他人の感情に配慮したり共感することがまったくできず、また
「フィクションは作り事で全部嘘だから、見たり読んだりする価値なし!」 と決めつけて、
テレビをつけても見るのはニュースとドキュメンタリーだけのオットー父。
(そしてチャンネル権はオットー父にあるので、オットー父が居間にいないときしかオットー母は好きな番組を見られません。)
そのように極端な性格の父親のことを、オットーは以前は、アスペルガーと疑っていました。
でも最近は、サイコパスだと確信しています。
・ 良心が異常に欠如している
・ 他者に冷淡で共感しない
・ 慢性的に平然と嘘をつく
・ 行動に対する責任が全く取れない
・ 罪悪感が皆無
・ 自尊心が過大で自己中心的
・ 口が達者で表面は魅力的
・・・ オットー父に、全部、当てはまってる!
サイコパスの主な特徴は、極端な冷酷さ・無慈悲・エゴイズム・感情の欠如・結果至上主義、であり、サイコパスの人間の大部分は
殺人を犯す凶悪犯ではなく、身近にひそむ異常人格者であるとされている。
映画『サイコ』や『アメリカン・サイコ』のイメージから、サイコパスというとすぐにシリアル・キラーを連想してしまう私ですが、
殺人は犯さずにいられるサイコパスが大部分なんですね。それなら、オットー父はそのうちの一人と言っても良さそうです。
身近にひそむ異常人格者・・・ たしかに身近だわ!
オットーと知り合って間もない頃、オットーがこう言いました。
「父が死んでも、自分はこれっぽっちも悲しいとは思わないだろうな」
それを聞いたときは、(何てことを言うの?まさか冗談でしょ!)と思いました。
自分の父を亡くすことを想像したら、そんなことは、絶対に有り得ないと。
でもその後、オットー父の人となりを学ぶにつれ、少しずつ納得できるようになりました。
オットー父は、自己中心的で、他人の感情は一切構わず、競争心が激しく、自分を過大評価し、他人の意見には耳を貸さず、
常に自分が正しく、自分が誤っていた場合ははっきりとそれを認めることはせず不機嫌になって八つ当たりし、
ほとぼりが冷めるや否や自分が誤っていたことを都合よく忘れて、あるいは大嘘をついて、
「自分は最初から正しいことを言っていた」と断言できてしまう人です。
オットーは、幼い頃は父親の異常性に気づかなかったそうです。どこの家庭も一緒なのだろうと信じて。
当然ですよね。子供にとって、家族は社会の最少単位ですから。
でも学校に上がり、友達の家を訪ねるようになって、ショックに近い驚きを感じたそうです。
父親が、笑っている!
怒鳴りつけない!
子供と楽しそうに遊んでくれる!
家族が皆、ハッピーだ!
オットーの家では、父親は家事・育児(子供は4人)を一切手伝いませんでした。
共働きで、オットー母も近所の小学校で先生をしていた(もちろんフルタイム)にもかかわらず。
しかもオットー父は、職場の食堂は嫌いだったので、ランチタイムには帰宅し、ちゃんと料理された温かい食事
(メインの肉と、野菜と、じゃがいも料理)を取ることを主張したので、オットー母は給食の時間に家に駆け戻って
料理し、また学校に駆け戻っていたとのこと。 (・・・このクソ野郎がっ!)
