《 おことわり 》
① クソ野郎の義父がとうとう昇天しましたが、私は義父が故人になったからといって、語調を変えるつもりはありません。
その点を不快に感じられそうな方は、不快に感じ始めた時点で当ブログを閉じてくださいますようお願い申し上げます。
② 義父が逝くまでの経過をさくっとまとめるつもりでしたが、将来自分が読み返すときのために詳しい記録を残しておきたいので、
長ったらしい記事になりそうです。御用とお急ぎでない方のみ、お読みくださいませ。
《 ⑤からののつづき 》
10月22日(火)に義父とオットーの仲が決裂して以降は二人の接触は限られたものになったので、その後の話はさくさく進み、
義父が逝くまでの経緯も、今回が最終回です。(やっと!
)
サマータイムが終わって時計を一時間戻した10月27日(日)、一週間の帰省を終えて、ムスメがロンドンに戻っていきました。
オットーと一緒に夕方ムスメをストラウド駅に送ってお別れ。次に会えるのはクリスマス休暇です。
10月28日(月)、義母(91歳)からオットーに電話。30日(水)の足爪ケアのアポのためオットーが義母と義父(93歳)を病院に送り迎えすることを、
再確認するためでした。義父はこの日、グロスター・ロイヤル病院のアポがあり、ボランティア・タクシーで往復しました。
10月29日(火)、義母からオットーに、「火曜日だけど買物に行ってくれないの?」との電話。オットーはすでに義母と話し、翌水曜日の
病院への送り迎えの際に買物もすることで合意していましたが、義母はそれを忘れていたようでした。義父の買物デーは
毎週火曜日と木曜日だったので、それまではオットー、義父の希望に沿って買物をしてきました。が、仲が決裂して以降は、
義母が困ることにならない限りは自分が、買物デーを選ぶことにしたのです。
10月30日(水)、オットーは、義母と義父を11時10分頃迎えに行き、足爪ケアのため地元ダーズリーにある病院に送り迎え。義父とは一言も
口をきかなかったそうです。足爪ケアを終えた二人を家に送り届け、義父母のための買物に行き、(決裂の原因となった義父のカードには
二度と触れたくなかったので)立て替え払いをして買物を義両親宅に届け、帰宅。立て替えたお金は月末にまとめて義母が、小切手を
書いてくれることになりました。
11月1日(金)、午後に義母からオットーに電話。翌週の自分のグロスター・ロイヤル病院のアポにオットーが送迎してくれることを再確認
するためでした。が、つづけて義父のアポの送迎もしてくれるよう頼んできて、オットーが何度断っても懇願するのをやめないので、終いには
電話を切るしかなかったそうです。
11月5日(火)、オットー、義母を地元の病院に送迎、続けて両親の買物のサポート。車で小一時間離れたウスターに住んでいて
水曜日(と週末)しか休みのない義妹には両親の買物を定期的にサポートするのは難しいので、結局買物はオットーが続ける
ことにしました。
11月6日(水)、オットー、義母を記憶力テストのため地元の病院に送迎。テストの結果は一昨年・昨年とほぼ同じで、『記憶力は低下している
ものの、年齢からして予想される範囲内。認知症を発症するか否かは五分五分。』というものでした。そういえば義父は、2年強前に現在の
小さい家に引っ越してきたとき、会ったばかりの隣人に「妻は認知症なので何もできんのですよ」なんて大嘘を言いました。救急搬送された
病院でもスタッフに「妻は何もできんので、ワシが妻の介護をしとるんですよ」なんても。あの大嘘は、オットーが義母の記憶力テストに同行し、
一緒に聞いた結果をはっきり義父に伝えて、ようやく一応は止まったのでした。(でも義父はやはりその後も、自分が義母の介護者であると
何度か病院で吹聴・・・)
義母(と二人の買物)しかサポートしないと決めてからのオットーは、数ヶ月ぶりに自分の生活のペースを取り戻せました。義父は代わりに
義妹を頼るようになり、サンライズ・ケアへの介護費用の自動引き落とし申請書の記入・返送や義父の寝室への簡易トイレの導入などは、
義父に頼まれて義妹が引き受けました。
