《 おことわり 》
① クソ野郎の義父がとうとう昇天しましたが、私は義父が故人になったからといって、語調を変えるつもりはありません。
その点を不快に感じられそうな方は、不快に感じ始めた時点で当ブログを閉じてくださいますようお願い申し上げます。
② 義父が逝くまでの経過をさくっとまとめるつもりでしたが、将来自分が読み返すときのために詳しい記録を残しておきたいので、
長ったらしい記事になりそうです。御用とお急ぎでない方のみ、お読みくださいませ。
《 ①からのつづき 》
オットーのドイツ人の義祖父母が、イギリスでの暮らしをあきらめてドイツに戻った原因について、6-7年前に義父と義母の間で口論になったことがありました。
義父は「自分の両親がドイツに戻ってしまったのは、義母のせい」だと非難し、それを「生涯赦さない」と怒鳴りました。
でもオットーは、それよりずっと前に義父がそういった内容を臭わせる発言をしていたので、ドイツに戻った義祖父母を受け入れてくれたアグネス
(義父の従妹、義父より19歳年下)に、ずっと前に確認を取ってありました。義祖父母がドイツに戻った原因は、義母には一切関係なかったと。
イギリスに来て息子一家と暮らしていた当時、義祖父母は共に60代後半で、英語は皆目わからず、学ぼうともしませんでした。しばらくして
義祖母が入院することになったのですが、入院中彼女は、医師とも看護師さんとも一切会話できず。義父が仕事のあとで病院に寄ってくれるまで、
誰とも言葉を交わせない状態だったそうです。そんな入院体験が3度続いたあと、義祖母はその不自由さにすっかり参ってしまいました。
さらに義祖父自身もドイツを恋しく思っていたので、結局二人でドイツに戻ることにした。というのが、アグネスが覚えている、義祖父母のドイツ帰還の理由でした。
なので6-7年前に義両親の間で激しい口論が起きた際、オットーはアグネスから聞いたことを義父に話しました。が、義父は信じようとはしなかったそうです。
「(本当の理由など)アグネスにわかる訳がない」と。アグネスは、義父の母親を、その後30年間も世話して見送ってくれたんですけどねっ!
もし本当に義母が原因だったとしたら、義祖母が「私に何も言わなかったはずがない」と、アグネス自身も言っていたんですけどねっ!
義祖父母がドイツに戻ったのが、1969-70年頃。義祖父は、(ラッキーなことにペースメーカーを入れる直前に)1973年に亡くなりました。
アグネスはその後、自分の伯母(母親の姉)にあたる義祖母を、義祖母が2000年に亡くなる(享年97歳!)まで、手厚く介護して見送ってくれました。
さてアグネスには身体障害があり、毎夏3週間は水治療養に行かなければなりませんでした。高齢になった義祖母は、一人で家に残されることを
不安がるようになり、アグネス自身も義祖母が心配だったため、仕事を隠退し隠居生活に入っていた義父に、自分が水治療養に行く間は
ドイツに来て義祖母と一緒に居てあげてくれないかと頼むようになりました。義祖母は介護が必要だったわけではなく、ただ一人では居たくなかった
だけでした。義父はドイツに行って、自分の母親と生活を共にし、話し相手になるだけでよかったのです。でも義父は、その役割のため、毎夏義母を
送り込むようになりました。しかも、飛行機より安くつくからと、当時60代だった義母を、長距離バスに押し込んで。長距離バスは、チェルトナムを出発し、
ロンドンで乗り換えし、ドーバー海峡を渡り、フランスを経由してドイツに入り、ようやくフランクフルト到着、そこから列車で一時間ほどでやっと、
アグネスの住む町に着きます。片道約24時間の旅でした。
自分自身が行かなかった理由?趣味で収集したサボテンの世話があり、それはシロウトの義母には任せられなかったからです。
サボテンが満載された大きな温室は、大金をかけて電化され、窓の開閉も水やりも全自動だったんですけどね!