財布の紐は自分が握って、オットー母にはきつきつの生活費を渡すのみ。
もちろん子供たちへのお小遣いなどなかったので、
子供たちは、たまに買物あとの母親がくれる少額の小銭だけがお小遣い代わりだったそうです。
家庭内の雰囲気は重苦しく、皆が常にオットー父の機嫌をうかがっているような状態。
食事中は一切会話は禁止され、子供たちは皆が食べ終わった頃を見計らって
「もうテーブルを離れていいですか?」と訊くことしか許されませんでした。
好き嫌いはもちろん、食べ残すことも許されませんでした。
弟②が体調が悪く食事を全部食べられないときがあったのですが、
それでも無理矢理食べさせられ、とうとう吐いてしまったそうです。
食事が終わると、オットー父は自分の個室にこもって錠を下ろし、趣味の時計修理に没頭。
子供と遊んでくれたことなど、ティーンに成長してからのたま~のカード遊びしか思い出せないそうです。
庭の芝生は、荒れるからと立ち入り禁止。
ある年のクリスマスは、虫の居所が悪かった父親により「今年はクリスマスはなし!」と宣言され、
ツリーを出して飾ることも、ささやかなプレゼントを開けることもなかったそうです。
現在、両親の医者・病院への運転と付き添いや食料品の買出しなどに、日々忙しいオットーですが。
子供時代に父親に車で送り迎えしてもらった記憶など、たった三度しかないそうです。
そのうち一度は、たしかスカウトのキャンプから、列車で戻ったとき。
友達と2人で駅から拾ってもらったのですが、列車が5分遅れていたため、怒ったオットー父は運転しながら怒鳴りっぱなし。
震え上がった友達に、翌日学校で言われたそうです。
「お前の父さん、ヘンだよなー?列車が遅れたのは俺たちのせいじゃないのにな?」
オットーは、「あれがうちの父だから」と応えるしかありませんでした。
オットーは、自分の父親よりも友達の父親に乗せてもらったことの方が、はるかに多かったそうです。
オットーと2人の弟たちは、事あるごとに父親に叩かれて育ちました。
自分たちに非がなかったときでさえ、父親の八つ当たりで叩かれました。
例えば、風でドアがバタン!と閉まると、ビクッとさせられ不快な思いをしたオットー父は、
「おまえが音高くドアを閉めたんだろう!」と近くにいた息子を叩いたそうです。
探し物が見つからないときも、「おまえが持ち出したんだろう!」。
ただ父親は、妻と娘に手を上げることだけは、不幸中の幸いに、なかったそうです。
(娘にまで手を上げていたら、さすがのオットー母も、勇気を振り絞って離婚に踏み切っていたかも。)
ティーンになり、身長が父親と同じくらいになったとき、叩かれることに心底嫌気がさしていたオットーは、父親に言ったそうです。
「今度理不尽な理由で叩かれたら、叩き返すから!」
息子が自分と同等の丈に成長していることに気づいた父親は、その後オットーを叩くことはなかったそうです。
オットー母の友人たちは、オットー父の暴君ぶりに気づいて、皆離婚をすすめました。
が、オットー母には、離婚という考えはありませんでした。
でもあるとき、あわや離婚という状況になったことはありました。オットー父の側から。
買物に行ったオットー母が、お金が足りなくなったので、つけで買物をした(当時は普通のこと)ためです。
オットー父には 『つけで買物=みっともない行為』 みたいな信念があったのでしょう。
それを知るやいなや、その店にすっ飛んで行って支払いを済ませてくると、「出て行く!」と息巻きました。
オットー母は、それを泣いて引き止めたそうです。
そのときオットー母は、『自分は生涯夫に隷属する』という誓約書にサインしてしまったのかもしれません。
当時は、大学は狭き門でした。その代わり、大学に入学できるだけの成績や才能があれば、
授業料は無料、多少の生活手当まで支給されたそうです。
オットーたち四兄妹が全員大学に通えたのは、そのおかげでした。
「大学が現在のように有料だったら、自分は行っていなかっただろう」とオットーは言います。
オットー父には、義務教育後の子供の教育にお金を出す気など、さらさらありませんでしたから。
