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お天気マンの快挙

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今私たちが来ているウェールズの北東部には、

Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch

と何と58文字から成る、ヨーロッパでは一番、世界では二番目に長い一語の地名の村があります。

通常は Llanfairpwll あるいは Llanfair PG と略されるそう。

 

数日前にこの長い地名をスムーズに発音したお天気マンが、話題になったそうです。

Channel 4 Weather のリアム・ダットンさん(34歳)。

スランヴァイル(以下略)村からすぐの RAF Mona 基地が21℃という高温を記録したため

この長~い地名を発音する羽目に陥ったのですが、見事! 発音してのけました。



動画はこちら。 ダットンさんが言ったのは、以下の通りです。 (ニュース記事からのコピペ。)

'Now today we had a big contrast in temperature across the UK –

just 12 degrees off coastal parts of eastern England with cloudy skies.

But in the sunshine in North West Wales, at RAF Mona just up the road from

Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch,

the temperature got to 21 Celsius, that's 70 in Fahrenheit.' 


・・・ すごい。 何度聞いても、 「スランヴァイル ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ゴーゴーゴー(ホ)」 しか聞こえない! 

(地名だけを聞きたい方は、こちらをどうぞ。)


お天気予報は前もって録画されたものでしたが、ダットンさんは一度目でOKを出したそうです。

ツイッターで 「これからスランヴァイル・・・(以下略)とテレビで言うよ」 と公表していたダットンさん。

皆さんからお褒めの言葉をいただき、お礼をツイートしたようです。


スランヴァイル(以下略)は、1860年代に宣伝目的で発明された長い地名だそうです。

鉄道駅もあり、駅名としては世界最長

イギリス女優のナオミ・ワッツは、子供の頃に父親が急死したため母親・兄と共に、

この村に住む母方の祖父母の家で3年ほど暮らしたことがあるそうです。


 ちなみに世界一長い地名は、ニュージーランドの

 Taumatawhakatangihangakoauauotamateaturipukakapikimaungahoronukupokaiwhenuakitanatahu

 だそうですよ。 85文字っ!? (・・・ 負けた ・・・


 

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セント・デイヴィッズだより ⑤

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正味5日のホリデーも、今日が最終日。 明日は朝、荷物をまとめて帰宅するだけです。

今日は午後からムスメと町まで歩き、クリーム・ティーをするつもりだったんですが、あいにく出ようとしたら降り出してしまいました。

天気、もちそうに見えたんだけどな、残念・・・・・ 仕方なくネットして過ごしました。

でも海の見えるサンルームでは、雨降りもまたオツなものなのです。 ほんと、負け惜しみじゃなく。

 

オットーと義弟②は降り出す前に散歩に出掛けたのですが、防水装備万全だったので、2時間ほど散歩して戻ってきました。

風もあるので、今日は釣りは無理。 でも2日続けて成果があったので、満足したみたいです。

 

そんな訳なので、今日は昨日皆で車で訪れた隣町ソルヴァ(Solva)をご紹介。

ハヴァーフォード駅からコテージに来る途中に通過した町で、メイン・ストリートが可愛らしかったし

港もあるようなので行ってみたんです。

(カメラのレンズにまだ汚れが残っていたようです、スミマセン

  

 メイン・ストリートは100m足らずでしたが、カラフルな色合いの家々がカワイイ

  

  素敵なティー・ルームもありましたが、まだ午前中だったのでさすがにクリーム・ティーするわけにもいかず残念。

ワンコ用のお水が置いてあって親切です。

  

 お店らしいお店が少ない中、左側のお店に入ってみました。

 

 普段見かけないような柄のマグカップその他があって、楽しいです。

  

 ワンコのエスプレッソ・セットが可愛い!  お値段は£23.5(≒¥4380)でした。

 

 若い頃ほど物欲がなくなってきている(先が見えてきたから?)のが幸いです。

 

 

オットーたちのおかげで、いい気分転換になりました。 明日帰宅し、明後日から早速また仕事。

しっかり充電したことだし、さ、また頑張るとするか! 