義祖母の晩年ですら、義父は義祖母を訪ねようとはしませんでした。ある年など、サボテンの会合のために車で(義父は飛行機が嫌い)ドイツに行ったものの、
母親に顔を見せに寄ろうとしませんでした。が、アグネスに一喝され、しぶしぶ立ち寄りました。オットーによると、義父と対等に話せるのはアグネスだけ。
子供時代、アグネスが夏にイギリスに遊びに来たときだけは、庭の芝生に入って遊べたそうです。義父が「芝生が傷む!」と怒鳴っても、
アグネスが「ナーンセンス!芝生は観賞用じゃないわよ!」と言い返して義父をやり込めてくれたので。
義父はおそらく「愛情というものが欠落していて、生涯心から誰かを愛したこともなかったのだろう」とオットーは言います。
両親、妻子すら、愛していなったのだろうと。だから戦後、両親の行方がわからなかったときも、それほど心配はしていなかっただろうと。
自分の成長期も、父親から「愛されている」と感じたことは、ただの一度もなかったそうです。
オットーが大学進学のため家を出るとき、義父はこう人生のアドバイスをくれたそうです:
「結婚するな。子供をもつな。」
これって裏を返せば、「自分は結婚して子供をもって、心から後悔している。おまえが生まれてこなければよかったと思う。」 ですよね!?
我が子に面と向かって、よくも言えたものだと思います。
* * *
義父が逝くまで①に10月16日(水)までの状況を書きました。前にもどこかに書きましたが、詳細に状況を記述できるのは、(以前から人として
普通でなかったとはいえ)義父の言動が常軌を逸してきたため、オットーが密かに会話を録音するようになったからです。そしてオットーは、
録音内容をタイプして状況説明を加えた日記をつけることで、ストレスを発散させていました。そんなわけで義両親の介護に時間は取られるは、
義両親のために調べものをしたり予約を取ったり薬を注文したり問い合わせをしたりタクシーを務めたりするは、録音内容を聴いてタイプして
日記をつけるはで、仕事をする時間がなく、9月から11月までは無収入でした。でもそれがストレス解消に役立つならと、私もオットーが
一時的に仕事できないのは仕方ないと思っていました。それが半年一年と続くようだったら、正直困りましたけどね。
この頃オットーの忍耐力は、本当に限界に近づいていました。10月16日(水)の夜、PCで日記をつけていたオットーのところに義妹ジェインの
夫で医者のイヴァンから電話があり、医者としての意見をあれこれ語り出しましたが、義父に心底嫌気がさしていたオットーはイヴァンを遮り、
言ったそうです。
「悪いけど聞く気力は残っていないんだ。父さんとは一切関係を断ちたいところだが、ソーシャル・サービスはそうさせてくれないし、主治医は
リスパイトを提案するくらいしかできることはないし、(訪問介護ヘルパーのトレイシーを派遣している)介護サービス事業所は、薬が
薬局で封をされたピルケース(クリアなプラスチック製で朝・昼・晩・就寝時に服用する複数の薬がすでに収納されている)に入っていない
限りはヘルパーは薬の介助はしないと言うし、でも薬局は、家族とヘルパーがいる人にはピルケースは発行しないと言う。さらにはヘルパー
自身が、今度父さんが怒鳴ったら介護に来るのをやめると言う。これらが全部、俺にのしかかってきているんだ。俺は母さんと父さんの間で
身動きが取れず、父さんと医者の間で身動きが取れず、父さんと現実世界の間で身動きが取れない。父さんは正気を失った、怒りに満ちた老人で、
身体機能の衰えに対するストレスを、最も身近な人間に八つ当たりで発散している。そして俺は母さんのために、父さんの八つ当たりを黙って
受け止め続けるしかない。」
イヴァンは自分たちに何ができるか訊いてきましたが、あいにくそこで、調子が悪かった固定電話のバッテリーが切れ、会話不能に。
オットーはスマホでイヴァンに折り返し電話し、先ほど愚痴ったことを謝り、でも疲れているのでと会話を終えました。そのとき時間は午後10時20分。
胃が少し痛んだので夕食に何を食べたか思い返し、ランチのサンドイッチ以降何も飲み食いしていないことを思い出し、階下に下りて紅茶を淹れて
ポテトチップとシリアル・バーを掴み、居間に座ってしばらくテレビを見たそうです。気分が昂ぶっていたので集中できなかったけれど、
床に入ったところで寝つくこともできそうになかったので。
10月17日(木)午前8時50分、義母から電話。義父が歯が痛むと言っているので、9時半に緊急のアポを取ったから、歯医者に連れて行って
やってくれとの依頼でした。(義父は自分の頼みごとでも、絶対に直接自分で電話してくることはなく、必ず義母を使って電話させました。
