《 前編からのつづき 》
ベルリンのクリスマス・マーケットに突っ込んだトラックの運転席の下から発見されたという身分証明書。 書類の身元は、チュニジア生まれのアニス・アムリ(24歳)だった。 下の画像をもとに、ベルリンへと続いた彼の足跡を追ってみると・・・
1: チュニジア、2011年(アムリ18/19歳) - 1992年チュニジアのタタウイヌに生まれたアムリは暴力的な強盗事件を起こして欠席裁判で5年の刑を宣告されるが、刑務所行きを免れるため国外に逃亡。 6つ以上の偽名を使っていたことから、リビアとエジプトに入国して偽名で偽造書類をととのえた可能性がある。
2: ランペドゥーザ島、2011年 - アラブの春の騒乱を逃れる何千人の人々に混じってボートでイタリア領の小島ランペドゥーザに到着。 19歳だったにもかかわらず年齢を偽り未成年を装った。 学校の難民受け入れセンターに収容されたが、大規模な暴動に参加し学校は焼き払われた。
3: シチリア島、2011年 - 学校を焼き払ったかどで4年の刑を宣告され、シチリア島の2ヶ所の刑務所で収監生活を送る。 イタリアは「その間彼を二度国外追放しようと試みたが、チュニジアが拒否した」。 釈放されたアムリは北に向かい、アルプスを越える。
4: クレーヴェ、2015年7月(アムリ22/23歳) - ドイツに入り、オランダとの国境に近いクレーヴェで難民申請をする。 彼が3つの異なる国籍のもと6つの偽名を使ったことを発見した当局は申請を拒否するも、彼を国外追放することはかなわず。
5: ドルトムント、2015年12月 - のちにISISと関係があったとして逮捕されることになるヘイト・プリーチャー(憎しみの説教師)と、ドルトムントで一緒に生活する。 若者を過激化させたかどで先月逮捕されたアブ・ワラー(?Abu Walaa)の “憎しみの集会” にも参加していた。
6: ベルリン、2016年2月(アムリ23/24歳) - 今年2月にベルリンに移ったアムリは、警察の情報屋(囮捜査中の警察官だったという情報源も)から自動拳銃を買おうとしたため監視下に置かれる。 7月にベルリンに向かうバス内で内容不明の犯罪行為で逮捕され、麻薬がらみのナイフを使った闘争に関しても追及される。 8月にも偽造のイタリア書類に関係したかどで逮捕されるも、釈放される。 テロ対策当局は、最近では先月にもアムリに関する情報を交換していた。
別のニュース源の画像 ↓ では内容は微妙に異なるものの、大筋は同じかと。
アムリのヨーロッパの5年間
1: チュニジア南東部でトラックを盗んだ罪により欠席裁判で5年の刑を宣告される直前に、故郷である Oueslatia の町を離れる。
2: Sfax からボートに乗って国外へ脱出する。 6つ以上の偽名をもっていたことから、必要書類に偽名を使った可能性あり。
3: アラブの春を逃れてきた何千人もの人々に紛れてランぺドゥーザ島に着き、子供難民を装う。
4: パレルモの難民センターに移送される。 2011年10月、カターニアに近いベルパッソの難民センターで逮捕される。 複数の刑務所に収監され、2015年5月に釈放される。
5: イタリアを出るよう命じられ、スイスで3週間過ごしたあとドイツ入りする。
6: 南ドイツのバーデン・ヴュルッテンベルク州でしばらく暮らす。
7: ノルトライン=ヴェストファーレン州クレーヴェで過激派説教師のアブ・ワラー(?Abu Walaa)に接近する。
8: ベルリンに住み始める。 今年4月、クレーヴェで難民を申請。
9: 南ドイツのボーデン湖近くで、偽造のイタリアの身分証を持っていたかどで逮捕される。 2日間拘留される。
10: 拠点にしていたベルリンから姿を消す。 今月19日、ベルリンのクリスマス・マーケットに大型トラックを突入させる。
以下は 『ザ・ガーディアン』 からの情報。
アニス・アムリの故郷は、チュニジアの首都チュニスから220km南に離れた Oueslatia の町。 山に囲まれた貧困にあえぐ地域で、9人兄弟の末弟として育った。 学校に行かなくなったアムリは、けちな窃盗と麻薬に手を染めはじめた。 トラックを盗んだ罪で5年の刑を受けると、難民に混じって違法のボートに乗り込み、国外に脱出してイタリア入りした。 難民収容センターでは窃盗や暴力行為で警戒される存在となった。 難民申請がなかなか進行しないことに苛立った彼はランペドゥーザの宿泊施設に火を放ち、4年の刑を受けた。 彼が過激思想に染まり始めたのは、シチリアでの収監時だったとするむきもある。 脅迫的な態度を取り、反抗を煽り、実際には3年半だった収監期間中にカターニアとパレルモにある6ヶ所の刑務所を渡り歩いた。