義妹にすれば、「近居の兄がいるのに、兄が父さんのサポートを投げ出したから私がやらざるを得なくなった」という不満があったと思います。
オットーは義両親の状況を定期的に弟妹にメールでアップデートしてきましたが、義妹はそういうことは一切しないので、週末に義妹が義両親を
訪れたのかどうかも含めて、何がどうなっているのか、オットーにはわからない状況になっていきました。義父はもちろんオットーに報告するはずが
ないし、義母は義妹が来たことも忘れてしまう可能性が高かったので。でも義妹の不満はもっともなので、しばらくは様子を見ることにしました。
義父は最初のうちは義妹に機嫌よく友好的に接するでしょうが、オットーが予想したように、いずれは本性を現すだろうということで。
11月11日(月)。私はその朝住み込み介護に出発したので後になってオットーから聞いた話ですが、この朝義父は呼吸困難に陥り、
義母が呼んだ救急車で病院搬送されました。その晩オットーは義妹に電話し、義父が退院を許可されたらどうするかを話し合い。
義父の主治医にもらったアドバイス通りに『義父はすでに在宅介護が無理な状態にあることを訴える』ことで同意したそうです。
義父は翌11月12日(火)には帰宅を許され、病院の記録ではオットーが連絡先になっていたので、義父を迎えに来るよう病院から
オットーに電話がきました。予定通りオットーは、義父はもう在宅介護は無理な状態にあることを訴えました。
オットーの私へのテキスト・メッセージ: 「明日セラピー・チームが決定を下すまで、父さんは病院に留め置かれることになった。
おそらく明日午後に退院してくるだろう。ジェイン(義妹)も意見を伝えたそうだ、何と言ったのかは知らないけど。
ついさきほど、母さんは電話で、『あなたのせいでお父さんは家に帰って来れなくなったわ』と言ったよ。」
私: 「お義母さんはあなたを責めるわけね、上出来・・・」
オットー: 「父さんも俺を責めるだろう。俺が父さんを迎えに行くことになったら、それは面白いことになるだろうな。」
私: 「お義父さんが帰宅したら、ジェインは彼のサポートを続けるのかしら?」
オットー: 「そうだろうね。」
私: 「セラピー・チームが、お義父さんは在宅介護は無理とわかってくれるといいけど。」
オットー: 「おそらく父さんを家に帰したがるだろうな。その方がずっと簡単だし、(退院させてしまえば)自分たちの問題ではなくなる。」
私: 「そうね・・・でも病院がこちらの意見に反して帰宅を許すのなら、迎えに行くのを拒否することはできないの?」
オットー: 「そうしたら、おそらくタクシーを使うだろう。じつはしぶしぶながらももう病院と母さんとジェインに、父さんを
迎えに行くと言ってしまったんだ。なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからないけど!」
私: 「 」
オットー: 「そんな申し出をせずに、引込んでいればよかった。」
私: 「私もそう思うわ。」
11月13日(水)
オットー: 「母さんによると、父さんが昨夜転倒したと、病院から電話があったそうだ。
片目の上を小さく切って、今日は退院・帰宅はないと。」
私: 「よかった!」
オットー: 「父さんは転倒も、母さんと俺のせいにするだろうけどね。」
私: 「お義父さんがどう思い何を言おうが、もう気にしないことにしましょう。自分がどう思われ何を言われようが、
一切気にしたことのない人なんだから!」
オットー: 「そうだね・・・そして父さんの転倒は、まさに神の救いだ!」
11月14日(木)
オットー: 「父さんは抗生物質の点滴を受け続けている。グロスター・ロイヤル病院のセラピストが母さんに電話してきて、
父さんの家での状態や、興味のあることや、誰が料理をするのかなどを質問したそうだ。セラピストによると、
父さんは機嫌が悪かったそうだよ!」
私: 「よかった、病院に長くいられればいられるほどいいわ!
お義父さんがセラピストにも自分の正体を見せてくれて嬉しい。」
オットー: 「俺もだ。でももし父さんが退院させられたら、俺が迎えに行くしかないだろうな!