それどころかオットー父、母親に乞われて子供たちがサンデー・ディナーのため家に戻ると、食事代を徴収したそうです。
大学が終わったオットーと2人の弟、つまり妹を除く3兄弟は、就職にあぶれて収入がなくても家に戻ることは許されませんでした。
なのでオットーは、安い下宿に住んでできる仕事は何でもやったそうです。
すぐ下の弟と下宿部屋をシェアし、引越し屋の手伝いをしたことも。
幸いその後、エージェントと知り合ってイラストレーターとして使ってもらえるようになりました。
子供たちが成人し家を離れたあと、オットー両親は60歳前後で退職、チェルトナムを出て田舎の村はずれに引越しました。
オットー父は大きな温室を建てて趣味のサボテンの収集栽培に没頭できるようになりました。
いわゆる悠々自適というやつですね。私がオットーと知り合ったのは、二人がそういう生活に入って5年後のことでした。
働く必要もなく、好きなことだけして暮らせるようになったオットー父が、穏やかでいられた時期だったわけです。
それでも時々は、オットー母に向かって「ジャガイモが冷めてる!」だの「紅茶が濃すぎる!」だの怒鳴りつけていましたけどね。
イギリスの運転免許証は、一度獲得するといきなり70歳の誕生日まで有効です。
(イギリスに来た私も日本大使館から日本の免許証の翻訳証明をもらい、それを送付するだけでイギリスの免許がもらえました。)
オットー母も、免許証は持っていたんです。
でもオットー母の運転で助手席に乗っていたオットー父ががみがみ怒鳴るのですっかり運転する気をなくし、やめてしまいました。
なので田舎で隠居生活に入ったとき、子供たちはみな、母親に言ったそうです。
小さい車を(財布の紐を握ってオットー母の年金まで放さないオットー父に)買ってもらって、また運転を始めるようにと。
イギリスの交通機関はあてにならないから、田舎暮らしするなら自分で運転しないと不自由だからと。
でもオットー母はそうすることなく、夫の運転に頼りつづける暮らしを選びました。
《 去年のクリスマスの集合写真 》
(サイコパスは表面上はチャーミングで温厚です。オットー父の好々爺然とした笑顔に騙されませんよう。)
* * *
オットー父は、ドイツ人の両親の一人っ子でした。
第二次世界大戦が終わったとき、若き(19歳!)戦争捕虜として英国グロスターシャー州にいた彼。
以前ちらっと聞いたことがありましたが、終戦後もすぐには解放されず、グループで英国内を転々としながら
農場の仕事や建設作業を手伝わされたそうです。といっても仕事はきつくなく、少額とはいえちゃんと賃金ももらい、
宿泊のための間借り部屋も民家から供出してもらえました。やがて解放されたものの、ドイツのどこに両親や親類が
いるものか、皆目見当もつかず。オットー父の家系は戦前まで、何世代にもわたってチェコスロバキアに住み、親類と一緒に
材業を営んでいたそうです。でも敗戦の結果、チェコ領内にいたドイツ人はすべて、持てるだけの荷物を持って
ドイツ領内へと追い出されました(参:ドイツ人追放)。
オットー父が赤十字を通じて両親の無事を確認できたのは、数年後のことだったそうです。
でも敗戦したドイツに戻るよりはとイギリスに留まり、職を得、チェルトナムの『国際友好クラブ』のメンバーになり、
そこでオットー母と知り合い、
1957年――62年(!)前――の今月に結婚(参:間違いだらけの夫選び)。
オットー父は31歳、オットー母は29歳でした。
40年近く後に話は飛びます。
オットーと私が結婚して数年後、高齢になっていたオットー母の両親が、今のオットー両親と同じような状態になりました。
高齢・老衰のため車の運転ができなくなり、買物に不自由する。
身体が思うように動かなくなり、家事もおろそかになる。といったような。
でもオットー父は、一度も義両親のためにチェルトナムまで行って、用事や買物を手伝ったことはありませんでした。
そりゃチェルトナムまでは、片道35kmあります。でもオットー父は、現在のオットーと違って毎日が日曜日の楽隠居適暮らしでした。
一週間に一度くらい、手助けしてもよかったのでは?
オットー母は両親の洗濯を何度かしていたのを覚えています。洗濯機が壊れていたのかな?
