Quantcast
Channel: ハナママゴンの雑記帳
Viewing all 1514 articles
Browse latest View live

ひとりサンポ

$
0
0

ケイトーに虹の橋へ先行されてからの、ひとりサンポ。 頑張って続けています。

(コノアイダズルヤスミシチャッタケド・・・

とは言っても、仕事が入っていない日だけですからね。 つまり、平均すると週3日・・・ いや、雨の日は行かないから、週2日ってとこかな。

 それでも! 全然行かないよりは絶対マシ! に違いない。

 

我家の2階からの眺めです。

隣家の前庭には桜の木があるんですが、病気っぽくて心配。 葉っぱの大半が茶色っぽくなっちゃってます。

だから今年、裏庭のと比べて開花が遅れたし、かなり葉桜っぽかったんだなぁ。

 

もとい。 遠くに見える三角丘にご注目。 ケイトーと、それは数え切れないくらいよく散歩に行った丘です。 先日、一人でまた行ってきました。

  丘に行くルートの途中で我家を振り返ったところと、                  丘の中腹から我家を見たところ。         

 

 別の日には別のコースで散歩していて、黄金色に輝く小麦に出会い、うっとり  小麦畑がこんなにキレイだったなんて、知らなかった・・・!

 金物屋さんの店先に、ユニークな案山子を発見。

 

フレンドリーな死人の案山子でよかった。 これなら子供も大丈夫。 ・・・ “天国へと上る案山子” ・・・?

あ!   この金物屋さん、葬儀屋さんも兼ねているからかぁ。

 その先100mほどのところにある小さなカフェ兼サンドイッチのお店。 まだつぶれずに営業しています。 よかった。

普段の生活ではとてもケチ倹約家なワタクシが、去年珍しく入ってみた店です。

近づいてみたら、 ・・・ 人が壁にぶら下がってる!

 

と思ったら、これも案山子でした。 このポーズ、反対側から見るとちょっと情ない!? (顔もあるのかないのかよくわからんし) 

 

ぽつぽつと飛び石に数軒のお店があるだけの商店街(←死語)ですが、『案山子で商店街おこし』 中なのかもしれません。

 

こちらは私のドリーム・ホームです。 いったい何室あるのっ?!

こっちでもいいです。 ちょうど売りに出ているし、好都合。 ・・・と、夢想してみる。

   草原を少し歩いて、住宅地に戻ります。                        まっすぐ先が、我家のあるあたり。     

 

   歩いてきた草原を振り返ったところ。                     雑草の茂みに隠れてしまいそうな踏み段。 

 

これを超えてずんずん行って、開き戸の向こうに出て、

 

振り返ると、まるで不法侵入。 でもいいのです。 このお宅の庭にはフットパスが走っているのですから。

 

 

今夏休みでサウジアラビア在住の義弟①一家がイギリスに戻ってきています。

4月に日本・6月にポーランドに行っておきながら、あげられるようなものが何も残っていなかったので、

久しぶりにスーパー・テスコの大型店に行き、“World Food” のコーナーでスナック菓子を買いました。

せめてもの気持ちということで。 (自分でも食べたかったし。)

サラダせんべいみたいな軽いお煎餅は、150g入りで£1.30(≒¥251)。 かっぱえびせんは85g入りで£1.39(≒¥269)、たっか~・・・

 

キャラメルコーンは85g入りで£1.75(≒¥338)、チリ&レモン風味の面白い形のスナックは80g入りで£0.70(≒¥135)でした。

 

ポーランドの食べものもあり、

一昨年クラクフで買ったのとまったく同じチョコレート菓子もあったので、義弟①一家用に買いました。 280g入りで£1.99(≒¥385)。

瓶詰めゴウォンプキ(ポーランド風ロールキャベツ)は500g入りで£1.00(≒¥193)。 安すぎる・・・

(クラクフでの私のゴウォンプキ体験は、こちらこちら。)

チキンラーメンみたいにお湯を注ぐだけでいいポーランドのインスタント・ラーメン(チキン味)は、£0.45(≒¥87)。

これはもう食べてみたけれど、ごくごく普通の味。 同じ値段なら、出前一丁の方が私はいいです。

 

安すぎるゴウォンプキ。 実際食べてみる日が来たら、そしてもし忘れなかったら、また報告しますね。

 

 ここのところずっと、最高気温20℃程度で風があってにわか雨が降ったり止んだりの日が続いていました。

今日は早番だったのですが、久しぶりの好天気になり、仕事を終えて車に戻った午後3時近くの外気温は25℃。

窓を閉め切って高速道路を走行中、我慢できずにエアコンをちょびっと入れてしまいました。

たかが25℃で・・・ 軟弱ですみません・・・ 

 

日本は体温と同じ、いやそれ以上の猛暑に見舞われているようですね。

皆様、くれぐれもお身体をお大事に!

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村


ルドルフ・ヘスの娘 (前編)

$
0
0

ど~も! アウシュヴィッツ・オタクのハナママゴンです。 ・・・ってもう、自認するっきゃないですよね? 

ここのところ、アウシュヴィッツ関連で書きたいことがどんどん出てくるんです。

ひとつ書くと、その記事のために調べていて発見したことがまた書きたくなって。 芋づる式に、興味が尽きません。

なので、まだしばらく続きそうです、アウシュヴィッツ関連の記事。

申し訳ありませんが、ご興味ない方はスルーしてくださいね。

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

アウシュヴィッツの所長を最長期間務めた ルドルフ(・フランツ・フェルディナント)・ヘス

1929年8月17日にヘートヴィヒ・ヘンゼルと結婚した彼は、1930年から1943年にかけて5人の子供をもうけました。

息子二人(クラウスとハンス‐ルドルフ)と娘三人(ハイデトラウト、インゲ‐ブリギット “ブリギッテ”、アンネグレット)です。

(おことわり: 今日の記事の原文中では次男の名は Hans Jürgen となっていますが、

ドイツ語版ウィキでは Hans-Rudolf なので私はそちらを採用しています。)


後列左から: ハイデトラウトとブリギッテ、 前列左から: ハンス‐ルドルフとクラウス


ヘスは逃亡したものの逮捕され、裁判で有罪となり、アウシュヴィッツⅠのクレマトリウムの隣で絞首刑に処されましたが、

残された家族はその後どうなったのだろう・・・?

と思っていたらとても参考になる記事を見つけたので、今日はそれを紹介します。

ヘスの第3子で次女のブリギッテへのインタビュー記事です。

 

今回の記事はジャーナリストで作家のトマス・ハーディング氏による2013年9月7日付の 『ワシントン・ポスト紙』 の記事の、

ワタクシによる 『シロウトだも~ん誤りがあっても責任は一切負いかねます意訳』 であることをご了承くださいませ。

(実際の記事はこちらです。)

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

退職したブリギッテ・ヘス(1933-)は、北ヴァージニアの緑の多い通りで静かに暮らしている。

彼女はワシントンのファッション・サロンで30年以上働いた。

最近癌と診断された彼女は、医療上の必要措置に多くの時間を費やしている。


ブリギッテは、孫たちすら知らない秘密をもっている。 彼女の父親は、アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスだった。

ポーランドにある旧兵舎を使ってアウシュヴィッツという、一時間に2千人を殺害できる殺人機械を設計し建造したのは彼だった。

戦争が終わるまでに、110万人のユダヤ人、2万人のジプシー、何万人ものポーランド人とロシア人の政治犯が殺された。

つまりブリギッテの父親は、歴史に残る大量殺人の実行犯のうちのひとりだったのである。

 

過去40年以上にわたり、彼女は自分の過去を振り返らず、近親と分かち合うこともせず、世間からは隠してきた。

 私は 『ハンスとルドルフ』 執筆のためのリサーチをしていたとき、3年かかって彼女の住居を探し出した。

彼女の結婚後の名や身元を暴露しない限りという条件つきで、彼女はインタビューに応じてくれた。


生まれて間もないアンネグレットを囲んだ一家、左から:

ブリギッテ、クラウス、アンネグレット、ヘートヴィヒ、ヘス、ハンス‐ルドルフ、ハイデトラウト

 


「おかしな人がたくさんいますからね。 彼等は私の家を焼き払ったり、誰かを撃ったりするかもしれないわ。」

強いドイツ語訛りで彼女は言った。

彼女は、ホロコーストが話題になると話題を変えるという。 「誰かが私の父のことを訊いたら、『父は戦死した』 と言うことにしているの。」

 しかし80歳になった彼女は、孫たちに話すべきか悩み始めた。

彼女は、自分ではほとんど理解できない、ましてや責任など毛頭持てない、大きな歴史のうねりに呑み込まれた幼い少女だった。

そろそろ家族の歴史を消化すべきときではないか?

しかしそれは彼女がずっと秘めて生きてきた、発見することの怖れを孫たちに受け継がせてしまうだろうか?

過去は自分が、墓まで持っていくべきだろうか?


ナチス親衛隊の職員記録によると、インゲブリット・ヘスは1933年8月18日に、バルト海近くの農場で5人兄弟の3番目として生まれた。

父ルドルフと母ヘートヴィヒは、この農場で出会った。

ここは人種の純度保存と田舎の理想郷の考えに取りつかれたドイツ人の若者の安息所だった。

幼いブリギッテは父親の転勤にともない、1歳から5歳まではダッハウで、5歳から7歳まではザクセンハウゼンで、

7歳から11歳までは最も悪名高いアウシュヴィッツで暮らした。

1940年から1944年まで、ヘス一家はアウシュヴィッツ強制収容所の端に位置する2階建ての灰色の漆喰塗りの邸宅に住んだ。

収容所のすぐ隣にあるこの家の2階の窓からは、囚人の収容棟や古いクレマトリウムが見えた。

母親ヘートヴィヒは、この家を “パラダイス” と呼んだ。

一家にはコック、乳母、庭師、運転手、針子、理髪師、掃除人らが仕えたが、うち何人かはアウシュヴィッツの囚人だった。

一家は家を、ガス室に送られる囚人から盗んだ家具や芸術品で飾った。

この贅沢な生活は、恐怖と苦難に満ちた場所からほんの数歩のところにあった。

日曜日には所長は、馬を見に子供たちを車で厩へ連れて行った。 子供たちは犬舎でドイツ・シェパードを撫でるのも大好きだった。

囚人たちはヘスの息子たちのために大きな飛行機を作り、息子たちはその中に座って庭をまわって遊んだ。

娘たちは収容所の入口を警備するハンサムな兵士たちとじゃれ合った。


    飛行機で遊ぶハンス‐ルドルフ                   ハンス‐ルドルフ、アンネグレット、ブリギッテ

 


子供たちは、父親が収容所を管理していることを知っていた。 黒と白の制服を着た男たちが、庭で作業をした。

ある日子供たちは囚人に扮し、黒の三角形と黄色の星をシャツに縫いつけ、庭で追いかけっこをした。

帰宅したヘスはそれを見ると、すぐさまやめさせた。

1945年4月、戦争の終わりが見えてくると、ルドルフ・へスと家族は北へ逃げ、そして別れた。

彼の妻は子供たちを連れて海岸近くの村ザンクト・ミヒャエリスドン(St.Michaelisdonn)にある古い砂糖工場の2階に落ち着いた。

ヘスはある労働者になりすまし、デンマークとの国境から4マイルしか離れていない農場に隠れた。

ヘス一家は、適切な時が来たら南米に逃げる計画だった。


アウシュヴィッツのすぐ隣で暮らしていた頃のことを訊こうとしたが、ブリギッテはこう言った。 「覚えていない方がいいことよ。」

彼女はそれよりも、父親が英国兵に捕えられたときのことを話したいようだった。

1946年3月の寒い晩、ドイツ生まれのユダヤ人で当時は英軍指揮官になっていたハンス・アレクサンダー――私の大叔父――が、

ヘス一家が住む家の扉を叩いた。

「彼等が質問しに家に来たときのことを覚えているわ。」 固い声で、彼女は言った。

「私は妹と一緒にテーブルに座っていたの。 13歳くらいになっていたと思うわ。 英軍兵士たちは叫んでいました。

『父親はどこだ? 父親はどこだ?』 何度も何度も、繰り返して。 私はひどい頭痛がしたため、外に出て木の下で泣いたの。

それから気持ちを鎮めて泣くのをやめると、頭痛は治まったわ。 それ以来ずっと、偏頭痛に悩まされました。

ようやく数年前に治ったのに、あなたの手紙を受け取ってから、また始まりましたよ。

母親と一緒に連れて行かれた兄のクラウスは、英軍兵士にひどく殴られました。

隣室からの兄の苦痛に満ちた叫び声を聞いた母は、母親なら誰もがそうするように、

息子を守るため父の居場所を教えたのです。」


アレクサンダーはチームを編成すると、夜のうちにヘスが隠れ住む農場の納屋へと向かった。

起こされたヘスは、元アウシュヴィッツ所長であることを否定した。

相手がヘスだと確信していたアレクサンダーは、結婚指輪を見せろと要求した。

ヘスは 「指輪は抜けなくなってしまっている」 と言って抵抗したが、「指を切り落とすぞ」 と脅されると、観念して指輪を渡した。

内側には “ルドルフ” と “ヘートヴィヒ” と刻まれていた。

ヘスは、アウシュヴィッツでの大量虐殺の規模を認めた最初のナチス上級幹部だった。

米軍に引き渡された彼は、ニュルンベルク裁判で証言した。

その後ポーランドに引き渡され、起訴され有罪を宣告され、

1947年4月16日、アウシュヴィッツⅠのクレマトリウムの隣で絞首刑に処された。


  


ヘートヴィヒと子供たちの生活は困窮し、家を暖めるため列車から石炭を盗んだ。 履く靴もなく、ぼろを足に結んだ。

ナチスに深く関与していた彼等を、人々は避けた。

クラウスがシュトゥットガルトに仕事を見つけてはじめて、一家の暮らしは改善された。

ブリギッテは1950年代にドイツを離れ、スペインで新生活を始めた。

彼女は長いブロンドの髪とすらりとした肢体を持つ、美しい若い女性に成長していた。

バレンシアガのモデルとして3年働いたあと、ワシントンに本社を持つ電信会社の技師として

マドリッドで働いていたアイルランド系アメリカ人と出会った彼女は、1961年に彼と結婚した。

彼の仕事のため、二人はリベリア、ギリシャ、イラン、そしてベトナムへと移り住んだ。



《 後編につづく 》


 

 にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

ルドルフ・ヘスの娘 (後編)

$
0
0

《 前編からのつづき 》

 

ブリギッテの夫によると、ブリギッテは交際中に彼に、自分の父親のこととアウシュヴィッツでの生活のことを告白した。

「最初は少しばかりショックを受けました」 彼は言う。

「でも彼女と何度も話し合ううち、他の皆と同様彼女自身も犠牲者だったと気がついたのです。

あの頃彼女は、ほんの子供でした。 そしてすべてを持っていた状態から、何もかもを失くしたのです。」

二人の間には、無言のうちに 《彼女の家族については話さない》 という決まりができた。 彼はブリギッテにこう言ったのを覚えている。

「あれは本当にひどい事だった。 もうこれ以上あのことを背負うのはやめよう。 僕らの生活を第一に考え、すべては過去に残して

幸せに暮らそう。 あれは君の責任ではなかった。 君が父親の罪を背負い続ける理由はない。」


成人したブリギッテ・ヘス

 


1972年、彼らはワシントンに引越した。 ブリギッテの夫は輸送会社での重職につき、二人はジョージタウンに家を買った。

ブリギッテに新たなチャンスが開けたものの、彼女は苦労した。 小切手の書き方がわからず、英語は少ししか話せず、

友達も家族もいなかった。 職探しをして、ブティックでのパートの仕事を見つけた。


ある日背の低いユダヤ人女性が店に来た。

彼女はブリギッテのスタイルを気に入り、ブリギッテに自分のファッション・サロンで働くよう誘い、ブリギッテはそれに応じた。

彼女のところで働き始めて間もなくのこと。

マネージャーと飲んでいたブリギッテは、酔って自分の父親がルドルフ・ヘスであると喋ってしまった。

マネージャーは店のオーナーにそのことを話した。

オーナーはブリギッテに、「あなた自身は何も罪を犯していないのだから、このまま店にいていいのよ」 と告げた。

そのときブリギッテは知らなかったが、オーナーも彼女の夫もユダヤ人で、夫は1939年の水晶の夜事件後にナチス・ドイツから逃れていた。

父親の娘としてではなく一個人として見てもらえたブリギッテはそれに感謝し、

知事や議員の妻を含むお洒落なワシントンの女性を顧客として、その店で35年間働いた。

ブリギッテの忠誠と精勤に対するお返しとして、店のオーナーは彼女の秘密を守り抜いた。

例のマネージャーを除けば、ブリギッテの家族のことを知るスタッフはいなかった。

ブリギッテが退職してからも、店のオーナーは毎月彼女に近況を訊く電話をくれていた。

しかし一年ほど前から、電話はかかってこなくなった。

オーナーがイスラエルを訪れたことを知っているブリギッテは、オーナーが今さらながら怒ってしまったのかと訝る。

「人は変わるものですからね」 ブリギッテは言った。


母親のヘートヴィヒは、1960年代から数年ごとに、ワシントンに住む次女を訪ねるようになった。

その頃にはヘートヴィヒはシュトゥットガルト近くの小さな家に越していて、娘のうちの一人と一緒に暮らしていた。

他の戦争未亡人とは異なり、彼女には国民年金を含む政府からのいかなる収入も支給されなかった。

ヘートヴィヒはアウシュヴィッツで重要な位置を占めた人物であり、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判にも

