仮にも夫の父親で故人でもある義父のことをボロクソに書いてきました。
が、あいにく本人がそれに値する本当のクソ野郎だったので、仕方ないです。
ここまで読んできて、義父は私に対してはどんな風だったのか?と皆さんお考えかもしれないので、触れておきますね。
サイコパス(←決めつけてますが)の義父は他人はおろか家族にすら興味も愛情もない人でしたから、ヨメである私なんて、
『部外者中の部外者』。
でもそのおかげで外ヅラのいい義父は、私に対しては常に普通に友好的に接していました。私の前でも義母に怒鳴り散らすことはあった
ものの。私は私で、義両親の前では猫をかぶって口数少なくおとなしくしていました。(とくに最初の頃は、英語もわからなかったしぃ!)
私がオットーと出会ったのが、年金生活に入った義父母が田舎に引っ越し、悠々自適の生活を始めてからだったというのも幸いでした。
もう働く必要がなく毎日が日曜日になった義父は、好きなサボテンの世話に没頭して、機嫌良く暮らせていたわけですから。
しかしながら、加齢に伴って少しずつ少しずつ、身体と精神の老衰も進むわけで・・・
義父がオットーのサポートを必要とし始めた最初の頃は、私もいちおう数回に一回は一緒に顔を出していたんです。でも銀行口座の話や
義父の訪問介護の手配が絡んだりしてくると、義父はオットーに、「プライベートな話のときは一人で(=私ヌキで)来て欲しい」と言ったそうです。
もともと義父は男尊女卑の傾向があり『大事な話に女は邪魔』と思っている節がありました。そのうえ私は義父には『部外者』で『よそ者』です
からね。オットーからそう聞いた私はこれ幸いと、その後はもっぱらオットーの後方支援(家で義父に関する愚痴を聞く)にまわっていました。
あと、仕事(住み込み介護)です。オットーは精神的に飽和状態で仕事に専念できなかったので、私だけでも稼がなきゃ、と思って。
この頃のオットーは、家にいられるときは義父母訪問の記録を書いたり、義父との会話の録音を文字化したりしていました。そうすることで
精神の均衡が保てるならと、私も好きなようにしてもらっていました。
義母は車の運転はしなかったので、義父の気が向いたときしか子供たちを訪ねることができませんでした。そして、たとえ我が子であれ他の
人間には興味ない義父は、子供たちを訪問するなど稀でした。しかも義父は子供たちを訪ねても長くは居たがらなかったので、私は
義母とも、それほど親しい関係にはなりませんでした。
義母だって、はるか昔に運転免許を取得はしたんです。でもいざ運転を始めたら助手席に座った義父がうるさく怒鳴ってばかりだったのですっかり
やる気を失くし、運転をあきらめてしまいました。だから初孫のムスメが生まれても、二人が我家に来るのは車を運転できる義父が同意したとき
だけ。そしてその頻度は、本当に少なかったです。誕生日とクリスマスを除けば、ムスメが赤ちゃんだった頃に数回程度。でも頻繁に来られるよりは、
それでよかったのかもしれません。それほど親しくなっていない義理の両親に頻繁に訪ねて来られたら、負担に感じたかもしれませんから。
私たちが義両親宅に泊まる機会でもあれば、少なくとも義母とは、もっと親しくなれていたかもしれません。でも義両親はダーズリーに引越して
くる前だって、我家から車で10分の距離に住んでいましたから。義両親を訪ねても、泊まる必要がなかったのです。
そんなこんなで、結局のところ私は義母とも、薄~いうわべだけの関係しか築けませんでした。
(前にも記事に書きましたが、オットーと弟妹たちは、義父母が定年退職して田舎に引越すことにした際、義母に離婚をすすめたそうです。
でも義母が断ったので、「だったらせめて車を買わせてもらって運転を再開して。田舎に引込むんだから、お父さんに頼ってばかりでは
どこにも行けなくなる。」と、強く忠告。それに対し義母は「必ずそうする」と約束したそうです。守られることのなかった約束を。・・・)
義母はいい人ですが、やはり私とはオットーを介しての関係だし、それに私、率直に言って、義母に感じてきたモヤモヤを、払拭できずにいます。
