム・ブリュレの2コースのランチセット(@£14.50≒¥2820)にしました。

 

Sさん、「イギリスで本当においしいと感じた数少ない食事のひとつだった」 と高い評価をくれましたよ。 

私のリゾット(ヤギのチーズとビーツ味)は・・・ うぅ~ん・・・ 「私もチキンにすればよかった」 とだけ言っておきましょう。

でもレモン風味のクリーム・ブリュレはおいしかった です。

 

 

あいにく天気は降ったり止んだりでしたが、止んだときや小降りのときに、ハイ・ストリートを往復しました。

イギリスっぽい柄のマグカップやティーポット。

 

 かわいすぎて使えない、ワンコのポケット・ティッシュ―もありました。 (£1≒¥194・・・ 高すぎるし。

マグネットではないらしい、ミニチュアのティーポット。 置物かな? かわいいです。

 

 

コッツウォルズ特有の、はちみつ色の石灰石でできた古い家々が並ぶブロードウェイ。

歩いているだけで満ち足りた気分になるのです。 

  

頑丈そうな2軒の間にはさまれた小さな白い家、頑張れ!  (何を?)

 

 もと教会みたいな建物(現在は“Pavilion Broadway / Interior design”)の壁についた時計にご注目。

「この時計はヴィクトリア女王の祝賀を記念し1887年に大衆の寄付によって設置された」 と下に書かれていました。

ヴィクトリア女王の在位は1837年から1901年(今調べた)だから、在位50周年のお祝いだったことになりますね。

 

 

ハイ・ストリートが終わり、お店がなくなってからの家並もまた美しいです。

このあたりは以前歩いたことがなかったので、足を延ばしてよかった。 Sさんに感謝。

 

 HORSE AND HOUND (馬と猟犬) パブの看板、キツネが馬の尻尾に噛みついて復讐しているのがオモシロイ。

もとい。 一番復讐されるべきは人間ですね。

 

 16世紀からある宿屋、リゴン・アームス(The Lygon Arms、下左)。 一泊いくらくらいするのかな・・・?

 

アイスクリーム屋さんのユニフォームがカワイイ

 

 久しぶりだったブロードウェイ。 新しいお店もできていたりして、そぞろ歩きを楽しみました。

 名残り惜しいけど、次の目的地バイブリーに向けてブロードウェイを後にしました。

 

バイブリーBibury)はブロードウェイよりもずっと小さくて、村というより集落です。

中心にあるT字路に面して、スワン・ホテル(The Swan Hotel、下左)があります。

村を流れるコルン川の水はとてもきれいで、マスが泳いでいました。 養殖場から逃げたやつとか?

  

 川に沿ってはしる道路沿いの家々も素敵ですが、・・・

 

何といっても有名なのは、この長屋、アーリントン・ロウ(Arlington Row)。 コッツウォルズのカレンダーにも頻繁に登場します。

ウィキペディアによると、1380年に修道士の羊毛の貯蔵所として建てられ、17世紀になって家々にと改造されたそうです。

(映画 『スターダスト』 や 『ブリジット・ジョーンズの日記』 の撮影にも使われて・・・ いたの!?

『ブリジット・・・』 は見たけど気づかなかったわぁ。 今度またゆっくり見てみよう。)

 

 フットパスを歩いて駐車場の方角へと戻りました。

さすが観光シーズン。 小さな村・・・ 集落であるにもかかわらず、大型バスが2台も止まっていました。

 

どんなに素敵な場所でも、実際近くに 「住んで」 「生活して」 いると、

(いつでも行けるさぁ~) と、かえって他所にばかり目が行きますからね。

久しぶりに美しいコッツウォルズを観光者の目線で楽しめて、リフレッシュできました。

機会をつくってくれたSさんに感謝

 

(・・・今度はぜひ奥さんも一緒に連れてきてね! 

 

 

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オシフィエンチムの町・ふたたび

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二年前の同じ6月に訪れたとき、オシフィエンチムの町の心臓部ともいえるマーケット広場はまさかの再舗装工事中でした。

綺麗になったマーケット広場を見るべく、今月3日にオシフィエンチムのタウン・センターを再訪。

マーケット広場は、 ・・・ 綺麗に生まれ変わっていました!

 

二年前に来たときは、天気に恵まれず気温も低めで、今年と比べたら10℃くらい低かったのではと思います。

(厳密に言えば、二年前はオシフィエンチムでのランチを境に天気が劇的に好転した。)

二年前(下左)と今年(下右)のこの違い。 う~ん、印象って天気によってやはりずいぶん変わるなぁ。

ちなみに下は、修復されたシナゴーグとユダヤ人博物館です。 (二年前の旅行記はこちら。)

 

 “オシフィエンチム最後のユダヤ人” シモン・クルーゲルの家を補修・改築してオープンする予定だったカフェも、

二年前は工事中でしたが、今回は完成しオープンしていました。 ユダヤ人センターとカフェは、裏庭を共有しています。

 

 カフェの入口は、シナゴーグの裏にあります。 そうそう、カフェの名前ですが。

“カフェ・オシュピッツィン” の予定でしたが、なぜか “カフェ・ベルクソン” に変わっていました。

 

2階席もあり、シンプルだけど明るく機能的で、とても素敵な店内です。 地下室は展示会や学習の場に使われるようです。

  

 二年前はこんなだったマーケット広場も、

 すっかり綺麗になっていました。 (二年前の旅行記はこちら。)

てっぺんにオシフィエンチムの旗が翻る旧市庁舎のある、広場の南西の隅です。

 

 広場に面する東側の家並。

 

 北東には、噴水までできていました。

 

 下は撮影位置がちょっと違いますが、雰囲気だけでも味わってくださいな。

 

広場には手回し車つきの井戸が造られていましたが、あれ、過去にあったものを再現したようです。

 

 写真で昔と今を見比べるのって、とても興味深いです。

 

 

完成しオープンしていたカフェと、再舗装工事が済んで新しく生まれ変わったマーケット広場を見られて大満足でした。

 

今回はアウシュヴィッツⅠのはす向かいのホテルに2泊し、この日は朝、ホテルからタウン・センターまで歩きました。

ご興味ある方は、こちらの旅行記で詳細をご覧くださいね。 下は、私が歩いたタウン・センターのルートです。

 

1: “Wedding Palace”      2: The Church of Our Lady Help of the Poor と聖ヒヤシンス礼拝堂

3: マーケット広場      4: 小広場      5: ユダヤ人センターとカフェ・ベルクソン      6: タクシー乗り場

 

 オシフィエンチムのタウン・センターは、お城あり由緒ある建物あり綺麗な広場ありユダヤ人センターありで、

素通りしてしまうのはもったいない!

オシフィエンチムが悲劇の歴史を刻む “アウシュヴィッツ” だけではないことを、

もっともっと多くの人に知って欲しいです。

 

アウシュヴィッツ訪問を予定していて時間に余裕がある方には、オシフィエンチムのタウン・センターを訪れることを、

心の底からおススメします!! 

 

 

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“イギリスのシンドラー” ①

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ハンシ・べックを腕に抱いたニコラス・ウィントン 《1939年1月12日撮影》


 ニコラス・ジョージ・ウィントンは、ニコラス・ジョージ・ヴェルトハイムとして1909年5月19日にロンドンに生まれた。

両親はドイツ系ユダヤ人で、彼が生まれる2年前にイギリスに移住していた。

彼の誕生後、両親は姓をヴェルトハイムからウィントンに変えた。

両親がキリスト教に改宗したため、ウィントンは教会で洗礼を受けた。


成長したウィントンは、ドイツやフランスの銀行で実務経験を積み、ロンドンに戻って株の仲買人になった。

1938年。 社会主義者で労働党に傾倒していた彼は、ナチスの台頭とユダヤ人迫害を懸念していた。

英国を含む多くの国が、難民受け入れの締めつけを強化していたが、

11月9日から10日にかけての水晶の夜が、転換点になった。 英国は、ユダヤ人難民の受け入れに合意した。


 1938年のクリスマスの直前、スポーツ好きのウィントン(当時29歳)はスイスでのスキー旅行に出掛ける準備をしていた。

そこに、先にスイス入りしていたはずの友人で教師のマーティン・ブレイクから電話(電報/手紙という情報源も)が入る。

スイスじゃなく、プラハにいるんだ。 君の助けが要る。 何が起きているのか、自分の目で見て欲しい。 スキーは持ってこなくていい。

ウィントンに異存はなく、彼はためらうことなくプラハへと旅立った。


              プラハのウィントン                        ロンドンでウィントンを手伝う、彼の母親

   

 

その年の9月。 悪名高いミュンヘン協定が結ばれてズデーテン地方がドイツに併合されると、

難民がチェコスロバキアの中心へと押し寄せた。

行き場を失くした膨大な数に上る人々のため、プラハの周辺にキャンプが立ち上げられた。

ウィントンが大晦日にプラハに着くと、彼のホテルからチェコ難民のための英国委員会のオフィスに歩く10分の間に、

ブレイクが現状を説明してくれた。

 

チェコ難民のための英国委員会(British Committee for Refugees from Czechoslovakia = BCRC)の

リーダーは、ロンドン大学の経済学講師ドーリーン・ウォリナーだった。

彼女とその秘書のビル・バラゼッティが、移住を望みつつも絶望的な状況にある人々を助けようとしていた。

自分たちが助からないのなら、安全な外国に送り出すことによって、せめて子供たちだけでも助けたい。

生き延びるために突きつけられたジレンマに直面する親たちを、ウィントンは目撃した。

しかしそれは、BCRC が介入できる分野ではなかった。

ドイツやオーストリアの子供たちは、組織的に疎開を助けられていたが、チェコの子供たちを助ける組織はなかった。

ウィントンは、自分にできることをする決心をした。

 

「誰かが助けになってくれるらしい」 と聞きつけた危機的状況にある人々によって、

ウィントンは朝から晩まで、ホテルの部屋に缶詰状態になった。

すでに英国にいる親類に子供を預けられる家族もあったが、大半がそのような恵まれた立場にはなかった。

ウィントンは子供と家族の詳細を控え、写真を撮った。 リストはどんどん膨らんでいった。

チェコ語を話せなかったウィントンは、作業をすべてドイツ語でこなした。

彼はしかし、チェコ語である一文だけは覚えなければならなかった。 「私は英国人で、チェコ語は話せません。」

彼が “敵” 語を話すことにより、救いを求めにきた人々が踵を返して立ち去ってしまわないように。

ウィントンは、2週間の予定だった休暇を延長した。

 

1月12日、20人のユダヤ人の子供を乗せた飛行機がプラハからロンドンへと飛び立った。

これを可能にしたのは、ユダヤ教信者をキリスト教に改宗させることを目的とした “バービカン・ミッション” という宣教団体だった。

このことからも、子供を安全な土地へと避難させることに、ユダヤ人の親たちがどれほど必死だったかがよくわかる。

ジャーナリストやカメラマンに混じって、ウィントンも飛行場に子供たちを見送りに行った。

ウィントンが幼い男の子を腕に抱いた写真が撮られたのは、このときだった。

ハンシ・べックという名のこの少年は、残念なことにその後、内耳感染症で亡くなった。

 

1月14日、ドーリーン・ウォリナーの勧めで、ウィントンは難民キャンプを訪ねた。

公式発表によると、チェコの難民は25万人に膨れ上がっていて、その数にはナチスに反対する民主主義のドイツ人も含まれていた。

キャンプの状態はひどかった。 幼い子供を含む家族が、凍てつくような寒さの中、なけなしの食糧で生き延びていた。

チェコから目と鼻の先であるバイエルン州から来た両親をもつウィントンにとって、難民問題は他人事ではなかった。


ウィントンはオフィスを別に設け、トレヴァー・チャドウィックに責任者になってもらった。

噂を聞きつけた何千人という親たちが、彼らのオフィスの前に長い行列をつくった。

ウィントンたちは質問表を配り、子供たちを登録していった。

チャドウィックとビル・バラゼッティにプラハ側を任せると、ウィントンはロンドンに戻った。

 

ウィントンは1月の終わりにはロンドンで株の仕事に戻っていたが、彼の心は “非公式な” 仕事の方にあった。

受け入れてくれる家庭を探して、できるだけ多くの子供たちを英国に連れて来なければ。

公式のルートを使っていては時間がかかりすぎると判断した彼は、チェコ難民のための英国委員会(BCRC)の

レターヘッド入りの便箋を手に入れると、ヘッドの下に “CHILDREN'S SECTION” という架空の部門を加え、

その “加工” されたレターヘッドを数百枚印刷して仕事にかかった。

彼の仲間は、母親と、秘書と、数人のボランティアだった。

 