1965年に証人として出廷したにもかかわらず、ナチ戦犯の配偶者に対する旅行制限はなかった。

ワシントンを訪問中、ヘートヴィヒは娘が働いている間は孫守りをして過ごした。

母娘が過去について話すことはなかった。

ヘートヴィヒの訪問は、1989年9月が最後になった。 81歳の彼女は、身体が弱くなっていた。

彼女のドイツへの帰国の日が来たが、彼女は娘に 「寒すぎるからもう少し滞在したい」 と告げた。

9月15日の夕食後、ヘートヴィヒは疲れたと言ってベッドに引き上げた。

翌日ブリギッテが母親の部屋をノックしたが、返事はなかった。

ヘートヴィヒ(1908-1989)は睡眠中に死亡していた。


左から: ブリギッテ、アウシュヴィッツ農耕部長ヨアヒム・シーザーの娘、ハイデトラウト、ヘートヴィヒ、

シーザーの息子、ハンス‐ルドルフ、シーザーの妻


ブリギッテは母親の遺体を地元で火葬してもらい、ドイツから近親が到着するのを待ったうえで葬式にした。

1990年3月3日、午前11時。 ヘートヴィヒの誕生日に合わせて短い式が、諸宗派間墓地にある石造りの小さな修道院で執り行われた。

祈りが捧げられ、骨壷が埋葬された。 ヘートヴィヒはユダヤ人、キリスト教徒やイスラム教徒などに混じって永眠することになった。

母親の遺灰が誰かに――特に母親を偶像崇拝しかねないネオナチに――見つけ出されるのを恐れたブリギッテは、

墓地管理人に偽名を教えた。


ブリギッテの現在は、医者と病院と薬で一杯だ。 彼女と夫は1983年に離婚した。 彼はその後二度結婚し、現在はフロリダに住んでいる。

彼女は息子と暮らしている。 息子は祖父のことを知っているが、家族の過去について調べてみようとはしない。 娘は死んだ。

孫はしょっ中会いに来てくれる。

ブリギッテは一年に一回、妹のアンネグレットと過ごすためフロリダに飛ぶ。 アンネグレットはドイツからやって来る。

長兄のクラウスは1980年代にオーストラリアで死んだ。 弟のハンス‐ルドルフと姉のハイデトラウトは、ドイツに住んでいる。

兄弟姉妹の誰も、子供時代のことを話さない。 まるで彼らの過去は、ルドルフ・ヘスが死刑に処された1947年に始まったかのように。


ブリギッテの甥のライナー・ヘス――ハンス・ルドルフの息子――は、過去について質問をした唯一の家族のメンバーだ。

2009年に私は彼とアウシュヴィッツを訪れた。 あるとき彼は、私の方を向いて事もなげに言った。

「もし祖父がどこに埋められているか知っていたら、墓に小便をしてやるところだ。」


ブリギッテは離婚後も夫の姓を名乗っている。 他のドイツ人家族からは距離を置き、

自分の過去や家族の背景については友達にも一切話さない。

孫たちにも、彼らの曽祖父にあたる自分の父親のことは話さない。

(彼女の元夫によると、上の二人の孫にはヘスの自伝を彼からプレゼントしたそうだが。)

彼女は孫の “感情を乱したくない” し、孫が他の誰かに話してしまうことも怖れている。 家族が危険にさらされるかもしれないからだ。

「ここワシントンにいながら、私は今でも怖れているわ。 たくさんのユダヤ人がいて、彼等は今でも

ドイツ人を嫌悪しているの。 絶対終わることはないのよ。」

 その一方で彼女は、家族とともに過去を振り返るべきときかもしれないと感じてもいる。

「いずれはそうすることになるでしょう。 たぶん、貴方の著書(注)を読んでから。」 彼女は言う。


過去を秘めてしまうということは、過去を十分に検分しないということでもある。

ブリギッテはアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館を訪れたことは一度もない。

悲惨な歴史を忘れさせないための博物館の価値を理解しつつも、彼女はそれはアウシュヴィッツかイスラエルにあるべきだという。

ワシントンではなく。 「実際よりも悪かったことにするんですもの。 ひどすぎて、耐えられないわ。」

 彼女は残酷な行為が行われユダヤ人その他が強制収容所で殺されたことは否定しない。

が、何百万人もが殺されたということには疑問を持つ。 「それほど多くが殺されたのなら、なぜあれほどたくさんの生残者がいるの?」

彼女自身の父親が百万人以上のユダヤ人殺害を指揮したと告白したことを指摘すると、

「英国人たちが拷問でそう自白させたのよ。」 と彼女は言った。


「父親のことは、どんな風に覚えていますか?」 私は訊いてみた。

「世界一素晴らしい男性だったわ。 私たちに、本当によくしてくれた。」 一緒に食事を取り、一緒に庭で遊び、

ヘンゼルとグレーテルの物語を読んでくれた。 アウシュヴィッツ所長だったことについては、父親は

「内心は悲しかったと思うわ。 そんな気がするの。 家にいたときも、私たちといたときも。

仕事から帰宅したとき悲しげに見えたことも、ときどきあったわ。」

父親の二面性を理解することに、ブリギッテは苦労する。

「父にはふたつの面があったのでしょうね。 私が知っていた父と、別の父が・・・・・」

大勢を死に追いやった彼がどうしたら “世界一素晴らしい男性” であり得るのかと問われると、彼女は言った。

「父がやらなければならなかったのよ。 やらなければ家族がどうなっていたかわからなかったから。

それに父は、大勢の親衛隊員のうちの一人。 父がやらなくても代わりに誰かがやっていたでしょう。」


 


長いインタビューのあと、ブリギッテは家の中を案内してくれた。 2階の彼女のベッドの上に架かった写真を、彼女は指差す。

1929年に撮られた、彼女の両親の結婚写真だった。 若く、幸福で、気懸かりなどなにひとつなさそうな。

髪をアップにした白いワンピース姿のヘートヴィヒと、明るい色のシャツと七分丈のズボンをはいたルドルフ・へス。

80歳のブリギッテは、最愛の父親に見守られて毎晩眠る。

 

その後私は、ブリギッテが勤めていたサロンのオーナーの息子に連絡を取ってみた。

息子によると、彼の母親がブリギッテに電話をしなくなった理由は、ただ単に老いすぎて電話がかけられなくなったためだった。

「私の家族は、昔と変わらずブリギッテに親愛の情を抱いています。」

ブリギッテの父親が自分たちの家族をドイツから追い出したナチスの上官だったことを知っていながら、

なぜ彼の両親はブリギッテを雇ったのか?との問いには、“人間愛” のためだと彼は答えた。

彼の両親は、ブリギッテを父親とは別の一個人として見た。

「彼女は父親のしたこととは何の関係もない、一人の人間です。 彼女は父親のしたことに何の責任もありませんでした。」

両親がブリギッテを雇ったことを振り返り、彼は言った。

「私は彼らの息子であることを誇りに思います。」

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

 (注) ブリギッテにインタビューしたトマス・ハーディングは、2013年8月に “Hanns and Rudolf” を発表。

同著は高く評価され、ベストセラーになりました。

次はこの作品について書きます。

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

“オランダのヴェネツィア”

$
0
0

 

残 暑 お 見 舞 い  申 し 上 げ ま す

 

連日猛暑に見舞われている日本の皆様に少しでも涼んでいただきたく、

今日は水気  の多い話題  をお届けすることにしますね。 



オランダ北部にある、人口3千人に満たない村ギートホーン (ジートホーンかも? Giethoorn)。

一見ふつうの村ですが、この村には大きな特徴が。

 じつはこの村、道路より水路の方が多いのです!

 水路、正確に言えば運河ですね。 小さな村を、全長6kmを超える運河がめぐっています。

現在でも、主要な交通手段はボート。 村の住人はカヌー、カヤックや静かな電動モーターボートを操って運河を行き来します。

うるさい、あるいは不快な音を出すモーターボートは使用禁止。

 

 童話の舞台になりそうな絵のように可愛らしい家が、なんて多いの・・・

 

 歩道やサイクル・パスはあるものの、道路が見あたらないというのがなんとも不思議。

 ギートホーンの交通渋滞?                                             

 

 夏は多くの観光客でにぎわうそうです。 観光客の 『あし』 も、もちろんボートか徒歩か、サイクリング。

 

木製の橋の数は180以上あるとか。

 

 ギートホーンは特に中国人観光客に大人気で、年間15万人から20万人が訪れるそうです。

 

 こんなところで暮らせたら、長生きできそう・・・

1170年の大洪水により、この地域には大量の水が溜まりました。 それが今日点在する、多くの湖になったわけです。

村のおこりは、1230年頃に地中海地域から来た逃亡者の一団がこの辺りに住みついたこと。

洪水で死んだらしい多数の野生のヤギの角が発見されたことから、村の名前が起こったと考えられています。

もともとは 『ヤギの角』 を意味する “Geytenhorn” と呼ばれていましたが、長い間に “Giethoorn” になったようです。

入植者たちが売ってお金にするため泥炭を繰り返し掘ったことにより、小さな湖が無数にできました。

そして泥炭の輸送のため整備された運河が、いつしか村人の交通路になりました。

   

村は1958年に作られたコメディー映画 Fanfare の舞台になったことで一躍有名になりました。 (コチラで視聴可!?)

 

                                                   中国語のメニューぽいです。 ひょっとして海鮮弁当と焼肉弁当?

 

 

行きたい場所の多さに比べて、人生は短すぎ。 ギートホーンに行く機会はたぶんないと思うので、

 《行ったつもり》 になってみたいと思います。 さ、これを読んでいるアナタもご一緒に 

 

   「すみませ~ん、相席いいですかぁ?!」             「お先にどうぞ。 サイクリング、楽しいですよね!」 

  

仕上げにコチラの動画を見れば、ボートにも乗れたし、もう完璧  なんちゃって。

 

 道路がないので、運搬も水路で。 う~ん、新鮮~!

  

 この村の人は、昔からそうやって暮らしてきたんですね。 (・・・牛っておとなしくボートに乗るんだ。

    

   

      

 

 真冬に運河が凍りつくと、アイススケート・リンクになるそうです。

  

 

文字通りのウィンター・ワンダーランド

 

 ギートホーン(?)は、アムステルダムから北東に90kmほどに位置しているそうです。

 

 さ、 ヒマとおカネがある方は、ギートホーンに Let's go! 

 

  

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

『ハンスとルドルフ』

$
0
0

生涯を通じて、ハンス・アレクサンダーは悪戯好きだった。

パーティーや結婚式の際には、彼はいつも道化役をつとめた――仮装し、スピーチをし、ジョークを飛ばした。


   

 

2006年の彼の葬式のときまで、親類の多くは、

アレクサンダーが世界で最も成功したナチ・ハンターの一人だったことなど想像だにしなかった。

 ハンスは、過去について話すことはめったになかった。

 

彼の家族ですら、ナチスの中でも特に悪名高い者たちの逮捕にハンスが重要な役割を演じていたことなど、ほとんど知らなかった。

「ハンスへの弔辞の中で彼に賛辞が贈られたのを聞いたとき、信じられませんでした。」

ルドルフ・へスの娘のブリギッテ・ヘスにインタビューした) ジャーナリストで作家のトマス・ハーディング(Thomas Harding)は語る。

ハンス・アレクサンダー(Hanns Alexander)は、ハーディングの大叔父(祖母の弟)だった。


               トマス・ハーディング

 

 

「父に聞いても、父も信じていませんでした。 それで我々は、あれも大叔父のほら話のひとつだと考えたのです。

子供の頃は、大人に戦争について質問をすることは禁じられていました。 なぜだかはわかりませんでしたが。

思い出すのも辛いほどのトラウマになっていたから?

親類や友人の多くが死んだのに自分たちが生き延びたことに後ろめたさを感じていたから?

ひょっとしたら、両親は私を守るために、重荷となるような過去を負わせたくなかったがために、話したがらなかったのかもしれません。

あるいはこれらすべてが混ざり合ったものが理由だったのかもしれません。

いずれにせよ、私は事実を知りたくてたまらなくなりました。」

 

ハンス・ヘルマン・アレクサンダー(1917年5月6日-2006年12月23日)は、第一次世界大戦中の1917年にベルリンで、

父親アルフレッド・アレクサンダーと母親へニーの間に、双子のポールとともに生まれた。 父親は卓越して優秀な医者で、

彼の患者にはアルベルト・アインシュタインマレーネ・ディートリッヒや物理学者ジェイムス・フランクなどがいた。

一家はベルリンの富裕な地区にある広いアパートメントに暮らし、両親は有名人を招いては贅沢なパーティーをよく開いた。

22室あるアパートメントは医者である父親の診療所も擁しており、

ベルリン西部にあった住居兼診療所はユダヤ人社会の中心部にあった。

 

二人の姉たち、ポールとハンス

 

ハンスの子供時代は国際的で快適だったが、それもナチスの台頭で終わりを告げた。

ハンスとポールは特定の宗派に属さない私立学校に進学したが、ナチスが定めた新しい法律により

1933年7月に退校を余儀なくされ、私立のユダヤ人学校に移った。

 

ナチスが強力になるにつれて社会状況が徐々に悪化したため、ユダヤ人のアレクサンダー一家は

1936年にドイツを離れ、スイス経由で英国に移住し、新たに生活を立て直さなければならなかった。

“自国を離れたアレクサンダー一家は国籍を剥奪され、一家の不動産はドイツ帝国の所有となる” ことが、

1939年7月に 『ドイツ帝国官報』 に記載された。

 

ハンスの英国へのビザ? 入国カード?