クソ野郎と添い遂げるのは本人の自由ですから、どれだけ馬鹿にされ文句を言われ理不尽に怒鳴られ自分の年金すら取り上げられても
一緒にいたいと言うなら、それは義母次第です。でもそのせいで息子であるオットーは、還暦を過ぎてまで父親に振り回され
苦悩させられる羽目になりました。
義父母の頃は男性は65歳、女性は60歳が国民年金受給開始年齢でした。(実際には義父は60歳・義母は58歳で早期退職。)
でもその後法が改正され、オットーは66歳まで待たなければなりません。
だから昨年の春頃から義父母がオットーのサポートを必要とし始めたとき、オットーが前年から在宅イラストレーターに戻っていたことは、
本当にラッキーなことだったんです。もしオットーが月曜日から金曜日までの9時5時仕事を続けていたら、二人はボランティア・タクシーなり
普通のタクシーなりを使わなければならなかったことでしょう。義父の歩行が不自由になってからは、介護ヘルパーさんに買物を頼むしか
なかったことでしょう。(義母にはひきこもりの傾向が出ていたので、義母が買物に行くという選択肢はありませんでした。)
義父は、自分もまだ歩けた間――去年の3月から7月にかけて――は、オットーの車に同乗して一緒に買物に行くといって聞かず。
スーパーの中では買い忘れたものを探しにずっと前に通過した通路に戻ったり、独り言を言いながら商品のラベルを目を凝らしてじっくり
読んだりするため、オットーが一人で買物する3~4倍の時間がかかりました。でも自分の都合が最優先の自己中人間だから、オットーが
仕事しているべき時間を奪っていることなど意に介さず。(申し訳ないな、できるだけ短時間で済むようオットーに一人で買物に行ってもらおう)
などとは、決して考えない人でした。
それゆえ義父が昨年7月に右足首の腱を切って買物に同行できなくなったのは、神の恵みでした。
しかしながら、歩行補助器を使わなければ歩けなくなり、自分でしたいことができずオットーに頼らざるを得なくなった義父は、そのストレスから
くる憤懣を、八つ当たりで(義母だけでは足らずに)オットーにまでぶつけるようになりました。仕事するのをあきらめて自分たちをサポートしようと
してくれている息子に対してです。コントロール・フリークの義父は、自分ではもうできなくなったため息子を頼らなければならなくなった事柄も、
息子に任せてリラックスはできなかったのです。サンライズ・ケアから届いたインボイスの一件のように。
「インボイスなんだから直ちに支払わなければならない!」
と、オットーの説明は受け入れずにオンラインで自動振込みをセットアップするよう命じ、義父のラップトップを使うオットーの傍らに立って
「そこ(一番上にINVOICEと書かれた書面)に何と書いてある!?」と、まるで狂ったように繰り返し怒鳴って。
義父のカードが原因で、結局はオットーが限界にぶち当たり、二人の仲は決裂しました。
が、あれは全部、ずっと昔に義母が義父と別れる勇気を持てていたら、避けられていたことだったんですよね・・・。
代わりに義母は、義父とオットーが対立すると、オロオロととりとめもないことを言って消極的に仲裁しようとするだけでした。ときには
オットーの方を黙らせようとしたりも。道理のあることを言っていたのは、オットーの方だったのに。
義父の入院が長引けば、義母は家で一人穏やかに生活できると私たちは考えましたが、義父の最後の入院中にオットーが病院に
『もう在宅介護は無理』と告げると、義母は「あなたのせいでお父さんは家に帰れなくなった」とオットーをなじりさえしました。
「お父さんが怒鳴るのを止めないから来て」とオットーに助けを求めてきたことを、もう忘れてしまったんでしょうか。
こういったことが、私が義母に感じているモヤモヤの原因です。私、心が狭いんでしょうね。
もう過ぎたこと、終わったことなのだから、忘れるよう務めなければ。
もし義父が逝くことなく、またもや不死鳥のように甦り、帰宅していたら・・・・・?