 

 

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セント・デイヴィッズだより ⑥

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しつこいようですが。

私たちが借りたコテージは、本当にいい場所に位置していました。

南向きで、

まっすぐ前方に海・・・ もとい、セント・ブライズ湾(St Brides Bay)が見えて。

水平線には、16kmくらい離れた湾の向こう側の陸地が見えることも。

 

 野鳥はけっこう慣れていて、前庭の岩にパンくずをまいてやったらつつきに来ました。サンルームのドアが、玄関です。

 

サンルームです。 写真だと実際より広く見えます。

  

家の裏手の西側に、狭い居間。 薪をくべて暖をとる、本当の暖炉がありました。

 

 

居間を出て東に向くと、廊下兼キッチン部分になっていました。 家の裏手の中央部分にバスルームと裏口。

 

裏口を背にして南を向くと、シンクと調理台がありました。 シンクの上の窓からの眺めも素晴らしかったです。

 

その左手(家の東南の隅っこ)に、ダブル・ベッドルーム。 ムスメと私はここでベッドをシェアしました。

ムスメはちゃんと、4歳のときから大事にしているウサちゃんを連れてきていました。

大学のあるレスターでも毎晩一緒に眠り、昼間はこんな風にしてベッドでお留守番してもらっているそうです。

(・・・・・ これでいいのか、19歳!?)

  

家の北東の隅にツイン・ベッドルームがあり、オットーと義弟②はここで眠りました。

 

 

というわけで、私たちが滞在したコテージは、Agos y Mor といいます。 ウェールズ語で Near the Sea という意味のようです。

コテージの画像に惚れてオットーたちのホリデーに便乗してしまったわけですが、狭めではあったものの、

期待を裏切らない素敵なコテージでした。   

 

コテージ内に置かれていた紹介のファイルによると、ことの始まりは、現在のオーナーのお祖父さんが1920年代にここに土地を買ったこと。

最初はここを、近くの浜辺に遊びに来たときにピクニックするために使っていました。

やがて古いトレイラーハウスを買ってここに設置したため、お茶を入れられるようになりました。

裏手にトイレも加えました。

トレイラーハウスは戦後、夏の間は行楽客に貸し出されるようになりました。

やがて “The Cabin” として知られるようになっていたそれは、世捨て人のような生活を望む人々に賃貸されるようになり、

1980年代に活躍したポップスターのハワード・ジョーンズ(Howard Jones)も、一時住んでいたことがあるそうです。


(キャ~懐かしい、ハワード・ジョーンズ! けっこう好きでしたよ!!

What Is Love  New Song  Like To Get To Know You Well  No One Is To Blame  とか )   

 

1985年に建築許可が下りたため、今日立つコテージが建設されました。

 

どうやらサンルームは、あとから増築されたもののようですね。 たしかにあのコテージ、サンルームなしではかなり狭苦しい感じです。

  

本当に素敵なロケーション。 オットーたちも 「こんな所に隠居して食事用の魚を釣りに行けたらなぁ」 なんて言っていました。

 

上りのフットパスの途中から見たコテージです。

 

 

 

コテージ Agos y Mor と セント・デイヴィッズ と 聖ナンの井戸 の位置関係。 薄青の四角は、一辺が1kmです。

 

 

昨夜はかなりまとまった雨が降っていました。 今朝になっても降ったり止んだりの中、荷物を積み込み、9時40分に帰途につきました。

 

  

途中でとても洗練されたクラシック・カーを追い越しました。 どうやら結婚式用らしいです。

 

ウェールズを出る少し前から天気が良くなり、セヴァーン橋を渡る頃には青空に。

 

 9時40分にコテージを出て、12時50分にはダーズリーの自宅に着きました。 はやっ!

 

 

M5を北上し始めたら、南下する反対車線はかなりの渋滞で気の毒になってしまいました。

 

 

というわけで無事帰宅し、明日は早速仕事です。

次のホリデーまで、また地道に頑張らなきゃね!

 

 

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永遠の愛

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先週のニュースから。

あるご高齢男性の短い動画が、ネットを通じて6千万回以上視聴されたそうです。

 動画は    こちら

(お急ぎの方は、2:00あたりからご覧くださいね。)

 

動画のタイトルは、

“True love lasts a lifetime”

 

投稿者はヴァン・ナイズ空港でシャトルバスを待っていたヴァレリー・ジェーンさん。

 

男女間の愛というものが若者だけの専売特許ではないことを、改めて思い出させてくれます。

ショッキングな動画が数多く出回る中で、この穏やかな愛情に満ちた動画が6千万回以上も

視聴されたということに、嬉しい驚きを覚えます。

 

隠し撮りされたこのカップルも、6千万回以上視聴されたと知ったら

気を悪くすることはないのでは?