『認知症を患っているから何もできない』はずの義母を。)オットーは義父を9時20分に車でピックアップし、500mほど離れた歯科診療所の玄関に
車をつけて義父が入所するのに付き添いました。義父は歩行補助器が狭い入口をうまく通らないので癇癪を起こして床に何度も叩きつけ、診療所から
出て来ようとしていた男性とオットーに「歩行補助器を横にしないと」と助言され、しぶしぶそれに従ってようやく入所でき、待合室へ。待合室では
25分待たされ、治療は一時的な詰め物をしてもらったので、20分ほどかかりました。 治療室から待合室にもどってきた義父は、呼吸を整えるのに
待合室で5分ほど座るようでした。家に戻ったあと、その日は買物の日(義父のショッピング・デーは火曜日と木曜日)だったので、オットーは2人に
必要なものを訊きながら、ショッピング・リストを作り始めました。が、義父の心が別のところにあるのに感づいていました。
案の定、義父は義母に、「昨日の午後あったことをオットーに説明しないか?」と催促。前日の午後あったことというのは:
午後5時、男性が訪ねて来、玄関で義母が応対して居間に通しました。その男性は板塀の修理業者で、裏庭の板塀の一部が倒れかかっていたので、
義父に頼まれたオットーが前に我家の板塀を修理してくれた業者に電話し、義父母宅を訪ねてくれるよう依頼。業者は義父母宅に電話して
前日の午後5時に訪ねることを約束していました。義母自身は自分の物忘れがひどくなっていることを自覚しているので、義父にすぐにそう伝え、
修理業者が訪ねて来たときも、「板塀の修理の人よ」と義父に取り次いだと、信じていました。
一方義父は庭のメンテナンスに執心なので、庭師が来てくれるのを心待ちにしていました。そのため板塀修理の男性が訪ねてきたとき、
男性は庭師だと信じ込んでしまい、裏庭でして欲しい仕事をリストアップし始めました。当惑した板塀修理の男性は、自分は板塀の修理のことで
来たと指摘し、誤った相手に庭仕事の指図をしていた義父はまたまた恥をかかされ、それは自分に「庭師が来た」と信じ込ませた義母のせいだった
わけでした。(残念ながらオットーはその場にいなかったので、確認はできません。)
オットーは父親に「母さんは忘れっぽくなっているから、誰かが訪ねて来たら、自分で相手を確認するのが一番だよ」と合計で5回、義父に忠告。
でも怒りで頭が一杯の義父は、その度に「母さんに『庭師が来た』と取り次がれたら、どうしてワシにあれが庭師でなかったとわかる!?」と
振り出しに戻るのでした。堂々巡りするだけの会話にさじを投げ、オットーは会話を切り上げて買物へ。買物から戻ると
外回りの看護師さんが、義父の尿カテーテルの交換に来てくれていたので、オットーは残り少なくなっていた義父の保湿クリームを注文。
(アクシデントに備えて)ベッド・プロテクターを供給してくれるのか看護師さんに訊いたところ、「それは排泄抑制能力のアセスメント後でないと供給できない」
との返事でした。看護師さんが帰ったあとオットーは義父に話しかけましたが、義父は口を閉ざしてオットーを無視しました。
10分ほどして、義父が口を開きました。「板塀の件はどうなっている?」
でも板塀修理の人が来たときその場にいなかったオットーには、わかるはずもありません。
「俺は、修理屋が来る日時は聞かされていなかった。だから板塀の件がどうなったのか、俺は知らない。彼と話したのは父さんだから。」
「てっきり庭師だと思っていたから、板塀屋のことは追い返したんだ!母さんが庭師が来たと言ったからな!板塀はどうなるんだ?」
「どういう状況にあるのか、今自分で言ったじゃないか。なぜ訊くのさ?」
(舌打ちして)「くそっ!板塀修理屋に来るよう頼んだのはお前なんだから、お前もここに来ているべきだった!」
「俺は父さんに言われた通り、板塀修理屋に見積りを頼んだ。だから修理屋は、ここに電話して母さんと、お互いに都合のいい日時を選んだ。」
「でも母さんはワシには言わなかった、それで来たのが誰か、わからなかった。だからどういう状況になっているのか訊いているんだ。」
(義母、庭師の名刺を手に) 「これが庭師の電話番号だから、電話してみれば・・・」
「(庭師は)近いうちに来ると言ったから、昨日のあれは・・・庭師と思ったんだ!板塀修理屋について知っていれば・・・でもワシは板塀については
何も知らなかった。だから(オットーに向かって)お前が板塀屋に電話したなら、お前も指示をするためここに来ているべきだった!」
「俺はそこまでするつもりはないから、自分でやってくれ。そうすればどういう状況にあるのか、いつでもわかっていられるよ。」