 

ハンスとポール(1917-2003年)は、非の打ち所がないわけではなかった。 10代の二人はトロッコを線路から押し出したし、

両親の居間で火を使ったし、誕生日のパーティーのとき友達を木に縛りつけて母親に叱られるまで解いてやらなかった。

 

トマス・ハーディングは語る。

 「もちろん私はハンスをよく知っていました。 彼は私の祖母の弟でしたから。 私の生活にしばしば登場しました。

背が高く、ハンサムで、好人物で、ロンドンに50年以上暮らしたにも関わらず、強いドイツ語訛りで話しました。

家族の集まりには、必ず彼もいました。 誕生日、記念日、ユダヤ人の祭日などです。

乾杯の際には必ず 『ナチス・ドイツからの難民を受け入れてくれた女王陛下に、変わらぬ感謝を込めて!』 と言って音頭を取りました。

ハンスはまた、我々子供たちに下品なジョークを教えるのも好きでした。」

 

親類の一人に大叔父ハンスがナチ・ハンターだった話は本当だと聞かされたハーディングは、真実を追究することにした。

しかしロンドンの大英帝国戦争博物館に問い合わせた彼は、

“ナチスの戦争犯罪人を捜すためドイツに戻ったナチ・ハンターのドイツ系ユダヤ人” についての質問を笑い飛ばされただけだった。

 

ロンドンの北にあるベッドフォードシャー州の陸軍基地におかれた小さな軍事情報博物館を訪れると、

紅茶とビスケットを出してくれた高齢の少佐は、

アウシュヴィッツ強制収容所の所長を務めた最も悪名高いナチ戦争犯罪人の一人であるルドルフ・ヘスの

逮捕についての詳細が記録された、機密扱いから外されたファイルを見せてくれた。

「最後のページにあったのです。 私の大叔父の名が。 何てことだ、本当だったのかもしれないぞ、と思いました。」

 

 ハーディングはその後6年をかけてハンス・アレクサンダーの足跡を調査し、

『ハンスとルドルフ: ドイツ系ユダヤ人とアウシュヴィッツ司令官の追跡』 を著した。

 

第二次世界大戦が始まったとき、22歳だったハンス・アレクサンダーは英国陸軍に入隊しようとしたが、

ドイツ系であったが故に拒否された。

戦争が長引くと規則は緩和されハンスも入隊を許されたが、数年後に士官に昇格するまでは銃の携帯は許可されなかった。

 

      

 

 キューにある国立公文書館では、ハンスがいわゆる戦争犯罪者捜査第1チームのドイツ語通訳として任命されていたことがわかった。

彼の最初の仕事は、英軍が解放したベルゲン・ベルゼン強制収容所で看守を務めていた親衛隊員たちを尋問することだった。

彼等はハンスに、“選別” やガス殺や、アウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスという男について話した。

山積みにされた何千という囚人の死体。 それらの一部を埋葬のため運んだハンスは、抑制のできない憤怒を覚えた。

 自分が生まれた国での、自分の家族が辛くも免れられた、しかし多くの同胞が辿らされた、悲惨で苛酷な運命。

彼はルドルフ・ヘスを捕えることを固く決意した。

 

その頃ハンスは知らなかったが、ヘスはある船員(故人)になりすましてドイツ北部のデンマークとの国境から数マイルに位置する

小さな農村部に潜んでいた。

自害するよりも逃亡のチャンスに賭けることにしたためだが、彼は後にその決心を後悔することになる。

罪悪感のためではなく、自害の方が適切だったであろうから。

「我々は第三帝国に縛られ鎖で繋がれていた――それと共に消え去るべきだったのだ。」

 

ドイツが降伏したあとハンスは英軍に、逃亡した戦争犯罪者の捜索を始める許可を求めたが、却下された。

そこで彼は、上官の許可なくして余暇時間を使ってのナチ戦犯捜しを始めた。

ドイツのあちこちを車で回り、市民や兵士や警官と話し、拘束されている兵士に親衛隊員の刺青がないかチェックした。

彼には逮捕の権限はなく、探偵としての経験も訓練を受けたこともなく、情報もサポートもなかった。

それでも何ヶ月か経つと、彼は自分の新しい非公式な役割に適応していった。

 英国政府がようやくナチ戦争犯罪捜索チームを発足させたとき、ハンスは第一班の最初の捜査員の一人だった。

 

 ハンスはヘスを捜してベルリン、ハンブルク、ハイデ、さらにはデンマークとの国境に近いフレンスブルクに赴いた。

    ルドルフ・ヘスの妻ヘートヴィヒは5人の子供たちとともに古い砂糖工場に住んでいた。

『夫の居所を知っている』 と綴られた彼女の手紙を横取りしていた英国人捜査員たちは、彼女の身柄を拘束して

尋問を続けていたが、ヘートヴィヒはヘスの居所について口を割ろうとはしなかった。

ハンスと彼のチームは、1946年3月7日に当地に着いた。

ハンスには、アイディアがあった。

刑務所脇を古い蒸気機関車が騒音を立てながら通過し始めると、彼はヘートヴィヒの牢屋に飛び込み、こう言った。

「夫の居場所を言わないなら、息子をあの列車でシベリアに送りつけるぞ!」

彼はヘートヴィヒに紙と鉛筆を渡し、牢屋を出た。

10分後に彼が戻ると、ヘートヴィヒはフランツ・ラングというヘスの偽名と、隠れ場所への道順をしたためていた。

 

ヘスが隠れていた納屋

 

1946年3月11日の晩遅く、ハンスと手斧の柄を手にした血気盛んな英兵たち――その多くはユダヤ人だった――が、

ゴットルーペル(Gottrupel)集落にある古い納屋に到着した。 ハンスは目的の男を見つけたのだ。

急襲をかけられたとき、あれほど怖れられた元アウシュヴィッツ司令官は、パジャマを着て納屋で眠っていた。

身元確認後にヘスを連行する前に、ハンスは配下の兵士たちに “少しの間へスと過ごす” ことを許可した。

「もうやめさせろ。」 同行していた医者が、やがて警告した。 「死体を運び帰るつもりでないならな。」

英軍によって尋問中のヘスは、アルコールを無理矢理飲まされ、自分自身の鞭で打たれ、靴下も靴もなしで凍りつく寒さの

独房に、両脚が凍傷にかかるまで放置された。

ヘスは裁判中に記した回想録の中で、「逮捕された時を除いては、英軍の私に対する取り扱いは問題なかった」 と

述べているそうである。

 

 

 

米軍に引き渡されたヘスは、証人として出廷したニュルンベルク裁判で戦争犯罪を認めた。

 「私は1943年12月1日まで、アウシュヴィッツの指揮をとりました。」 ヘスは始めた。

「少なくとも250万人がガス殺と焼却によって抹殺され、ほかに少なくとも50万人が、飢えと病気で死亡しました。」

(“現在ではこの人数は公式に否定され、ヘスの裁判の際には最大でも150万人を超えないと認定された。” ――ウィキペディアより)

ヘスが率直さと詳細さをもって証言したナチスの前代未聞の虐殺システムに関する証言は、

世界を震撼させ、ナチ高官に無罪を主張する機会を失わせた。

 ヘスは1946年5月25日にポーランド政府に引き渡され、1947年4月2日に死刑判決が下され、

同年4月16日にアウシュヴィッツⅠで絞首刑に処された。

 

 

 ハンスは1946年にアン・グラーツ(1920-2006年)と結婚し、アネット(1948-)とジャッキー(1950-)という二人の娘に恵まれ、

ロンドンの銀行に勤めて生計を立てた。

 

      

 

1946年に英国に戻って以来、ハンスは二度と自分の生誕の地であるドイツには足を踏み入れなかった。

肺炎のため89歳で没した彼は、ロンドン北部のユダヤ人墓地に永眠している。

 

  トマス・ハーディングの親類の年長者たちは当初、ハーディングのハンスとルドルフ・ヘスに関する興味と情熱を理解しなかった。

「なぜ古い昔のことなぞについて、今さら書きたいと思うんだね?」

 しかし時が経つにつれ、彼等は協力的になっていった。

ハンスの娘は英国陸軍に手紙を出し、彼の兵役記録を確保してくれた。

ある従兄は第一次大戦の際の、ハンスの父親が授与された鉄十字勲章を見つけてくれた。

 また別の従兄は、屋根裏で戦時中の手紙が詰まった箱をふたつ見つけたと電話をくれた。

 

執筆のための調査を続けるうち、ハーディングは、彼の物語はドイツで成長した二人の男に関するものだと気がついた。

同じドイツで成長しながら、途中で分岐し、驚くような状況下でふたたび交差したふたつの人生。

ヘスと家族についても、もっと知る必要がある。 何がヘスを、あのような巨悪へと誘導した?

ヘスの家族は、あのような暗い歴史とその後どうやって折り合いをつけた?

 

イスラエルのジャーナリストを通じて、ハーディングはヘスの孫であるライナー・ヘスを見つけた。

彼はドイツのシュトゥットガルト近くに住んでいて、連絡をしてまもなく二人は会うことができた。

ライナーはハーディングに、ヘス一家の写真を見せてくれた。

ソワ川で娘たちとともに乗ったボートを漕ぐヘス、友人と庭でピクニックするヘスの妻ヘートヴィヒ、

楽しそうに滑り台に並んで微笑むヘスの三人の子供たち。

アウシュヴィッツという地獄のすぐ隣で営まれていたあまりにも普通の生活。

それらの写真は、ある意味衝撃的だった。

 

ライナーの父親は、ルドルフ・ヘスの次男のハンス‐ルドルフである。

ライナーはハーディングと同様、自分の家族の歴史について知りたがっていた。

二人はライナーの母親――ハンス‐ルドルフの元妻――とともに、2009年にアウシュヴィッツを訪れた。

ヘスの身内がアウシュヴィッツを訪れたのは、1947年以来だった。

ライナーと母親は、アウシュヴィッツに圧倒されたようだった。

電流を流された有刺鉄線、囚人から奪われた髪の毛や靴の山、死体焼却場。

あるときライナーはハーディングを振り向いて、事もなげに言った。

「祖父が埋められている場所を知っていたら、墓に小便をしてやるところだ。」

 

ハーディングは分析する。

解放直後の収容所の有様を目の当たりにしたハンスは、自分が生まれた国で自分の同胞になされた

想像を絶する獰猛な行為に、当然のことながら嫌悪と憤怒を感じたのだろう。

それが彼自身をも、尋問する相手に対しては残忍な人間に変えたのだろう。

それでハンスは、当時のことはその後誰にも話さなかったのだろう。

 

年齢を重ねて人生経験も豊かになってからのハンスは、ヘスに暴力を使ったことに良心の呵責を感じただろうか。

絞首台に立ったとき、ヘスは最後に何を思っただろうか。

もう一度人生をやり直せるとしたら、ヘスはどんな生き方を選ぶだろう?

 

         

 

2013年夏に発表され、国際的ベストセラーになった 『ハンスとルドルフ』、

Hanns and Rudolf: The German Jew and the Hunt for the Kommandant of Auschwitz”。

とても面白そうです。 残念ながら邦訳はまだ出ていないようですが。

 

・・・読みたいけど英語だと疲れるし時間がかかりすぎるから、買ってオットーとムスメに読んでもらって、

いいとこだけかいつまんで教えてもらおっかな ・・・・・?

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

敗戦記念日

$
0
0

・・・ と、8月15日を、日本人は、呼ぶべきだっ!

と私は思います。

第二次世界大戦を振り返り、二度と過ちは繰り返さないぞ、との戒めを込めて。

そのために憲法9条を作ったのだし。

 

8月15日は、連合軍側にとっては、VJ Day = 対日戦勝記念日

その3ヶ月前には VE Day = 欧州戦勝記念日 で欧州における戦争が終わっていましたが、

VJ Day をもってようやく第二次世界大戦が完全に終結したので、

今日のイギリスでのお祝いはこんな感じでした。

  

 

  

VJ Day で必ず話題に上るのが、日本軍の捕虜になって残酷な獰猛な扱いを受けた元連合軍側捕虜たち。

“The Railway Man” ことエリック・ローマックス氏もその一人でした。

70年後の現在、元捕虜の多くがすでに亡くなっているのでは。

 

 欧州では日本より2年も前に第二次世界大戦が始まっていた訳ですから、日本が無条件降伏して戦争が完結したときは本当に嬉しかったことでしょう。

 

 

 日本での、戦没者の追悼。 『お国のため、天皇陛下のため』 と信じて犠牲になった多くの命に哀悼の意を表するのはいいことです。

 

 でも右翼が集団でこうしてやって来る(下左)というのは、いただけない気が。 当時の軍服も、私は見たくありません。

あれを来て、誰かの息子、誰かの兄弟、誰かの夫、誰かの父親が還らぬ人となったのですから。

  

 このコスプレ、本当に追悼に必要???

 

 

 日本は、もっとずっと早くに降伏すべきでした。 特攻隊として若者に死を強制させた時点で、もう負けは決まっていたのだから。

 せめてドイツが降伏した時点で日本も降伏していれば、広島と長崎への原爆投下は避けられたものを ・・・

まぁこれも、その後に起こったことがわかっているから言えることかもしれませんが。

 

そして 『日本』 『戦争』 とくれば、黙っていられない国々がまだまだ存在します。 特にあの問題のため ・・・。

 

  

  

 

終戦敗戦から70年も経ちながら、未だにこの状況。 一日本人として、本当にやりきれない思いです。

やりきれないといえば、数年前の安倍首相の靖国参拝。

なぁ~んで師走の年末のどさくさに紛れてやらなければならなかったんでしょうか。

戦前と戦時中に日本が甚大な被害を与え苦しめた国々に、政府として本当に適切な謝罪も補償も行ってきたという

自信があるのなら、こそこそする必要はないのでは?

 

近隣諸国との摩擦すら70年かけても解決できていないのに、集団的自衛権を行使できるように

これまでの日本国憲法第9条の解釈を変更して、放棄したはずの戦争ができる国にしてしまおうというのはちゃんちゃら可笑しい。

昭和のはじめの日本国民も、こんな風に少しずつ少しずつ洗脳されていったんじゃないかと不安になってきます。

でも当時と違い、今はいろいろな意見や見解に容易に耳を傾けられる時代。

情報を集め、分析し吟味し、自分の意見を持たなければ! と思います。

下は、私の参考になった記事です。 (これでもうすでに、私のスタンスは決まっていますが。)

 

戦後70年:益川敏英さん「憲法9条を守ろう、どんな小さな声でも集まれば大きな声になる」

すごい説得力 - 強烈な安倍首相批判 = 元自衛官(防空ミサイル部隊)の泥 憲和さん

 

 先日ふと思ったのですが、そういえば日本政府って、代表者を泰緬鉄道関連施設に、

犠牲者の慰霊と鎮魂のため送ったことはあるのでしょうか?

だいいち、日本国民に対しての謝罪はちゃんとしてあるのかな?

日本人が多く命を落とした土地、たとえば白骨街道とかシベリア抑留所跡地とかに、慰霊に訪れたことは?

もしまだだったら、これはもう、集団的自衛権どころじゃありませんよ。 絶対に!

 

アウシュヴィッツやホロコーストに関してはいろいろ興味をもって調べることができますが、やはり私は日本人。

旧日本軍が行った残虐行為(例えば731部隊とか)については、(知るのが怖い、知りたくない)という心理がはたらくのか、

詳しく調べる気になれません。 なので今後はまた、あっちの話題に戻ります。

 

敗戦記念日を迎えて、いろいろと考えてしまいました。

やはり戦争は、絶対に絶対に回避しなければいけません!

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

犬は見ていた

$
0
0

Terraced House と呼ばれる、イギリスによくある屋根続きの長屋造りの家々。

我家を含むご近所は Semi-detached House (2軒でひとつ屋根を分け合う造り)が多いですが、

最寄のスーパー・テスコに行く途中に、3軒つづきになった平屋のテラス・ハウスがありまして。

そのうち2軒が毎夏、見事なまでに花で埋まります。

ひとりサンポしてテスコに寄って帰宅途中だった先日、鮮やかな花々の勢いに感動し、写真を撮らせていただきました。

 

すごい。

向かって左端と真中の家の前面が、びっしりと花で埋まっています。

 この2軒の住人の方々は、外に出ない限りきちんと花を観賞できないわけですから、これすべて通りがかりの人のため。

毎日の水やりだって、かなり大変なのでは? ありがたいことです。

 このあたりの家々は、高齢者しか入居できない Sheltered Accommodation。

まだ介護を必要とはしていないけれど、完全な独立生活はちょっと不安に感じる高齢者向けの住まいです。

急に助けが必要になったら、電話一本で来てくれる管理人さんがついているので安心。

普通に独立生活しながらも安心できて、なかなかよろしいのでは。 特に近くに身内が住んでいない場合は。

私も将来、こういう所に住むのはやぶさかではありません。

3軒長屋の向かって右隣に見えるフラットも、高齢者向け住宅です。 入居できるのは、やはり年金生活に入ってからでしょうか?

もちろんそれも、空きがあればの話ですが。

 

カメラをしまおうとして、いつもは閉まっている木戸が開いていることに、

そしてその木戸の向こうから見られていたことに、気づきました。

犬に。

 ・・・ かわいい~っ! 

ご主人様のため、「怪しいヒト」 をさり気なく見張っていたのでしょう。

ワンコも飼っていいのなら、ますますこういう住宅に入居してもいい気分になってきたぞ。

 

このあと、写真を撮った左端の家の中からおじいさんが手を振ってくれているのに気づいたので、

私も手を振り返しました。 両手で Thumbs up! もして。

(勝手に写真を取られたことに抗議してこぶしを振り回していたのの見間違えではないことを祈る。

 

イギリスのネコはほとんどがなつこくなくて、近寄ると逃げてしまうのが多いのですが、

もうすぐ我家というところで珍しく逃げず、しかも撫でさせてくれたネコに出会いました。

そのお宅の前庭も、花々で縁取りされていて素敵。

花はいいな~ と思いつつも、我家の庭に関しては、何をする気もないネット中毒の私です。

工作が趣味で、土日は好きなことをして過ごしたいオットーも同様。

・・・ 通りがかりの皆さん、すまん。

 

今日の記事タイトルですが、(たしか 『猫は見ていた』 っていう日本の女性推理小説家の作品があったなぁ) と思って、

それをもじってつけたんです。 でも調べてみたら、仁木悦子さんの 『猫は知っていた』 でした。

仁木悦子さんて4歳のときに歩行機能を失い、30歳までは寝たきり生活、手術後車椅子で生活できるようになり、

58歳で腎不全のため亡くなっていたんですね。 これは知りませんでした。

健康で生活できることに感謝しなくちゃ! です。

 

 

《 どうでもいいオマケ 》

先日朝の風景です。 はす向かいの家(我家と同じ準一戸建て)の屋根に、スズメが鈴なりになっていました。

 

 なにげにヒッチコックの映画 『鳥』 を思い出してしまった。

あれ、子供の頃初めて見たときは、結構怖かったっけなぁ・・・ (遠い目 )。

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

器用なオットーとクリーム・ティー

$
0
0

夕飯後にオットー(=夫)とニュースを見ながらくつろいでいたら、居間の窓に小バエがとまったので、

急いでハエ除去器を取ってきて仕留めました。

「これ、昼間ずっと飛んでてイラつかされてたの。 ようやく退治できたよ

と喜んでオットーに報告。

するとオットーも今日、仕事場で数人と床に置いた大きなカンバスに向かって絵を描いていたとき、小バエに悩まされたとのこと。

ふと目を上げたら、ちょうど目の先をそのハエがふらふら飛んでいたので、

静かに絵筆を置き、音で皆を驚かせたくなかったので手の平は使わず、

両手の親指の付け根だけを使ってハエを仕留めました。

それを見ていた一人が感心して、「ミスター・ミヤギみたいだ!」 と言い、皆で笑ったそうです。


 ・・・・・ Mr. Miyagi って、あの The Karate Kid (1984年、邦題は『ベスト・キッド』)の!?