義妹のジェインも「もう父さんとは付き合いきれないから、どうなっていたかわからない」と、義父の死後言ったそうです。
家族が団結して、義父を養護施設に送っていたでしょうか?オットーもジェインも義父のサポートを続けられなくなっていた以上、
そうする以外なかったでしょうね。そうしたら、あくまで義父に忠実だった義母も、一緒に行っていたでしょうか?
二人で施設に入居すると、一週間に(二人で)少なくとも2000ポンド(28万6千円)かかります。
それを資産のうちから支払っていられる間はいいですが、二人(あるいはどちらか一人)が長生きして、資産が底をついてしまったら?
あぁ考えたくない・・・
ちなみに義父の朝の身支度の介助に来てもらっていた介護ヘルパーさんですが。素晴らしく有能で忍耐強かったトレイシーさんは、
「ポリッジの作り方が間違っている!」と義父に怒鳴られて少ししてから来なくなり、代わりに別の女性が入りました。が、最終的には、
二人の男性ヘルパーさんが交代で来ていたそうです。義父は背が高い方なので、そんな義父に怒鳴られたら女性が脅威を感じて
しまうのは無理もないこと。私だって義父のような顧客は絶対に嫌です。
今月になってオットーから聞いて呆れたことがあります。義父は去年の7月に庭で転倒して右足首の腱を切りました。
それが義父の健康状態・精神状態が急速に悪化していくきっかけになったわけですが、転倒したとき義父が庭で何をしていたかというと:
義母の寝室の窓からよく見える位置にあった小鳥用のフィーダー(餌台)を、庭の奥に移動しようとしていたんだそうです!
義母に見えにくくなるように。
義父はとにかく義母を目の仇にしていて、義母が愉しむことはすべて馬鹿にしたり、邪魔したり、阻止しようとしたりしてきました。
義母が読書をしていると「フィクションなんて全部作り事じゃないか、そんな嘘を読んで何になる!?」と馬鹿にする。
テレビのチャンネル権は自分が握ってニュースとドキュメンタリーしか見ないので、義父が居間に一緒にいるときは義母は好きな番組を見られない。
(子供たちは何度か「自分の部屋で見られるよう、小さいテレビを皆で買ってあげる」と義母に申し出ましたが、義母は「お父さんが気を悪くするから」と断り続けました。)
などをして。
でもその一環として、フィーダーまでわざわざ移動しようとしていたなんて・・・
こりゃ、バチ以外の何ものでもないわ・・・
それなのに、ああそれなのに。義父の死を義妹とオットーから告げられた義母は、しみじみと言ったそうです。
「(お父さんは)本当にいい人だったわ。病院の看護師さんたちもそう言ったし・・・」
本当に本当に不思議なんですが、義母の脳内には『義父の言動浄化装置』が自生しているとしか思えません。
義母にとっては義父は良き夫で、結婚生活は幸せで充実したものだったようです。
オットーも「理解不能」ととっくに匙を投げています。(参:義母の気持ち)
義母は、あまりにもみじめな状態にある自分の正気を保つために、無意識のうちに作話をしているのでは?とすら思ってしまいます。
あるいは、ストックホルム症候群?
プライドをひとかけらでも持っている女性ならとても耐えられないであろう義父との結婚生活を、義母は62年余りにわたって続け、とうとう
『死が二人を別つまで』義父に添い遂げてしまいました。義母のような女性は、(貧困にあえぐ後進国ならともかく)先進国には、そうはいないはず。
なのに義母が、義父と出会ってしまった不運・・・
否、不運と言ってはいけませんね。そのおかげでオットーが生まれたのだから。でも義母が、せめて子供たちが皆独立した時点で、
義父と別れる勇気を持ってくれていたら・・・と思います。
人生は一度きりですから。
最期が近づいて自分の人生を振り返ったとき、できるだけ後悔しないように生きてください。
岐路に立って迷ったときは、それぞれの道を選んで行き着く先にある人生の最期を、じっくり想像してみてください。
そうして、より幸せになれると思われる道を選んでください。
あなたが幸せになること。
それが、あなたをこの世に送り出し慈しみ育ててくれた親御さん(注: 義父のような毒親は除く)の
心からの願いのはずですから、一番の親孝行でもある。
と、私は信じています。