ウィントンはルーズベルト大統領宛に子供の受け入れを求める書簡を送ったが、

米国大使館の一等書記からの返事は、 『現行の移民法の枠を超える移民は受け入れられない』 というものだった。

各国に打診したが、チェコの子供たちの受け入れを受諾してくれたのは、結局英国とスウェーデンだけだった。

時間が限られていたため、ウィントンはすべての子供を英国に連れてくることにした。

しかし、英国政府の子供の受け入れには、条件がついていた。

『受け入れ家庭が確保されていること』 と、

『将来の帰国に備え、子供一人につき50ポンド(現在の2500ポンド≒48万円に相当)を英国内務省に預託すること』。

ウィントンは、新聞に広告を出して子供を受け入れてくれるボランティア家庭を確保するだけでなく、

企業や慈善団体や宗教団体に、資金提供を求める必要があった。

子供たちの親のほとんどが、食べものを買う金すら事欠いていたため、旅費も工面しなければならない。

子供たちの出国/入国許可証もきちんと整えられなければならなかった。

内務省の対応が遅すぎるので催促に行くと、「何を慌てている? ヨーロッパでは何も起こらんさ」 と笑われた。

欧州の危機を本能的に察知していたウィントンは、必要書類を偽造して子供たちの疎開を可能にした。


チェコのユダヤ人の子供の絶望的状況が公式に認識されたのは、ウィントンがロンドンで活動を始めてから3ヵ月も経ってからで、

その時までにはすでに、子供たちを乗せたプラハからの列車はロンドンのリバプール・ストリート駅に4回到着していた。


プラハ駅では、ドイツ兵が監視する中、親たちが涙ながらに子供たちを見送った。

親たちのほとんどが、二度と我が子に会うことはなかった。

プラハを出発した列車はドイツを通過しなければならず、子供たちはドイツ役人の検問に怯えた。

親から託された貴重品(=形見)を取り上げられた子供もいた。 が、全員が旅を続けることを許された。

ドイツ市民は友好的で、駅に停車していると、子供たちにお菓子を差し入れてくれることも多かった。

オランダは “水晶の夜” 以降国境を封鎖していたが、ウィントンと彼のチームが英国政府から入手していた

公式書類という保証によって、子供たちを乗せた列車は無事オランダを通過した。

首に名札を下げてロンドンに到着した子供たちは、ウィントンの母親、代理人、時にはウィントン自身によって出迎えられた。

ある列車の子供たちは、正規の書類を持たずに到着したが、ウィントンたちは規則を “曲げる” よう役人を説得することに成功した。


          ウィントンが救った子供たち                         プラハからの列車のルート 

   

         プラハ駅                                    ロンドンのリバプール・ストリート駅   

  

 

 アリス・エーベルシュタークは三人姉妹の次女で、当時14歳。 厳しくも優しい両親に守られて幸福な子供時代を過ごした。

ナチスの足音が高まるにつれ、両親は断腸の思いで決断を下す。 母親は三人の娘のため、何枚もの服を縫って用意した。

綺麗に刺繍されたガウンまで、持ち物の中に入れるよう渡してくれた。 彼女はそれらを、今日まで大切に保管している。

出発の日、たくさんの友達が見送りに来てくれた。 皆が両親に 「二人を行かせるな」 「間違ったことをしようとしている」 と訴えた。

妹が両親に 「行かせないで」 とせがみ、母親は彼女を列車の窓から自分の腕に抱き取った。

しかし、列車が動き出すと、母親は妹を窓から車内に戻した。 そして妹の命は救われた。

両親からの手紙は定期的に届いていたが、1942年3月のものを最後に途絶えた。 三姉妹は、二度と両親に会うことはなかった。

「生き延びた人は多くが罪悪感をもつけれど、私は両親にとても感謝しています。

ほとんどの人が 『一緒でないなら行かせない』 と言っていた中で私の両親が見せた勇気は、崇高なものです。」

     

 

 1939年3月15日、ドイツ軍がプラハを占領した。 ヒューゴー・マイスルは、当時10歳だった。

「車の中に立っているヒトラーを、この目で見ました。 そして子供たちは、『ハイル・ヒトラー!』 と言うよう期待されたのです。」

ズデーデン地方で始まったユダヤ人の迫害は、瞬く間にチェコ全土に広がった。 しかしウィントンの列車がプラハ出発を阻止されることはなかった。

欧州からユダヤ人を駆逐したいナチスにとって、ユダヤ人の子供の出国は利にかなったからだろう。

マイスルの両親は、彼と弟を列車で送り出すときが来たと判断した。

「両親は私に、2、3ヶ月英国に休暇に行くのだと言いました。 自分たちも、すぐに英国で落ち合うからと・・・」

しかしマイスルは、二度と両親に会うことはなかった。

彼の両親の名前は、プラハのシナゴーグの壁に、ホロコーストの犠牲者として刻まれている。

「両親は明るく微笑んでいたので、私は彼等の言葉を一言も疑いませんでした。 だから何の不安もなく旅立てたのです。

あの状況で両親が見せたあの強さ ・・・ 二人はいったい、 ・・・ どうやって ・・・ ・・・ 」

     

 

 仕事から帰ったウィントンは、毎日資金提供を乞う手紙や、受け入れ先が必要な子供の写真入りカードの発送に追われた。

しかし誰もが、ビジネスライクな彼のやり方に満足していたわけではなかった。

ある日数人のラビ(ユダヤ教指導者)が訪ねて来て、ユダヤ人の子供がキリスト教徒の家や、

なお悪いことには “バービカン・ミッション” の家に送られたことに対して不満を申し立てた。

普段は冷静で協調性のあるウィントンも、このときは彼等に対してきっぱりと言い放った。

“ I will not stop placing children wherever I can.

If you prefer a dead child to a converted one, that is your problem. ”

「子供たちは受け入れてくれるという家庭に受け入れてもらいます。

貴方たちが 『改宗された子供より死んだ子供の方がまし』 というのなら、それは貴方たちの問題だ。」

 

ウィントンによって救われた子供たちの一部

 

 

ウィントンは、英国に受け入れられた子供たちのすべてがきちんと世話をされたわけではないことを認識していた。

無料の召使いとして使われた子供もいた。

「100%の成功だったとは言いません。 でも戦争が終わったとき子供たちは生きていた、と言う事はできます。」

 

“ウィントンのリスト” - ウィントンが救った子供たちの氏名のリスト

 

 

1939年の3月から8月の間に、ロンドン行きの列車が合わせて8回、プラハを出発した。

(初回だけは飛行機を使えたので、列車は7回だったとする情報源も。)

9つめの列車は、最も多人数となる250人の子供を乗せて、9月1日に出発する予定だった。

しかし、ウィントンと協力者たちが怖れていたことが、その日に起こった。

ドイツがポーランドに侵攻を開始し、ドイツが管理していた国境は封鎖され、第二次世界大戦が始まったのである。

 

9月1日の列車はキャンセルされ、英国への途を断たれた子供たちは、おそらくそのほとんどが、

両親や親類とともにナチスにより殺害されたと考えられる。

もう一日早く出発していたら、列車は無事にロンドンに着いていたかもしれない ――

ウィントンは、打撃と禍根を噛みしめた。

「プラハの駅で列車を待つ大勢の子供たちの姿が、脳裏から消えないのです・・・」

ウィントンは、のちに何度もそう語っている。


戦争が始まり、ウィントンの “仕事” は終わり、戦時中彼は赤十字の救急隊で働き、

のちには空軍で奉仕した。

 

            戦時中のウィントン                             ウィントンと弟妹   

 

 

ナチスの “ユダヤ人問題の最終的解決” が実行に移され、欧州のユダヤ人狩りが始まった。

プラハのユダヤ人も追い立てられ、テレジエンシュタットを経てアウシュヴィッツへと送られた。

7万人を超えるプラハのユダヤ人犠牲者のうち、約1万5千人が子供だったと推定されている。

 

《  につづく 》

 

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“イギリスのシンドラー” ②

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《  からの続き 》


ウィントンは戦後しばらく国連の国際難民組織を手伝い、次にパリの国際復興開発銀行で働いた。

そこで彼は、秘書をしていたデンマーク生まれで10歳年下のグレーテと出会う。

二人は1948年10月31日に彼女の故郷で結婚し、メイデンヘッドに落ち着き、三人の子供に恵まれた。

(が、うち一人は幼くして死亡。)

ウィントンは企業の経理部門を渡り歩いて生計を立てた。

奉仕活動に関心のあった彼は、知的障害者のための慈善活動に関わり、老人ホームを設立した。

                    

          ウィントンとグレーテの結婚写真           1998年10月、金婚式を迎えたウィントンとグレーテ(両端は孫)

 

 

プラハの子供たちの救助に関する書類は、彼の協力者が、まとめたスクラップブックとともに

「思い出に」 とウィントンに手渡してくれていた。

1980年代に入り、スクラップブックを(いつまでも自分の手元に置いても仕方がない)と考えたウィントンは、

その適切な行き場を求めてユダヤ人団体や歴史研究協会に連絡を取ったが、誰も真の興味を示さなかった。


1988年1月初めにウィントンの叔母が亡くなり、彼女の私物の整理をしていたウィントンは、

妻が最近見つけ出した例のスクラップブックに思いを馳せ、再度その引き取り先を探すことにした。

誰かのアドバイスで歴史研究家のエリザベス・マックスウェルに連絡したのは、またとない適時だった。

ホロコースト研究の真最中で 《未来のための記憶》 と題した会合の準備を進めていた彼女は、

スクラップブックの真の重要性を理解できるうえ、知識も豊かだった。


1988年2月のある日。 グレーテ(68歳)と共に娘のバーバラ(34歳)を訪問していたウィントン(78歳)に、

BBC放送から電話が入った。

例のスクラップブックが日曜夜の人気番組 “That's Life !” で取り上げられることになったので、

情報の正確さや番組の進行を、観客席からウィントンに見ていて欲しいとの要請だった。

ウィントンは承諾し、グレーテは 「退屈そうだし番組ならテレビで見られるから」 と同行しなかった。


2月27日。 観客席の最前列にウィントンが座り、番組が始まり、

プレゼンターのエスター・ランツェンがスクラップブックとその内容を紹介していく。


第二次世界大戦が勃発する直前に、チェコで危険にさらされていた669名の、主にユダヤ人の子供たちが、

辛くも英国に避難できました。 チェコに残らざるを得なかったその親や親類は、ほとんどがナチスによって殺害されました。

しかしながら、救われた子供たちの多くが、どのような経緯を経て助けられたのかを知ることはありませんでした。 ・・・

 

スクラップブック                       子供たちの移民を可能にした“公式”書類     

  

子供たちの受け入れ先を求めてウィントンが作った、子供たちの“カタログ”

  

 

救われた子供たちの名前のリストのページに達したランツェンは言った。

「こちらのヴェラ・ディアマントさん、現在はヴェラ・ギッシングさんとおっしゃいますが、実はここにいらしていただいております。

ヴェラさん、貴女は今、命の恩人の隣に座っていらしゃるんですよ!」


ウィントンの手を取り “Thank you, thank you !” と言うヴェラと、不意打ちに面食らい、喜びながらも懸命に涙をこらえるウィントン。

    

 

番組の制作者たちに “だまされた” ウィントンは、翌週ふたたび番組に招待されたとき、

 《まさかの事態》 に備え、妻のグレーテに同行してもらった。

 

二人は翌週の番組内で起こり得ることはある程度予想していたが、ランツェンが

 「皆さんの中にニコラス・ウィントンによって命を救われた方がいらっしゃいましたら、立ち上がっていただけますか?」

 と観客席に呼びかけ、それに応えて二人を取り巻く周囲の全員が立ち上がったときには、驚きを隠せなかった。

自分が半世紀前に行動を起こさなかったら、現在この世に存在しなかったであろう人々――

「私の人生で、最も感情を揺さぶられた瞬間だった」 とウィントンはのちに語った。


 

(動画はこちら。 2週分が一緒になっています。)

 

ウィントンからスクラップブックを託された、エリザベス・マックスウェル。

彼女の夫は “ミラー” 紙のオーナーでチェコ系ユダヤ人のロバート・マックスウェルだったため、

プラハから来た “子供たち” に、連絡をくれるよう紙面で呼びかけることが可能になった。

彼女はまた、子供たちの受け入れ先に連絡を取り、子供たちの近況を問い合わせることも思いついた。

彼女自身が驚いたことに、200を超える返事があり、うち約80名は英国在住だった。

“子供たち” の多くは、プラハからの列車がどのように手配されたのかまったく知らなかった。

キンダートランスポート(Kindertransport=ドイツやオーストリアからの子供の移送を可能にした組織活動)が、

同じようにプラハの子供たちも救ってくれたと信じていた者もいた。

マックスウェルがランツェンにスクラップブックをまわしてウィントンの偉業について教え、

返事をくれた “子供” の一部が、“That's Life !” にウィントンが二度目に招待されたときの “観客” になった。

ウィントンのスクラップブックとその他の書類は、現在ヤド・ヴァシェムに保管されている。


ウィントンが救ったのは、8台の列車で英国に到着した669人の子供たちだけではなかった。

彼等が救われたことによりこの世に生まれて来られたその子供たち・孫たち・そして曾孫たちを含めると、

その数は現在15,000人に上ると推定されている。

そしてその数は、今後も増え続けていく。


ウィントンの偉業が知れ渡って、ウィントンとその妻グレーテの生活は一変した。

メディア慣れしていなかった二人にとって、それはかなりのストレスだったかもしれない。 が、

自分の行為がもたらしたポジティブな結果を目の当たりにしたウィントンは、心から喜んだ。

   

 

なぜ自分の偉業を半世紀近くも秘密にしていたのか? と問われたウィントンは、こう答えている。

「秘密にしていたわけではありません。 ただ、誰にも話さなかっただけです。 家族にも話さない事柄というのはたくさんあります。

戦争前に起きたことは、戦争そのもののあとでは全然重要に思えなくなったのです。

私は特別な人間ではありません。 “必要” があったので、それを満たした。 できることをしたまでです。」

 

ウィントンは1983年に、老人ホーム設立という地域奉仕が認められてMBE勲章を受章していたが、

チェコの子供たちを救った功績により2003年にナイト爵に叙され、“Sir” の称号を得た。

ロンドンのリバプール・ストリート駅のキンダートランスポートの記念碑の除幕にも招待された。

  

 