 

(古い映画なのによく知ってるなぁ~!) と一瞬思ったけれど、考えてみたらあの映画、

近年リメイクされていましたよね。 ウィル・スミスの息子を主役にして。

 

私はオリジナル版しか見ていませんが、けっこう好きな映画で DVD も持っています。

 

・・・ ??? 今調べてみたら、2010年版の The Karate Kid のお師匠さんは、

日本人ではなくてジャッキー・チャン演じる中国人の Mr. Han でした。

じゃあやっぱりオットーの若い同僚たちは、1984年版を知っていたんだ! これはウレシイ。

ついでながら、ミスター・ミヤギには実在のモデルがいたんですね。 これは知らなかったわぁ。

う~ん、久しぶりに見たくなっちゃったぞ、1984年版。

 

 

オットーはけっこう物知りだし器用で、アホ母娘(私とムスメ)が壊したブレンダーを直してくれました。

先月は職場で ASUS の充電器を同僚のために直してあげたそうで、

お礼のカードと板チョコをもらって帰ってきました。

手書きのお礼のカードが、アート・スタジオの同僚作だけあって、なかなかキュート

 

 

こんな器用なオットーなのに、残念ながら妻選びには、失敗・・・ しちゃったかな・・・?

家事は最低限しかしないし、興味ないことは覚えようとしないでいつまでもオットー任せだし。

(だから絶対離婚はできないと自覚。)

ちょうどオットーが (そろそろケッコンしたいなぁ) と思っていたところに私が現れてしまったわけで。

オットーには一生の不覚だったかもしれないけれど、私にとっては “カ~モがネギしょってやってきた~♪ ” 状況でした。

そうして 『提灯に釣鐘夫婦』 が誕生したわけでございます。

まぁこれも縁というものでしょう。 だから今後もよろしくね、オットー

(そういえば、ふと思い出したけど結婚記念日は5日後でした。 22回目の記念日です。)

 

 

話は変わりますが、今週ムスメは友達と、海辺の町ウーラクム(Woolacombe)に行っています。

今日メールが届きました。 件名は “Be jealous !”

一昨日と昨日は天気に恵まれてずいぶん海で遊べたけれど、今日は雨になったので、

6kmほど離れたイルフラクム(Ilfracombe)のカフェでクリーム・ティーをしているそうです。

私の大好物のスコーンの写真を添付してくれました。

う~ん、濃厚なクロッテド・クリーム・・・ おいしそう・・・

スコーンにバターとジャムしかつかない場合もありますが、ワタシ的にはクリームなしのスコーンなんてスコーンじゃないのです。


ちなみにクリームを添えたスコーンと紅茶のセットを、クリーム・ティーCream Tea)と呼びます。

メニューにもそう書かれています。

クリーム・ティーは、決してクリーム入りの紅茶ではございません。

なぁんて、初めて聞いたときは私も絶対クリーム入り紅茶だと思っただろうな。 もう忘れちゃったけど。

 

ムスメってば、天気がもつよう祈ってあげていた母に、こんな写真を見せつけてくれて ・・・

明日歯医者の帰りに衝動的に出来合いのクリームつきスコーンを買ってきちゃっても、そしてぺろりと平らげちゃっても、

それは私のせいじゃないからねっ! 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村


『ヒトラー・チルドレン』

$
0
0

仕事がオフだった一昨日、録画保存してあったドキュメンタリーを久しぶりにまた見ました。

ルドルフ・ヘスの娘』 ブリギッテに言及されていた、彼女の甥でヘスの孫のライナー・ヘスが出演していたのを思い出したので。

2012年5月23日に BBC2 で放映された、“Hitler's Children” 。

(日本では 『ヒトラー・チルドレン』 としてBSで放映されたようですが、みなさんご覧になりましたか?)

 

 

ヒトラーに実子は(幸い)いませんでしたから、これは “彼の腹心の部下の子供たち” を指しています。

歴史に永遠に悪名を刻んだナチスの大物たち。

その子孫が、家族の歴史とどう折り合いをつけ、どのような心境で生きてきたかを率直に語ります。

 

 

 

 親衛隊とゲシュタポのボスで、ダッハウに最初の強制収容所を設置したハインリヒ・ヒムラーの弟の孫娘、カトリン・ヒムラー。

彼女は2007年に “Die Brüder Himmler (The Himmler Brothers)” を発表した。

    

「ヒムラーの名で、何かポジティブなことをしたかったの。」

“過去を追及しない” という家族の伝統を破り調査を続けるうち、自分自身の祖父も

あるユダヤ人の絶滅収容所送りに関与していたことを発見した。

イスラエル人の夫との間にいる息子が一族の過去をしっかりと理解できるよう、

『ヒムラー兄弟』 を著したという。

 


 

ナチスが占領したポーランドの総督に任ぜられ、クラクフ・ゲットーの解体を指揮し、多くのユダヤ人を虐殺したハンス・フランク

クラクフのヴァヴェル城に総督本部をおいて滞在し、ダ・ヴィンチ作 『白テンを抱く貴婦人』 を一時横取りしていたこともある。

彼の息子の二クラス・フランクは5人兄弟の末っ子で、父親が絞首刑に処せられたとき8歳だった。

  

  

両親は子供たちに対して冷淡で、子供時代の彼は両親の愛情を渇望していたという。

姉のジークリッドは、父親が刑死した年齢と同じ46歳のときに、殺鼠剤で自殺した。

1987年に長年の調査の結集である “Der Vater (The Father)” を発表。

聴衆の人数に関わらず、要請があれば自らの父親を厳しく糾弾する同著の朗読に出掛ける。

 

 

 

 映画 『シンドラーのリスト』 でレイフ・ファインズが演じた、残忍きわまるプワシュフ強制収容所所長アーモン・ゲート

モニカ・ヘルトヴィヒは、父親が絞首刑に処されたときわずか1歳だった。

母親でゲートの愛人だったルート・カルダーは、1983年に自殺している。

 

 

 

ライナー・ヘスは、アウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ヘスの孫にあたる。 ヘスの三男ハンス・ルドルフの息子である。

このドキュメンタリーのため初めてアウシュヴィッツを訪れ、ショックを受ける。

ナチスのイデオロギーを受け継いだ父親は暴君で、親らしい愛情をみせてくれたことはなかった。

 

 

 

 ベティーナ・ゲーリングはヘルマン・ゲーリングの兄の孫娘である。

“最後のゲーリング” となれるよう、兄と同様に不妊手術を受けた。

ドイツを遠く離れ、米ニューメキシコ州サンタフェの過疎地に住む。

「遠く離れていた方が、一族の過去に向き合い易いのです。」

母国を離れて、もう35年になる。

 

 

 このドキュメンタリーのクライマックスは何といっても、訪れたアウシュヴィッツでライナー・ヘスが、

イスラエルから来ていた学生たちと対面するところでしょう。

学生たちから率直な質問をぶつけられ、精一杯答えるライナー。

やがて後方から、ホロコーストの生残者だという老人が、「貴方と握手したい」 と進み出てきてこう言います。


「私はドイツの若者たちに、もう何年も話をしてきました。 彼らにはこう言うんです。

“君たちはそこにいなかった。 君たちがやったんじゃない。” とね。」

  

感極まって、感情を抑えきれないライナー。

 

感動的な場面で、とても良くできたドキュメンタリーだと思ったんです。

ところが! あれこれ読むうちに、芳しくない後日談を最近発見してしまい・・・

それについては次回に。

 

そうそう、この 『ヒトラー・チルドレン』、現在こちらで視聴可能(日本語で)なようですよ。

 

もうひとつだけ。 私が録画した BBC2 版と上記の動画サイト版は、終わりに近い数分間が少し違っていました。

上記動画サイト版ではベティーナ・ゲーリングさんがドイツをテーマにしたパーティーを開いていたのですが、

BBC2 版では代わりに二クラス・フランクさんが、三人の孫と遊び一人っ子である娘さんと語り合っていました。

 

「父さんがハンス・フランクと闘い彼を負かしてくれたから、私は闘う必要はなかった。 父さんは私の砦よ。」 と、娘さん。

両親の愛情を知らずに成長したにもかかわらず、二クラスさん自身はとても良い父親になれたんですね。

心がほっこりしました。


私はパーティーのシーンよりも、二クラスさん父娘のやりとりの方がずっとポジティブで好きです。

編集で残すなら、絶対こっちにすべきだと思いました。

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

ルドルフ・ヘスの孫

$
0
0

 

 「ベルトと拳銃を身につけて妻と子供たちにさよならのキスをすると、祖父は何千という人々の殺害に出かけていった――

そのことが、今でも想像できないんだ。」

 

ルドルフ・ヘスの孫ライナー・ヘスは言う。

ヘス家の人間の中でルドルフ・ヘスを公然と非難するのは、彼だけだ。

 

 

 

戦後のドイツで育ったライナーは、祖父についてほとんど何も知らなかった。

寄宿学校に入っていた彼は、ある日友達とキッチンに盗みに入って見つかり、校長に2週間庭仕事の手伝いをするよう命じられた。

学校の庭師は、ライナーだけに辛く当たった。

 

“ちゃんと働かない” という理由で彼だけを3ヶ月も働かせ、理由もなく彼を叩いた。

ライナーにはなぜなのか理解できなかった。 12歳の彼に、教師が恐ろしい真実を教えるまでは。


「アウシュヴィッツについても家族についても、何も知らなかった。 他の多くのお祖父さんたちと同様、

私の祖父も戦争に行ったとしか知らなかった。」


学校の庭師は、アウシュヴィッツの生残者だった。


ナチス・ドイツは占領したポーランドのアウシュヴィッツに、ユダヤ人虐殺の永久的象徴となる絶滅収容所を建設した。

初代所長に任命されたルドルフ・ヘスは、アウシュヴィッツ司令官を最長期間務めた。

彼は虐殺のピーク時には、56日間に40万人のハンガリー系ユダヤ人の虐殺を監督したことになる。

一日に7000人。

 

「12歳の子供にとっては、とてつもなく大きな情報だった。

祖父は家族に、大きな苦痛をもたらした。 彼の子供たちだけじゃない。 その後の何十年にも渡ってだ。

世代から世代へと、我々は同じ重い十字架を肩に背負わされる。」

 

ライナーの父親のハンス・ルドルフ(ルドルフ・ヘスの次男)は、反ユダヤ主義の暴力的な家庭内独裁者だった。

家は軍隊キャンプのようで、ライナーは父親に触れることすらできず、その温もりを一度として感じたことがなかった。

父親はヘスがユダヤ人虐殺に大きく関与していたことも真向から否定し、歴史は誤りで、忠実に任務を遂行していたヘスは

誤解されただけだと主張し、異論を唱えようとすれば妻と息子を厳しく罰した。

ライナーの母親は10回自殺を試み、一度はバルコニーから首を吊ろうとした。

ライナー自身も二度自殺を企てたという。

 

16歳で家を出たライナーは、シェフとしての訓練を積み、17歳のときに恋人(のちの妻)が妊娠したため父親になった。

ライナーの父親は息子の恋人を 「売女」 呼ばわりし、婚外子である孫をヘス家の人間とは認めなかった。

両親の離婚後、ライナーは父親とは一切連絡を取っていない。

1985年までには母親を除く家族との関係を一切断ったライナーは、ヘス家の人間には “裏切り者” と呼ばれている。

 

家族の前世代とは異なり、ライナーは祖父の悪行を心の奥に仕舞いこむことはしなかった。

「私の子供たちは、初めから曽祖父が誰だったかを知っているよ。 子供たちには一度も嘘をついたことはないし、

家族の過去について隠しごとをしたこともない。 長男は英語の作文の主題に、曽祖父を選んだくらいだ。

しかし私の親族は、祖父については一切話をしないと決め、ずっと嘘をつき通してきた。 責めや罪悪感に直面できないだけなんだ。

自分の前に鏡を置いて、自分たち自身をじっくり見てもらいたいよ。」

 

30歳までに4人の子供の父親となったライナーは、祖父に負わされた重い十字架のため眠れない夜を過ごしつつも、

家族を養うため必死で働かなければならなかった。

やがて結婚は破綻し、30代のとき二度心臓発作に見舞われた。

39歳で脳溢血を起こし昏睡状態に陥ったライナーは、生き延びて第2のチャンスを与えられたことを、

「それは自分が変わらなければならないという意味だと確信した。」

自分が起業を手伝ったケータリング・ビジネスのシェアを売り、反ネオナチ・反右翼過激派活動に飛び込み、

自分の名を善き目的のために使うことを、フルタイムの仕事にした。

 

初めて学校の生徒たちに話をしたのは、14歳だった息子の教師にそうするよう頼まれたときだった。

2013年には70回、学校で講演した。

反過激派組織 “Loud Against Nazis” をはじめとする、差別や偏見と戦う組織に協力している。

講演では自らの家族の過去について若者に語り、あらゆる種類の差別を排除することを訴える。

ヨーロッパに超過激主義が再生しつつあることを警告し、特に最近はドイツにおけるペギーダの動向を警戒している。

ナチズムが無くなったヨーロッパを目指す “Never Forget To Vote” キャンペーンにもその “顔” として参加し、

マイノリティーを暴力的に追放しようとする政党が強力になるのを防ぐため、反ナチの市民に投票を呼びかけた。

「反ナチの善良な人々は、政治に幻滅して投票に行かない。 でも人種やマイノリティー差別と戦うには、彼らの票が必要なんだ。」

(キャンペーンの動画はこちら)。

サイモン・ヴィーゼンタール・センターの創設者の一人であるマーヴィン・ヒアー師は、

『(ヘスの)孫がナチスのイデオロギーに従っていないのは幸運だ。 彼の活動は、ルドルフ・ヘスが

実の孫に拒絶されたことを全世界に示している。』 と述べた。

 

 

 

  2009年の寒い朝、ライナーはヘス家の人間として初めてアウシュヴィッツを訪れた。

75歳の母親とトマス・ハーディング(『ハンスとルドルフ』著者)とイスラエル人ジャーナリストが同行した。 前夜、彼は眠れなかったという。

「到着したとき、車内には沈黙が下りていた。 怖かったよ。 その広大さが信じられなかった。 何にも触ることができなかった。」

祖父が犯した想像を絶する犯罪の現場。 すぐ隣には、父親の子供時代の遊び場がある。

ヘス司令官の邸宅では、囚人の中でも “エホバの証人” だけが屋内で働かされた。 共産主義者、政治犯やジプシーは、

屋外で働かされた。 ユダヤ人は敷地への立ち入り自体を禁止されていた。

祖父の処刑が行われた場所が、ライナーにとっては見学したものの中で最良の部分だった。

「彼はもう誰も傷つけたり罰したりできない。 処刑の前に彼は何を思ったかな?