 

寄せられたコメントも、ポジティブなものが大半を占めます。

「年齢に関係なく、真実の愛は永遠に続く。 これまでに見た最も素敵なビデオだ。」

「齢を取れば取るほど、人生に大切なのは何を持っているかではなくて誰がいるかなのだと悟るようになる。」

「(動画の男性は)今や残り少なくなりつつある、真のジェントルマン。」

 

このカップルの末長いお幸せをお祈りします。

 

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

今日は仕事がオフ、なのに一日雨だったので、動画に没頭して過ごしました。

最初は怖い話を視聴していたのですが、途中からいい話にはまりました。

そのなかで心に残ったいい話をふたつ、紹介させてくださいね。

こちらと、こちらです。

ひとつめは、超スッキリ系。

ふたつめは長めですが、まるでドラマになりそうな内容で目に大量に汗をかきました。

ひょっとしたら作り話?とすら疑ってしまいましたが、それでもいいや。

とても清清しい感動をもらえたから。

 

いい話と言いつつ怖い話をリンクするようなフェイントはかけていませんから、ご安心を。

  Happy Viewing !

 

 

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海苔巻づくり

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 今日も仕事がオフだったので、ムスメとグロスターに買物に行きました。

昔からある Eastgate Shopping Centre の2階(下左)は、フードコートが閉店してしまってから

閑散として寂しげです。

寂しさを埋めるかのように、壁の高い位置にグロスター・ラグビー・チームの面々の肖像画が掛かっていました。

そういえば、もうすぐラグビーW杯が始まりますもんね。

 

 スポーツには興味皆無の私ですが、マイク・ティンダール(Mike Tindall)だけは知ってます!

エリザベス女王の孫娘ザーラ・フィリップスの夫君だから。  (・・・お鼻が曲がっているのは、ラグビーで激突したせいでしょうか、やはり?

 

 

運良く願い通りに大学でのアルバイトを獲得したムスメ。 でもその代わり、研修があるので予定していた今月26(土)より早く、

20日(日)にレスターに戻らなければならなくなってしまいました。 それで今日、必要品の買い足しに行ったわけです。

 

大きなスーパーの2階のカフェでランチに。 ムスメはラザニアとチョコレート・オレンジ・フラッペ、私はビーフ・ストロガノフとコーヒーにしました。

今度ムスメと外食できるのは、クリスマス休暇で戻ってきたときかな・・・ 

 

 タウン・センターから西に2kmほど離れたこの辺り。 運河沿いに荒れ果てた倉庫などが並んでいたのですが、

近年急ピッチで再開発が進んでいます。

 屋根が一部陥没したあの倉庫も、近い将来取り壊しになることでしょう。

 

 

そうそう、グロスターへの往復のルートですが。 今朝ラジオを聴きながら掃除していたら、いつも使う

「A38号道路で事故があり道路は封鎖中」 と言っていたので、A38と平行して走るM5高速道路を代わりに使いました。

先ほどローカルニュースをオンラインで見てみたら、今朝10時前に車2台の衝突事故があり、26歳の女性が

「生命にかかわる重症のため救急ヘリでサウスミード病院(ブリストル)に救急搬送された」 とのことです。

プジョー同士の衝突事故で、26歳女性は赤いほうを運転していたとか。

黒いほうを運転していたやはり女性のドライバーは、グロスター・ロイヤル病院に搬送されたそうです。

 

 

広めの道路で、見晴らしもいいんです。 一体何がどうなって、こんなひどい衝突事故が起きてしまったのか・・・

私も通勤に車を使うから、気をつけなくちゃ。 ムスメが社会人になって落ち着くのを見届けたいですからね。

重症の女性が無事回復されますように。

 

夕飯には、奮発してスモーク・サーモンを買ってきました。 120gで£3(≒¥552)。

 

 120gなんて片手に包めそう。 一人占めして温かいごはんでぺろりと平らげたくなる気持ちを抑えて、

 

 きゅうりと一緒に海苔巻にしました。 夕飯は、これとサラダ。 オットーは少食なので、これ以上何か作っても 「食べ切れない」 と残しますからね。

食に執着のない夫だと、面倒臭がりで料理も苦手な妻は助かるのです。

 