 2009年9月1日、プラハ中央駅の1番線のホームで、ウィントンの功績を記念する彫像がお披露目された。

70年前に、ウィントンの9番目の列車が出発するはずだったその日。

“ウィントン列車(The Winton Train)” が、ロンドンに向けてプラハ中央駅を発車した。

170名の乗客のうち22名が “ウィントンの子供たち” で、残りはその子孫だった。

 

ドイツとオランダを旅した列車は、フェリーで英仏海峡を渡り、

9月4日にリバプール・ストリート駅で、当時100歳のウィントンに迎えられた。

 

都合で “ウィントン列車” の乗客になれなかった人々は、ウィントンに会うためリバプール・ストリート駅に集まった。

 

 

2010年9月。 ウィントンが結婚以来住んできたメイデンヘッドの駅に、ウィントンの像が設置された。

ベンチに座り、ウィントン列車について読む像のウィントン。

  

  

2010年には首相官邸に招待され、“ホロコーストの英雄” 勲章を贈られた。

 

2014年5月の、ウィントンの105歳の誕生日。

チェコ大使館に招待された彼は、チェコで最高の栄誉である白ライオン勲章(Order of the White Lion)を授与されるとの報せを受ける。

お祝いに駆けつけたアルフ・ダブス上院議員(下右写真・左)は、ウィントンに命を救われた子供のうちの一人だった。

ダブスの父親は、ナチスがチェコに進軍したその日にイギリスへと逃れていて、

当時6歳のダブスはウィントンが手配した列車で英国入りし、リバプール・ストリート駅で父親に迎えられた。

母親が作ってくれたお弁当に手をつけられなかったことを、彼ははっきり覚えている。

その母親も、その後まもなく無事イギリスに入国した。

「プラハ駅を、今でもよく覚えている。 子供たち、親たち、かぎ十字をつけた兵士たち。

オランダに入ったとき、年長の子供たちが喝采をあげた。

ナチスから無事逃れられたからだったが、私には意味がわかっていなかった。」

“That's Life !” で自分の命の恩人がウィントンだと知ったダブスは、

その後ウィントンの功績が評価されるようキャンペーンを展開し、2003年のウィントンの叙勲に一役買った。

 

ウィントンの娘のバーバラは、父親の105歳の誕生日に合わせて彼の伝記を発表した。

 タイトルは、 “ If it's Not Impossible...

これは、ウィントンのモットー “If something is not impossible, then there must be a way to do it.” からきている。

自分の伝記を書く娘に、ウィントンがひとつだけつけた注文は、「英雄崇拝を煽る内容には決してしないこと」 だった。


「これを読んだ人が、『私にはできっこないこと。 どのみちこんな英雄が必要だったのは、はるか昔の戦時中のことだし。』

と思うだけなら、父はがっかりするでしょうね。 でも 『現在だって、世界は正しくないことで溢れている。 私は私のやり方で

できることをする』 と考え実行してくれるなら、父はこの上なくハッピーになるでしょう。」

 

 

ウィントンの偉業は、映像化されている。 1999年の All My Loved Ones と、

エミー賞を受賞した2002年のドキュメンタリー The Power of Good: Nicholas Winton と、

2011年のドキュメンタリー・ドラマ Nicky's Family だ。

ウィントンも出演した、キンダー・トランスポートを題材にした2000年のドキュメンタリー

Into the Arms of Strangers: Stories of the Kindertransport は、

ドキュメンタリー部門でアカデミー賞を受賞している。

   

ウィントンは、2014年4月27日に放映された米CBS放送の 60 Minutes にも出演した。 視聴はこちら

 

 2014年10月28日。 娘のバーバラに付き添われ、チェコ政府が用意した特別機でプラハに到着したウィントンは、

ミロシュ・ゼマン大統領から白ライオン勲章を授与された。

 

 

 

 ウィントンは、長寿の秘訣を 「良い遺伝子と活動的であり続けること」 としていた。

103歳のときに人工股関節置換術を受けたが、手術前に 「万一心臓が止まったら、蘇生して欲しいか否か」 を訊かれると、

信じられないといった面持ちでこう答えたという。 「もちろん蘇生してもらうよ! ワシゃまだ生きたい!」

  

 「父が104歳になったとき、冗談半分に言ってみたの。 『毎年パーティーというのは、ちょっと大変すぎるわよねぇ?』 と。

すると父は言ったわ。 『どれが最後になるかわからんからな、パーティーは毎年開くさ』 って。」 と、娘のバーバラ。

 

 

今年5月19日、ウィントンは  106歳の誕生日を迎えた。

 

  7月1日朝。 バーバラと二人の孫が付き添う中、眠っていたウィントンはそのまま還らぬ人となった。

76年前のその日、241人の子供を乗せた列車がプラハを発った。

彼の訃報を聞いた人々により、プラハとロンドンの記念碑にキャンドルや花が供えられた。

 

 

 

 「私の命は(シンドラーと違って)一度も危険にさらされたことはなかった」 し、

「プラハでサポートしてくれたチームの方が、ずっと大きな危険にさらされていた」 のだからと、

ニコラス・ウィントン自身は、自分が英雄視されたり “英国のシンドラー” と呼ばれることに乗り気ではなかったという。


自らがユダヤ系のため、ウィントンはオスカー・シンドラー杉原千畝のように

諸国民の中の正義の人” と称せられることもない。


でも彼の決意と行動がなかったら、多くの命が歴史の闇に、推定犠牲者数の一部として葬られていた。

ウィントン氏は、大きな達成感に包まれて天国に旅立ったと思いたい。


 

今頃は、1999年に亡くなった奥様に、天国でねぎらいの言葉をかけてもらっているかな?

 

お疲れさまでした。 そして、ありがとう。

 

貴方が何と言おうと、貴方はやっぱり、ヒーローです!

 

 

 《 おわり 》

 

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事故現場に遭遇

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昨日今日と2連休だったワタクシ。

ズル休みしたい気持ちを抑え込み、午後から運動のため散歩に出かけました。

玄関まで文字通り 『花道』 がつづくお宅。 すごい。 ピクニックテーブルも、お花でいっぱい。

・・・ あそこで飲み食いできるのだろうか?

 

でもやっぱり花はいいな。 それに比べて、まったく花っ気のない我家。

・・・ うちの庭もやってくれないかな。 タダで。

 

カラー・コーディネートが素敵な玄関。 “コッカー・コテージ”って、やっぱりコッカー・スパニエルを飼ってるから?

 

 

さぁ、テスコで買物して帰ろう。 と教会の塀の角を曲がったら、フットパスの先の大通りに、緊急車両が停まってる!

 

大通りに着いて右手を見たら、すぐそこのミニ・ラウンドアバウトつき十字路で、交通事故があったらしい。

 

交差点へと延びる道路は、どれもかなり手前から立ち入り禁止になっていて、車の往来は皆無。

事故はかなり前に起きたらしく、空気に緊迫感やあわただしさはなかった。

子供を学校からピックアップしたお母さんたちが買物に来る時間帯だったけれど、テスコの駐車場は空っぽに近い。

 

買物を終えて、事故現場の近くを通った。 ヘルメットと、後部座席に搭載するバイクの荷物入れのフタらしきものが路上に落ちていた。

(私、人でなしだなぁ・・・)と罪悪感を感じつつも、ズームインで写真を撮らせてもらう。

 

どうやらリサイクル品回収車とバイクが接触したらしい。

緩やかな坂道を上るにつれ、遠ざかる事故現場。 少し上ったところで、お巡りさんが車をUターンさせていた。

 

 

バイクに乗ってた人、どのくらいの怪我をしたのかしらんと思い、夕食後にローカル・ニュースで調べてみたら、

なんとバイク(モペッド)に乗ってた人、亡くなったそうだ。

警察に通報が入ったのは、午後1時ちょっと過ぎ。 私がテスコに着いたのは、午後3時頃だった。

下はローカル・ニュースからの画像。

 

 

 

まさか、亡くなってしまったとは ・・・・・

我家から1kmと離れていない場所で、死亡事故が起こるなんて ・・・・・

昨日の今頃はまだぴんぴんしていた人が、今はもう生きていないなんて ・・・・・

 

人間いつ最後が来るかわからない。 その日その日を大切に生きなきゃ。 と改めて思う。

  

 

《 オマケ: 今日のイチオシ小町はこちらです。 アタマ大丈夫か、この夫婦!? 》

 

 

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丘の上のパブ “Rose and Crown Inn”

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面倒臭がりでデブ症で、イギリス国内の友人など片手に余るほどしかいないワタクシ。

(といっても、日本の友人も片手ほどしかいませんが

そんな貴重な友人が遊びに来てくれたので、火曜日は我家から車で15分ほどのところにあるパブにランチに行きました。

ダーズリーを出て、チャールズ皇太子もいらしたことのある隣村を抜けて、森の中の坂道を上り、

平らな土地に出て間もなくのパブ、Rose and Crown Inn です。

(村に一軒しかないレストランで一位 ↑ って、笑える。

道路のこっち側にあった駐車場に車をおいて、ビアガーデンを抜けて、脇の入口に向かいます。

暖炉は入って左手のバー側にあったものですが、私たちは右手のレストラン側に入りました。

 

平日のランチタイムだったせいか、レストランはとても空いていて落ち着けました。

(写真では見えないところに、お三人様グループがいたのみ。)

窓の外、道の向こう側に見えるこっち向きの石造りの建物は、バス停のシェルターです。

 

友達はフィッシュ&チップス、私は厚切りハムにしました。 どちらも£7.5(¥1425)で、

パブ・ランチとしてはお手頃価格。 イギリスって、ほんっと外食が高いっ!

 

このパブが “(裏手にある土地を開発業者に売って資金を作って)大がかりな改装を計画中” という、

去年の1月付けの新聞記事を見つけました。 そうか、道理でキレイだし新しい感じ。

トイレもなかなかかわいかったので、つい写真を撮ってしまいました。

 

 

パブを正面から見たところと、パブに向かって左側の眺め。 ちっぽけな緑地の向こうの建物は、ヴィレッジ・ホールのようです。

 

         ホールの軒下は、・・・                         ・・・ツバメの集合住宅になっていました。    

 

親鳥は、ほけ~っと見上げる私たちを警戒することなくせっせとヒナに餌を運びに巣に戻り、

ヒナの中にも、顔を引っ込めることもないのもいました。 かわいい。 苦悩したようなカオのも含めて。

  


Rose and Crown Inn があるのは、二ムスフィールド Nympsfield 村。

とても静かで、近くにはお店の一軒も見えませんでした。  ・・・ 車がなきゃ生活できないだろうな。

 

かわいい玄関ドア。

 

これは、ホテル ・・・ ・・・ まさか個人の家? だったら(立派すぎて)許せんっ!  (←はい、単なる妬みです

 

Rose and Crown Inn は Listed Building なので、

内装や外装を修復するにもいろいろと規制があり大変だったようです。

(あ、Listed Building というのはゆる~く言えば、その歴史的価値から、保存の対象になっている建造物のことです。)

駐車場に戻ります。 パブの向かいにある石造りの小屋が、先ほどパブ内から見えたバス・シェルターです。

 

ずっと前からその存在を知っていながら、ダーズリーに住んで21年目にして初めて来ました。 Rose and Crown Inn。

きれいに模様替えされたあとで、ラッキーだったかも。 食事もおいしかったし。

ついでながら、ここは Inn なので、宿泊もできるようです。

 


帰り道、そこからすぐのビューポイント、コーリー・ピーク(Coaley Peak)に寄りました。

以前たま~にケイトーの散歩に、車で来たことがあります。

ピクニック・テーブルがあり、週末や夏休みにはよくアイスクリーム売りも来ています。

下り斜面は、ハンググライダー・クラブの人以外は立ち入り禁止。             右手遠方にはセヴァーン川が見えます。        

 

遠くに見える我が町、ダーズリー。 赤 ↓ は、我家のあるあたり。 オレンジ色 ↓ は、 ・・・

 

・・・ 私の散歩ルートの一部があるあたり。 散歩中にそこから見えるコーリー・ピークは、こんな感じです。

 


家でネットしているのが大好きで、数少ない友達と会ったりなどもめ~ったにないワタクシ。 なのに、

先月のブロードウェイとバイブリー訪問といい、このパブ行きといい。

一年分の社交イベントを、ひと月以内に済ませた気分だわぁ。

(ということは、この先一年間は友達と会うこともない・・・?!