二人のフラットではせずに、わざわざ自宅に持ち帰って洗濯し、また持って帰るのでした。
バスで。
途中グロスターで乗り換えして、1時間40分くらいかけて。車なら片道35分で着けるところを。
オットー両親が住んでいた村までは路線バスが入って来ません。オットー父は、村を出たところにある広い道路のバス停までは
オットー母を車で送り迎えしたものの、チェルトナムまで行ってあげたことは、一度もありませんでした。
オットー母の両親、買物や医者などのアポは、タクシーを使って行っていました。
オットー父の両親は、一人っ子の息子を頼ってイギリスに落ち着こうと、オットー一家と同居したことがありました。
でも言葉は通じないし食事も合わないし友人もできないしで、挫折。ドイツに戻っていきました。
ちょうどその頃、結婚したばかりだったオットー父の従妹のアグネスが、母親・兄夫婦・夫と一緒に住む家を建てるところでした。
なので彼等、設計を少し変更し、最上階に小さなフラットを加えてオットー両親が住めるようにしてくれたのです。
地階は食料貯蔵室や洗濯室など。1階は兄夫婦。2階はアグネス夫婦と母親。3階にオットー父の両親。
時は経ち、オットー父の父親(オットーの祖父)が1973年に亡くなります。
続けてアグネスの兄が40歳になる前に急死し、妻子はフランクフルトに引越していきました。
アグネスは離婚(子供はなし)、間もなく母親も発見が遅れた癌のため急死。
オットー父の母親(オットーのお祖母ちゃん)とアグネスが残り、アグネスは、身体障害があるにもかかわらず、
叔母であるオットーのお祖母ちゃんを親身に世話してくれました(参:アグネスとのこれまで)。
アグネスは身体障害があるため、毎夏3週間ほど、温泉治療のホリデーに出かけます。
お祖母ちゃんが若い頃は一人で残されても大丈夫だったのですが、高齢になると不安がるようになったため、
オットー父は「私が留守の間、お祖母ちゃんと一緒にいてくれないか」とアグネスから頼まれるようになりました。
別に介護が必要なわけじゃなかったんです。ただ屋内に一緒にいてあげればいいだけだったんです。
でもオットー父は、それを妻であるオットー母に丸投げ。
しかも飛行機代は高くつくからと、片道24時間かかる長距離バス(!)で、送り込んだんです。
あ、バスはフランクフルト到着だから、そこからさらに1時間ほど列車の旅が続くのでした。
アグネスの家に部屋はたくさんあったのだから、車を運転して自分も一緒に行けばよかったのに。
趣味で集めた膨大なサボテンの世話があるって?
否、空調も水やりも全自動になっていたから(←自分のためには散財を惜しまない)、それは口実になりません。
サボテン関連の会合のためならドイツまで車で行っても(オットー父は飛行機嫌い)、母親に顔すら見せずに帰ることもしばしばでした。
お祖母ちゃんの認知症が進んで在宅介護が無理になり、最後の半年だけは養護施設に入ってもらうようでしたが、
アグネスは実の娘以上に親身になって、お祖母ちゃんを見送ってくれました。
なのにオットー父は、はじめは母親のお葬式にすら行きたがらなかったんです!
でもアグネスに一喝されて(オットー父と対等に話せるのはアグネスのみ)、しぶしぶ行きました。
長々と書いてきましたが、何が言いたいのかというと、オットー父には愛情が欠落しているらしいということです。
いくら祖国が敗戦したとはいえ、解放されたら、一刻も早く祖国に戻って肉親探しを始めるのが普通だと思うんですが、
どうでしょう。とくに一人っ子だったら、親は唯一の肉親です。でもオットー父はそれをせず、イギリスに留まり、
結婚し家庭まで持った。感情移入も共感性もないオットー父の性格を知った上で考えると、
両親の安否がわからなかった数年間も、オットー父はべつに心配していなかったものと思われます。
アグネスが不在になる3週間だって、悠々自適の隠居暮らしをしていたのだから、ドイツに行って母親と過ごしてやることなど
超簡単・楽ちんな親孝行だったのでは?
アグネスがお祖母ちゃんを引き受けてくれなかったら、お祖母ちゃんはイギリスまで引き取るしかなかったことでしょう。
それを考えたら、一年のうちの3週間くらい、何でもないはずです。
子供の頃にドイツのお祖父ちゃんとしばらく暮らしたオットーは、お祖父ちゃんも父親と同様の、厳格で容赦ない性格だったのを覚えているそうです。
例えば子供たちのうち誰かが具合が悪くて寝ていると、そこにやって来てひっぱたいたそう。
病人が嫌いで、病など弱気のせいだと。気を強くもてばすぐに治ると。
オットー父がサイコパスになった(←決めつけていますが)のは、そんな父親に育てられたからでしょうか。
だとしたら、オットーをはじめとする4兄妹が誰もサイコパスにならなかったのは、まさに奇跡と言えますね。