「アムリは乱暴で攻撃的でした」 と、パレルモの刑務所のある看守。 「看守や他の囚人に喧嘩をふっかけるのです。 彼の暴力行為はすべて記録し警察に送りました。」 釈放されたアムリはチュニジアに送り返されることになっていたが、身元を証明する書類がなかったためそれはかなわなかった。 国外退去を待ちながらカルタニッセッタで数週間足止めされたあと自由の身となったアムリは、イタリアを出ることにした。
チュニジアの家族によると、アムリはシチリアの刑務所にいた間小さな仕事に携わることができ、家族にいくらか送金もしてきた。 しかし釈放された後は 「『仕事に就けないので別の国に行く』 と言いました」 と、アムリの母親。 その別の国とはドイツだった。 2015年7月にドイツ入りしたアムリは政治的迫害から逃れてきたエジプト人を装って難民を申請した。 しかし彼の申請は 「根拠なし」 としてこの夏却下された。 それにもかかわらず、彼が有効な身分証明書を持っていなかったため、彼の国外追放は実現しなかった。 彼自身がチュニジア人であることを否定し、チュニジア当局も彼が自国民であることを認めなかったからだ。
アニス・アムリの額入り写真を抱えた母親 / 父親(左から二人目)、叔父(右端)、兄2人と姉
交渉の末ようやく8月になって、チュニジア当局は彼に再発行したパスポートを送ることに同意した。 アムリのチュニジア返還を可能にしたであろうチュニスからの書類がドイツに到着したのは、ベルリンのトラック・テロ事件の二日後だった。 事件がなければ彼は、年末までに故国に送還されていたはずだという。
「息子はイタリアの刑務所時代に過激化されたに違いない。 あのような事件を起こしたのが本当に息子なら、家族は彼とは縁を切る。 でももし無実なら、息子の権利は守られねばならない」 と、母親。
私は知らなかったが、ISILのメンバーって、チュニジア出身者が最多だったとは。 (注: 日本語版ウィキと英語版ウィキでは数が異なり、日本語版では3千人だが英語版では5千人となっている。)
ベルリンのトラック・テロから3日と7時間後の、12月23日(金)午前3時。
イタリア・ミラノ郊外のセスト・サン・ジョヴァンニ。
普通でない時間帯に駅前を歩いていた若い男に、パトロール中だった2人の警官が身分証の提示を求めた。
最初男は 「身分証は携帯していない、カラブリアから来た」 と応えたが、なおも追及されるとバックパックに手を伸ばし、22口径の拳銃を取り出し、警官の一人 Christian Movio (36歳)を撃った。 男は車の陰に逃げ込んだが、もう一人の警官 Luca Scatà (29歳)が発した銃弾が男の胸に命中。 蘇生措置が施されたものの、男は約10分後に死亡した。
死んだ男の指紋が取られ、照合の結果アムリと判明したときは、イタリアの関係者全員が驚いたに違いない。 そしてドイツ警察も。 何せこの日の午前中、アムリの死が確認される前、ドイツ警察上層部の偉い人が 「アムリはベルリンかノルトライン=ヴェストファーレン州に潜伏しているものと思われる」 なんて言っていたのだから。
現場の遺留品。 ナイフと拳銃は、不運なポーランド人トラック運転手の命を奪うのに使われたものだろうか。
撃たれた警官は、幸い撃たれたのは肩で、命に別状はなかった。
そして、アムリに応戦したもう一人の警官。 彼は9ヶ月前に警察に入ったばかりで、まだ訓練中だという。
(なかなかのイケメンだし、その後世界中からラブレターが届いていることうけあい!? )
その後アムリの指紋がトラック内外についていた指紋と照合された結果、一致したとのことだ。 でもそうなると、アムリはテロ事件後国際指名手配されていたにもかかわらず、ドイツを出てフランスを通過し、イタリアに入れたことになる。 アムリがまだ身につけていた切符から、彼が辿ったルートが推定された。 彼はフランスのシャンベリからの切符は持っていたが、ベルリンからシャンベリまでは列車移動したのかそれとも車で移動したのか、まだわかっていない。
アムリがミラノ中央駅に着いたのは、23日(金)午前1時。 その2時間後にセスト・サン・ジョヴァンニ駅の外で射殺された。
セスト・サン・ジョヴァンニ駅とその周辺の画像。
アムリが事件後ドイツを出てフランスを通過しイタリアまで逃亡できたのは、シェンゲン協定のせいだという意見もある。 “イギリス独立党の顔” ナイジェル・ファラージは早速ツィートしている。 「ミラノで射殺された男がベルリンの犯人なら、シェンゲン地域は公衆の安全へのリスクであることの証明だ。 撤廃されなければならない。」
このオジサンにはイラつかされるけれど、テロ対策やテロ犯追跡のためにはシェンゲン協定は確かに障害だろう。 今回の場合だって、アムリがドイツ/フランス国境で身分証の提示を求められていれば、ずっと早く正体がバレて逮捕なり射殺なりされていただろうから。 重大事件の容疑者が逃亡中だったのだから、せめてその間くらい一時的に、ドイツとその近隣諸国との国境を封鎖できなかったものかと思う。