 

 大学生活2年目のムスメは、学生村の部屋を出て、他5人とシェアする家に入るのですが。

その家賃ルール?が、家主にそれは都合よくできていて、腹の立つ・・・・・    

 

長くなるので、その話はいずれまた。

 

 

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ウクレレのジミ・ヘンドリックス

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今朝の9時頃、ほけ~っと BBC1 の Breakfast News (午前6時~9時15分)を見ていたら、

珍しく日本人ぽい方がスタジオにゲスト出演しました。

この方です。 画像は全然関係ない、ネットから拝借したものですが。

 

 

すぐに削除されてしまうかもしれませんが、その動画がUPされています。

韓国の人かな、中国人でもあり得るかな・・・ と最初は思いましたが、お名前を聞いて日本人だなと。

英語がネイティブみたいに流暢でいいな~!と羨ましく思っていたら、

ハワイのホノルル出身の日系5世だったんですね。 道理で流暢なはずだわぁ。

 

スタジオでは “ウクレレのジミ・ヘンドリックス” と紹介されていました。

YouTube を通じて世界的に有名になった天才的ウクレレ奏者で、すでにメジャーな存在だったんですね。

初の英国ツアーが始まるので、ニュースで紹介されたようです。

 

1976年11月生まれで、もうすぐ39歳になるジェイク・シマブクロさん。

(・・・ “シマブクロ” は本名なのかしらん ・・・?)

日本人や日系の方々の国際的な活躍は、日本人として嬉しいもの。

今後も活躍を期待してます!

 

 

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転ばされた難民父子

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ハンガリーとセルビアの国境に近いロズケ(Röszke)村で、泣き叫ぶ幼い息子を抱えて走るシリア出身の父親。

その場にいた女性カメラマンは咄嗟に足を出し、

  

 父親を転倒させる。 もんどりうって倒れる父親。

 

この結果、顎と脚に痣ができた7歳の息子は、その後ショックから嘔吐したという。 父親も顎に痣をつくった。

           

 

女性カメラマンの暴挙の映像がネット上を駆けめぐると、強い非難の声が上がった。

 

 

その後彼女には、少年と少女を蹴るという “余罪” もあったことが判明。 (動画はこちら。)

 

          

 

 この暴挙で世界的に有名になったのは、ぺトラ・ラズロ(?Petra Laszlo、40歳)。

極右政党Jobbik党(=難民受け入れに断固反対)が運営するネットTV局・N1TVのカメラ・ウーマンだった。

この出来事が公になると、N1TVは次のような声明を出して “受け入れ難い行為” を犯した彼女を解雇した。

"Today, a N1TV colleague behaved unacceptably at the Roszke reception centre.

The cameraman's employment was termminated with immediate effect."

他の政党は、ラズロの行為を犯罪として告発する可能性を追求している。

 

その後彼女はハンガリーの新聞紙上で、状況説明と謝罪をした。

 

「カメラが回っていたので、状況がよく見えていませんでした。

何百人もの難民が警察の制止線を突破して私に向かって駆けてきたので、恐怖のあまり私の中で何かがはじけました。

私を襲おうとしているとパニックし、自分を守らなければと思いました。

パニックした何百人もの人々が押し寄せてくるという状況下で適切な判断を下すのは難しいことです。

起きたことを申し訳なく思います・・・ 私の責任です。

私も母親ですから、私に向かって駆けてきたのが子供だったということを、特に申し訳なく思っています。

私は心ない、人種差別主義の、子供を蹴るカメラ・ウーマンではありません。

政治的魔女狩りの対象になったり、『殺すぞ』 と脅されるに値するような人間ではありません。

本当に申し訳ありませんでした。」

 

転倒させられた父親は、シリア出身のオサマ・アブデル・ムーセン(?Osama Abdel Muhsen)、52歳。

難民を受け入れてくれる西欧を目指す父子は国境で足止めされ、着のみ着のまま数日間野宿させられ、

業を煮やして同胞と共に、ハンガリー警官の制止を振り切って10km離れた国境まで進むことにしたという。

「前に息子がハンガリーの警官にわざとつまずかされたことがあったため、息子を抱えて走っていた。

でも今度のことに比べれば、あんなのは何でもなかったね。 突然脚が現れたと思ったら、地面に倒れていた。

あの脚が警官のものかもカメラ・ウーマンのものかもかわからなかった。」

 