幸いオットー父は、義弟①の奥さん(過去28年間外国暮らしなので夏にちらっとしか会いませんが)や私には、穏やかに接します。
ヨメは姻戚という『外部の人間』だからでしょう。呆れるほどに外ヅラがいいですから。
オットーから聞いた話ですが、たとえば家でオットー母に散々怒鳴り散らしたあとオットーに付き添われて
病院や医者などのアポに行くと、待合室で一緒になった他の患者さんと、ごく普通に!楽しげに会話するそうです。
息子も驚く二重人格ぶり。
オットー父の二度の転倒、オットー母の転倒と入院により、先月はオットー、ほとんど仕事になりませんでした。
病院への運転と付き添い(軽く半日かかったりする)、地元の診療所への運転と付き添い、8日間入院した
母親のお見舞、加えて毎週火曜日と木曜日の買物のサポートなどで。
今はオットー、先月から描いているイラストを、弟②と行くホリデー前に仕上げようと頑張っているところです。
ホリデーへの出発は、来週の金曜日。仕上げないと収入にならず、先月は無収入でしたからね。
でもオットー父は、息子への遠慮や配慮など皆無。
たとえばコンピューターのプリンターのインクがそろそろ切れるからと病院の帰りにコンピューター・ショップに
寄りたがり、ネットで調べたオットーが「すぐに必要ないならネットで半額で買えるよ」と言っても馬耳東風。
自分が欲しいとなったら速攻で欲しい、待てない人なんです。
しかも寄りたいお店はグロスターの「バイパス道路の南側にある」と言い張り、オットーが「たしか北側だったと思うけど?」と言っても
「いや、ずっと昔から南側だ。ほらそこ、そこを左折しろーっ!」とがなり立て、オットーは「一瞬耳が聞こえなくなった」。
複合商業施設の駐車場に入ったものの、目指すお店はなく、見ればバイパス道路のはす向かいにそのお店が。
オットーが覚えていた通り、北側にあったのです。
このように自分が間違っていたときは、面白くないのでムスっと押し黙る。
でも次に会ったときは、「わしは最初から北側にあると言った!南側なんて一度も言っとらん!」。
自分が間違っていたことなどすっかり忘れて、自分に都合がいいように記憶がリセットされるのか。
それとも鋼鉄並みに分厚いツラの皮でもって、平気で大嘘をつくのか。
こんな訳で、オットー父が間違っていた/間違うことなど絶対になく、彼はいつも正しいのです。
買物のサポートも、スムーズにはいきません。オットー父の書く買物リストはスペルミスが多いうえ、
肉 / 魚 / スープ / パン など、どのような種類・タイプやどこのメーカーのものが欲しいのかなど、前もって
いちいち確認していかなければません。自分が思っていたものと違うものを買ってこられると、怒り出すからです。
誰もオットー父の脳をシェアしているわけじゃないのに(呆)。
それでもオットー父を同行させなければならなかった(オットー父の)転倒前に比べれば、ずっと速いし楽だそうです。
オットー父を連れて行っていた頃は、ショッピング・カートを押すオットー父がしょっちゅう陳列棚や他の買物客にぶつかりそうに
なるので気が気でなかったし、スーパーのお終いまできて最初のコーナーで買い忘れたものがあったからと戻ったりしたから。
オットー父をサポートしていて最悪なのは、感謝の念がほとんどないことでしょう。
現在オットー父は、切れた足首の腱を固定するためのブーツを履かなければなりません。
ある日オットー父は、そのブーツをカバーする太さのあるズボンは2着しか持っていないと愚痴をこぼしました。
それでオットー、帰宅してからネットで1時間以上かけて、オットー父が好むコーデュロイの手頃なズボンを探し、
リンクをメールで送ったんです。ところがオットー父は、感謝する代わりになぜか、
「何で頼みもしないことをするんだ!わしはネットで買物はしない!どんなものが来るかわかったもんじゃないからな!」
と声高にオットーを非難。オットーが「ただの提案だから、必要ないなら無視してくれればいい」と言うと、
「提案だと!提案など誰も頼んじゃおらん!ワシの言ったことだけしていればいいんだ!」
穏やかに「わざわざ探してくれてありがとう、でもネットでの買物は好きじゃないから、2着でやりくりするよ」と言えば
済むことなのに、それができないんですね。
それ以降、オットーは父親との間に溝をつくって、必要最低限しかしないよう心掛けています。
今週は二度ほど、頭痛を抱えて両親宅から戻ってきました。
父親と話していると「声を荒げないよう奥歯を噛みしめているので、それが原因かも」。
腱を切ってしまって思うように動けなくなったオットー父、どうやらストレスが溜まってきて、
八つ当たり相手がオットー母だけでは足りなくなったようです。
いつまで続くのか、オットー父との関係!?
と、いぶかる、
Xデー(オットー父笑点←意図的な誤字です)の心の準備は、とうにできている私たちなのでした。・・・