司令官邸を、クレマトリウムを、キャンプを見て、何を感じただろう?」

 

“The Australian” 紙によると、ライナーのこの最初の訪問は散々だった。 ホテルの部屋を本名で予約していたため、

ホテル側は 「ヘスを名乗るものはナチスでしか有り得ない」 と警察に通報。 あからさまで強引な監視下に置かれたため、

一日過ごしただけで予定を切り上げた。

二度目の訪問ではイスラエルの学生の前に立ち、ある学生に 「もしお祖父さんに会えたらどうしますか?」 と訊かれ、

「殺します」 と答え、初めてホロコーストの生残者に握手を求められた。

(注: これが事実だとすると、『ヒトラー・チルドレン』 でのアウシュヴィッツ訪問は二度目だったことになりますね。)

 

彼の家族の暗い過去への旅は、2013年に “Das Erbe des Kommandanten (司令官の遺産)” として出版された。

しかし今日へス家の中でのけ者になっているのは、祖父ルドルフではなく、彼、ライナーである。

『嘘つきで、麻薬中毒で、名声とお金が目当ての、悪意に満ちた男』 というのが、叔母インゲ‐ブリットの、彼に対する評だ。

Das Erbe des Kommandanten culminate

 

 

 

2013年にライナーは、疎遠になっていたヘス家の一員と苦々しい “出会い” を経験した。

それはホロコースト・フォーラムへの一通の投稿だった。

 

『私はオーストラリア在住の、ルドルフ・ヘスの親族です。

誇張された第二次世界大戦におけるユダヤ人迫害について、私は恥を感じてはおりません。

よその国の方が、ずっとひどく迫害されました。 スターリン時代のロシアや、鉄のカーテン時代の他国などです。

ユダヤ人は自分たちを犠牲者にし続けてきました。 そろそろ前に進むべきです。』


2013年8月7日付けの、ライナー・ヘスのオーストラリア在住の姪、アニータ・ヘスのものだった。

アニータの祖父はルドルフ・ヘスの長男クラウス。 彼の娘でライナーの従姉クリスティーンが、アニータの母親である。

 「私の祖父母が植えつけたウィルスが、オーストラリアで実を結んだわけだ。 私が父方の親族と関係を持ちたくない理由が、

これで理解いただけると思う。」 ライナーは語った。

 

 

 

 

 

 1960年代の半ばに、ルドルフ・ヘスとヘートヴィヒの長男のクラウスは、ドイツ人妻リゾレットとともにオーストラリアに移住した。

「クラウス伯父は薬剤師助手の資格しか持っておらず、当時のドイツでは需要が少なかった。 家族に伝わるところでは、

伯父がオーストラリアに行けるようヘス家が50万マルクを用意したとのことだ。

でも祖母のヘートヴィヒは戦争犯罪者の未亡人だったため軍人恩給を支給されず、一家は極貧の生活を送っていた。

祖母は働いてもいなかった。 彼女は生涯働いたことがなかった。

だからその大金は、彼女を取り巻いていた古いナチス・ネットワークから来たものとしか考えられない。」

 

「15歳のクラウス・ヘスは、アウシュヴィッツの囚人を面白半分にぱちんこで撃ったため、囚人たちから嫌悪されていたよ。」

と、ルドルフ・ヘスの専属運転手を務めていた老人はライナーに語ったという。

末っ子アンネグレット(5人兄弟のうち唯一アウシュヴィッツで生まれた)の誕生を記念する家族写真では、

親衛隊隊長ハインリヒ・ヒムラーからプレゼントされた黒の親衛隊員服を着た彼は、父親の隣に立っている。

(注: ライナーの父親はヘスの次男のハンス‐ルドルフですが、彼の名は近年のニュース記事ではハンス‐ユルゲンとなっているので、

成人後改名したのかもしれません。)


  

 

  庭で遊ぶハンス‐ルドルフ (ライナーの父親)

 

 

クラウスとリゾレットはシドニーに居を定め、一人娘のクリスティーネ・ヘスを育てた。 二人はその後離婚し、クラウスは

1980年代半ばにシドニーで、長年の飲酒癖に起因する肝硬変のため死亡した。

リゾレット/クリスティーネ/アニータの三世代は、今もオーストラリアに住んでいると考えられているが、

彼らの住所はヘス家の人間の一部しか知らない。

 

 パンナム航空とカンタス航空の貨物専門家として働いたおかげで、クラウス・ヘスは定期的にドイツに戻り、結婚式・洗礼式などの

家族の行事に参加することができた。 深酒のため、彼は家族に恥ずかしい思いをさせることがしばしばあった。

 「クラウス伯父は、朝ウィスキーで歯を磨くほどだったよ。 でも触れても怒らない彼は、私にとっては持つことのなかった父親だった。

父はナチスのイデオロギーを引き継いでいたが、クラウス伯父はまったく違った。 彼が人種差別的発言をするのを聞いたことがなかった。

シュトゥットガルトの米軍基地で働いていたときは、アフリカ系アメリカ黒人の友達さえいたんだ。」 ライナーは回想する。

 

ライナーは、ヘス家におけるホロコースト否認の根源は祖母ヘートヴィヒ・ヘスにあると考える。

「祖母にアウシュヴィッツについて質問すると、彼女はきまって 『どうせお前には理解できないわ。 困難な時代だったから、

忘れた方がいいのよ。』 と言うだけだった。 隠すことは得意だった。 彼女の前では、強者の元ナチスでさえ

愛玩犬になった。 祖母は部屋に入ってきた瞬間から、その場を支配した。

この種の教化は、私の父ハンス‐ルドルフには効き目があった。 おそらくインゲ‐ブリット伯母にも。

ハイデトラウト伯母にも、ある程度は。 末っ子のアンネグレット叔母だけは影響されていないように見える。」

こういう状況下では、若いライナーが家族の過去について知ることは難しかった。

皮肉なことに、ライナーが大量虐殺者を取り巻く静寂を破るきっかけとなったのは、祖父へスから

子孫へと受け継がれた家財だった。

 

ルドルフ・ヘスは、アウシュヴィッツ司令官だった1941年から1943年の間に、親衛隊隊長ハインリヒ・ヒムラーから、

鉤十字のナチス・ドイツ国章がついた重さ30kgもある収納箱を贈られていた。

ヘスの妻ヘートヴィヒは1960年代の初めに、その箱を義理の娘であるライナーの母親に与えた。

母親から箱を受け継いだライナーは、ひとたび箱を開けるとその内容物に驚いた。

箱には人類の歴史における最も暗い章に関する、過去に公開されていなかったルドルフ・ヘスの

2100ページにも及ぶ個人的見解の記録があった。

彼が目撃した光景の詳細な記述や、抹殺の過程がどのように改善できるかの計画書があった。

ヘス一家のアウシュヴィッツにおける理想的な生活をとらえた600枚以上の写真、50枚のカラー・スライド、弾薬の箱、

衣類、煙草のホルダー、印章入りの金の指輪、ヘスが愛する家族に宛てて書いた手紙などもあった。

 

「祖父の書類はアウシュヴィッツに勤務した人々や班の正確な記述も含んでいた。」

アウシュヴィッツで監視兵を務めた親衛隊員は8000人に上る。 なのに刑を受けたのはそのうちのわずか41名に過ぎず、

そのことが未だに信じられないライナーは言う。 彼はまた、アウシュヴィッツ職員だった数多くの元親衛隊員が、

戦後ドイツに戻って本名のまま銀行重役や医師の職に就いたことに不満を感じている。

ルドルフ・ヘスの箱は、現在ミュンヘンにある現代史研究所に保管されている。

(注: ということなので、『ヒトラー・チルドレン』 に出てきたあの箱のことのようです。)

 

「何もかもが一致する。 アウシュヴィッツ生残者の供述は、祖父のような親衛隊員の報告書を裏づけている。

輸送されてきた人々の記録には、それと呼応する強制労働キャンプの記録がある。

ヒトラーは 『我が闘争』 で自分の計画を記述しているし、ゲッベルスは “ユダヤ人がいなくなった” ドイツについてオープンに書き、

日記には大きな輸送の記録をつけていた。 警察の記録がこれらをすべて裏づけている。

これでもなお、アウシュヴィッツの恐怖を否定するというのだろうか?」

信じられないといった面持ちで、ライナーは自問する。

 

 ルドルフ・ヘスの第3子で次女のブリギッテ(インゲ‐ブリギット)は、ライナーを除くと唯一の、

悪名高いヘスについて公に話をする家族の一員だ。

過去40年をワシントンで暮らしてきた彼女は、癌の診断を下され闘病中である。

 

彼女はヘス家に関するライナーの著作を快く思っていない。

「ライナーがしたことは、本当にひどいことよ――彼はあの頃まだ生まれてもいなかったのだから、何の話をしているのかすらわかっていないわ。

すべてお金のためよ。 最初彼は、あの箱をイスラエルのヤド・ヴァシェムに売ろうとしたの。 そして今度は、

この本で金儲けをしようとしている。 彼は麻薬をやっているに違いないわ――普通じゃないもの。

あまりにも頭にきて、あの本は最後まで読むことができなかったわ。」

 ブリギッテは、ヘスの子供たちはキャンプ内に入ったことは一度もなかったし、彼らの邸宅は一度も臭ったことがなかったと主張する。

「キャンプ内で何が起こっているかなど、まったく知らなかった。 誰もね。 クラウスが囚人をぱちんこで撃ったなんてのもでたらめよ。

庭や屋内に囚人はいたけれど、そして彼らと遊んだこともあったけれど、キャンプに入ったことは一度もなかったわ。

私たちは、単に子供が普通することをした――遊んだの。 私は7歳か8歳だったけれど、煙が上っているところも、

庭のイチゴに灰がかかっているところも、見た覚えがない。 ライナーは信じ難い嘘つきよ。」

 

現在ワシントンに住むブリギッテには、ユダヤ人の友人も多くいる。 しかし彼女は、ホロコーストの犠牲者数に疑問を持ち続ける。

彼女の寝室の壁には、愛する父親の写真が掛かっている。

「父は本当に愛情深い人だった。 彼にはふたつの面があったに違いないわ。 私たちは一度も見ることのなかった面が。」

 

ブリギッテはヒトラーの戦争犯罪は赦し難いことだと認めるし、アウシュヴィッツで起きたことも否定しない。

しかし彼女の父親とドイツを貶める裏工作があったと信じている。

「ナチスは散々悪く書き立てられるわ。 他の誰も、そんな風には扱われないのに。 父は唯一の存在ではなかった。

至るところにさらに上の者がいて、彼らはもっとひどい悪人だった。

父は私に、もし当局が彼に 『犠牲者数は5百万人だったと言え』 と命じていたら、そう言っていただろうと言ったわ。

クレマトリウムは、戦後きれいに修復されたの。 暗い力が暗躍したのよ。」

「連合軍ですか?」 とインタビュアーに訊かれたブリギッテは、「イエス」 と答えた。

 

ブリギッテは、父親が処刑前に書いた回想録を一度も読んでいない。 全く興味が持てなかった。

子供時代の思い出の地であるアウシュヴィッツにも一度も戻っていないし、そのつもりもない。

「年を取りすぎたし、病も重すぎるわ。」

ブリギッテは長兄クラウスの元妻リゾレット(アニータの祖母)と現在も連絡を取っている。

しかし彼女は、シドニーに渡ったアウシュヴィッツ司令官の子孫の住所を明かすつもりはない。

ライナー・ヘスは何度もアニータの所在地をつかもうとしたが、その度に失敗している。

 

ヘスの長女ハイデトラウトは、世界的に有名なホロコースト否定論者であるロバート・フォーリソン(Robert Faurisson)の

インタビュー・パートナーを、定期的に務めてきた。 感謝のしるしとして、ブリギッテはフォーリソンに、

ヘス一家のアウシュヴィッツでの写真を贈った。

ブリギッテもハイデトラウトも、孫たちにヘス家の歴史の暗い部分について話すつもりはない。

ヘス家の歴史は、必要がある場合のみ教える。 それが基本だ。

Dr. Robert Faurisson

オーストラリアで成功したように、ホロコースト否定の根が次の世代に実を結ぶことを願いつつ。

 

ルドルフ・ヘスの長男クラウスは1980年代半ばにオーストラリアで死没し、次女ブリギッテはワシントンで闘病中。

残る3人は?

 

認知症を発症した長女ハイデトラウトは、ドイツ北部に住んでいる。

ライナーの父親ハンス‐ルドルフはヘス家とは疎遠になり、その後ドイツ北部の宗教セクトのメンバーとして暮らしているらしい。

三女のアンネグレットも、ドイツ北部に住んでいる。

 

4人の子供(息子2人と娘2人)が成人した今、ライナー・ヘスはシュトゥットガルト近郊の小さな町 Weil der Stadt

アパートメントに一人で暮らしている。 孫もすでに2人いる。

 

 「ネオナチや極右集団との戦いは、将来どのような展開になると思いますか?」 との問いに対する、ライナーの答え。

 

 「右翼過激集団は馬鹿じゃない。 ゆっくりと、しかしとても効果的に、地盤を固めつつあります。

ですが今日の若者は私に希望を与えてくれます。 彼らは祖父の時代の若者ほど簡単には騙されないでしょう。

だから将来にはポジティブな展望をもっています。 ただ、ひとつだけ確かなことがあります。 毎日が苦労の連続だということです。

人権というものは、我々が立ち上がって戦わない限り、保証されないのです。

断固として戦い続けます。 機会があるときは、いつでもね。」

 

 

《 つづく 》

 
 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

『ヒトラー・チルドレン』 ウラ話

$
0
0

《 ルドルフ・ヘスの孫からのつづき 》

 

昨夏エヴァ・モーゼス・コールはライナー・ヘスを、非公式に養子ならぬ “養孫” に迎えた。

ライナーからの “祖母‐孫縁組” の要請を承諾したのだ。

ライナーから初めて 「直にお会いして貴女をハグしたい」 というメールを受け取ったときは、彼がペテン師かもしれないと警戒したという。

「ナチ親衛隊員の孫が祖父のしたことを公然と非難するなんて、できっこないと思ったの。 真実にしては上等すぎると。」

しかしアウシュヴィッツで実際にライナーに会うと、二人はたちまち意気投合した。


  

その後ライナーは、アメリカに飛んでエヴァの CANDLES博物館を訪れた。

    

 

エヴァはライナーの知性、勇敢さと人間性に魅せられ、家庭環境にもかかわらず彼がまっとうな人間に育ったことに感銘を受けたという。

「彼の“祖母”であることを誇りに思うわ。 彼を賞賛するし、彼のことが大好き。 家族が持てなかった彼には、愛情が必要よ。

異なる環境からきた二人が祖母と孫息子になれるなら、そこには希望があるわ。」

 


*       *       *       *       *      *       *       *       *       *

 

そしてここからが、 『ヒトラー・チルドレン』 の、“芳しくないウラ話” になります。

 

『ヒトラー・チルドレン』 でライナー・ヘスと行動を共にしていた、ホロコーストの生残者の孫である

イスラエル人記者エルダド・べック(下右)。

ベルリンを拠点にする彼がこれまでに書いていた、ライナー・ヘスに関する記事を見つけました。


Nazi's grandson tries to sell items to Yad Vashem

(『ナチの孫息子、品々をヤド・ヴァシェムへ売ろうと試みる』 : これはベック氏の、2009年11月14日付の記事です。)


エルサレムにあるヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館は、最近普通でないばかりか怒りを誘う申し出を受けた。

悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所の所長ルドルフ・ヘスの孫が、ヘスの私有物だった品々を売ると申し出てきたのだ。

 ヤド・ヴァシェムに数ヶ月前に送られてきたビジネスライクな手紙の表題は、

『アウシュヴィッツ、ヘス所長、希少品』

「表題の品々は、アウシュヴィッツ所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスの遺品数点。 ナチスのシンボルがついた大きな耐火収納箱――

ヒムラー(SS司令官)からの贈物、重さ50kg; レターナイフ; 未公開のアウシュヴィッツのスライド; クラクフで収監中に

書かれた手紙。 簡潔な返信を願います。 敬具 ライナー・ヘス」

 

この申し出にショックを受け、犯罪者の親族がホロコーストの記憶から利益を得ようとしていることに

胸が悪くなったヤド・ヴァシェムの運営陣は、申し出を即座に拒否した。

「当博物館は、ナチズムの恐怖を永続するための品々を、寄付でのみ受けつけています。」 が、ライナーが受け取った返事だった。

 

ライナーがイスラエルの全国紙イェディオト・アハロノトに語ったところによると、ヤド・ヴァシェムに祖父の遺品を売るというアイディアは、

彼の友人である、ヒトラー・ユーゲントの指導者だったバルドゥール・フォン・シーラッハの孫との会話中に思いついた。

「これらの品々は家族が保管していた。」 ライナーは電話で言った。 「それらが存在することは、家族以外にも知っている者がいた。

実際 『買い取りたい』 という連絡を受けたことも何度かあった。 メディアの 『デア・シュピーゲル』 や

『アクセル・シュプリンガー出版社(Axel Springer publishing house)』 も、買い取りを希望した。」

 

ヤド・ヴァシェムに祖父の遺品を寄付するつもりはあるかと問われると、ライナーはこう答えた。

「それはいい質問だ。 しかし私の一存では決められない。 寄付したい気持ちはあるが、家族の他のメンバーにも相談しなければならない。

あれらの品々は、歴史に関連する博物館に行ってほしいと思っている。」

大きなアメリカの警備会社の警備員として働いているライナー・ヘスは、自分の祖父の正体とその犯罪について、

12歳のときに初めて知ったと言う。

「ものすごくショックだった。 チェコ出身の教師が読むための本を貸してくれ、自分の祖父が誰だったのか、突然わかった。

それ以来ずっと、興味を持っている。 アウシュヴィッツにも何度か行こうとしたが、私の姓のためツアーに入れてもらえない。

でもダッハウのような、他の強制収容所は訪問したよ。」

 

ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスは1934年に親衛隊員になり、ダッハウでの “訓練期間” を経て