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アウシュヴィッツの窃盗事件

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先月入ったニュース。

“ケンブリッジの男子高校生2名(ともに17歳)が、歴史教育の一環としてアウシュヴィッツを訪問中、

元囚人の所有物数点を盗もうとして捕まり、有罪となり、罰金刑を受けた” というもの。


     ベン・トンプソン                       マーカス・デル      

          


二人はガラス片ふたつ、ボタンふたつ、スプーンのかけら、バリカンの一部と思われるものを所持していたため、

逮捕され警察に連行された。


この事件のほんの3週間ほど前に、実際アウシュヴィッツにいた私。 ニュースを聞いたとき、

(元囚人の持ち物はすべて錠つきのケースに保管されているはずだけど・・・???) と脳内が疑問符でいっぱいになった。

でも続報を聞いて納得。 彼等はアウシュヴィッツⅠでなく、Ⅱのビルケナウの方にいたらしい。


3kmほど離れた、アウシュヴィッツⅠとⅡ。

レンガ造りの棟がそのまま残るⅠは、一部に写真や関連資料や元囚人の遺留品が展示されて博物館らしくなっているが、

あまりにも有名な “死の門” のあるⅡのビルケナウは、その広大さに圧倒されつつ、

バラックやクレマトリウムその他建造物の名残りを、自らの目で足で確かめる形式がとられている。


ナチスによって虐殺された人々の遺留品を貯蔵する倉庫は、“カナダ” と呼ばれていた。

“カナダ” には当時、豊かなイメージがあったためらしい。

遺留品の選別や仕分けや保管は比較的楽な仕事だったので、囚人は誰もがそこで働きたがった。

実際 “カナダ” で働いたため解放まで生き延びられたという人々もいた。


アウシュヴィッツⅠ近くの工場群の中にあったのが、“カナダⅠ”。

アウシュヴィッツⅡビルケナウの西端近くにあったのが、“カナダⅡ”。

(Ⅰで撮った下の写真は、上がほぼ西。 ちなみに “カナダⅠ” は非公開。)


カナダⅠでの選別作業 (Ⅰで撮った写真)


カナダⅡでの選別作業 (同上)


ビルケナウの BIIg 区域が、“カナダⅡ” 。

Warehouses for storing property plundered from people deported to Aushuwitz (“Canada Ⅱ”)

『アウシュヴィッツに送られた人々からの略奪品を貯蔵するための倉庫群(“カナダⅡ”)』


この道の先、左手に “ザウナ” の建物が見えている。 “カナダⅡ” はその反対側の右手。

(“ザウナ” =上の案内板のL・シャワー= については、長くなるのでまた今度。)

カナダⅡ の案内板

ピンクの ← で示されているのが、2枚前の写真にある鉄条網。 赤い● は、現在地。

“ BIIg 区域の一部 ―― ナチス親衛隊員撮影、1994年”

“ユダヤ人からの略奪品の選別作業(カナダⅡ倉庫の外にて) ―― ナチス親衛隊員撮影、1944年”

 

ナチスが証拠隠滅のため放った火により炎上する “カナダ” 。 (アウシュヴィッツⅠで撮影した写真。)

 

30もの倉庫が並んでいた BIIg 区域。 現在ここには、倉庫の残骸すら残っていない。 辛うじて土台が見えるだけ。

 

例の高校生二人は、第5倉庫跡で見つけたものを拾って監視員につかまったそうだ。


アウシュヴィッツの敷地内に存在するものを動かしたり取り除いたり破壊したりすることは、法律でかたく禁じられている。

訪問前に、学校側がそれをちゃんと生徒に説明していなかったとは考え難い。

Visitor Regulations of the Auschwitz-Birkenau State Museum


最初私は、二人が監視員の隙をついて保存ケースをこじ開けて展示品を盗もうとしたのかと思った。

だから 「カナダⅡの地面から拾ったものを盗もうとした」 と聞いて、ちょっと救われた気分になった。

それでもやっぱり、二人の行為は信じ難い。

アウシュヴィッツから何かを持ち帰ろうなどと思うこと自体、信じられない。

アウシュヴィッツで、しかもどこあろう “カナダ” で見つけた品は、まずそのすべてが犠牲者の遺品なのだから。


警察に拘束され、通訳つきで尋問され、オシフィエンチムの留置所で一晩過ごし、罪を認めた二人。

月曜日の午後に逮捕され、その日は潔白を主張していたが、翌火曜日は罪を認めたそうだ。

一年の保護観察と三年の執行猶予つきの刑を受け、それぞれが罰金1000PLN(≒¥33,000)を払って釈放された。


ベン・トンプソンの両親は、「息子はとても怖くショックな思いをした」 と述べた。

「若いときは、考えなしに行動してしまうものだ。 事の重大さを痛感している。

息子は自分の行為が愚かで無礼なものであったと理解しており、ポーランド社会に引き起こした不快感や怒りに対して

心の底から申し訳なく思っている。 おそらく息子は、(アウシュヴィッツで)見たり体験したりしたものの甚大さに影響され、

判断力を鈍らせたのではないか。 ベンは悪意も不敬の念も持たない子で、人々の気分を害したことを死ぬほど後悔している。」


・・・・・ 馬鹿か、この親!?

どこまで息子に甘けりゃ気が済むの!   

学生って言ったって、9歳や10歳の子供じゃない。 17歳ですよ、17歳! 善悪の判断は、十分につく年齢です。

こんな息子をかばうような物言いをしたら、世間の反感を買うだけってわからないのかな。

私だったら、恥に身をすくめて 「私の育て方が間違っておりました云々・・・」 とひたすら低姿勢を貫くけどな。

まさに、この親にしてこの子あり。


ちなみにこの二人が通うのは、年間学費15,000ポンド(≒285万円)の私立校、

The Perse School  ↓  だそうですよ。

 

今日の教訓: 「品格は、金では買えず。」



《 オマケ:  今日のおススメ小町はこれです。 ・・・ 救い難い勘違いオンナ ・・・


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エリザベス女王の “ナチス式敬礼”

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今日の主要ニュースのひとつはこれ。

常識あるイギリス国民の軽蔑の対象となっているタブロイド紙 “ザ・サン” のすっぱ抜きである。


“HEIL HITLER” 式敬礼をしているから、

王室メンバーの敬称 (HIS / HER / THEIR) ROYAL HIGHNESS をもじって HEILNESS。

うまい! ザブトン一枚!

・・・ じゃないって!!

 

時は1933年。 スコットランドはバルモラル城の庭で、未来の国王エドワード8世に教えられ、

ナチス式敬礼をする彼の義妹(未来のエリザベス王妃)と二人の姪・エリザベス王女(現女王)とマーガレット王女。

その様子を撮影した短い映像が発見されたのだそうだ。

 

 

 

映像はこちら

って~! 当時の王女たちは、7歳と3歳と考えられるそうで・・・ カンベンしてよ、と思う。

第二次世界大戦勃発前で、まだ誰もヒトラーがあそこまでやるとは知らなかった頃のことなのだから。

こんな82年前の映像や画像を、鬼の首を取ったような勢いで公表して・・・

それよりもっと大変なことが、世界各地で起きているでしょうがっ!

 

ナチス式敬礼は、1938年にベルリンのオリンピック・スタジアムでサッカー試合が行われた際、イギリス・チームもしたそうです(下右)。

ほんと、当時はまだ誰にも、ヒトラーとナチスの本質を見抜くことはできていなかったのだから。

 

 

それよりも、エドワード8世。 恋のために王冠を捨ててくれて本当に良かった。

親独派でヒトラーとも親しく、ウォリス・シンプソンと1937年5月に結婚後、10月にはヒトラーの招待を受けて、

英国政府の忠告を受け入れずにベルヒテスガーデンにあるヒトラーの別荘に滞在。

 

第二次世界大戦勃発後でさえ、親独的態度を隠そうとはしなかったそうだ。

そのうえ一説では1940年に、「ドイツが勝ったら自分が国王に返り咲く」 という条件で、

英国をドイツ側に寝返らせる方法を秘かに画策したとされている。

スペインの外交官に 「戦争の早期終結のためには英国を爆撃するべきだ」 と提案したとも言われている。

いっぽうヒトラーは、戦争では敵になってしまったものの、英国にはかねてから尊敬の念を抱いていたので、

占領後は英国を、エドワード8世を形だけ国王にしておいて、自由に操る目論見でいたそうだ。


父王ジョージ5世でさえ、その言動に振り回され国王としての資質に疑問を抱いていたというエドワード8世。

未来の国王として、幼い頃から帝王学をはじめとする教育をみっちり受けてきた人物とは信じられない。

エドワード8世が恋をあきらめて王位をキープしていたら、第二次世界大戦の行方はかなり変わっていたかもしれない。

それを思うと、シンプソン夫人にはいくら感謝してもし足りないな。

 

 

いっぽうエリザベス王女は、1944年に18歳になると女子国防軍に入隊し、軍用トラックを運転したり、

車両整備をしたりして活躍。

 

 

エドワード8世の退位により、思いがけず国王になってしまったジョージ6世

その苦労は、映画 『英国王のスピーチ』 でもお馴染みである。

国王夫妻はカナダへの避難勧告を退け、ロンドンからも疎開しようとせず、国民の士気を鼓舞し続けた。

「国王がロンドンに留まっていられるなら、ロンドンはまだ大丈夫だ。」 とロンドン市民は安心していられたのである。

爆撃を受けた国内各地のみならず、外国の遠征部隊も慰問し励ました。

常に夫と行動を共にしたエリザベス王妃は、ヒトラーに 「ヨーロッパで最も危険な女性」 と言わせしめたそうである。

 

やがて迎えた戦勝

 

ジョージ6世の早逝により、25歳の若さで王位についたエリザベス女王と、

娘を見守りつつ歳を重ねていくクイーン・マザー。

 

2002年に101歳で逝去したクイーン・マザーは、国民に広く愛され親しまれる存在だった。

 

そして ・・・

“ザ・サン” のすっぱ抜きは、逆効果を招いたもよう。

 

「すばらしい! 世界にはすでに十分に憎悪が蔓延しているのに、こんな写真を使って

それを増幅させようというわけね。 よくできました。」

 

 

 “ザ・サン” 紙を所有する News UK のトップのルパート・マードック ↓ が、反王制で有名なため。

「私が女王だったら、あの卑劣なルパート・マードックは二度とこの国に入らせないわ。」

 

 

「女王がナチス式敬礼をしたというニュースは、“ザ・サン” が卑しむべき人間に操られた、

卑しむべきメディア媒体であることの証拠だ。 買うのをやめよう。」

 

 

「7歳と3歳? そうね、もちろん彼女らは、自分たちが何をしているのか “知っていた” のよね・・・ For Fuck's Sake。」

 

 

 「 “ザ・サン” を買わない理由があるとすれば、まさにこれがそうだ。」

 

 

私のイチオシは、“ザ・サン” という新聞紙名を “太陽” にひっかけているこれ ↓ 。 うまい!

 

「 “Their Royal Heilness” という見出しで女王が親ナチスだったとほのめかすことにより、

太陽(=“ザ・サン”紙)は新たなる低レベルに沈んだ。」

 

 

というわけで、英国民にはまだまだ冷静で客観的な判断力が残っているとわかり、胸をなでおろした私です。

ザマミロ、 “ザ・サン” め!

 

 

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“アウシュヴィッツの帳簿係” ①

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オスカー・グレーニング、94歳。 元ナチス武装親衛隊員。

“Bookkeeper of Auschwitz” ―― アウシュヴィッツの帳簿係。

今月15日、彼に判決が下った。

「少なくとも30万人のユダヤ人殺害を幇助したかどで有罪。 4年の禁固刑に処する。」

 

判決が下された瞬間、グレーニングは何を思ったか・・・

 

4月に裁判が始まったとき、グレーニングは93歳だった。

アウシュヴィッツの生残者の証言を聞き、涙を拭うこともあったという。

   

 高齢のため、歩行には補助器具を必要とする。

  

  

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

 オスカー・グレーニングOskar Gröning)は1921年6月10日に、熟練した生地製造業者を父に生まれた。

母親とは4歳のときに死別し、グレーニングは規律と服従と権威を重んじる、誇り高き国粋主義者の父親に育てられた。

父親は第一次世界大戦でのドイツの敗北と、ヴェルサイユ条約でドイツが受けた “不当な扱い” を苦々しく思っていた。

第一次大戦後に鉄兜団、前線兵士同盟に入党した父親に倣い、グレーニングもやがて、その青年団に入党した。

 

1929年に生地製造業が破綻すると、父親の苦々しさは怒りに代わった。

軍服に憧れを抱いていたグレーニングは、ナチスが政権を握るとヒトラーユーゲントに加入する。

10代の彼は、ナチズムはドイツにより良き未来をもたらし、ナチスはドイツを最高の国家にしてくれると信じるようになり、

“異国文化からドイツを解放するために”、ユダヤ人その他によって書かれた書物の焼き捨てに参加するようになった。

 

優秀な成績を修めて学校を終えたグレーニングは、17歳で銀行員見習いとして働き始めた。

戦争が布告されると、彼のいた銀行から20名が軍隊に徴兵されていった。

おかげで見習い銀行員たちは、通常より短い期間で訓練を終えて業務に携われることになったが、グレーニングも彼の仲間たちも、

フランスとポーランドにおけるドイツの勝利を聞くと、いてもたってもいられなくなった。

 

グレーニングはエリート部隊への加入を希望し、1940年、父親には内緒で武装親衛隊に志願した。

それを聞いた父親は失望したという。

“デスクワーク向き” を自認していたグレーニングは、与えられた武装親衛隊の給与管理部での仕事に満足した。


  

 

1942年。 武装親衛隊はデスクワークを負傷兵にまわし、デスクワークについていた健康な兵士は

“もっとやりがいのある” 任務につける方針を打ち出した。

グレーニングを含む20名強はベルリンに向かい、上官たちに忠誠の誓いを思い出させられ、その忠誠は

“困難な任務――時には不愉快な、しかし成し遂げられなければならない任務――を遂行することによって証明される” との訓示を受けた。

任務は最高機密で、グレーニングと仲間たちは、その内容を家族友人をはじめとする

「一切の部外者に漏らさない」 との宣誓書にサインさせられた。

それが済むと彼等は小さなグループに分けられ、ベルリンにあるいくつかの駅に連れて行かれ、カトヴィツェの方角に向かう列車に

乗せられ、グレーニングがそれまで聞いたことのなかった “アウシュヴィッツ” の司令官のもとに出頭するよう告げられた。

 

1942年10月。 21歳のグレーニングは仲間たちとともにアウシュヴィッツに着いた。

到着すると、彼等は同僚に暖かく迎えられ、兵舎の二段ベッドを与えられ、食べものをふるまわれた。

グレーニングは、武装親衛隊の配給食糧に加えてそこにある食べものや酒の贅沢さに驚いた。

グレーニングたちはアウシュヴィッツがどのような類の強制収容所なのか知りたがったが、

「特殊な強制収容所だから、おいおい自分たちでその答を見つけ出すように」 言われただけだった。

 