「どういう状況にあるのか、まったくわからん!ワシが言いたいのはそこだ!」
「今のところ、何も起こっていない。でも父さんがこうして怒鳴っている以上、俺は父さんの代わりに誰かに電話するつもりはない。
板塀を修理したいなら、自分で誰かにコンタクトしてくれ。」
「修理は必要だ、そしてワシは、あれは庭師だと思ったんだ。」
ここでアポを取り付けてあった、作業療法士のスージーが訪問。義父はこれまで散々オットーに、シャワー椅子やらトイレ用手すりやらキャスターつきの
歩行補助器やらをネットで探させていたけれど、スージーに無料でそれらの介助用品を供給してもらえると聞いてゴキゲンに。スージーが帰ったあと、義父:
「庭師に電話して、来てくれるよう頼んでくれんか?」
「いや、庭師は父さんに任せるよ。だって、もし俺が電話して何か気に入らないことがあったら、俺が責められることになるからね。」
「でもワシは今、(歯の治療の際の麻酔注射のため)口が痺れていてうまく話せん。」
「3時間ほど待てないの?」
「待てん。」
「オーケー。」 (代わりに電話する気はないので、帰宅するためコートを着始める。)
(オットーを見送りながら、義母) 「いろいろと有難うね。庭師には私が電話するから。」
「オーケー。」
オットーは義母に、義父に自分で庭師に電話させるよう言いたいところでしたが、言ったところで義母が聞かないことはわかっていたので、ぐっとこらえました。
一日のうちに10回義父に処刑されたあとでさえ、義母は喜んでふたたび絞首台に上れる人だったからです。オットー、帰宅。
午後5時50分。電話が鳴りました。「(義父母の住所)は助けが必要です。」という、録音されたメッセージが流れてきました。
義父母の非常用アラーム(2人が首から下げている緊急事態用アラーム)が発動されたためでした。
義母の携帯に電話するも、応答はなし。義父は携帯は持っていません。義父母宅の固定電話は、アラーム発動中は使えません。
オットーが車で義父母宅に駆けつけると、義父母は居間に座っていました。オットーが屋内に入ると、義母は笑顔で、
「(義父母の住所)は助けが必要ではありません。」
「オーケー。アラームはリセットした?」
「触ってもいないわよ!?」
義父か義母が誤ってアラームを発動させ、2人ともアラームが鳴り出すを聞いたものの、アラームをリセットすることをすっかり忘れていたのでした。
義母は記憶力の低下のために。義父は庭師に電話してくれないオットーに立腹していたから、おそらく、故意に。
(義母に) 「携帯に電話したんだけど、聞こえなかった?」
「あら・・・気づかなかったわ、ごめんなさい。」
(義父、義母に) 「そう言ったぞ!」
「(義父に)あなたには聞こえたのね、私はわからなかったわ・・・(オットーに)ごめんなさいね。」
義父、ここで自己満足のくすくす笑いを8秒間。オットーは義母に気にしないよう言い、辞去。
義父はオットーを見ることもオットーに何か言うこともしませんでしたが、ドナルド・トランプそっくりの笑みを、耳から耳まで浮かべていました。
庭師に電話してくれなかったオットーが無駄足を踏んだことで、ささやかな復讐を遂げられたと思ったからでしょう。
10月18日(金)。午前8時15分、義母からオットーに電話。「父さんの具合がまた悪いの。胸と背中を掻きむしりながら『痛い』と言って。なのに
医者を呼ばせてくれないの。」でも訪問介護ヘルパーのトレイシーに説得され、彼女が診療所に電話し、11時半の予約を取りつけました。
そう連絡を受けたオットーは、義父を(歩ける状態なら)診療所に連れて行くことを約束。
オットーが11時に両親宅に出向いてみると、義父はうめき声を上げながら、腕の下、胸、脇腹、背中を掻きむしっていました。でもオットーが
「痒いの?」と聞くと、「ちがう、痛むんだ」との返事。出かける時間になり、義父が立ち上がると、義母:
「ジャケットを取ってくるわね。」
(怒ったように)「昨日着ていたやつだ!」
(義父のいつものジャケットを手に)「これだった?ごめんなさい、あなたが昨日どれを着ていたのか覚えていないの。」
(義母の手にあるジャケットを見もせずに)「覚えていられないなら、手を貸さんでいい!」
義母、ジャケットを元に戻し、義父は別のジャケットを着て玄関を出ました。
25分待たされたあと、正午直前に呼ばれた義父に付き添い、オットーも診察室へ。若い医師は義父が掻きむしったため赤くなっていた背中その他の部分を
調べ、蕁麻疹との診断を下してプレドニゾロンを処方してくれました。オットーが抗ヒスタミン薬も助けになるか訊くと、「グッド・アイディア!