12日間にわたる波乱に満ちたトルコからの旅のあと、12日(土)にドイツ入りした父子は、次男のモハメド(16歳)に迎えられた。

   

 

内戦と ISIS から逃れるため、シリアを離れてトルコ南部に移民したのは2012年の末のこと。

しかしトルコでの新生活は厳しく、次男(現在16歳)はドイツに向かった。

妻と長男(18歳)長女(13歳)を残し、父親もまず三男のザイド(7歳)を連れてドイツに向かうことにした。

「西欧に落ち着き次第、できるだけ早く妻と子供たちを呼び寄せたい。 自分たちと同じやり方ではなく、合法的なやり方でね。」

 

シリアではスポーツ教師を監督する仕事に就き、サッカーのコーチも務めていた。

そんな彼に、マドリッド南郊のヘタフェGetafe)の学校が、サッカーのコーチとしての仕事を提供。

家族のための住居も供給してくれるとのことだ。

アラビア語が話せるスタッフに伴われたモーセンは、二人の息子とともに16日(水)夜、マドリッドに到着。

  

 

「不運な出来事で図らずも有名になってしまったモーセンさん一家を歓迎します。

モーセン氏にはサッカーのコーチとしてお持ちの知識と経験を活かしていただき、

またザイドくんには地元のサッカー・クラブでプレイしてもらえたらと思います。

市は全力で、モーセンさん一家の移民要請をサポートします。」

と、ヘタフェ市長。

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

まぁ~、なんて脚がはやい女性! (走る速さではなくて、「手が速い」 みたいなイミで。)

パニックした? 自分を襲おうとしていると思った? あの見事な脚さばきは、どう見ても 『防御』 ではなく 『攻撃』 ですよ。

しかも父子を転ばせたとき、周囲には十分にスペースがありました。 なのにわざと脚を突き出したんですからね。 弁解の余地はありません。

「私は心ない、子供を蹴るカメラ・ウーマンではありません」 と言われても、映像からはそうとしか見えないし。

お子さんには気の毒だけれど、彼女の解雇は自身が招いたもの。 (お子さんが学校で苛められなければいいけど。)

彼女には今後、人を蹴ったり転ばせたりする前に、よく考えて欲しいものです。

 

でも――文字通り、災い転じて福となる

トントン拍子に仕事と住居を提供されたモーセンさんたち。

今や、あの “ハンガリー人カメラ・ウーマン” に感謝したい気分では!?

 

モーセンさん一家が一日も早く、家族揃って暮らせますように!

 

 

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始まった二年目

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今月から大学2年生のムスメ。 今朝レスターに戻っていきました。

オットーの車に、必要品を積んで。

 

 

本来なら今度の土曜日=26日に引越せばよかったのですが、大学でのアルバイトを獲得し、

トレーニングがあるため一週間早く戻らなければならなくなったのです。

 

26日だったら空けておいたから私も一緒に行けたけれど、今日は遅番を入れちゃってたからダメでした・・・

その分後部座席を倒し、めいっぱい積み込めましたけれどね。

私の車が車道の先にあったので、車の入れ替えをし、車窓からオットーの車を見送りました。

 

 

今度会えるのは、クリスマス休暇で戻ってくる12月半ば。 さみしー・・・・・ 

ムスメ、二度目の巣立ちであるにもかかわらず、昨夜も今朝も、瞳を潤ませていました。

昨夜は私もつられてウルウルしたけれど、今朝は大丈夫でしたよ!


オットーによると、ここダーズリーからレスターまで、ちょうど2時間で着いたそうです。

6寝室ある6人の学生向けの、3階建てのテラス・ハウス(長屋づくり)。

ムスメが最初の入居者なので、家主さん夫婦が正午の約束で待っていてくれたそうです。

今日の午後にはもう一人入居してくるので、今夜はムスメ、一人ではないはず。 よかった。

 

使いまわしですが、ムスメが前に家を見に行ったときの写真です。 オットーによると、奥行きがあって外観から想像するより広い内部だったとか。

 

レスター駅からも大学からも、徒歩15分ほどの距離にあるそう。 ナマケモノムスメには、いい運動になるわ。

 

ここで先日触れた、『家主に都合のいい家賃ルール』 について書きましょう。

 

其の壱。

賃貸契約は夏休みが始まる6月29日(月)からスタートし、9月27日(日)までの13週間の夏休みの間も、

普段の家賃の2/3を支払わなければならないんです!