翌日グレーニングたちは、親衛隊管理部で彼等の以前の仕事について質問を受けた。

グレーニングが銀行員だったと知った上官は、彼の技能は役に立つと言い、彼を囚人たちの金が保管されている棟へと連れて行った。

上官は彼に、アウシュヴィッツに到着し登録された囚人たちの金は一時的にそこに保管され、

囚人たちが収容所を出る際彼らに返されるのだと説明した。

 

 

 

囚人たちが持参してきた異なる通貨や貴重品を仕分けして管理し、ベルリンに送る。 これがグレーニングの任務となった。

囚人たちの金は彼らに返されることなどないことを彼が悟るまで、長くはかからなかった。

任務について間もないグレーニングは、強制労働かガス室行きかの選別のあとで、

貨車に隠れていた子供たちや自力で歩けずゴミと共に置き去りにされた人々が、射殺されるのを見た。

アウシュヴィッツに到着する囚人の大半が、強制労働には不適とみなされ、“処分” されている――

当初は驚愕したグレーニングだったが、時が経つにつれて彼の仕事は日常の決まりきった仕事となり、

自分の役目を受け入れるようになった。

しかし彼の “ヒトラー崇拝” が色あせ始める時が来た。

 

2ヶ月ほどした頃、彼に新たな任務が課された。 列車の到着が相次ぎ、降車場の人手が足りなくなったため、

到着した囚人たちの所持品を、それらが選別されるまで監督するよう命じられたのだ。

降車場任務の初日に、彼は見た。

 

  赤ん坊が泣いていた。 ぼろに包まれて、降車場に横たわっていた。

おそらく 『幼子を連れた女性は即座にガス室送りになる』 と知っていた母親が、置き去りにしたのだろう。

武装親衛隊員が赤ん坊の両足を掴んだ。 泣き声が癇にさわったのだ。

隊員は赤ん坊が静かになるまで、その頭部を貨車の鉄の部分に叩きつけた。

 

翌日グレーニングは上官のもとに行って転属を願い出たが、それは叶えられなかった。

 

 

 

 1943年1月のある夜。 ビルケナウの外れにある親衛隊兵舎で眠っていたグレーニングと仲間たちは、非常警報によって起こされた。

ガス室に連行途中だったユダヤ人の数名が逃亡し、森に隠れたのだ。 グレーニングたちも銃を携帯して捜索するよう命じられた。

彼等が “絶滅区域” に到着すると、農家の前に幾人かの親衛隊員がおり、側には7、8名の囚人の射殺死体があった。

親衛隊員たちはグレーニングたちに兵舎に戻るよう命じたが、グレーニングたちはしばらく森に残ることにした。

親衛隊員に追い立てられて、100名を超える素裸の囚人たちが農家へと押し込まれた。

一人の親衛隊員がガスマスクをつけ、チクロンBの缶の中身をすべて、農家の壁の穴から内部に投入した。

内部で上がった叫び声は雷鳴に変わり、やがてハミングになり、そして静かになった。

仲間が、死体が野焼きにされているところに彼を案内した。

そこにいた囚人頭は、死体に発生したガスのため、焼かれている死体が動くといったような詳細を彼に話して聞かせた。

グレーニングは再度転属を願い出たが、上官である親衛隊少尉に誓いを思い出させられただけだった。

その夜聞いた叫び声は、それ以来グレーニングの耳について離れず、悪夢の中でその叫び声を聞くこともあるという。

 

(ビルケナウではガス室と焼却場が建設されるまで、ふたつの農家 《赤い家》 と 《白い家》 を間に合わせのガス室として使っていたので、

グレーニングが目撃したガス殺の舞台は、このどちらかだったと思われる。)

 

  

 

 グレーニングの三度目の前線への転属願いは成功し、彼は1944年9月にアルデンヌで戦闘中の親衛部隊に加わることになった。

途中で負傷した彼は野戦病院に送られた。 彼の部隊は彼の24歳の誕生日だった1945年6月10日に、英軍に降伏した。

“アウシュヴィッツに関わっていたこと” が自分にとってマイナス要因になると考えた彼は、それを隠すことにし、

英軍から渡された用紙には “親衛隊経済管理本部で働いていた” と記入した。

グレーニングはこれを、 “勝者は常に正しい” こと、そして

“アウシュヴィッツで起きたことは必ずしも人権(尊重)と相容れない” ことを認識したうえでの行為だったとしている。

 

グレーニングは仲間の兵士たちとともに、元ナチスの強制収容所に監禁された。

1946年に強制労働者として英国に送られ、そこでは “とても快適な生活” を送った。

良い食事を与えられ、金を稼ぎ、YMCAの合唱団に加わってドイツの賛美歌やイギリス民謡のコンサートを開催しながら、

4ヶ月にわたってイングランド中部からスコットランドを旅した。 英国民は友好的で、多くが彼らを自宅に泊めたがった。

 

1948年に解放されたグレーニングは、ドイツに戻った。

妻と再会した彼は、彼女に言った。 「お互いのためにひとつ約束してくれ。 何も訊くな。」

 

グレーニングと妻と息子は、グレーニングの父親の義理の両親と同居した。

ある日夕食の席で、父親の義母はグレーニングが、 「潜在的あるいは実際の人殺しではないか」 とほのめかした。

憤慨したグレーニングはこぶしでテーブルを叩き、 「私は無実だからこうしてここに座っている。 私は誰にも害を加えなかった。

私の前でふたたびそんなことを口にしたら、この家を出て行く!」 と叫んだ。

そのような発言は、二度と起こらなかった。

 

武装親衛隊員だったことが災いし、銀行での仕事には戻れなかったため、ガラス工場に職を得た。

二人の息子は成長し、大学に行き、めったに家に戻らなくなった。

息子たちは彼がアウシュヴィッツにいたことは知っているが、彼が息子たちにアウシュヴィッツでのことを語ることはなかった。

最終的に人事部の長になった彼は、労働裁判の名誉判事をも務めた。

戦後の彼は、中産階級としてごく普通の暮らしを続け、そうして40年以上が経った。

 

切手収集が趣味だった彼は、あるとき地元の年会合に参加し、隣の男と政治談議に入った。

男は彼に 「ドイツでホロコースト否認が違法なのはけしからんことだ」 と言い、「伝えられているほど多くの死体が焼却され得たわけがない」 し、

「伝えられている量のガスが使われたのなら、その地域の生物はすべて死滅していたはずだ」 と語った。

その場ではグレーニングは多くを語らず、男に 「私はそれについて少しばかり多く知っていますよ。 また別の機会に話しましょう。」 とだけ言った。

男はグレーニングに、ホロコースト否認派のティーズ・クリストファーゼン(?Thies Christophersen)によって書かれたパンフレットを読むよう薦めた。

パンフレットを男に借りて読んだグレーニングは、自分のコメントを添えてそれを返した。

 

「私はすべてを見ました。 ガス室、焼却場、選別過程。

150万人のユダヤ人がアウシュヴィッツで殺されました。

私はそこにいたのです。」

 

グレーニングのもとに、電話や手紙が届くようになった。

アウシュヴィッツが絶滅工場ではなかったと彼に認めさせようとする見知らぬ人々からだった。

ホロコースト否認を否定する彼のコメントが、ネオナチの雑誌に掲載されたのだ。

名を名乗らない電話や手紙の主たちは、グレーニングがアウシュヴィッツにおいて自らの目で見、体験したことは、

すべてが誤りであり、大きな妄想にすぎなかったのだと証明しようとした。

 

その結果、グレーニングは自らの体験を公表し、彼自身が目撃したことを否定しようとする人々に公的に反論する決心をした。

「この年齢になった今、私は自分が体験したことに向き合い、アウシュヴィッツなど起こらなかったという

ホロコースト否認派に反対意見を述べることを、自分の務めだと考えました。」

ホロコースト否認派への彼のメッセージは次の通り。

 

「私は焼却場を見たし、燃える野焼きの穴を見ました。

あのような獰猛な行為が起きたという私を信じて欲しい。

私はそこにいたのです。」

 

彼はまた、家族に宛てて87ページから成る回想録をも著した。



《 につづく 》

 

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“アウシュヴィッツの帳簿係” ②

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《 からのつづき 》


Auschwitz: The Nazis and 'The Final Solution' は、

アウシュヴィッツ解放60周年を記念して2005年に放映された、BBCテレビのドキュメンタリー。

グレーニングはこれに出演し、若き武装親衛隊員としての当時の心境や、

戦後60年を迎えようとしている2005年現在の思いを率直に語った。

戦時中の彼は、ナチスの残忍な行為は正当化されると考えていたという。


「あのころ我々は世界観によって、ドイツは全世界に裏切られたと、

そしてユダヤ人による恐ろしい陰謀がドイツ人に対して企てられていると、完全に信じていました。」

《 しかし子供に罪はなかったことは明らかだったのでは? に対しては―― 》

「子供はその時点では敵ではありません。 が、いずれは成長して危険な存在になります。

彼等の体内に流れる血が問題なのです。」

 

(一部ですが、こちらで視聴できます。 グレーニングに関する部分は、3:30から8:13まで。)

 

上のドキュメンタリーには、グレーニングの出番はまだあった。 彼が描写する、当時のアウシュヴィッツ。

「メイン・キャンプは、小さな町のようでした。 食堂があり、映画館があり、劇場があり、ダンス・ホールがあり、

私が加入したスポーツ・クラブがありました。

毎晩ではなかったものの、親衛隊員たちはよく酔っ払いました。 酔ってベッドに入り、

電気を消すのが面倒になった隊員は、拳銃で電球を撃って消灯しました。 部屋の壁にはあちこち弾痕ができましたが、

誰も何も文句を言いませんでした。」

 

彼はアウシュヴィッツで横行していた腐敗に関しても証言した。

彼によると武装親衛隊員たちは、アウシュヴィッツに送られてきた人々から奪った現金・貴金属・貴重品・飲食物などを、

「すべて厳重に管理保管するように」 との規則にもかかわらず、自由に横取りしていた。

グレーニング自身も拳銃が欲しくなった際、同僚に入手を頼み、自分が管理していた現金から30ドルを失敬して支払いに充てた。

隊員の窃盗行為が上層部の耳に入り、ロッカーの抜き打ち検査が実施されたとき、グレーニングは現金輸送の任務でアウシュヴィッツを離れていた。

戻ってみると、彼のロッカーは 《検査が済むまで開けるべからず》 の意味で、封がされていた。 ロッカー内には盗品がある。

そこで彼は一計を案じ、同僚に手伝ってもらってロッカーの裏面を外し、横領品をすべて隠してから

何食わぬ顔でロッカーを検査させ、事なきを得た。

 

《 殺された人々から奪った品で自分自身の生活を豊かにしていたわけだが、

彼らに対して申し訳ないという気持ちになったことは?に対しては―― 》

「まったくありませんでした。 殺されたのは彼等だけではなかった。 至るところで、人が死んでいたのです。

申し訳ないなどと思っていたら、1分たりとも生き長らえることはできませんでした。」 と断言した。

 

2005年5月の “シュピーゲル” 誌におけるグレーニングのインタビュー記事はこちら。

An SS Officer Remembers: The Bookkeeper from Auschwitz

Part 1: The Bookkeeper from Auschwitz

Part 2: Counting the money of the dead

 

殺害には直接関与していなかったため、グレーニングは自分に罪があるとは考えていない。

彼は絶滅工場における自分の役割を、“ギヤの中の小さな歯車” と表現する。

 

グレーニングは、ガス室の叫び声を忘れたことは一度もないし、恥のあまり、アウシュヴィッツにも一度も戻っていない。

彼はユダヤの人々に対し、また彼らに対して犯罪を犯した組織の一部であったことに対し、罪悪感を抱いていると述べた。

生残者に赦しを請うことはできないので、神に赦しを請いたいと。

 しかし公にホロコースト否認派を弾劾し、そうするために自らの過去を明らかにしたことにより、

グレーニング自身が戦争犯罪者として追及される結果になった。


戦後の長い間、囚人の殺害に直接関与していなかったナチスのメンバーは、罪を問われることはなかった。

グレーニングも過去に捜査の対象になったが、1978年に始まったグレーニングに関する捜査は、7年後に

「グレーニングが直接殺害に関与していたと証明されない限りは告発できない」 と結論された。

 

時は流れ、2009年7月。

ナチスの強制収容所で看守をしていたウクライナ人のジョン・デミャニュク(89歳)が

「少なくとも27,900人の殺害の幇助容疑」 で起訴され、2011年5月に有罪を宣告される。

           ジョン・デミャニュク

過去に例がなかった、囚人の殺害には直接関与していなかった(と思われる)看守を有罪としたこの判決は、

元ナチス(とその協力者)の裁きにおいて新たなる道を開いた。

以前は元ナチスを告発するには、三つの目的を達する必要があった。

元ナチスを発見し、容疑者が犯した非人道的行為の十分な証拠を探し出し、司法に働きかけて告発を成立させなければならなかった。

しかしデミャニュクの有罪判決後は、強制/絶滅収容所で勤務していたという記録が残る元ナチスやその協力者を発見するだけでいいことになった。

「そこで何が起きているのかを知りながら強制収容所に勤務しただけで、十分に起訴できる」 ことになったのである。

 

“最後のナチス狩り” が始まった。

公にホロコースト否認を否定していたオスカー・グレーニングという元親衛隊員を見つけ出すのは簡単だった。

 

1944年の5月から7月に焦点を絞った検察側は、

137の列車で42万5千人のハンガリー系ユダヤ人がアウシュヴィッツに強制送還され、

うち少なくとも30万人が殺害されたこの期間、グレーニングは

『ナチス・ドイツを経済的により豊かにすることにより、その組織的殺害を幇助した』 と告発した。

 

今年4月20日に、リュ―ネブルクにおいて裁判がスタート。

彼の高齢と健康状態に配慮して、開廷時間は一日3時間までに制限された。

93歳のグレーニングは述べた。

「私が道徳上有罪なのは明らかです。 私は赦しを請います。

道徳上有罪な私が刑法上でも有罪かどうかは、法廷が決めることです。」

 

 《アウシュヴィッツ犠牲者に正義を》               世間の関心の高さがうかがえる、裁判所の外の光景

 

 

 《ナチスによる恐怖の犠牲者との連帯》 と書かれた横断幕

 

 裁判中の6月10日に誕生日を迎えたグレーニングは、94歳になった。

そして下された有罪宣告と、4年の禁固刑という判決。

 

 裁判が始まったころ裁判所の外にいた、ネオ・ナチのメンバーのトマス・ウルフ。 このポーズ ↓ の意味は・・・?