5時に母さんに電話してきた医者によると、父さんの血圧が上ったり下がったりしているそうだ。
それから父さんのことは、父さんが同意している通り(心肺停止に陥っても)蘇生しないとも。
でもそれを聞いた母さんは、明らかに動転した。俺は母さんに、病院側は念のためにあらかじめ、
そういうことを話すんだと思うと言っておいた。明日母さんと一緒に病院に行くことになると思う。」
私: 「わかったわ、幸運を(こう言ってもさしつかえなければ、私たちにね)。」
11月15日(金)
オットー: 「電話が鳴ってたけど、詐欺電話だったよ。(迷惑電話をカットできる電話が壊れたので)普通の電話だから。」
私: 「夜間にそういう電話がかかってこないといいけど・・・」
オットー: 「父さんを見舞いに行った。少なくともあと一日か二日は入院していそうだ。顔と両手と足が腫れていて、
尿がほとんど出ていなかった。咳もしていて、ベッドから出なかった。血圧は安定していたが、愚痴っぽかった。」
住み込み先からオットーに、夜、電話しました。お見舞にいったとき義父はベッド脇の椅子に座っていましたが、自力では
ベッドに戻れなかったそうです。スタッフが手を貸そうとしても拒否し、排尿がほとんどない義父のため看護師が
膀胱のスキャンをしようとしても、その意味がおそらくわかっていないにもかかわらず、頭ごなしに拒否したそうです。
腎臓の働きが悪いため排尿できず、体内に残留する水分のため、顔や身体が腫れるんですね。
この日の夜、独身の義弟②が、有休を足した長い週末を義母と過ごすために義父母宅に到着。ケンブリッジに帰るのは
4日後の火曜日でいいそうなので、義母のサポートと病院へのお見舞は、この週末は義弟②に任せることができました。
翌11月16日(土)、私が住み込みから帰宅。義母と義弟②は11月17日(日)の午後病院に行ったので、夕飯は我家に来てもらい、
庭から収穫したかぼちゃのローストその他を一緒にいただきました。
11月18日(月)
病院の看護師から、オットーに電話がありました。義父が「ワシの腎臓にはどこも悪い所はない!」と腎臓の生体検査を拒否している
ので、来て説得してくれないか?とのことでしたが、オットーは「自分が何を言っても聞くような父ではないので」とお断りしました。
この日はムスメの24歳の誕生日
で、ムスメはベルリンにいました! (参:誕生日はベルリンで)
11月19日(火)
オットー: 「ジェインとイヴァン(義妹夫婦)が昨日と今日、見舞いに行った。父さんは(二人に説得されて)腎臓の
生体検査に同意したが、検査は金曜日か月曜日になるので、入院が続くことになる。」
私(この朝住み込みを始めていた): 「よかった、神に感謝だわ!」
この晩オットーから、安堵のメッセージが入りました。
オットー: 「ジェインとイヴァンから、長い電話があったよ。怒って(病院の)スタッフにまで無礼な父さんに、二人ともうんざりしていた。
イヴァンは父さんのケアに巻き込まれたことを後悔していると言った。父さんは今日ジェインに怒鳴り、ジェインは俺が言っていたことが
どういうことなのか、ようやくわかったと言ったよ。」
私: 「それを聞いて、ほんっっっとうに安堵したわ
」
オットー: 「俺もだよ!ジェインは、俺に状況をアップデートしてこなかったことを謝りさえしたよ。」
私: 「よかった x1000!」
11月21日(木)
オットー: 「母さんは今さっき病院からの電話で、『父さんは来週の月曜日から人工透析を始める』と聞かされた。週に3回、40分ずつだ。
自宅からの送迎は、病院側で手配するそうだ。あと母さんは、月曜日の11時にそのことに関する話し合いに(病院に)来るよう
言われたそうだ・・・どうしてだかわからないが。だから母さんを連れて行ってみる。
ところで人工透析は40分ずつでなく4時間ずつの間違いだ。」
私: 「お義父さん、人工透析を嫌悪するでしょうね・・・!」
オットー: 「父さんはすでに人工透析を拒否したんじゃないかと思う・・・だから母さんが呼ばれたんじゃないかな。病院側は
母さんに、患者は治療に同意する必要があるとも言ったそうだ。でもすでに父さんには同意を求めているはずだ。」