アムリ射殺で一応の結末を迎えたベルリンのトラック・テロ事件だが、このように、多くの謎や問題を残した。 不審なパキスタン難民を拘束したのはいいとして、トラックの運転席の下からアムリの身分証が発見されたと発表されるまで、なぜあれほど(24時間以上)時間が要ったのか。
政治団体『西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者』を設立したルッツ・バッハマン(Lutz Bachmann)は、事件後すぐに 『ベルリン警察上層部からの内部情報: テロ実行犯はチュニジア出身のムスリム』 とツィートしていたという。 事件後最初の24時間は 「現場近くで拘束されたパキスタン難民が容疑者」 と発表されていたにもかかわらず。 ツィートした時間は午後9時16分となっているが、これが本物なら、警察は何らかの理由で真実の情報を伏せていたことになる。
ツィート後 「なぜそんな情報が入る?」 との質問を多く受けたため、バッハマンは再ツィートした。 「簡単なことだ・・・ 正しいコネと嘘に辟易している内部告発者を知ってさえいれば。」
ルッツ・バッハマン
でも一番大きな謎は、なぜアムリがわざわざ身分証を持ってトラックのハイジャックに臨んだのかということでは。 おそらくは死を覚悟してテロ行為に及ぶときに、「できるだけ早く自分の身元が判明して欲しかった」 から? ISILの同胞たちに尊敬されるように? ・・・身分証の携帯なんて、死に急ぐときには私には一番どうでもいいことに思えるけれど。 自分の身元なんて、特定されるのは時間の問題だろうし。 と、そう考えるのは私だけではない様子。 このナゾのため、『アムリ冤罪説』 『アムリは囮説』 などの陰謀説がネットに流布しているようだ。
「ベルリンのクリスマス・マーケットに突っ込んだトラックのドライバーは、なぜ身分証を座席下に残していったんだろう? 都合が良すぎるように思えるけど」
「大勢を殺そうとする人間が、お財布と身分証を持参するって? 冗談でしょ!」
安全対策としてコンクリートのブロックで会場を囲んだのち、クリスマス・マーケットは再開された。
ものものしい武装警官とクリスマス・マーケットほど似つかわしくないイメージもないが、テロ防止のためとあっては仕方ない。
悲しいことだが、武装警官もコンクリート・ブロックもなしにクリスマス・マーケットを楽しめた日々は、もう二度と戻らないのかもしれない。
今回の事件をきっかけに初めて知ったことだが、監視カメラ天国?のイギリスとは正反対に、ドイツでは公共の場所への監視カメラ設置はほぼ全面的に禁止されているそうだ。 例外的に設置が許されているのは、鉄道駅と公共輸送機関のみ。 そのため今回のテロ事件を捉えた映像は、個人がたまたま撮影していたスマホやデジカメ映像、または前編の記事内でリンクを貼ったような、たまたま現場を通りかかった車の車内搭載カメラが捉えたものしかないことになる。 これがイギリスだったら、おそらく監視カメラの映像が、事件の進行状況もトラックから逃げていく犯人の姿も捉えていたことだろう。 次から次へと監視カメラをリレーすることで、逃走する犯人の姿をかなりの間追えていたかもしれない。
ドイツ国民の監視カメラ嫌いは、昔ドイツ国民がナチスに、そして冷戦時代には東ドイツ国民がシュタージによって、徹底的に監視され個人情報を知り尽くされ隙あらば弾圧されたことの反動だそうだ。 実際今年の6月にも、当時の内相が犯罪発生率の高いベルリンの主だった広場に監視カメラを設置しようとしたが、地元議員の反対に遭い断念せざるを得なかったという。
今回の事件は、最重要容疑者であるアニス・アムリが事件前に容易にヨーロッパ入りし、事件後でさえ国境を二度もまたいで遠距離を逃亡できてしまったことで、大きな弱点を見せつけた。 アムリのような過激派の若者が、すでに数百人単位でヨーロッパに潜伏し機会を窺っていないと、誰が断言できるだろう? テロを百パーセント未然に防ぐことは不可能だから、一般市民は普段と同じ生活を続けるしかない。 そして今回の事件は、来年のメルケル首相の4選を阻むことになるかもしれないな。
今回のトラック・テロで命を落とした12人の国籍は、ドイツ7人、イタリア1人、イスラエル1人、チェコ1人、ウクライナ1人、そしてトラックのもともとの運転手だったポーランド人運転手だそうだ。 犠牲者の遺族にとっては、その後はクリスマスどころではなかっただろう。 楽しみにしていたクリスマスが、一転大きな悲しみに包まれてしまい・・・・・
アムリの死により、疑問点や露呈した問題点がこのままうやむやにされてしまわないことを祈る。 でなければ被害者が浮かばれない。
犠牲になった方々のご冥福をお祈りします。