1940年に司令官としてアウシュヴィッツに送られた。 彼はそこで強制収容所を設立し、のちにはそれを絶滅収容所へと改造した。

その4年後には43万人のハンガリー系ユダヤ人を56日間で絶滅させることに成功し、その “功績” により第三帝国から表彰された。

戦後は偽名を使ってしばらく隠れていたが、やがて見つかってポーランド政府へと引き渡され、

1947年4月16日にアウシュヴィッツで絞首刑に処された。

 

「あの時代に起きたことについては、とてもはっきりしたスタンスを持っている。 あの世界観は私には受け入れ難いものだ。

両親が離婚して以来、ルドルフ・ヘスの息子である私の父とは一切関係を断った。」

ライナーは述べた。

 

 

 The Nazi's grandson

(『ナチの孫息子』 : 2011年5月18日付の、同じくべック氏の記事。)

 

このような文章を書かなくて済むように、本当に願っていた。 私が誤っていたと証明する証拠が見つかるよう祈っていた。

“良きエンディング” は可能だと、信じてもいた。 実際に起きたことを、見逃すことだってできた。

他の人々は、自分の意見を曲げずに済むように、あるいは大衆受けするために、そうしてきたのだから。

 

一年半前、私はルドルフ・ヘスの孫であるライナー・ヘスに連絡を取った。

彼が祖父の遺品をヤド・ヴァシェムに売りつけようとしたあとのことだった。 彼の無神経な申し出に、ヤド・ヴァシェムは嫌悪感を抱いていた。

私は彼に、彼の申し出の動機は何だったのかと尋ねた。 彼は祖父の遺品を売ろうとしたことを否定しなかったし、

ヤド・ヴァシェムに話を持ちかけるよう彼にアドバイスしてくれたのはナチ高官の息子だったと言った。

この件がイェディオト・アハロノト紙に掲載されてイスラエルとドイツで関心を集めると、ライナー・ヘスの “アドバイザー” は

彼との関わりを否定した。 私はこの “アドバイザー” を信じる。

現在彼は、ヤド・ヴァシェムへの申し出が彼自身に与えたダメージを認識したうえで、

「ヤド・ヴァシェムの方から祖父の遺品を買い取ることを申し出たのだ」 と主張している。

これらは、ライナー・ヘスに会って以来私が聞いた数多くの嘘のうちの二つにすぎない。

最近私は、今後は彼との関係を一切断つことを決めた。 ホロコーストにさかのぼる家族の所持品を、彼が売ろうとし続けているからだ。

彼のこの側面は 『ヒトラー・チルドレン』 には含まれていないため、残念ながら同ドキュメンタリーの信憑性は

損なわれてしまったと、私は考える。

ライナー・ヘスの人となりは、彼の問題ある面を含めてこそ、より正確に伝えられ得るのだから。


最近のインタビューでも、ライナー・ヘスはヤド・ヴァシェムが最初にコンタクトしてきたと主張し続けている。

このことから私は、「祖父の犯罪に関して罪悪感をもっている」 という彼の言葉には何の意味もないと悟った。

カメラの前で彼は、イスラエルの学生たちと会い、祖父の絶滅収容所の生残者と抱擁をかわして興奮している。

カメラの前で彼は、何を言うべきかわかっていると言う。

しかし自らの小さな罪に対して責任をもてない人物に、祖父が犯したはるかに大きな罪に対して責任を持てるはずがない。

アウシュヴィッツで感情を乱す経験をしたのだとしても、ライナー・ヘスが

罪深い家族の過去を売り物にして利益を得ようとしているという事実を見逃すことはできない。

 

私が彼と初めて会ったのは、彼がヤド・ヴァシェムに祖父の品を売ることを申し出てすぐのことだった。

そのとき彼は私に、自分の姓のためアウシュヴィッツを訪れることは禁じられていると言った。

妙なことに思えたが、私は彼をアウシュヴィッツ訪問に誘い、彼は同意した。

 

アウシュヴィッツでは24時間過ごした。 彼の主な興味がヘス一家が住んでいた邸宅に集中していたことに、私は驚いた。

収容所内に建設された最初のガス室から200mの距離にある家だ。

地獄の隣で営まれていたヘス一家の幸せな生活を写した写真を、ライナーは持参してきた。 今日の邸宅の在り様と比較するためだ。

私にはこの関心は病的に思えたが、彼は 「塀の向こう側――絶滅収容所――で何が起こっているかを

家族がどこまで知っていたのか知りたい」 と言った。 私は彼を信じたかったものの、居心地の悪さを感じ続けた。

私もまた、その多くがアウシュヴィッツや他所で殺害された犠牲者である家族の写真を持参していたのだが、

ライナーは私の写真には何の興味も示さなかった。

 

彼はビルケナウにも行きたがらなかった。 邸宅を見られさえすれば、すぐに帰りたそうだった。

あの悪名高い降車場を見ず、囚人の小屋に入らず、自分の祖父の命令の下で人々が

どのように生き、どのように死んでいったかを見ることなく。

彼は私が懇願してはじめてビルケナウ訪問に同意した。

 

『ヒトラー・チルドレン』 撮影のためふたたびアウシュヴィッツを訪れたとき、私は彼に、彼の祖父が(一度転任されたあと)

ハンガリーからのユダヤ人絶滅のため1944年にふたたびアウシュヴィッツに戻ったことを指摘した。

それに対する彼の返事は、「カストナーという名のユダヤ人がいたね、ナチスに協力した」 だった。

彼の言い方はまるで、ハンガリー系ユダヤ人を救おうとしたカストナーの試みが、

ルドルフ・ヘスによる50万人に近いハンガリー系ユダヤ人の虐殺と同等であるかのようだった。

 それはまるで彼が、その恐ろしい場所の 『ヘス家の所有権』 を主張しているようで、

長い間秘めてきた怒りを爆発させた私は、彼に食ってかかった。

その場面は、ドキュメンタリーではカットされていた。

 

ライナーは 「ホロコーストの生残者に会ってみたいが、拒絶されたり問題があったりでなかなか実現しない」 とよく言っていた。

その目的にはイスラエルが理想的だと思った私は、彼とともにイスラエルを訪れた。

イスラエルは、ホロコーストのあとにもユダヤ人の命が続いたことの証明だから。

彼は、この訪問をメディアに宣伝したがった。 私は拒否した。

カメラのないところで、我々は生残者に会った。

ライナー・ヘスは彼らの話を聞こうとはしなかった。

ヤド・ヴァシェムを訪れても、彼は何の興味も示さずに歩き回るだけだった。

『ヒトラー・チルドレン』 に出てきた、アウシュビッツでライナーをハグした学生たちに会ったとき、彼らのうちの数人は

「ホロコーストばかりで嫌になる」 と愚痴った。 それに対するライナーの返事は、

「ここには普通のイスラエル人を見に来たんだ。 私もホロコーストにはうんざりしているよ。」 だった。

 

過去に私は、数多くのナチスの子孫に会った。 その誰もが、祖先が犯した罪に真剣に向き合っていた。

その中で 「家族の “遺産” から利益を得るためエージェントを雇っている」 と言ったのは、ライナー・ヘスのみだ。

自分の話を聞くため金を要求するのも彼のみだ。

 彼は私やイェディオト・アハロノト紙には支払いを要求しなかった。 それゆえ私はホロコースト、その生残者と

子孫に対する彼の態度が、いつかは変わるかもしれないと期待してきた。 まだ変化は起きていない。


もしかしたらライナー・ヘスは、将来態度を変えるかもしれない。 ある日、自分自身の過去の真実をすべて話すかもしれない。

たとえば彼は、「前にネオナチの上級メンバーだった」 と私に言った。 彼はそのことは公に口にしない。

彼はまた、過去に “法とトラブルがあった” ことについても隠している。 私がそのことを知っていると気づくと、彼はそれを否定しなかった。

私は彼の経済状態が非常に厳しいものであることを証明する書類を確保している。 彼がヤド・ヴァシェムその他に連絡を取ったのは、

おそらくそれが原因だろう。 もしかしたら彼は将来、これらの事柄についてすべての真実を話すかもしれない。

 

現在の私は “ライナー・ヘスは自分の姓を、富と名声を得るために利用しているだけだ” ということに、何の疑いも持っていない。

ヘスの孫は、祖父がしたことや彼が犯した犯罪に関し、何の責任もない。

彼は彼自身の行動にのみ責任がある。

そしてそれらは、許し難いものなのだ。



最後のこれは、べック氏の記事ではありませんが、ついでに。

 How Grandson of Auschwitz Boss Is Trying to Remake Family Name

 (『家族の名の再生を試みる、アウシュヴィッツ所長の息子』 : 今年1月26日付のウォール・ストリート・ジャーナルの記事の一部。)


(中略) 「ライナー・ヘスは自分の名前を個人的利益のため売り物にしている」 として、彼の正直さに疑いをはさむ人々もいる。

ホロコースト生残者の孫でイスラエル人ジャーナリストのエルダド・べックはヘス氏と共にドキュメンタリーに出演したが、

今は彼を、 「祖父ルドルフ・ヘスの所有物をヤド・ヴァシェムに売ろうとした」 と非難している。

ヤド・ヴァシェムの代表者は、過去にヘス氏が祖父の遺品の売却を示唆したことを確認したが、ヘス氏はこれを否定している。


  べック氏は2011年にコラムにこう書いている。 「ライナー・ヘスの動機は、純粋に便宜的なものだ。 彼は自分の姓を、財産と

名声を得るために使おうとしている。」 最近のメールではべック氏は、「この罪人とは何の関係も持ちたくない」 と述べている。

 ヘス氏は 「10余年にわたる講演で2万3千ドル(約285万円)を受け取ったが、講演料が出ないとわかっていても講演を断ることはない。

自分が起こした会社を売った利益で暮らしている。」 と言う。 彼はシュトゥットガルト近くの小さな町 Weil der Stadt

アパートメントに一人暮らしという、一見質素な生活を送っている。



*       *       *       *       *       *       *       *       *       *


いかがですか? 私と同様 (えぇぇ~!?) と思った方も多いのでは?

もしかしたら、ライナー・ヘスが見せた罪悪感に満ちた表情や言葉は本物ではなかった・・・・・

彼が過激集団との戦いに身を投じた動機は、純粋なものではなかった・・・・・

私は単純なので、一度そういう先入観を持ってしまうと、それ以降はどうしても色眼鏡でヘス氏を見てしまいます。

たとえば彼は、個人的に親しくなったホロコースト生残者の囚人番号3つを含む Never Forget の刺青を胸にしているのですが、

なぜ胸? なぜ腕や肩じゃいけなかったの? ナルシスト? それに、その表情・・・

・・・わざとらしくないかい? と、  つい、思ってしまいます。

 (じゃあどんな表情ならいいんだと言われれば私にもわからんが。)


もしかして彼は、(あんな恐ろしい人物の孫に生まれた可哀相なボク)と自分を犠牲者に仕立てて関心を集めて快感を得る、

一種のミュンヒハウゼン症候群か?とかも。


人間、草の露を吸って生きてはいけませんからね。 偏見や差別と戦う戦士になっても、お給料がもらえないなら、

別に収入源を確保しなければなりません。 ルドルフ・ヘスの遺品をお金に換えようとしたことを、咎める気はありません。

でもそれをもちかけた相手がイスラエルのホロコースト記念館だったというのなら、話は別。 神経を疑います。


それに 『ヒトラー・チルドレン』 で彼は、アウシュヴィッツへの道中、「自分は祖父にとてもよく似ているから

人々に気づかれてしまうかも」 と怖れていましたが、 ・・・ 全っ然似てないから!!

      

(似ていると思う人がいたら不思議!と思うレベルだと、私は思う。)


ライナー・ヘスはまた、ヘス一家が住んでいた邸宅で 「ワーオ!」 を連発し、何だかはしゃいだ気分を抑えつけているみたいでした。

自分の父親が子供時代に住んだ家を、成人し40の齢を超えて初めて訪れたのだから、それもわかる気はします。 ですが・・・。


外見で人を判断してはいけないとは知りつつも、彼の外見もちょっと気になります。

『ヒトラー・チルドレン』 に出演した他の4人のナチスの末裔と比べて、かなりラフ(粗野)な感じが・・・

昨日までホームレスしていたのを急いで身ギレイにして持ってきたと言われても、信じられますよ私。

過去に麻薬をやっていたとしても、納得しますよ私。

他の4人とは一線を画す何かが、彼にはある気がするんです。

彼が 『本物』 だとしたら、ホント失礼な話ですが。


何だか私、『ライナー・ヘスの動機は不純』 説に傾いていますね。

最初に芳しくない記事を読んだときは、(そんなことないでしょう?!有名になると大変だなぁ) と、彼を信じる気満々だったのに。


ライナー・ヘスは、ルドルフ・ヘスの遺品を売る話をヤド・ヴァシェムに持ちかけたのか。

それとも彼が言うように、ヤド・ヴァシェムが先にライナーにコンタクトしてきたのか。

過去に “法とトラブルがあった” というのは、彼に前科があることを意味するのか。

もし前科があったとしても、今はまっとうに暮らし、純粋な動機から平和を促進することにしたのなら、別に問題はありません。

でもその場合、最初に自らの過去を洗いざらい明らかにした方が、私は好感を持てます。 他人に暴露される前に。


直接知らない人を判断するのは難しいですね。

直接知っている人だって、(そんなことをする人だったなんて!)と驚かされることがあるくらいですからね。

ライナー・ヘス  エルダド・べック。 相反する二つの主張。

ベック氏が正しくて、ヘス氏が不純な動機から偏見や差別と戦う戦士になったのか。

それともヘス氏の動機は純粋で、何らかの理由で彼を嫌うようになったベック氏が彼の評判を落とそうと企んでいるのか。

真実はひとつだけ。

今後も注意して見守っていこうと思います。


でもっ!

ライナー・ヘスがニセモノで、私が尊敬するエヴァ・コールさんを騙しているのだとしたら、

絶対に赦さないからねっ! 


 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

命日

$
0
0

一年前の今日8月28日に行方不明になったアリス・グロスちゃん(当時14歳)。

ひと月以上も経ってから遺体が発見され、行方不明になった日に殺害されていたことがわかった。

 事件を振り返ってみよう。

 

ロンドンの行方不明少女

 

最悪の展開

 

容疑者の自殺

 

有形無実の国境

 

 

最愛の家族、娘をそして妹を、突然最悪のかたちで奪われたご両親とお姉さん。

この一年を、どんな思いで過ごされてきたことか・・・・・

 

 

ご遺族は、音楽好きだったアリスちゃんを偲んでチャリティー基金

Alice's Youth Music Memorial Fund

を設立し、これまでに4万5千ポンドを集めている。


 

 

「なぜ妻殺しという凶悪犯罪を犯していたザルカルンスがイギリスに移民を許可されていたのか」

というご遺族の問いかけには、未だに回答がない。

 

アフリカや中近東から押し寄せる難民で大変なことになっている、現在のヨーロッパ。

より良い暮らしをしたいのは、誰だって同じ。

そのためにしっかり学んで、真面目に働いて税金を納めてくれるなら、

難民受け入れも仕方ないと私は思う。

 

でも中には、そうでないヤカラもいるわけで。

リッチな国で、働かずに面倒見てもらおう。 とか、 犯罪に手を染めて、ラクにお金を手に入れよう。 とか。

それが困る。

 

アリスちゃん事件は、その 『犯罪』 が最悪のレベルで実行されてしまったケースだ。

そしてこれは、終わりではなく始まりになるだろう。

誰も、被害者になる可能性から逃れることはできない。

 

 

将来にたくさんの夢をもっていたであろうアリスちゃん。

 

ご冥福を、心から、お祈りします ・・・・・

 

 

 

 にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

航空ショーでの墜落事故

$
0
0

先週の土曜日(8月22日)、航空ショーで墜落事故があった。

イングランド南部、ブライトンから西に9kmほどの町ショーアム(Shoreham-by-Sea)で開催されていた、Shoreham Airshow

  

 空中一回転を披露して着陸するはずだった、乗員1名のジェット戦闘機。

それが代わりに、A27号道路に墜落してしまったのだ。

 どんどん降下してくる同機。

 

  

   

少なくとも4台の車に接触/衝突し、巨大な火の玉と化し、地面に激突した。 動画はこちら

 

  

 快晴の8月の土曜日の昼下がり。 のどかな海辺の田舎町で毎年開催されるイベントが、大惨事になってしまった。

 

車内搭載カメラでとらえられていた、墜落の様子。 動画はこちら

  

道路を車で走っていて、まさか空からジェット機が降ってくるとは・・・・・

巻き込まれた車に乗っていた人たち、振り向くチャンスさえなかったに違いない・・・・・

  