しかもその間、「家を修理したり内装を整えたりがあるから」 と、家への出入りは禁止。

(バイトのためムスメは一週間早く入居させてもらいましたけどね。)

まるで “空気を住まわせる” ために2/3の家賃を払っているようなものなので、(なんだかなぁ~・・・)と思いますよ。

思いませんか!?

家主にしてみれば、一般の家族に家を貸せば夏休みも関係なく家賃収入が入るわけだから、

学生向けの賃貸物件として一年のうち3ヶ月も家賃収入が入らないのは面白くない。

というのはわかるんですが、やっぱり(でもなぁ~・・・)と思ってしまう。

学生向けの物件にするのは家主の選択だし、第一そのおかげで一家族に貸すよりずっと多い家賃収入になっているはずだもの。

 

其の弐。

賃貸契約は一年間で、6人の学生は連帯責任を負う。

つまり6人のうち誰かが家賃を滞納したり、途中で転出してその後の家賃を支払わなかった場合、

残る学生が、滞納あるいは転出して残りの家賃を払わない学生の家賃を支払う義務を負う。 ・・・んですよっ!

一年間の契約を誰かが反故にしたら、それを追及するのは家主の仕事では!?

 

でも、オットーがネットで調べてくれましたが、このふたつのルールはごく一般的なようです。

貧乏な学生から家賃を吸い取って、その上こんなルールまで???

あまりにも家主が保護されていて、不公平すぎるぞーっ!

 

ついでながら、家賃を公表しておきますね。

 

ムスメが最初の一年目に住んだ、学生村の12寝室ある一戸建ての部屋の家賃は、週£100.10(≒¥18,620)。

水道光熱費、ネット使用料金、テレビ受信料はコミコミです。 部屋には洗面台のみで、キッチンとシャワールームは共同。

昨年9月の最終土曜日から今年6月の最終土曜日までの39週間で、合計£3903.90(≒¥726,130)支払いました。

 

二年目の今年の家賃は、週£71.00(≒¥13,210)。 でもこれは水道光熱費その他を含まないので、

それらをワリカンで払うとなると 「たぶん去年とトントンになると思う」 とムスメ。

部屋には洗面台もなく、キッチンとバスルームはもちろん共同です。

二年目の家賃の支払い総額は、すでに支払った夏休み分も含め合計で£3385.00(≒¥629,610)になりますが、

これに水道光熱費その他を6人でワリカンしたものを足すと、さていくらになることか・・・・・

 

つまり今年ムスメが住む家の家主さんは、63万円 x 6人で、一年間に378万円の不労所得があるわけだ!

・・・・・ 不動産があるって、うらやましいなぁ ・・・・・

 

 

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ロンドン出張

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・・・といっても、もちろん私じゃなくて、オットーですが。

アート・スタジオで働くオットーは、ロンドンにあるスタジオに行く必要が生じ、昨日今日の1泊2日でロンドンに出張しました。

ストラウドから列車で行くため、昨日の朝は早起きして07:05発の列車に間に合うよう私が車で送り、

今日は19:22に帰着するオットーを迎えに行きました。

 

私は昨日は遅番を入れていたので午後10時頃帰宅したんですが、

誰もいない家に戻ったのって、結婚以来初めてだったかも。

8年前まではオットーは家でイラストレーターをしていたから出張なんてまずなかったし、

スタジオ勤務になってからたま~に出張があっても、ムスメと、さらには5年前まではケイトーもいてくれましたからね。

誰もいない真暗な家に帰るのって、寂しい・・・・・

 

 高齢者用精神病棟でヘルスケア・アシスタント(=介護ヘルパー)をしている私。

退院間近な一人暮らしの患者さんの中には退院を喜ばない人もいますが、その気持ちがわかったような気がします。

病院にいれば、共用の居間やダイニング・ルームに出て行きさえすれば、いつでも話し相手がいる。

その状態に慣れたあとでまた一人暮らしに戻るのは、けっこうきついものがあることでしょう。

 

オットーの今回の出張はロンドン中心部から離れたスタジオに往復するだけだったため、中心部を歩き回るヒマはなかったそうです。

(ロンドン・パディントン駅からスタジオまでは、スタジオが手配したタクシーを使用。)

