帰郷中のムスメのおかげで Netflix や Amazon Prime ビデオが見られるので、
昨夜は『MINAMATA-ミナマタ-』を一緒に見ました。(有料で2ポンド/300円でした。)
1970年代に世界に悪名を馳せた公害病、水俣病。
映画の主人公は、ジョニー・デップ演じる報道写真家のユージーン・スミス氏です。
水俣病が人体に与える残酷な影響、そして原因をつくった企業チッソとの闘いを知らしめようと、
数年にわたって水俣市に住んで活動したアメリカ人写真家がいたとは・・・!
全然知りませんでした。
(デップは個人的には、メイクのおかげでかなりスミス氏に近い外観になっていると思いました。)
勢揃いした制作関係者とキャストです。
(右から3人目はスミス氏の元妻アイリーンさんと思うんですがどうでしょう。)
1918年12月30日生まれというユージーン・スミス氏は、水俣市に住み始めたときは52歳だったことになります。
結婚し子供も4人(5人という情報もあり)いましたが、1957年からは家族をおいてマンハッタンに移り住んでいたそうです。
おそらくその後、離婚したのでしょう。
水俣市での取材を強く勧めたアイリーンさんとは、水俣市に到着後すぐに婚姻届を出したようですから。
スミス氏より31歳年下というアイリーンさんは、母親が日本人・父親がアメリカ人だそうです。
映画の中でも描かれていた、水俣病の原因をつくったチッソ側による、交渉団や報道関係者への暴行事件。
スミス氏は脊髄損傷に加えて片目を失明しかける(失明したという情報もあり)など、瀕死の重傷を負わされたそうです。なのに
「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」
(ウィキからの引用です)とチッソを告発することもなく、焦点を撮影のみに絞り、多くの貴重な画像を残しました。
1974年10月(11月という情報もあり)、スミス氏とアイリーンさんは水俣市を去ってニューヨークに帰国。
1975年5月の写真集『MINAMATA』の出版直後、スミス氏とアイリーンさんは離婚しました。
スミス氏はその後、ニューヨークのスタジオで新たなパートナーのシェリーさんと暮らし始めましたが、健康状態が極度に悪化。
心配した友人たちの勧めでアリゾナ大学で教鞭を取ることになり、1977年11月にアリゾナ州に引越しました。
1977年12月23日に重篤な脳卒中に倒れ、一時的に回復したものの、翌1978年10月15日にふたたび脳卒中を起こし、
還らぬ人となりました。享年59歳でした。
スミス氏が撮影した、水俣病患者の日常を切り取った何千もの写真の中でももっとも有名な一枚が、
『入浴する智子と母』。
上村智子さんは、母親の胎内にいたとき水銀中毒に侵され、立つことはおろか話すこともできませんでした。
入浴中の二人の姿を撮影することを発案したのは、智子さんの母親だったそうです。
水俣病が、水銀中毒が、どれほど怖ろしい結果を生み、どれほど患者の身体を蝕んでしまうのか――を、世界にしっかりと認識して欲しい。
そんな思いで一杯だったのではないでしょうか。
智子さんは1956年6月13日生まれ。
写真が撮られたのは1971年12月だったそうなので、智子さんは当時15歳でした。
6年後の1977年12月5日に、智子さんは21歳で亡くなられました。
この写真は『LIFE』(ライフ)誌1972年6月2日号に掲載され、水俣病の存在とその悲惨さを世界に知らしめました。
スミス氏とアイリーンさんが1975年に出版した写真集『MINAMATA』にも、もちろん収められています。
この写真の著作権はスミス氏にあり、同氏の死後は遺言により、元妻のアイリーンさんに移りました。
しかし写真が有名になったことで、智子さんの家族は誹謗中傷の対象になってしまいます。
智子さんのご両親は、智子さんが安らかに眠れるよう、写真がこれ以上人目にさらされなくなることを望むようになりました。
上村夫妻の心情を耳にしたアイリーンさんは、1998年に水俣市を訪れて二人に会い、写真の著作権を上村家に移譲することにしました。
映画の中では『入浴する智子と母』の写真がしっかりと映し出されていました。
写真に関するウィキのページは、日本語のものはありませんが、英語のものはあるようです。
ちなみにアイリーンさんは、現在京都にお住まいだそうで、こんなページを見つけました。
Documenting Minamata with W. Eugene Smith - KYOTO JOURNAL
スミス氏とアイリーンさんが水俣で撮影した写真の著作権管理を行う組織へのリンクです。
下は、アイリーンさんが1972年6月13日――智子さんの16歳の誕生日――に撮影したという、
智子さんのご家族とスミス氏の集合写真だそうです。
ご両親にとっての初めてのお子さんだったという、智子さん。
本当に大切にされていたんですね。
若き写真家だった石川武志さんは、スミス夫妻と一緒に3年間、水俣で仕事をしたそうです。
(上の写真でスミス氏の隣にいるのが石川さんかもしれません。)
石川さんは、智子さんの母親の良子さんから、『宝子』という言葉を聞きました。
「私が食べた水銀を智子が全部吸い取ってくれました。水銀の毒を自分一人で背負って生まれてきたのです。
だから私や後から生まれた残り6人の弟妹は無事だったのです。智子は家族の宝子ですたい。」
MINAMATA: W. ユージン・スミスへのオマージュ - nippon.com
こちらも、智子さんを知っていた写真家さんによる、胸を打つ記事です。
智子さんのご家族とアイリーンさんの間で交わされた『入浴する智子と母』を封印するという決定は、賛否両論があることでしょう。
私は個人的には、封印は残念と考えます。『百聞は一見に如かず』と信じるからです。
世界的に有名な写真というと、真先に私の頭に浮かぶのは、『戦争の恐怖』ですね。
ナパーム弾で全身に大火傷を負い、泣き叫びながら駆けてくる9歳の少女。
あの写真を見ても何も感じずにいられる人間などいないだろうし、いるとしたらサイコパスだけでは?
『戦争の恐怖』は1972年6月9日に『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載されましたから、偶然ながら、
『LIFE』1972年6月2日号に掲載されたという『入浴する智子と母』と同時期に公開されたことになります。
『戦争の恐怖』は私でさえ、子供だった当時ではなくとも成長するにつれて何度か目にする機会がありました。
でも『入浴する智子と母』のことは、まったく知りませんでした。
これは『戦争の恐怖』の背景が、世界が注目していたベトナム戦争だったからなのでしょう。
いっぽう水俣病は、極東の小国日本の狭い地域で起きた公害病でしたから、
興味や関心がある人々の記憶にしか留まらなかったものと思われます。
映画『MINAMATA-ミナマタ-』、見て良かったです。
この映画をきっかけにして、ユージーン・スミス氏の功績が再評価されますように。
現在も水俣病を背負って生きておられる患者さんたちの毎日が、どうか安らかでありますように。
そして智子さんを含むすべての水俣病犠牲者のご冥福を、心からお祈りいたします。