道路脇に立っていた人たち ↓ は航空ショーの見物人だったが、少なくともうち2人は助かったらしい。

 

  

  

 

 航空ショーの見物人たちも、突然の墜落に度肝を抜かれたことだろう。

 

  

 

 

 墜落機のパイロットは、“ベテラン中のベテラン” アンディー・ヒル(51歳)。

元イギリス空軍のインストラクターで、現在は英国航空のパイロットだという。

墜落直後にコックピットが火の玉と化した本体から離れたため、瀕死の状態で救急搬送され、

医療措置として誘起された昏睡状態にあるとのこと。

  

墜落した機は、1950年代に製造されたホーカー・ハンター・ジェット戦闘機。

  

 

いったいなぜ、あんなことになってしまったのか。

 

残骸は、詳細な検証のため移送された。

 

 

 死亡者数は、11名と考えられている。 (うち2名の遺体は未確認のため、現時点では “行方不明”。)

そのうちの一人は、モーリス・アブラハムスさん(76歳)。

元軍人で警察官も勤めた彼は、引退後は運転手のアルバイトをしていたらしい。 結婚式のため、花嫁を迎えに行く途中だった。

 

現場に残る、屋根部分が無くなってしまった、彼が運転していたダイムラー。

 

ダイムラーの前を走っていたBMWも、爆炎に包まれた。

 

が、運転していた71歳男性は、後部ガラスが吹き飛ばされた車内から飛び出し、奇跡的に助かった。

「友人の家にバーベキューに行く途中だった。 耳をつんざくようなバン!という音がし、何かが飛んできて後部ガラスの窓を突き破った。

ものすごい炎に包まれ、車が爆発するかもしれないとパニックし、無我夢中でまだ動いている車から飛び出した。

地面に転がって立ち上がり、現場を振り返った。 自分が生きていることが信じられなかった。 奇跡だよ。」

 

彼の車はその後200m近く前進を続け、火炎の先に出たところで停止していた。

車から携帯電話と鍵を回収し、軽い火傷の手当てを受けた。 ショック状態にあったため、痛みは感じなかったという。

 

すべてがあっという間に起こったことだとは思うけれど、道路でなく周辺の畑地に墜落してくれていたら・・・ と思わざるを得ない。

航空ショーの観客のど真中に突っ込まれるよりはましだったけれども。

 

現場検証のためA27号道路が閉鎖されているので、A27号道路と平行して掛かる橋に供えられる、弔意を表す献花。

 

 

 夏の好天下の昼下がりの外出を楽しんでいた人々を突然襲った災厄。

「めったに起こり得ないこと」 ではあるけれど、同時に 「誰にでも起こり得ること」。

こうして呑気にネットしている私の頭上にだって、飛行機が落ちてくる可能性はある。

限りなくゼロには近いけれど。

 

『人生には自分でどうにかできることと、自分にはどうにもできないことがある』 って、本当だなぁ ・・・・・

 

犠牲者のご冥福をお祈りします ・・・・・。

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

ダイアナ妃の命日

$
0
0

今日はダイアナ妃の命日。

特別にファンだったわけでもない私ですら、彼女の突然の死のニュースを聞いたときは、思わず泣きました。

ダイアナ妃のような重要人物が事故死してしまえるなんて、とても信じられなかった。

 

優しさ温かさが滲み出てくるようなあの笑顔。

お人柄を裏づけるような未公開の非公式写真が、このたび公表されました。

これらの写真は、来月24日にオークションにかけられるそうです。

 

セント・ポール寺院での挙式後バッキンガム宮殿に入り、バルコニーからお祝いのため集まって

ザ・マル大通りを埋め尽くした一般市民に手を振り、その後宮殿の廊下を歩く一同。

 

ダイアナ妃は、ブライズメイドの中でも一番若い5歳の幼女を抱っこして話しかけています。

アナタ、誰に抱っこされているかわかってるの?! そんな、顔をそむけちゃって・・・ もったいない~っ!

 もしかして女王様は、(これから公式フォト撮影なのに、ドレス大丈夫かしら?) なんて心配してたりして。 

 前屈みになっている男性は、アンドリュー王子だそうです。

 このとき20歳になったばかりだったにもかかわらず、ダイアナ妃って、子供たちへの接し方が本当に自然。

さすが保母さんをしていただけあります。

 バルコニーに立ったときの写真。 熱狂する大衆を前に、ダイアナ妃は何を思ったのかな?

(34年前!の二人の結婚式を、ニュースで見た覚えがしっかりある私って・・・・・ 

 

 

さて、しばらく前に行われたシャーロット王女の洗礼ですが。

 

 その後こんな 『でっち上げ画像』 がネット上で広まり、人気を呼んだそうです。

 女の子をとても欲しがっていたというダイアナ妃。

もし生きていらしたら、シャーロット王女の誕生をそれは喜んだことでしょう。

 

上の画像は、洗礼式当日のケイト妃の写真と、マザー・テレサを訪問したときのダイアナ妃の写真を合成したもののようです。

 

 

でも合成写真のダイアナ妃、いくら何でも背が高すぎるような気が? 背筋を伸ばしたら、ケイト妃より頭ひとつ分背が高そうだもの。

 

興味が沸いたので、王室の皆さんの身長を調べてみました。

ダイアナ妃 1.78m、 チャールズ皇太子 1.78m ・・・おんなじ! 

ウィリアム王子 1.91m、 ケイト妃 1.75m

ハリー王子 1.89m

エリザベス女王 1.63m、 エディンバラ公 1.88m

 

ダイアナ妃って、1.78mもあったのか~! さすが、ロングドレスも似合うはずだわ。

ケイト妃もなかなか。 ウィリアム王子も、1.91mもあったんだ。

ハリー王子は何となくウィリアム王子よりも背が高そうな気がしていたけど、2cm低かったのは意外。

 

ダイアナ妃、若さゆえだろうけれど、夫選びには失敗しちゃいましたね。

カミラ夫人を想いながらダイアナ妃と結婚した皇太子が一番悪いんだけれど。

それに一緒に事故死したドディ・アルファイドも、ちょっとなー、と思う。

プレイボーイで、ダイアナ妃と交際を始めたため妊娠していたモデルの彼女をあっさり捨てたっていう報道もあったし。

ドディの父親のモハメドは超大金持ちのエジプト人実業家でハロッズのオーナー。

なのにイギリス政府からは英国籍取得を拒否され続けている人です。

もしダイアナ妃が事故死せずにドディとの交際を続けて結婚なんてことになっていたら、

私は彼女を 「見損なった!」 と嫌いになっていた可能性が高そう。

ほんと、ダイアナ妃が存命していたら、その後どうなっていたんだろう?

私の三流週刊誌的妄想が膨らみます。

 

母親を亡くしたとき15歳だったウィリアム王子が、今や2児のパパ。

そうして、血は受け継がれていきます。

 

ダイアナ妃のご冥福をお祈りします ・・・・・

 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

バンクシーの憂園地

$
0
0

イギリスが世界に誇る?覆面ストリート・アーティスト、バンクシー。 彼はブリストル出身のようです。

ホームタウンで 「親切な地元の人々に何かお返しをしたい」 と、2009年6月にブリストル博物館で

12週間の展示会 Banksy Versus Bristol Museum を開催(入場無料)。

世界中から30万人(!)を超えるファンが訪れ、地元に1千万ポンド(18億円)の経済効果をもたらしたそうです。

(バンクシーいわく: 「自分の作品の除去のためでなく設置のために税金が使われたのは、これが初めて。」

 

そしてバンクシーの地元へのお返し第2弾が、現在進行中。

8月22日(土)にブリストルからすぐの海辺の観光地ウェストン‐スーパー‐メア(Weston-Super-Mare)に、

子供に向かない憂園地 “Dismaland” が、5週間の期間限定でオープン!

 

 

 

Dismaland は明らかに、 dismal (陰気な、憂うつな、荒涼たる)に land をつなげた Disneyland のもじり。

しかも Amusement Park (遊園地)ではなく Bemusement (当惑、混乱) Park と、率直に謳っちゃってます。

バンクシー本人によると、同憂園地は 「子供には不適切な家族向けテーマパーク」。

 

入場するには、やけに厳重なセキュリティー・チェックをパスしなければなりません。

設備のほとんどが学芸会の小道具(か、それ以下)みたいですが。

 

  

 

入場すると、10年前に閉園された、荒れ果てた遊園地のような光景に迎えられます。

 池にはまって棄て去られた Police Riot Van (対暴動警察ヴァン、向こう側になぜか滑り台つき)と、へんてこなピクニック・テーブル。

 

 一見まともなメリーゴーランドでは、馬が食肉にされつつあります。

これは以前 「出来合い食品には馬肉が混じっている」 とのスキャンダラスなニュースがあったため、それを茶化しているのでしょう。

  

 原油流出事故を風刺した、“MUCK (ドロドロ) からアヒルを釣ろう” ゲーム。

  

 遠隔操作できるボートは、 ・・・・・ 難民を満載しています。

 

 ご丁寧にも、溺死体までちゃんと浮かんでいます。 これを見て不快感や憤りを感じる人もいるでしょうが、私はOK。

こうして話題になることで、難民よりずっと恵まれた立場にある私たちが、彼らのことを考える機会をふたたび与えられるのですから。

 

 向こうのベンチに座っている老婦人は、この夏ニュースになった “凶暴化する野鳥たち” (この場合はカモメ)に襲われています。

 

 バンクシーは60名のアーティストに参加を依頼し、17ヶ国の58名から協力を得ました。

下左の "Big Rig Jig" は Mike Ross というアメリカ人アーティストの有名な作品だそうです。

下右のスラムを幸せそうに飛び回るディズニーアニメ風の鳥たちが、ものすごい違和感で皮肉たっぷり。

憂園地の一角には、協力してくれたアーティストたちの作品の屋内展示があるようです。

 

以前にもコラボしたことのあるデミアン・ハーストの作品は、大きなビーチボールが 鋭利な切先の上に浮いているというもの。

なぜか武装グループに混じってしまって目を白黒させるクッキー・モンスターという、両極的存在が一緒にされた絵も面白い。

 

核爆弾によるキノコ雲は、子供用の “ツリーハウス” (ツリーじゃないけど)になっているんですね。

 

ゴーカート乗り場を回っている、不気味な先客。 シャチくんとトレーナーは、映画 『ブラックフィッシュ』 を彷彿とさせます。

 

バス停によくある広告板。 £5(¥900)で “広告スペース侵入キット” を買えば、

中味を好みの広告に代えることができるそうです。 ・・・って、それ、違法じゃないの???

 

 

 シンデレラ城・・・・・ みたいな、火事による損傷の激しいうらぶれたお城。

入口手前のマーメイドは歪んじゃってます。 “本物のプリンセス体験ができる!” という内部に入ってみましょう。

 

交通事故死したシンデレラ姫が、パパラッチされています・・・・・ なるほど、これも現実・・・・・。

いまやパパラッチだけでなく、通りがかりの一般市民ですら写真を撮ってSNに流布する時代ですもんね。

 

 園内のあちこちに、面白い掲示があるようです。 このピクニック・テーブルは、なぜトイレット・ペーパーのデザインでなければならなかったのか?

  

 お金が足りなくなった子供のため、親切なことに 『おこづかいローン』 まであります。 金利5000%だけど。

 

 園内のスタッフは 「できるだけ陰鬱に、できるだけ役立たずに」 接客するよう指導されているそうです。

 

 「わ~い、顔はめがあった! ・・・無地のセルフィー(自分撮り)用と、武装テロリストだけど・・・。」

“無料ホットドッグ: 中の肉が何の動物のものか当てられた人に”

 

 “ I AM IMBECILE (私は愚鈍です)” 風船と、片づけられつつあるキャメロン首相。

 

 焼け焦げたアイスクリーム・ヴァンは、2009年の展示会作品をリサイクルしたものですね。 よい心がけです。

夏の海岸の風物詩 『パンチとジュディ』 人形劇もあるものの・・・ ひょっとして、あるのはボックスだけ?

  

 パンフレットも、一応あるみたい。 バンクシーのネズミは、私結構好きです。 Tシャツ欲しいな。

子供向けシリアルにも “Your Dreams Are My Nightmares” というネガティブなメッセージが。

   

連日大人気の Dismaland。 『パンチ&ジュディ』、内容はともかくちゃんと上演?されているようですね。

当初はネットで入場券を予約できるということでしたが、まもなくサイトがクラッシュしてしまい、

やがて 「あのサイトはウソで、予約しようとした人が味わったイライラも落胆も Dismaland が提供するみじめさの一部」 というウワサが。

 

 観覧車も、ちゃんと動くんですね。 暗くなってライトアップすれば、それなりにキレイ

 

 

一般公開に先駆け、まず8月21日(金)には地元民が無料で招待されたそうです。

バンクシーがローカル新聞に 『先着1000名までの無料招待券』 を載せたので。 粋だねぇ~!

当日は長蛇の列ができたようです。 その後も連日、大盛況。

 

入場は一日4000人までで、入場料は5歳未満無料、5歳以上は一人£3(¥550、安っ!)だそうです。

昨日職場で話題になったとき、誰かが 「入場は4時間待ち」 と言っていました。

片道一時間で行ける距離なので行ってみたい気もするけど、4時間待ちする根性はないから、あきらめよう。

トレイラーを見てガマンするとしよう。

  

 

Dismaland (ディズマランド)は 『バンクシーとアーティスト仲間たちの青空ギャラリー』 と言っていいのでは?

会場は2000年に閉鎖されて以来打ち棄てられていた、元屋外プール Tropicana

1937年にオープンした当時は世界最大の屋外プールだったそうですが、利用者減少のため閉鎖に追い込まれました。

その後、再開発あるいは撤去の案が持ち上がっては消え・・・ を繰り返して15年。

 

「子供の頃トロピカーナが大好きだったんだ。 そこを会場に使わせてもらえるのは、本当に名誉なことだよ。」 と、バンクシー。

 

 

 ニュース記事へのリンクはいずれ無効になるかもしれないので、行けない自分のためここに案内図を保存しておこうっと。

 

わぁ~、ほんと浜辺にあるんだ、この会場。

 

 

 この期間限定イベントがウェストンにもたらす経済効果は、700万ポンド(12億円強)と試算されています。

すご~い、バンクシー効果!

 

 昔からテーマ・パークには興味のない私ですが、Dismaland には心惹かれます

5週間じゃなく、せめて5ヶ月くらいオープンしてくれたら、空いていそうな時期を見計らって行ってみるんだけどなぁ~・・・ 残念。

 

 

《 オマケ: 私の以前の記事 『チェルトナムのバンクシー』 はこちらでどうぞ。 》

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村


セント・デイヴィッズだより ①

$
0
0

 今日9月6日(日)は、ムスメとまず、我が町ダーズリーからバスでグロスターに出ました。

終点のバス・ターミナルに着く5分ほど前に、ミッドランド通り25番地が見えました・・・

 

グロスターのタウン・センターには、ラグビーW杯2015の横断幕が。

そういえば、グロスターにあるキングスホルム・スタジアムでも、今月19日から25日まで試合が行われるんでしたっけね。

 

平日は一時間に一本あるダーズリー/グロスター間のバスですが、日曜日は一日に4本きり。

ウィンドーショッピングし、ゆ~っくりランチを取って時間をつぶします。

ムスメはフィッシュ&チップス、私はラザニア、サラダ&チップス。

 

午後2時40分発の列車で、グロスターを出発。 すぐにキングスホルム・スタジアムが見えました。

 

私たちが乗ったガラガラの列車は、西へ西へと進みます。

チェプストウ城(Chepstow Castle)とセヴァーン橋(Severn Bridge)が見えました。

 

乗り換え駅ニューポートNewport)のちょっと手前の風景。 装飾的な橋と、小さなお城らしきものが見えました。

 

ウェールズに入ると、ブリストル海峡が広がってまるで海のよう。 いや、そのまま大西洋にと続くのだから、もう海なのかな?

山のように大きな丘もときどき見えます。 というより、あれももう山?

 

スウォンジーSwansea)のスタジアムも見えました。 車窓の眺めを楽しみながらの列車の旅もなかなか楽しいです。

 

海から遠くないところを走っていることを実感させる風景。

 

目的の駅ハヴァーフォードウエスト(Haverfordwest)に、定刻の午後7時15分に到着。

 

迎えに来てくれたオットーの車で、25分後に無事セント・デイヴィッズSt David's)のコテージに到着!

昨日の長旅のため、オットーの車のフロントガラスが汚いです。   下右は、コテージの庭からの眺め。

 

 

実はムスメと私、今日からオトコのホリデーに便乗するため、一日遅れでセント・デイヴィッズにやって来たのです。

もちろん、もともとは昨日、オットーの車で一緒に来るはずだったんです。 が!