 

裁判の傍聴を期待してうろついていた彼(前科アリ)は、「グレーニングは当時の犠牲者であり、今はドイツ司法の犠牲者だ」 と語ったそうである。


 

判決の翌日つまり今月16日付の “ザ・ガーディアン” 紙によると、

グレーニングは終戦後まもなく調査されようとしていた。

連合国戦争犯罪委員会の1947年3月6日付けの戦争犯罪容疑者リスト (14ページ目) に、約300の名に混じって、

彼の名が記載されていたのである。

 しかしながら、国際情勢がそれを止めた。

ソ連の共産主義の脅威を感じた西側諸国は、西ドイツの再建が最優先と感じ、

ポーランドやユーゴスラビアなどの猛反対を押し切り、 “小物” の追及はそれ以上はしないことにしたのである。

How Nazi guard Oskar Gröning escaped justice in 1947 for crimws at Auschwitz)

 

 

 *       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

Auschwitz: The Nazis and 'The Final Solution' のDVD。

これ私、今年5月に見ていたんですよね。 二度目のポーランド行きを控えて、予習のために。

オスカー・グレーニングの名も外見も何となく覚えていたので、彼に有罪判決が下ったというニュースを見たときすぐに思い出しました。

彼が起訴されていたことは知らなかったので、びっくりしたし、正直 (なぜ今頃になって・・・?) と思いました。

 

普段は執念深くて死刑制度にも大賛成派の私ですが、グレーニングに関しては、

有罪は納得しますが、禁固刑には執行猶予がつけられるべきと考えます。

理由は、彼は囚人の殺害には直接関わっていなかったこと。

そして近年、ホロコースト否認派に公的に反対証言をしていたこと。 この二つです。

 

彼のような “小物” を長年見逃してきたのは、ドイツの司法制度でした。

それを、時代が変わり世論も国際状況も変わったからといって、今さら94歳を禁固刑に処して、一体何が得られる? と思います。

しかもグレーニングは、ホロコースト否認を否定するため、沈黙を破った人です。

過去を隠し通してひっそりと暮らし続けることもできたのに。

法廷では沈黙を通したというジョン・デミャニュクとは対照的に、グレーニングは法廷でも、

自分のアウシュヴィッツでの体験を率直に語ったのに。

その勇気は、執行猶予に十分に値するのでは?

彼を禁固刑に処する代わりに、実社会で余生を送りながらアウシュヴィッツでの体験を

世界に発信してもらったほうが、よほど有意義では?


若きグレーニングは、アウシュヴィッツからの転属を願い出ていました。

最初と二度目にそれが却下されたとき、一体彼に何ができたでしょう?

任務を放棄すれば彼は処分を受け、代わりの誰かが彼の仕事を引き継ぎ、アウシュヴィッツは

それまでと同じように機能していったことでしょう。

 

誰だって、社会的弱者が辛い目に遭うところなどは見たくないはず。

もっと早く、 “小物” たちがまだ若いうちに罪を問うべきだったのに、それを怠ったのはドイツの司法制度だったのだから、

今さらグレーニングを 『ドイツの司法制度の過ち』 から目を逸らせるためのスケープゴートにするな!! と私は思います。

第一 “中物” どころか “大物” 親衛隊員の多くが、告発を免れて海外に逃げ、平穏な一生を終えたそうですし。

(あ、でももちろん、グレーニングが囚人の殺害や暴力に直接加担していたのなら話は別ですよ。

その場合は、たとえ何歳だろうと収監されるべきだと思いますし、

複数の殺害に直接関与していたのなら、死刑が妥当です。 高齢だって、慈悲は無用。)


と私がこんな風に思うのは、遠い異国に生まれた外国人で、直接的にはホロコースト被害者を誰一人知らないからなのでしょう。

もし私がアウシュヴィッツ生残者の家族だったら、おそらくグレーニングの有罪判決と禁固刑に大喜びするのでしょうね。

 

4日前(20日)、グレーニングと彼の弁護団は控訴したそうです。

私は彼が禁固刑を免れて、自由社会で最期を迎えられるよう祈っています。

 

 

ところでグレーニングの裁判中、彼と対面して彼を赦したアウシュヴィッツの生き残り女性がいました。

次回は彼女のことを書くことにします。

 


《 アウシュヴィッツの帳簿係 ‐ おわり 》


 

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エヴァ・モーゼス・コール - 双子実験の生残者 ①

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エヴァ・モーゼス・コール(Eva Mozes Kor)、81歳。

 

  エヴァは1934年1月31日に、双子のミリアムとともに、ルーマニアの小村ポーツ(Porţ)に生まれた。

土地を有する農夫の父親アレクサンデール、母親のジャーファ、二人の姉エーディトとアリーズとの6人家族だった。

最初に入った学校は、教室がひとつきりのちっぽけなものだった。

暮らしに不自由はなかったが、ドイツでナチスが強大になるにつれて、ユダヤ人への偏見と差別が日増しにひどくなっていった。

 

          エヴァの両親、1935年                 1歳のときのエヴァとミリアム     従姉妹にはさまれたエディートと、従兄とアリーズ

  

 

下左: 後列左からアリーズ、父親、エディート、友達、中列左からエヴァ、母親、ミリアム、手前は従兄

          

 

エヴァとミリアムが6歳のとき、村はハンガリーのナチ兵士に占領された。 モーゼス一家は村で唯一のユダヤ人家族だった。

村の大人たちは子供たちに、エヴァたち姉妹を “汚いユダヤ人” と呼ぶよう教えた。

占領が始まって4年後の1944年の春、一家はその地域のゲットーに送られ、劣悪な住環境におかれた。

数週間後の同年5月、家畜用貨車に詰め込まれた一家は、他の何千という人々とともにアウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所に送られた。

食料も水も与えられないうだるような熱気の中での輸送は、70時間に及んだ。

父親アレクサンデール(44歳)・母親ジャーファ(38歳)・長姉エーディト(14歳)・次姉アリーズ(12歳)とともに、

エヴァとミリアム(10歳)はビルケナウに到着した。

 

「貨車の扉が開いたとき、親衛隊員が人々を追い立てながら 『急げ!急げ!』 と叫んでいるのが聞こえました。

母はミリアムと私の手を握りました。 私たち二人が一番幼なかったので、母はいつも私たちを守ろうとしてくれました。

何もかもがめまぐるしく動いていて、気づいたときには、父と二人の姉の姿は消えていました。

母の手を握りしめていると、一人の親衛隊員が 『双子!双子はいるか!?』 と叫びながら通りかかりました。

ミリアムと私はとてもよく似ていたので、彼は立ち止まって私たちを見ました。

『この二人は双子か?』 彼は母に訊きました。 『それは良いことですか?』 母が訊くと、彼は頷きました。

『この二人は双子です』 母は言いました。

するとミリアムと私は母から引き離され、いくら叫んでも無駄でした。

振り返ると、母が連れ去られる私たちに向かって絶望的に両腕を伸ばしているのが見えました。

さよならを言うこともできませんでした。 あの時は、まさかあれが母を見る最後になるとは知りませんでした。

私の母は、世界一の母でした。」

 

エヴァの両親と二人の姉たちは、アウシュヴィッツ到着後まっすぐにガス室に送られたらしい。

エヴァとミリアムが同じ運命を辿らなかったのは、二人が双子だったからである。

二人は、アウシュヴィッツの “死の天使” ヨーゼフ・メンゲレ医師の双子実験用の人間モルモットに選ばれたのだ。

家族から引き離されて30分もしないうちに、二人は2歳から16歳までの13組の双子の少女たちのグループに加えられた。

 

双子たちは裸にされ、髪を切られ、腕に番号を刺青された。

「まるで悪夢のようでした。 目を閉じてからまた開ければ、すべてが消え失せているかもしれない。

そう思ってやってみましたが、無駄でした。」

エヴァは激しく抵抗したため、抑制には4人を要した。 彼女の腕には、“A-7063” の番号が今でも残っている。

 

「子供用バラックの後部にあったトイレを初めて使いに行ったとき、床には数人の子供の死体が横たわっていました。

あの光景は、一生忘れることができないでしょう。

そのとき私は、秘かに誓いました。 ミリアムと私は、絶対にあんな風にはならないと。

来る日来る日を、実験に次ぐ実験を、生き抜くのだと。」

 

多くの双子たちがされたように、エヴァとミリアムも週に6日、実験された。

月・水・土曜日は研究室で裸にされ、長時間――長いときには8時間――にわたって身体の隅々まで調べられ測定された。

「耳たぶを調べるために3時間も費やすこともありました。 本当に屈辱的でした。

彼等は私を、まるで一切れの肉、細胞の塊でもあるかのように扱ったのです。」

火・木・土曜日はさらにひどかった。 医師たちは “血液実験室” でエヴァの右腕に太い注射針を5本も刺し、

左腕からは血液を採取した。 エヴァは自分が何を体内に注入されていたのか、今もって知らない。

 

「これは残念だな、まだこんなに幼ないのに。 余命はたったの2週間だ。」

メンゲレは半ば笑いながら言い、他の医師たちとともに重症患者棟を離れた。 患者である10歳のエヴァに、薬を与えることなく。

エヴァには死んでもらいたかったので、薬を与えることなど論外だ。 そのためにバクテリアの混合物を彼女の体内に注入したのだから。

エヴァはメンゲレに、5回注射されていた。 その晩からエヴァは、高熱にうなされた。

体が震え、全身に赤い発疹ができ、両腕両脚は腫れ上がった。

 

その後の2週間、エヴァは生と死の狭間にいた。 唯一覚えているのは、バラックの床を這っていたことだ。

バラックの奥にある水道まで、水を求めて。 歩けなくなっていた彼女に、誰も水を与えてくれなかったから。

意識は遠のいては戻ってを繰り返し、エヴァはただひとつのことだけを考えていた。

生きなきゃだめ、生きなきゃだめ。

 

重症患者棟で働く囚人からエヴァが瀕死でいることを聞いたミリアムは、一週間分のパンをためて

こっそりエヴァに与えた。

2週間が過ぎると熱は下がり始め、エヴァは力が戻るのを感じた。

平熱に戻るまでにはさらに3週間を要したが、エヴァは瀕死の囚人のバラックから出され、ミリアムと再会できた。

 

双子実験に特別な関心を持っていたメンゲレは、双子のうち一人に毒物やバクテリアやウィルスを注射し、その後の経過や死の徴候を記録した。

死亡が確認されるや否や、もう一人の双子も心臓への薬物注射で殺害し、同時解剖を行って違いを比べた。

アウシュヴィッツで9ヶ月を過ごしたエヴァとミリアムも、同じ運命にさらされた。

しかし、鉄の意志と強い免疫システムのおかげで、エヴァは生き延びた。

「心の中で誓ったのです。 『私が死んだら、ミリアムも殺される。 生き抜いて、メンゲレ医師が誤っていたと証明してみせる。

決して、決してあきらめない。 生きて、ふたたびミリアムに会うんだ。』 と。」

 

エヴァは、メンゲレの実験室から戻されてきたジプシーの双子を見た。 メンゲレはシャム双生児を作り出そうと試み、

二人の血管や臓器を縫い合わせていた。 二人は昼夜叫び続けたあと、壊疽にかかって3日後に死亡した。

 

1944年11月になると連合軍の接近が加速し、空襲や砲撃が頻繁になり、人体実験は止まった。

翌年1月の初め、ナチスは生き残っている双子たちにこう言った。 「お前たちをドイツ領深くに連れて行くからバラックを出て来い。」

ナチスを嫌っていた二人は隠れ、彼らとは行かなかった。

翌朝ビルケナウのバラックを出てみると、ナチ兵はまったくいなくなっていて、囚人の数は8500人にまで減っていた。

その後の2週間、取り残された囚人たちはパンや水や毛布を探し出して “自活” した。

運良く小麦粉の袋を見つけたエヴァとミリアムは、生の小麦粉を少しずつなめて命をつないだ。

 

アウシュヴィッツからの死の行進:

約58,000人の飢え、傷つき、病を抱え、ぼろに身を包んだだけの囚人が、厳寒に凍った道を西へと歩かされた。

裸足の者も多かった。 歩くペースが落ちたり雪の中に倒れたりすれば、即座に射殺された。

約56km歩いたあと Wodzisław Śląski から貨車に乗せられた囚人たちは、他の収容所へと送られた。

道中、約15,000人が命を落とした。 (ウィキペディアより)