ステロイドが効果をあらわすまで助けになるだろう。」との返事でした。義父はその日の正午に甲状腺機能を調べるための採血の予約も入っていたので、
オットー、採血専門の看護師のところまで義父を送り届け、義父が採血されている間に、処方されたプレドニゾロンと抗ヒスタミン薬を薬局に取りに行きました。
義両親宅に戻ると、シャワー椅子とトイレ用の手すりとキャスターつきの歩行補助器が届いていました。それから、義父の毎朝の起床介助に
訪問介護ヘルパーを寄越してくれる、サンライズ・ケア(仮名)からの最初のインボイスも、郵便で届いていました。
起床介助サービスが始まる前、サンライズ・ケアのマネージャーが義両親宅にサービスの流れの説明に訪れ、オットーも同席していました。
そのときマネージャーは、「インボイスは毎週送られてくるが、最初の2週間はすぐに支払う必要はない。顧客のもとには銀行口座からの自動引き落としの
申込書が送られてくるので、それに記入して送り返してくれればいい。手はずが整い次第、自動的に引き落とされるようになるので心配ない。」と
言っていたのです。その旨オットーが義父に説明しましたが、義父は「でもこれはインボイスだ。」と譲らず、オットーに義父のラップトップを使って
オンライン・バンキングですぐさま自動引き落としを始めるよう要請しました。義父のモットーのひとつは、『今日できることを明日に延ばすな』。
義父の脳内ではインボイス=請求書=今すぐ払わなければ恥なので、待つことができないのです。仕方なくオットー、自動引き落としのセットアップを
試みましたが、同額が定期的に引き落とされる場合はともかく、異なる額が引き落とされる場合は、オンラインではセットアップできそうにありませんでした。
オットーが義父にそう言っても義父は納得せず、オットーが何か間違ったことをしていると疑い、(書面を指して)「それにはインボイスと書いてあるだろう?」
オットーは「ああ、でもマネージャーは説明しに来てくれたとき、こう言ったんだ・・・」と、ふたたび前に言ったことを繰り返しました。「自動引き落としの
申込書が同封されていなかったなら、たぶんそれは来週来るだろう」とも。それでも義父は、「しかしワシは、支払いは自動的にされると思ったんだ!」
と、オットーに、銀行に電話するよう要求。オットーは、買物のため預かっている義父のキャッシュカードを自分の財布から出して見てみましたが、
使えそうな電話番号はなかったので、オンラインでカスタマー・サービス番号を探し、電話しました。応答した機械の声は、『ダイレクト・デビットは
オンラインではセットアップできませんので、お支払いしたい相手先にコンタクトして下さい』と明言しました。
オットーはみたび義父に、「ダイレクト・デビットの申込書がサンライズ・ケアから来るはずだから、それが届いたら記入して送り返せば自動引き落としが
始まるはずだ」と説明。しかし義父は受け付けませんでした。「でもそれはインボイスらしく見える。インボイスと書かれてないか!?」
大きな太字でそう書いてあったので、誰の目にもインボイスと書いてあるのは明らかでした。オットーには、義父が自分に「そう、インボイスと書いてある」と
言わせたいことがわかっていました。そうすれば勝ち誇った義父は高らかに、「それなら我々は、支払いをせにゃあならん!」と宣言できるからです。
父親が自分の説明を聞き流しているだけと悟ったオットーは、サンライズ・ケアに電話。サンライズ・ケアは、会計担当者は今日は半休を取って帰宅
してしまったので、月曜日に電話してくれとのことでした。オットーが義父に、月曜日に電話し直さなければならないことを説明すると、義父はまたまた、
「それにインボイスと書いてないか?」
「そうだね、でも心配する必要はないんだ、まだ支払う必要がないことは確かだから。」
(椅子の中で背筋を伸ばして)「それにインボイスと書いてないか?もしそう書いてあるなら、支払わにゃあならん!」
義父の声は、発言のたびにボリュームを増してきていて、この時点でオットーも腹立ちを抑え難くなっていました。
「サンライズ・ケアのマネージャーによると・・・」と、またも説明を、はっきりと大きな声で試みるオットー。でもオットーが話し終わらないうちに、
義父が怒鳴りました。
「それにインボイスと書いてあるのかないのか、どっちなんだ!?」
(オットー、静かに)「今、説明しただろう・・・」 (続いて大きな声で)「今、説明しただろう?」
(義父、怒声で)「何がどうなっているのか、ワシにはわからん!それにインボイスと書いてあるのか、それともないのか?!」
オットーは立ち上がり、コートに手を伸ばし、怒鳴り続ける義父に怒鳴り返しました。
「父さんが怒鳴るから、俺は家に帰る!支払いについては月曜日に処理する!口をつぐんで、自分が頼んだことを俺にやらせてくれることを
学んだ方がいい!(訪問介護ヘルパーの)トレイシーにも気をつけた方がいいよ、でないと彼女も来てくれなくなるからね!」
(怒りのあまり両腕をばたつかせながら)「わかってるさ!でもお前は質問ばかりする!」 (←?)