ムスメが申し込んでいた、競争率の高い大学でのバイトの面接への招待状が、2週間ほど前に届きました。

それが何と面接は、ホリデーに出発するはずだった昨日!

面接のため正午にレスター大学に出頭しなければならず、「来ないものはバイトへの興味を無くしたとみなす」 と・・・・・

 

3ヶ月も夏休みがあるのに、な~ぜにホリデーの出発日でなければならないのか。

ムスメ、ホリデー便乗をあきらめかけたんですが、それではすでに行く気満々になっていた私の気が治まらない。

それでムスメは昨日、列車でレスターに往復。

ムスメと私は一日遅れで今日、オットーと義弟②に合流することにしたわけです。 列車で。

知らない土地を運転なんて、私は全然自信ありませんからね。 オットーによると、片道3時間もかかったそうだし。


最初はムスメにレスターからの帰途、まっすぐハヴァーフォードウエストに来させようかと思ったんです。

が、そうするとレスター/ハヴァーフォードウエストの片道運賃が、なんと£100(¥18,000)近くて!

でも今日二人でグロスターから来れば、そして一番安い時間のを選べば、二人でも£40(¥7,200)弱でした。

それで、そうすることにしたのです。

 

というわけで、今日から5日ほど、セント・デイヴィッズ ★ での日々をレポートしますね。

ラベンダー色の★がわが町ダーズリー、★はグロスター、★は乗り換えをしたニューポート、★は列車を降りたハヴァーフォードウエストです。

 


4時間40分の列車の長旅に耐えて、ようやく着いたんだもの。

せいぜい楽しむことにしますね~! 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

セント・デイヴィッズだより ②

$
0
0

セント・デイヴィッズ第一日目。

海釣りに行くというオットー・義弟②に、何を思ったかムスメも 「一緒に行く」 と言うので、私だけ別行動にしました。

満潮が遅いので釣りは後回しにし、まず散歩に出掛けた彼等。

寝坊した私は、三人が戻る直前に準備完了し、入れ違いで出発しました。

コテージの脇をフットパスが通っているので、それを下っていくと海岸線を辿るフットパスに合流できます。

コテージのロケーションは絶好。 昨夜は満天の星で、天の川まで見えました。

聞こえるのは近くを流れる小川のせせらぎのみで、本当~に静かでした。

 

風光明媚な海岸線に沿って、Coastal Footpath が整備されています。 キレイな海

 

礼拝堂のようなものが見えてきました。 左端近くの、柵で囲われた廃墟のようなものにもご注目。

聖ノン(Saint Non)の礼拝堂です。 1934年に建造された、新しい方の。 (ウィキぺディアからの受け売りですが。

この地に静養のための別荘(後方の大きな建物)を建てた法律家が、最も近いカトリック教会が16マイルも離れていることに

うんざりして建てたのだそうです。 お屋敷は現在はカトリック教会関連の施設として使用されています。

 

 幅3.6m、奥行7.6mしかない小さな礼拝堂。 奥にあるステンドグラスに描かれた肖像は、もちろん聖ノンのもの。

 

礼拝堂から廃墟のようなものに向かって歩いていくと、聖ノンを祀った祠があり、その手前左側には、 ・・・・・

  

 ・・・・・ 聖ノンの井戸があります。 傍の銘板には 『この井戸は西暦500年頃、雷を伴う嵐の夜に聖デイヴィッドが生まれた際に、

突然湧き出したとされる。 この水には病を癒す効果があると信じられている。』 と書かれていました。

井戸のアーチ型天井は1951年にカトリック教会により付け加えられたもので、その際に聖ノンの祠も建立されたそうです。

 

井戸から目と鼻の先には、ウェールズの守護聖人である聖デイヴィッドSaint David)生誕の地に建てられた、

オリジナルの聖ノンの礼拝堂(Chapel of Saint Non)の名残りがあります。

尼僧だった聖ノンはケレディジョン王国のサント王子にレイプされて(!)身ごもり、西暦475年頃に聖デイヴィッドを産んだのだそうです。

  

廃墟の隅には “聖ノンの十字架(St. Non's Cross)” と呼ばれる石がありました。 東を振り返ると、新しい礼拝堂が見えます。

 

 

セント・デイヴィッズSt Davids)の町に到着。 さすが観光地だけあり、月曜日という平日であるにもかかわらず、

少なからぬ観光客がいました。 でも学校が始まったので、さすがに子供はいなかったです。

 

懐かしいあの場所! 11年前(下右)とほとんど変わっていません。 後方の建物の色が入れ代わったくらいで。

 

セント・デイヴィッズの中心です。

 あの白い柱は、旗ざおだったんですね。 上に翻るのは、ウェールズの国旗でした。

ところでこの小さな公園、反対側から見てわかったんですが、戦没者を記念していたようで、第一次・二次世界大戦の期間が表示されていました。

 

シティー・ホールと、デリカテッセンのお店。 人口2千人に満たない小さな町でも、セント・デイヴィッズは “シティー” ですもんね。

 

 牛乳や野菜まで売っていて便利な肉屋さん。 警察・・・交番も、小さくて何とも可愛らしいこと。

 

可愛らしい脇道。 ビジネス用の宣伝車らしい、カラフルでかわいい車もありました。

 

胃袋にクリーム・ティーを約束していたのですが、ランチタイムだったため目をつけていたカフェは満員でした。

 

 

結局クリーム・ティーは、中心部にある公園脇のホテルで頼んでしまいました。

これで£4.85(¥883) ・・・・・ 観光地価格だわぁ。

クリームとジャムは、せめて陶器の容器で出すべきではっ!? 

 

こうして私がクリーム・ティーで脂肪を蓄えていた頃。

 

釣りをしていた一行のうちムスメだけに、掛かりがあったそうです。

ポロック(Pollockシロイトダラ)の小さいのでしたが、初めてムスメが釣った魚だったので、 ・・・

  

 ・・・ オーヴン焼きにしてムスメと私とで夕食の一部として有難くいただきました。

ポロックくん、ゴメン、そしてありがとう。 合掌。

  

 

今日は何も釣れなかったオットーと義弟②。 ネットで情報をサーチし、明日はちょっと遠出してみるそうです。

 

ついでながら、朗報が入りました。

一昨日ムスメがわざわざレスターまで面接に行った、大学でのバイト。 今日 『採用』 の連絡が、メールで入ったそうです。

学生が多い町なので競争が激しく、ずっとバイトにあぶれていたムスメは大喜び。

仕事も無事 “釣れて”、良かったね~! おめでとう!!      

 

・・・ 明日はクリーム・ティーでお祝いしよっか!?  なんちゃって。

 

 

 にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

セント・デイヴィッズだより ③

$
0
0

曇だった昨日の朝と比べ、今朝は快晴で一日がスタート。 

「車で少し離れた海岸に釣りに行ってみる」 というオットーたちに町まで行って降ろしてもらい、

今日はまず、大聖堂を見学することに。

 

 町の中心部より低い土地にあるので、一見目立たない存在です。 門から続く、厚い外壁にご注目。

 この外壁は、大聖堂と司教と聖堂参事会会員たちの住居を取り囲むために14世紀に建造されたそうです。

  

 

 聖デイヴィッド大聖堂(St David's Cathedral)です。 (無知な私の目には、大聖堂というよりは大きな教会ですが。

 左後方に見えるのは、聖デイヴィッド大司教宮殿(St David's Bishops Palace)の名残り。

 

大聖堂の見学は無料ですが、寄付が奨励されています。 写真撮影には£2(≒¥360)を払ってシールをもらい、それを胸につけます。

天井が精巧な彫刻をほどこした木製というのが斬新でした。 キリストの磔刑像もぶら下がっているし。

 

 高い窓から陽光が差し込み、とても明るい内部でした。

 

ステンドグラスです。 下左は晩年の聖デイヴィッドかな? 下右の右側も聖デイヴィッドらしいですが、こっちはお若い時みたい。

  

 ギフト・ショップに、去年ヨークかチェスターで見たのと同じネコたちが! か~わいい~!!

とくに下右のリング・ホルダーになったやつ。 ケイトーと同じ色合いなんだもの・・・ 欲しくなってしまって困りました。

  

“大聖堂ネコ” の指ぬきと、ブックマーク。 かわいすぎるぅ~! 

 

 西暦589年に死亡した聖デイヴィッドによって6世紀に修道院コミュニティーの基礎が築かれたのが、この大聖堂の始まり。

現在ある大聖堂は、12世紀の建立だそうです。

 

大聖堂見学を終え、すぐ西にある聖デイヴィッド大司教宮殿(St David's Bishops Palace)にも行ってみました。

廃墟ですが、入場料が£3.5(≒¥640)取られます。

  

 屋根はほとんど残っていないし家具も調度品も皆無ですが、けっこう面白かったです。

 

 地下室もありました。

 所々で2階部分?に上ることができました。 下左は、そんな場所から眺めた大聖堂。

 

 13世紀後半から14世紀にかけての建造です。 全盛期には、それは立派な建物だったことでしょう。

宮殿全体はこんな感じです。

 

 

 町のツーリスト・インフォメーション・センターに行き、そこのカフェでランチに。 モダンなデザインのセンターです。

 

 TripAdvisor で 「新鮮なカニのサラダが食べられる」 と聞いていたのですが、残念ながらもうカニは品切れ。

仕方ないのでツナ・サンドイッチにしました。

  

 腹ごなしに散歩に。 町を抜けて木々のトンネルのようなフットパスを歩いていったら一軒家の裏庭に出て、

とてもなつこいコリーにお出迎えされました。 かわいい~っっっ!  下右が、そのお宅。 奥の森のようなところから出てきたわけです。

  

宮殿の廃墟の裏手に出たので、写真を撮りました。

大聖堂の裏手(北側)もぶらついてみました。 こちらにも、14世紀建造の壁が。

 

タウン・センターに戻りました。 やけに人が多いと思っていたら、やがてバスがお迎えに。

 

 

食料品を買って帰る前に観光客の例にならい、まずはアイスクリームをば。

“クリスマス・プディング味” にしてみました。 おいしかったです

 

町に一軒しかないスーパーで買物を済ませて (やれやれ、これから2km歩くのか・・・) と思っていたら、

運よく帰宅途中に同じスーパーに立ち寄ったオットーたちとばったり!

おかげで歩かずに済みました。 助かったぁ!! 

 

釣りの収穫ですが、 ・・・ 今日もゼロでした。

 ドンマイ!

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

在位最長記録を達成

$
0
0

そういえば、今年の秋・・・ とは何とな~く覚えていたんですが。

エリザベス女王が今日午後5時半頃、英国君主として在位の最長記録を更新したそうです。

こちらは今朝公開された、公式記念写真。 政府との連絡書簡に目を通す女王陛下です。

撮影は、ポール・マッカートニーの娘で写真家のメアリー・マッカートニー(Mary McCartney)。

 

解説を加えると、

 1.  ロンドン・オリンピックの際にジェームズ・ボンドに迎えに来られたのと同じっぽい部屋で、

2. ピンク・サファイアとダイヤモンドのブローチと3連の真珠のネックレスをつけ、

3. お気に入りの Launer London のハンドバッグを手元に置き、

4. 母君のお若い頃の写真を始めとする家族の写真に囲まれ、

5. 2011年のオーストラリア公式訪問の際に着た Karl Ludwig のワンピースに身をつつみ、

6. 女王陛下がどこにいようとも毎朝届けられる “赤い箱” の公式書類を確認する女王様。 です。

 

半世紀前の1960年代に撮られたという写真にも、“赤い箱” が。

 

1937年の父王の戴冠式の際は、11歳になったばかりだったエリザベス王女。

 

父王の急逝により25歳の若さで女王に即位。 喪が明けるのを待って行われた戴冠の際もまだ27歳でした。

(詳しくは『即位の日』をどうぞ。)

 

ダイヤモンド・ジュビリーの時()のように記念イベントがあるものと思っていたけれど、予想に反して何もなく、

女王様にとっては普段通りの一日だったようです。 鉄道の開通式に赴いたスコットランドで市民に歓迎され、

 

 

スコットランド首相(?First Minister of Scotland)のニコラ・スタージェン、夫君のエディンバラ公と蒸気機関車の旅を楽しみました。

  

 

63年と7ヶ月って、すごい長さ。 そのとき生まれた赤ちゃんが、63歳になっているわけですからね。

在位期間の記録を塗り替えるには、自分が健康で長生きするのはもちろんですが、

若くして王位につく=先代である自分の親が早逝しなければなりません。

王様や女王様には最高のお医者さんがついていて健康に気を配ってくれているはずだから、

それはなかなか起こらないことではないでしょうか。

これからの王様/女王様には、記録の更新はかなり難しいものとなることでしょうね。

 

明日から歴史の授業では 『エリザベス二世が英国に最長期間君臨した君主』 と教えられることになります。

つまり今日、歴史がつくられたわけで。

こんなこと、滅多にあることじゃないからかなり嬉しいかも

 

記録更新、おめでとうございます!   

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

セント・デイヴィッズだより ④

$
0
0

一昨日釣りのため遠出してみたものの、成果はゼロだったオットーたち。

昨日はそれに懲りてまた近場で釣りをすることに。

私も足が疲れていたので、昨日は安息日にしてコテージにこもり、ネットして過ごしました。

 

昨日の午前中の釣りの成果はゼロだったので、夕方三人が出掛けたときも期待していなかったのですが。

そろそろ引き上げてくるかな・・・ と思っていた午後6時頃、トイレが必要になったムスメだけが戻ってきました。

大きめのポロック(シロイトダラ)をおみやげに。 

 

その後まもなくケータイに電話が入り、「掛かりがよくなったからもうしばらく釣りを続ける」 とのことなので、

ムスメと私だけ、用意してあったベイクドポテトとツナサラダで夕飯を済ませました。

オットーと義弟②は午後7時半頃、3匹の鰹を携えて戻ってきました。

せっかくの収穫は昨夜のうちにおろして冷蔵庫に。

動画サイトで魚のおろし方を学んだオットーと義弟②がやってくれました。

  

4匹の魚は、今日のランチにいただきました。

まずはフライパン焼きにしたポロックを4人で分けて、ご飯と野菜と一緒に。

 

 続けて料理した鰹も身が厚くて油がのっていて、とてもおいしかったです。

 

 

今日の夕方、また近場に釣りに行くという三人に、私もくっついて行きました。

釣りには興味ないけれど、釣り場くらいは記念に(?)見ておこうかと思って。

 

フットパスからは、釣り場は全く見えません。 そしてムスメ(下左・真中)は、秘密兵器を手に持っています。

 

 斜面をこわごわ降りていくと、その先にトゲトゲの植物が。

ムスメが持っていたのは、オットーの防水ズボンなのでした。 トゲトゲからジーンズを保護するためです。

防水ズボンはそれしかなかったので、私は自前のジーンズだけで苦労しながらようやくトゲトゲを抜けました。

 

そうして降りていくと、ようやく岩場に出ました。 昨日の4匹と、3日前のムスメの記念すべき “初めての1匹” を釣った場所です。

 

しばらくしたらオットーに魚がかかったけれど、小さいポロックだったので放してやっていました。

  

オットーの釣竿を借りて、ムスメもまた釣りに挑戦。

 

 一時間ほど眺めたのち、私は一足先にコテージに戻ることにしました。 急斜面を上り、またトゲトゲを抜けなければなりません。

 

 でもコテージに戻る前に、対岸からオットーたちの写真を撮ることに。 下左は釣り場のある側、下右は対岸です。

 

カメラのレンズに汚れがあったようでスミマセン   「あそこに人がいる」 と知らなければ肉眼ではほとんど見えないくらい小さい3人です。

 

 対岸から見ると、実際よりかなりの急斜面に見えますね。  “命知らずの3人” って感じ。

  

  

 左端、てっぺんから少し下がった位置にあるのが私たちのコテージです。

 これがコテージ。 絶妙のロケーションです。 白いヴァンは義弟②のもの。

義弟②は以前パラグライダーをやっていたので、それが積めるようヴァンを買ったのでした。

パラグライダーはもうやめたけど。

オットーたちと残ったムスメは、カメラのセッティングをいろいろ変えて写真を撮って遊んだそうです。

オットーだけをフォーカスした下左の写真、なかなか面白い。 その後オットーが鰹、義弟②がポロックを釣り上げ、

午後8時頃帰宅しました。

 

 

楽しい時間は、どうしてこうも過ぎるのが速いんでしょうね ・・・・・

明後日にはもう帰る ので、明日が事実上ホリデーの最終日。 明日の天気予報は、曇のち雨です。

でもずっと天気に恵まれてきたから、文句は言いません。

このコテージの広告画像に魅了されてオットーたちのホリデーに便乗させてもらったわけですが、人里離れていて本当にリラックスできます。

 

来て良かったぁ・・・

 

 

 にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ

Viewing all 1514 articles
Browse latest View live