 

「ある日近づいてくる車の音がしました。 軍用車から降りてきたナチ兵士たちは、あらゆる方角に向けて発砲しました。

意識を失う直前、私は自分の頭から1mと離れていないところに銃を見ました。

気がついて真先に両腕と両脚を触ってみると、撃たれていませんでした。 そこいらじゅうに死体がありました。

ミリアムが待っていたバラックへと走りました。 ナチスが戻ってきたらどうしようと、本当に怖かった。

その晩戻ってきたナチスは、ガス室を爆破しました。 私たちのバラックも火を放たれ、ナチスは私たちを、

アウシュヴィッツⅠまで歩かせました。 でもそれ以上遠くは連行できませんでした。

敵が接近していたからです。」

 

1945年1月27日。

近くで激しい戦闘が9日間も続いたあと、エヴァとミリアムが隠れていた収容棟に、

異常な静寂が落ちてきた。 その平穏は、午後になって破られた。

一人の女性がエヴァたちの収容棟に駆け込んできて、声を限りに叫んだ。

『私たちは自由よ!自由よ!自由になったのよ!』

 解放されたという実感が沸いたのは、約30分後。

吹雪で視界が悪かったものの、遠くに “白いカモフラージュ・レインコートを着たたくさんの人々” が見えたときだった。

 

「彼らは耳から耳まで笑みをたたえていて、ナチ兵士のようには見えなかったのです。

私たちは彼らの元へ駆け寄りました。 すると彼らはチョコレートやクッキーをくれ、私たちをハグしてくれました。

それが私が味わった、最初の自由でした。

ミリアムと私は生きていて、自由。 最高に素晴らしい経験でした。

その晩エヴァとミリアムのバラックに来たソ連兵たちは、

「ウォッカを飲んでロシアの踊りを踊りました。 私たちは彼らを囲んで拍手喝采しました。」

 

       実験に使われた子供たち              解放後に発見された子供たち       子供たちを収容する木造バラックがあった場所 

  

 

2、3日後、大きなカメラを運んできたソ連兵たちは、子供たちに奇妙な頼みごとをした。

大人用の縞模様の囚人服を着て、収容所内を歩いて欲しいと。

皆が皆この要求に応えたわけではなかったが、エヴァはミリアムに言った。 「外は寒いから、もう一枚着ましょうよ。」

こうして有刺鉄線の塀の間を行進する子供たちの姿が、映像に残された。

栄養不足のため子供たちは皆痩せこけていたが、重ね着のためそうは見えない。

 

映像は  こちら

 

                                             「これが私。」 と当時の自分を指し示すエヴァ

 

 

約1500組・3000人の双子の子供たちがメンゲレの生体実験に使われ、大多数が死亡した。 

1945年1月27日――エヴァとミリアムの11歳の誕生日の4日前――にソ連軍がアウシュヴィッツを解放したとき、

生き残っていた約200人の子供が発見され保護された。 その多くが、“メンゲレの双子たち” の生き残りだった。

 

アウシュヴィッツでの9ヶ月を生き延びたエヴァとミリアムは、当初は地元の尼僧に預けられ、たくさんのおもちゃをもらった。

「でもそれは、妙に侮辱された気がしました。 私たちは、もうおもちゃを喜ぶような子供ではなくなっていたのです。

11歳になっていた私は、その後おもちゃで遊ぶことは二度とありませんでした。

私の子供時代は、アウシュヴィッツで永遠に失われたのです。」

 

難民キャンプで9ヶ月ほど暮らしたあと、エヴァとミリアムは家族のうち誰かが生き延びていたことを期待して、

1945年10月、ルーマニアの故郷の村に戻った。

しかし家は空っぽで、荒らされていた。 二人は家族の写真が数枚、埃っぽい床に落ちているのを見つけた。

思い出を除けば、それが二人に残された唯一の、家族がいた証となった。

二人は両親、姉たち、祖父母、伯父伯母、従兄弟たちのほとんどに、二度と会うことはなかった。

「たぶんあの日が、私の人生で一番悲しい日だったと思います。

家族の誰かが生き延びていたことを、それはそれは願っていましたから。」

 エヴァとミリアムはクルジュ=ナポカに住む、二人と同様強制収容所を生き延びた叔母と暮らし始めたが、

反ユダヤの空気は以前と変わらず社会に漂っていた。

ルーマニアが共産主義になると、叔母の夫は 『資本主義者だ』 と告発されて裁判なしで投獄された。

 

 エヴァとミリアムの故郷の村                   14歳のときのミリアム(左)とエヴァ(右)

         

 

1950年、エヴァとミリアムは叔母たちとともにルーマニアからイスラエルに移住した。 身に着けているものだけが、全財産だった。

「夏の真只中に3枚もワンピースを重ね着し、その上にコートを羽織りました。 あのコートは20時間も並んで手に入れたんですもの、

置いていけるわけがないわ!」

 

エヴァは生まれて初めて、ユダヤ人であるがゆえの迫害を怖れることなく自由に暮らし、眠れるようになった。

次の10年間、エヴァは農業学校で良い教育を受け、イスラエル陸軍に勤務し、軍工学部隊の上級曹長のランクを獲得した。

ホロコーストの生残者でアメリカからの旅行者だったマイケル “ミッキー” ・コールと出会ったエヴァは、

1960年にテルアビブで彼と結婚し、アメリカに渡った。

 

               乳搾りをするエヴァ                     エヴァ(左)、ミッキーと、ミッキーの兄一家       

        

 

1965年、エヴァはアメリカの市民権を獲得した。 二人はアレックスとリナという二人の子供に恵まれ、

エヴァは不動産仲買業者として働いた。

1978年。 TVミニシリーズ “ホロコースト” を見たエヴァは、ふと思った。

私と同様に解放されたあの子供たちは、その後どうなったのだろう? どこに行ったのだろう?

アウシュヴィッツのトラウマと被った人体実験は、彼らのその後の人生にどんな影響を与えただろうか?

エヴァは、アウシュヴィッツの双子の生き残りを探すことにした。

 

 イスラエル在住のミリアムにも協力してもらったものの、あるのは解放時の写真だけ。 生き残った双子たちの、名前も住所もわからない。

エヴァは1983年までの5年間、年に3回から4回、約500通の手紙をメディアに書き送って協力を仰いだが、成果は芳しくなかった。

1983年12月に、エヴァは画期的なアイディアを思いつく。

組織を設立して自分をリーダーに据えれば、メディアはもっと真剣に協力してくれるかもしれない――

 

エヴァとミリアムは、1984年に CANDLES (Children of Auschwitz Nazi Deadly Lab Experiments Survivors) を設立。

子供への生体実験というアウシュヴィッツの暗い一章に少しばかりの光を当てられる気がするので、

エヴァは CANDLES という頭字語を気に入っている。

ミリアムには副リーダーになってもらい、イスラエルのメディアに協力を要請してもらった。

ミリアムの夫はジャーナリストだったので、主要紙のひとつの前面に CANDLES を広告できた。

短期間のうちに “メンゲレの双子たち” のうち80人の名前が集まった。

 

アウシュヴィッツ解放から40周年を迎えた1985年1月27日。

“メンゲレの双子たち” のうち6人がビルケナウで再会し、記念式典に出席した。

その後彼らはエルサレムに移動し、80人の双子たちが出席する中、メンゲレの “仮裁判” を行った。

それが世界中でニュースになったおかげで、“メンゲレの双子たち” がさらに発見された。

最終的に CANDLES は、4大陸の10ヶ国に住む122人の双子たちを見つけ出した。

多くが健康上の問題を抱えて苦しみ、かなりの数がすでに死亡していた。

 

 

双子実験の生残者たちと話すことで、エヴァはメンゲレが様々な実験を行っていたことを知った。

たとえば、幸いエヴァとミリアムは青い瞳をしていたが、青い瞳をしていなかった双子たちは、

瞳を青くするため眼球に薬物を注入された。 金髪碧眼の “優等民族” を多産するための実験だった。

16歳以上の生殖年齢に達していた双子たちは、男女間で血液を交換された。

これらの実験の結果、多くの双子が死亡した。 (詳しくはこちら。英語ですが。)

 

                           1985年のエヴァ                            エヴァとミリアム、アウシュヴィッツにて、1991年  

     

(イスラエルのニュースのため上左の写真を撮った在米のカメラマンは、当時のエヴァから “生真面目で、不幸せで、怒りを秘めた人” という印象を受けた。

30年後の今年、彼女に再会した彼は、彼女が別人のように明るく幸福になっていたことに驚き喜んだという。)

 

1985年6月に、ブラジルでメンゲレ医師のものとされる骨が掘り起こされた。

するとメディアの関心はそちらに集中し、エヴァと CANDLES に関心を持つものはいなくなり、

エヴァたちは大きな失望を味わった。

 

ミリアムもまた、メンゲレに薬物を注射されていた。 アウシュヴィッツ以降、ミリアムは常にエヴァよりも不健康だった。

1960年に最初の子を妊娠したとき、ミリアムは腎臓に感染症を発症した。 抗生物質はまったく効果がなかった。

1963年に二人目を妊娠すると、感染症はさらに悪化した。

医者が調べてみると、彼女の腎臓は10歳の子供の腎臓の大きさのまま成長していなかったことがわかった。

三人目を出産後、ミリアムの腎臓機能はさらに低下し、どんな薬も効果がなかった。

エヴァは1987年に自分の左の腎臓をミリアムに提供した。 適合は完璧だった。

それにもかかわらず、一年後にミリアムは癌にかかった。

50以上の腎臓移植を成功させてきた医師チームは驚き、ミリアムは一体何をアウシュヴィッツで注射されたのかと訝った。

エヴァの祈りも空しく、ミリアムは1993年6月6日に、稀なタイプの癌のため59歳でこの世を去った。

 

 

 

《 につづく 》

 

 

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エヴァ・モーゼス・コール - 双子実験の生残者 ②

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《 からのつづき 》

 

エヴァ自身も流産を経験し、結核にも侵された。 息子のアレックスは癌にかかった。

「自分の命のため自分で戦わなくてはならないわ。 アウシュヴィッツにいたとき、医師たちは皆私に死んで欲しかったのよ。

私が自分で、生きるんだと決めたの。 あなたも同じことをできる?」 と言うエヴァにアレックスは当初は反発したが、

2日後に電話してきてこう言った。 「母さんが言いたいこと、理解できたと思う。 これが僕のアウシュヴィッツなんだね。

生き延びるために、僕自身が戦わなきゃならない。」 癌を克服したアレックスは、今日も健在である。 (詳細はこちら。英語ですが。)

 

     

 

ミリアムの死からほんの数週間後、エヴァはあるドイツ人医師に会うためドイツに飛んだ。

ハンス・ミュンヒ (Hans Münch, 1911-2001) はナチ党員で親衛隊医師で、

1943年から1945年にかけてアウシュヴィッツに勤務していた。

ミュンヒは戦後告発されたが、無罪放免された。

ひどく緊張していたエヴァだったが、ドアを開けたのは、雪のような白髪頭に穏やかで内気そうな微笑をたたえた高齢の紳士だった。

ミュンヒは虐殺が行われていたときにアウシュヴィッツにいたことを認め、「それが私の問題なのです」 と語った。

彼は現在も、鬱病や悪夢に苛まれていた。

 

ハンス・ミュンヒ(Hans Münch,1911-2001) :

1943年から1945年にかけてアウシュヴィッツに勤務した親衛隊医師。 “アウシュヴィッツの善き男” と呼ばれる。

彼は降車場での選別任務を拒否し、生体実験に協力するふりをしながら、実は秘かに囚人の命を救った。

親衛隊がアウシュヴィッツから敗退するときは、囚人のオランダ系ユダヤ人医師ルイ・ミヒールズ(Louis J. Micheels)に、

無事を祈って拳銃を渡した。

戦後ミュンヘン郊外のダッハウ強制収容所に3ヶ月間投獄されたあと、クラクフでアウシュヴィッツ裁判にかけられた。

しかし多くの元囚人が 「ミュンヒは選別に加わらず、実験で囚人に害を与える代わりに秘かに救ってくれた」 と証言したため、

1947年に無罪放免された。 同裁判で裁かれた41名の元親衛隊員のうち無罪放免となったのは、彼だけである。

1998年からナチスのイデオロギーを肯定したり人種差別的発言をするようになり起訴されたが、アルツハイマー病により

精神状態が侵されていたとして、2000年1月に刑事訴訟は打ち切られた。 翌年ミュンヒは死去した。

 

アウシュヴィッツ解放から50年後の1995年、エヴァはあまりにも多くの命が犠牲になったその場所に戻った。

彼女の隣には、ハンス・ミュンヒがいた。

エヴァはミュンヒが署名した、目撃証言書であり罪悪感の告白書であるものを読み上げた。

「ユダヤ人の生残者でも解放したソ連兵でもない、ナチスの医者の目撃証言であることが重要だったのです。

アウシュヴィッツでのことはユダヤ人の作りごとだというのが、歴史修正主義者の主張でしたから。」

 

 次に彼女は、その場にいた多くの人々が驚いたことに、自らを犠牲者の立場から解放し、

「自分個人の名のみにおいて、ナチス全員を赦す」 ことを告げた。

ミリアムを除く自分のすべての近親を虐殺し、ミリアムと自分をも殺しかけたナチスを赦すと、公式に宣言したのである。

エヴァによると、赦すことで自分にのしかかっていた重い被害感情が消え失せ、自分が強くなったのを感じた。

 