(義母、義父に)「オットーじゃないわ、あなたがオットーに同じことを訊き続けたじゃないの!」
「違う!オットーがワシに、質問し続けたんだ!」
オットー、退場。
夜9時、オットーがその日の録音内容を文章化していると、義母から電話がありました。義父の癇癪について謝罪する義母。
「母さんが父さんのために謝る必要はまったくないよ。」とオットー。「父さんがどうしてあんなに怒ったのか、俺にはわからない。
ただ今朝のジャケットの件だってそうだが、父さんの母さんに対する態度には本当に我慢できない。」
「お父さんはいつだってああだったわ。」
「だからといって、それを続けていいことにはならないし、それが普通にもならない。」
どういう運命のいたずらか、義父は、自分の人格障害にも、パワハラにもモラハラにも、理不尽な憤怒にも、癇癪にも、不都合が起こればすべて
自分のせいにされることにも、62年余りにわたって耐え忍べるパートナーを、見つけてしまったのでした。義母がすべて受身で耐えてしまったため、
義父は義母に抗われて『許容範囲内の異常人格』に自己調整する機会を得られなかった、という見方も、できるかもしれません。
オットーをはじめとする4人の子供たちは、成人してからさえ父親と口論になっても、その結末は母親のために譲歩するか、あるいは怒った父親が
足音荒く(自分の趣味で収集したサボテンの)温室に去るかのどちらかでした。義父の頭の中では自分は常に正しく、常に勝者でした。
10月19日(土)。義両親宅を訪れた義妹ジェインが、帰り道に我家に寄り、オットーと話し込んでいきました。義父の昨今の異常な振る舞いや
理不尽な癇癪について、ジェインは何も知らないようでした。義父はもちろん言わないし、義母も義父をかばい立てして何も言わないからです。
ジェインの夫イヴァン(医師)は、義父と似たような精神状態の高齢患者に効き目があった鎮静剤の服用を義父に勧めてみたいと思っている
そうで、オットーは、出来ることは何でも試してもらいたいと返事。怒った義父が義母を追って寝室(2人は別寝室です)まで入ったことも、心配の
種でした。すでに前月、癇癪を起こした義父は、歩行補助器を投げつける行為に及んだことがありましたから。寝室に追い詰められると、
義母には逃げ場がなく、袋のネズミになります。正気を失くした義父が、そこで、暴力的になったら・・・?
ジェインはまた、オットーに、義母は養護施設に入居する意思があると思うか、訊きました。義母が養護施設で、他の入居者たちと他愛ない
おしゃべりをしながら平和な日々を過ごすのは、自分の望むところだと、オットーは返事。でも義母はあくまでも義父から離れないだろうし、
義母が義父に忠誠を尽くし続ける限り、オプションは限られ、オットーは母親のために父親をサポートし続ければならない・・・というのが、
結論でした。
その晩、義母は電話で、義父の痒みが治まったことを報告。でも義父は何らかの理由で機嫌を損ね、義母に怒鳴り、耐え切れずに義母も
怒鳴り返したそうです。すると義父は、怒って義母を、またもや寝室まで追いかけてきたと。オットーは言葉を失いました。義母はオットーが月曜日にまた
来ることを確認し、会話を終えました。義父は義母が子供たちと電話で話すことを嫌うからです。子供たちが義母と話すことの意味が、義父には理解できない
のでした。 どうせすぐに忘れてしまう義母となど、話しても意味がないではないかと。義父のそういう感情には、嫉妬も混じっているとオットーは感じました。
義父は、子供たちの誰とも、義母のように普通の会話を持続させられなかったからです。
《 ③につづく 》