「父さん担当の看護師がたった今ジェインに、父さんは月曜日に透析を始める予定はないし、透析が看護記録に言及されたことも
ないと言ったそうだ。病院側の誤りか、母さんの聞き間違いかもしれない。ジェインが明日、本当のところを確かめるだろう。」
その後義父の腎機能がやや持ち直したので、生体検査の話は立ち消えになりました。それから不思議なことに、ジェインが義父担当の看護師や
医師に尋ねても、人工透析については誰も聞いていないし記録にも残っていないとのことでした。義母に「月曜11時に病院に来るよう」言ったのが
誰だったのかも、結局わからず。スタッフの誰かが他の患者と間違えて、義母に電話したのでしょうか?ナゾです。
オットーは人工透析について調べてみましたが、85歳を超えた患者に人工透析をすることは非常に稀だそうです(義父は93歳)。
高齢の父親が人工透析を受けたという米国人男性の話を読んだところ、「絶対に勧められない」と・・・「あんなことになる(悪化した点が
回復した点を上回った)と知っていたら、断固反対していた」とのことでした。
11月25日(月)
オットー: 「明日買物に行って、そのあと母さんを病院に連れて行く。父さんには変化はあまりない。」
私: 「わかったわ、ありがと、(住み込みから帰宅するので)じゃ、明日ね」
オットー: 「父さんがジェインに今日病院に来るよう言ったので、ジェインは夜に行った。父さんは『医者も看護師も今後のプランを何も
話してくれない』と文句を言い、薬を服用するためのアイスクリームを(看護師さんに頼む代わりにジェインに)リクエストしたそうだ。」
11月26日(火)
オットー: 「父さんは前回と同じ状態だった。弱々しく、ときどき咳をし、口はとても荒れていた。俺たちや看護師に何度か、
『終わりにしてくれ』と頼んだ。こんな状態で生き長らえさせるのは残酷だと。舐める程度にしか食べず、ほとんど何も
飲んでいない。まもなく点滴が必要になるだろう。小さいカップ入りのアイスクリームを持参したが、そのうちのひとつの
1/10ほどしか食べなかった。残りは病棟の冷凍庫に入れた。」
「もう一度簡易トイレを使い、俺たちが話しかけるとわりとよく反応もした。でも看護師にネブライザーが要るか訊かれると
無視した。看護師によると、父さんは朝にも同じことをしたから、薬を服用していないとのことだった。父さんに、
アイスクリームと一緒に薬をのませた。父さんは(総選挙の)郵便投票用紙に記入をした。
看護師によると、免疫抑制剤は効果が表れるまでに一週間かかるかもしれないそうだ。」
11月28日(木)
正午頃に義父が「Unresponsive(応答なし)だから来てくれ」と病院から連絡があり、オットー、義母を乗せて病院へ。
でも二人が着く頃には、義父は応答していました。面倒臭くなって、病院のスタッフの呼びかけにも肩や腕を軽く叩かれたりにも、
わざと反応しなかったもよう。義父の鼻腔には経管栄養のチューブが入っていました。二人がいた間に義父は7回も、
“Torture(拷問だ)・・・” と呟いたそうです。
12月1日(日)。義妹ジェインから、オットーにメールが届きました。
「昨日母さんを、父さんに会いに連れて行ったわ。父さんは30分以上も、何の反応も見せなかった。母さんですら、口をはばかることなく
『お父さんは自分で選んで口をきかずにいるわね』と言ったわ。父さんが応答しないため訳がわからず、私たちに加えてコンサルタント
(医者のボス)と医者と二人の看護師が、父さんに反応させようとあれこれ手を尽くして・・・ ゆっくりゆっくり父さんは反応し始めて、
質問にも答え始めたの。口からほとんど水分を摂っていないから口と喉がひどく荒れているのはわかるけど、でもあんな風に故意に
無反応を決めこむのは危険なことよ。それでなくてももうほとんど食べることも飲むこともしていないのに、さらにあんな態度を取れば、
治療を望んでいないと思われてしまうかもしれない。父さんにそう説明しようとしたの。お医者さんのおかげで腎臓の機能が安定したの
だから、今度は父さんが、食べて飲むことで口と喉の状態を改善する努力をしなければと。