「私は、自分に赦す力があったことを発見しました。

誰も私に与えることのできない、また誰も私から奪い去ることのできない力です。

それは私だけのものであり、私が望むやり方で使えるものでした。

赦すことは、私を “悲劇的な過去” から解放してくれました。

私はアウシュヴィッツから、そしてメンゲレから、自由になったのです。」


ミュンヒ医師は、エヴァの要請に応じてアウシュヴィッツでの目撃証言書を、罪悪感の告白書を作成してくれた。

元ナチ親衛隊員として。

エヴァは彼に感謝したかったが、元ナチスにどう感謝すればいいのかわからなかった。

ある日、彼を赦すことを思いついた。

すると自分自身でも驚くほどに気持ちが軽くなり、全身に力がみなぎってくるのを感じた。

それが彼女の、自分と家族を迫害したメンゲレを含むすべてのナチスを赦す道程の始まりだった。

 

「ナチスを赦す」 というエヴァの宣言は、様々な反応と論争を引き起こした。

彼女を公然と強く非難する生残者やその家族も多い。

赦しを与えることでエヴァは癒されたが、それはアウシュヴィッツで起きたことを何ら変えるものではなく、

エヴァがアウシュヴィッツで受けた害を忘れるということでもない。

エヴァは、ナチスを赦すのは 「純粋に自分自身の救済のためであり、ホロコーストを軽んじるものでは決してない」 と

発言のあとに付け加えることを忘れない。

 

エヴァと家族は、1960年以来インディアナ州テレホートに住んできた。 インディアナは過去にKKKが強い影響力を持っていた土地である。

エヴァは定期的に反ユダヤ主義に直面し、嫌がらせの手紙を受け取ったり、家にナチスのシンボルである鉤十字を書かれたりした。

エヴァはミリアムの死を深く悲しみ、それに大きく影響されていた。 ミリアムのために、何かポジティブなことをしたい――

ミリアムの死が、彼女にインスピレーションを与えた。

不動産業者である彼女は、旅行代理店を開きたいという顧客のためにある建物を見つけた。 しかし客にはそれは高価すぎた。

そこでエヴァは顧客と共同で建物を購入し、その半分を使って CANDLES の博物館を開くことにした。

 

教育センターを兼ねる小さな博物館は、アウシュヴィッツ解放50周年である1995年1月に、テレホートにオープンした。

夫 “ミッキー” とエヴァとで、週に3日、2時間ずつの開館だった。

2001年9月の9/11テロのあとに建物の共同所有者が旅行代理店を閉店することを決めると、

エヴァと夫は建物全体を買い取った。

 2003年11月14日、エヴァは博物館の外壁に、赤いペンキで大書した。

“Holocaust education promotes peace” (ホロコースト教育は平和を促進する)

4日後、博物館は放火に遭った。 外壁には “Remember Timmy McVeigh” と落書きされていた。

ティモシー・マクベイ: 168人を殺したオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の主犯。テレホートで死刑を執行された。)


午前1時。 呆然と立ちすくむエヴァに、マイクとカメラが向けられた。 「これからどうなさるおつもりですか? 今のお気持ちは?」

「そうね、楽しいときもあったわ・・・」 言いかけて思い出した。 ―― “決して、決してあきらめない。”

「でもずっと悪いときもあった。 建て直さなきゃ、ならないわね。

ここで私たちがしようとしていることを、嫌悪からくる行為によってやめさせられるわけにはいかないもの。」

エヴァとミッキーは、二人きりで博物館の再建にとりかかることを覚悟した。 1985年の “メンゲレの遺骨” 発見以来、

誰からもどこからも大きなサポートは受けていなかったからだ。 しかし二人は、嬉しい驚きに見舞われることになる。

「翌朝6時に電話が鳴ったの。 ありとあらゆるところから、記者が電話をしてきたわ。 その日だけで、100本の電話が入ったの。

それは連日続いて、人々は激励のメッセージを送ってくれ、私を呼び止めて励ましてくれた。 記者もたくさん来たわ。」

 

            被害状況を視察するエヴァ                        CANDLES の被害を悼んで集まった人々       

   

 

このヘイト・クライムにより CANDLES とその平和と赦しのメッセージが必要とされていることが、より明らかになった。

博物館に住民が集まり、サポートを表明し、2日後彼らはシナゴーグから博物館までのピース・ウォークを催した。

メディアが詰めかけ、大衆からの寄付金は30万ドルに上った。 うち2万5千ドルは、地元地域の学校の生徒たちからのものだった。

 地域社会および全国のサポートを得て、CANDLES は博物館を再建し、2005年春に再オープンした。

放火はCANDLES を破壊する代わりに、  その知名度を広め、組織と地域の連帯をより強めたのである。

 

アウシュヴィッツからの品々やメンゲレ医師関連の書類を展示するこの博物館は、学齢の子供たちを主とする何千人もの人々に訪れられるようになった。

   

  

   

 

 2006年、エヴァについてのドキュメンタリー映画 “Forgiving Dr. Mengele" が公開された。

(正義の裁きを免れて逃亡したメンゲレ医師は、1979年に南米で海水浴中に溺死していた。)

 

 

 設立から30年を超えた現在も、エヴァは CANDLES の牽引力として、講演やガイドツアーをこなしている

CANDLES は 『苦痛を癒し、真実を教え、偏見を防ぐ』 ことに全力を注ぐ。

エドワード・アズナーエリオット・グールドなどのハリウッド俳優も含めた多くの人々が、CANDLES を支援している。

エヴァは、友人や地域社会の人々(特に教育者)を伴って、何度もアウシュヴィッツに戻っている。

未来を担う学生や若い世代と、学んだことを分かち合うために。

 

   

   

 

エヴァとミリアムの体験を綴った本:

          ECHOES FROM AUSCHWITZ (2000年)         SURVIVING THE ANGEL OF DEATH (2009年)

            

 

今年1月末、エヴァは解放70周年を記念するためアウシュヴィッツに飛んだ。

 

 

 

今年4月23日。

オスカー・グレーニングの裁判に、エヴァも50人の原告の一人として出廷し、メンゲレにされた生体実験について証言した。

閉廷後エヴァはグレーニングに歩み寄り、彼と話し、握手をし、彼から頬にキスを受けた。 動画はこちら

 

 

 

「私、彼に好かれたのよね、そうでしょう? 私は元ナチスのキスを頬に、アメリカに帰るわ。

これは、以前の敵同士も人間同士としてうまくやっていけるということの証明よ。

怒りや殺し合いからは、良いことはなにひとつ生まれない。

怒りが生み出すエネルギーは、暴力的なエネルギーにしかならない。 怒りは戦争の種でしかない。

私は若い人々に、元ナチスと生残者さえ和解できることを知って欲しい。」

 

エヴァはメディアに向けて、元親衛隊員のグレーニングを赦したことを公式に表明した。

以前と同様、彼女の行為は他の生残者とその家族の強い批判や非難にさらされた。

 

「批判だけじゃない――私を 『裏切り者』 と呼ぶ人たちもいるわ。 でも、わかってほしいの。

被害者は、自分が受けた害から自由になる権利がある。 でもその自由は、苦痛と怒りという重荷を肩から下ろして

ナチスを赦さない限り、得られないものなの。 赦すのはナチスがそれに値するからじゃない――私がそれに値するからよ。

被害者一人一人に 『私がナチスを赦すことがなぜあなたをそれほど傷つけるの?』 と訊くと、答が返ってくることはないわ。

たぶん被害者は、被害者が多ければ多いほど安心できるのでしょうね。 私には理解できないけれど。」

 

グレーニングの判決後、エヴァは失望を表明した。

「94歳の彼を4年間投獄することに、私には何の意味も見出せないわ。

彼の価値は、牢屋に座っていることではなく、社会に向けてアウシュヴィッツでのことを話すことにあるのだから。

彼の健康状態が許すかぎり、月に数回学生に講演してもらえたらどれほど有益でしょう。

話すたびに当時のことを思い出さねばならず、彼には簡単なことではないでしょうけれど。

彼が若い世代に向けて 『実際に起きたことだ。 私はそこにいた。 ナチスの統治に何ひとつ良いことはなかった。

何百万の人々に、そして加害者側にさえ、悲劇をもたらしただけだった。』 と教えてくれたら――

それはドイツを、そして世界を利することになるでしょう。」

 

 

  エヴァが情熱を込めて送るメッセージ

 

『最悪の敵を赦し、自分を傷つけたすべての人間を赦しなさい――あなたの魂は癒されて自由になるでしょう。』

 

 

 2014年7月、エヴァはビルケナウでドイツ人女学生の一団に出くわした。

エヴァというアウシュヴィッツの生き残りに出会い、感情が昂ぶった彼女たちは泣き出した。

明らかに罪悪感にとらわれている彼女たちを見て、エヴァは言った。

 

「なぜ罪悪感を感じるの? 何か悪いことをした? あなたたちはあの頃、生まれてすらいなかったじゃないの。

不要な罪悪感にさいなまれて貴重なエネルギーを無駄にするのはやめなさい。 それは誰のためにもならないわ。

私や他のホロコーストの生き残りのために何かしたいのだったら、どんな小さなことでもいい、世界をほんの少し良くするために、

小さな親切をできるだけしてちょうだい。 大きなことじゃなくていい。 ゴミを見つけたら、拾ってゴミ箱に入れるというようなことでいいの。

それは世界を救うことにはならないかもしれないけれど、世界のその部分を、あなたはより良くしたことになる。

ふさぎこんでいる人を見たら、短時間でもいい、話しかけてあげてちょうだい。

世界をより良い場所にするよう、常に心がけてちょうだい。」

女学生たちは彼女に同意し、代わる代わる彼女をハグした。

 

「ドイツの学校では、ドイツが恐ろしいことをしたことを教え、若者にそれを忘れさせないようにします。

私はその際に、彼らに罪悪感を持たせないことが非常に大事だと思います。

自分が生まれる時や場所を選ぶことは、誰にもできないのだから。

ずっとずっと長い間、私は自分に問いかけていました。

『私がユダヤ人に生まれたのは、私のせいじゃない。 なのになぜ人々は、ユダヤ人だからといって私を嫌うの?』

もし私が今日の若いドイツ人をドイツ人だからという理由で嫌ったら、私はヒトラーよりましな人間といえるかしら?

たしかに私は、ヒトラーのように人々を殺してはいない。 でも人殺しは嫌悪から始まり、嫌悪が最悪に達すると人殺しになるのです。

嫌悪を教えられた若者は、殺すことが正当化されたと感じます。

赦すことを教えることで、暴力と被害のサイクルを断ち切ることができるのです。」

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

 近親のすべてをナチスに殺され、自分自身もわずか10歳で殺されかけた女性の、この英知。 感服しました。

今のこの時代には、かつてないほど必要とされているのでは。

アウシュヴィッツ解放70周年のことを書いたときは、エヴァさんのことをまったく知りませんでした。

グレーニングを赦したことでニュースになり、彼女の過去を学ぶことができましたが、学べてよかったです。

 

最悪の敵。 私を傷つけたすべての人間。

私の最悪の敵って・・・ 私を傷つけたすべての人間って・・・ 頭をひねっても思いつかない・・・

敵と呼べるような人間がいない自分は、本当に幸運なんだな、と改めて思います。

(私を敵と思っている人間がいないことも願う。


 世界中の一人一人がエヴァさんのように考えられたら、戦争や紛争や殺し合いはすぐになくなることでしょう。

でも最悪の敵を、自分や自分の大事な人たちを傷つけ苦しめた相手を赦すのは、とても難しく、なかなかできないことです。

 エヴァさんと同様に自分を苦しめた相手を赦せた人というと、私には、過去に記事にした

ベトナム戦争で全身に火傷を負わされたキム・フックさん

“レイルウェイ・マン” エリック・ローマックス氏が思い浮かびます。

 

反対に 『赦すことなどできなかった人々』 というと、日本人の私はどうしても

『旧日本帝国軍の捕虜になった元連合軍兵士たち』 を思い出してしまいます。

15年くらい前までは、「死ぬまで日本人を赦さない」 とメディアで公言する、日本軍捕虜だった元英国兵が数人いました。

『クワイ河に虹をかけた』 永瀬隆さんと奥様も、鎮魂に訪れた 『地獄の業火峠』 で彼らに出くわしています。

自分を苦しめた相手を赦せたことで心に平和を得たローマックス氏、キム・フックさん、そしてエヴァさん。

かたや、日本人を憎悪したまま死んでいった(であろう)、日本軍捕虜だった元英国兵たち。

満ち足りた平和な心でこの世を旅立てるのは、はたして・・・・・?


「ナチスを赦すことでようやく自分が癒された」 というエヴァさんと、「赦すことなど絶対にできない」 という他の生残者たち。

どちらの言い分もわかります。 執念深い私はきっと 「赦せない」 派になるだろうと思いますが、

何よりもまず、そんな状況になど絶対に陥りたくありません。

 

エヴァさんは一個人としてナチスを赦しただけ。 赦して自分を癒すことを他の人々にも勧めてはいるけれど、

強制しているわけじゃない。 赦そうとしない人々を、批判非難しているわけでもない。

だから他の生残者やその家族も、エヴァさんの選択を尊重してあげて欲しいです。

想像を絶する過酷な体験を生き抜いた生残者には、それぞれが見つけた最良の方法で自分を癒す権利があるのだから。

 

 私よりよほど活動的な毎日を送るエヴァさん。 頭が下がります。

どうか心身ともにお元気で、長生きしてくださいね! 



《 おわり 》

 

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