とりとめのない文章でごめんなさい。アップデートしようと思ったの、母さんがどこまで(オットーに)伝えているかわからないから。要点は、
父さんのコンサルタントは医者としてできることはすべてしてくれているということ。実際コンサルタントは、自分の同僚だったらここまでは
していなかっただろうと言ったわ。だから父さんは、回復したければ自助努力をしなければならないのよ。なのにあんな風に拗ねて、
反応しないなんて。ああすることで自分に関心を集められると思ったら大間違いだわ。あの年齢であんなことをしたら、まさに
正反対の解釈をされて、治療の継続を退けることになりかねないのに。
ある意味では父さんは、自分が置かれた好ましくない状況の中で、何とかコントロールを奪回しようとしているのかもしれないわね。」
オットーの義妹への返事。
「父さんがどんな風か、よくわかるよ。父さんは老いて、身体もボロボロで、心の底からうんざりし、死にたいと思っている。それでも
周囲にどう反応して何をするのかの選択は、今なお父さん自身のものだ。ああいう人だから、家族はもちろん病院のスタッフにも、
出来ることは限られている。自助努力を続けるよう、励まし続けるしかない。」
12月5日(木)。
オットー: 「父さんが今朝7時に死んだ。ジェインが夜通し付き添った。母さんと俺は昨夜11時半までいた。
ジェインが(これから)ここに来、母さんはまだ知らないから、二人で母さんに伝えに行く。ポール(義弟②)が来て、
数日間母さんといてくれることになっている。」
ムスメ: 「私からのお悔やみを伝えてね。」
オットー: 「ごめん・・・6時の間違いだった。」
私: 「私からのお悔やみも伝えてね・・・」
オットー: 「OK。」
12月4日(水)、『最期が近いかもしれない』と病院から連絡があったため、オットーと義母は、午後3時半頃から11時半頃まで義父に付き添った
そうです。義父の呼吸はイレギュラーで、息を吐いたあと10秒くらい何もなく、「???」と思った頃にまた息を吸い出すことが、何度もあったそう。
話しかけてもほとんど反応はなく、目を開けることもなく、意識があったのかどうかも定かではなかったそうです。夜になって、義妹も到着。
オットーが夜通し付き添うことを申し出ましたが、義妹がそうすることを買って出たので、翌朝交代することを約束し、オットーは義母を送って
帰宅。義父が息を引き取ったのは、正確には12月5日(木)の午前6時10分頃だったそうです。4人の子供の中で一番のお気に入りだった
一人娘のジェインに付き添われてあの世に旅立てたのだから、義父も本望だったことでしょう。言うことなしです。
私は11月29日(金)から住み込み仕事をしていたので、オットーからのメッセージで義父の死を知りました。感想?
もちろん、(やっと逝ってくれたか・・・!)です。悲しいとは、これっぽっちも思いませんでした。
その3日前に『男爵殿が前週亡くなった』と知らされた時の方が、よっぽど悲しかったです(参:訃報ふたたび・・・)。
最後の最後まで暴君だった義父が、あれ以上生き長らえないでくれて、本当によかった。それだけです。
義母が生涯自分から離れずにいてくれたおかげで、自分には値しない『家族』に最後まで囲まれ、値しない人生を送れた義父。
正直、もっとずっと早くに逝ってくれていればよかったのにと思います。
実際オットーは、「(義父をあの世に送る)心の準備はとうの昔、20年以上前からできていた」と。
義父は一昨年のイースター頃に、16日間入院したことがありました(参:イースター・ランチ)。
食欲を亡くし食べられなくなったので痩せ衰えて、オットーも私も(ひょっとして、これは・・・?)と期待したんです。
が、無事回復し、退院・帰宅できてしまいました。
なので今回も、いつまた不死鳥のように甦るかと、気が気ではありませんでした。
BETTER LATE THAN NEVER.
今回もまた義父が回復・帰宅し、そのうち義母が先に逝ってしまって義父一人が残されるような事態になっていたら、
いったいどうなっていたことか・・・
それが回避されたので、もう文句は言いません。(←嘘です。絶対また言います。)
《 義父が逝くまで - おわり 》