日も大分短くなってきたうえ昨夜は雨だったので、仕事のあとは歩いてホテルに入り、その後は外出しなかったそうです。

そのため写真も面白味のないホテルのものしかありませんが、

前回、2年半前のロンドン出張の際にオットーが撮った写真が残っていたので、

今日はそれをUPすることにします。

 

まずはロンドンのおヘソ、ピカデリー・サーカス。 3月の出張だったので、人々はまだ冬着ですね。

 

リージェント・ストリートと、有名なおもちゃのデパート、ハムリーズ

  

ヤドカリの家みたいなシティー・ホールと、タワー・ブリッジ

  

この大きさのヤドカリがいたら、パニック映画が作れそう。   ロンドン・アイは2009年に乗りました。 眺めはなかなか良かったです。

 

ロンドン塔は、見る角度によっては背後の高層建築物に存在感を薄められちゃいますね。

 

 ミレニアム・ブリッジと、テート・モダン。 行ったことないけど、テート・モダンの外観って工場みたい・・・

 

グローブ座と、セント・ポール大聖堂

  

ザ・シャードはまだ完成していなかったのかな? ウィキでは2012年7月に完成したとあるけど??

・・・もしかしたらこの出張は記憶より前だったかもしれないので、深く追求しないでくださいね。

 

 テムズ・エンバンクメント(Thames Embankment)。

 

パブ・レストラン The Sherlock Holmes です  (じつは私はホームズ・ファン。)

最後はやはり、ビッグ・ベン(お化粧なおしの記事はコチラ)に〆ていただきましょう。

  

 

こうして見ると、ロンドンもなかなか綺麗ですね。 でも今夜帰宅したオットーも言うように、

一時的に訪れるならまだしも、住むのは御免です。 混雑してるし、どのみち物価高いから住みたくても住めないけれど。

やはり私たちには、田舎暮らしが性に合っているみたい。

 

 

今日のラグビーW杯の日本対スコットランド戦は残念でしたね。 試合はグロスターのキングスホルム・スタジアムで行われたそうで。

タウン・センターから北に少し離れた場所にある同スタジアム。 この夏、車をホンダの修理工場に置いたあと、初めてその脇を歩きましたっけ。

 

 今日はグロスターの日本人人口が、一時的に濃くなったことでしょう。

残念でしたが、それでも優勝候補だったという南アフリカを破った事実は変わりません!

 

頑張れニッポン!!

 

 

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同じ誕生日

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《 おことわり: 今回の記事は、個人的見解を含みます。 気分を害された方がおられたら申し訳ありません。 》

 

先月私は、仕事中に泣いた。

7年半前に高齢者用精神病院で非常勤HCA(Health Care Assistant=介護ヘルパー)として働き始めて以来、二度目。

 

初めてのときは、左目に頭突きをされた。

4年前の12月のある日のことだった。

それがまた、その年の夏に網膜剥離の日帰り手術を受けていた左目の方だったから、

痣が残るようなひどい頭突きではなかったけれども、

(なぜよりによって左目を・・・・・) と思ったら泣けてしまった。

網膜剥離が再発したらとしばらくはビクビクしていたが、

幸いそうはならず、ほっとした。

 

先月は、2:1(Two to One=スタッフ2名で一人の患者さんを見守る)の最中だった。

口元に笑みを浮かべながら廊下をゆっくり行ったり来たりしていたMさん(男性)は、74歳。

いきなり私の右手首をつかみ、反時計回りにねじ上げた。

あまりの痛さに、咄嗟に声が出なかった。

何とか手首をほどいて逃れたが、目が潤んでしまった。

仕事中に泣くなんてみっともないので嫌なのだが、涙を止められなかった。

苦痛はもちろんあったが、涙が出てしまうのは、苦痛以上にショックのせいではないかと思う。

 

・・・長身のDさんに靴下を履かせようとしていて胸元を蹴られたときは、耐えたんだけどな。

 

 

すべて認知症患者さんにされたこと。

左目に頭突きをしたJさんは入院してきたばかりで、私は靴下を履かせるため、

椅子に座ったJさんの前にかがみ込もうとしていた。

奥さんと有資格ナースも付き添っていたのだが、いきなりのことで止め様がなかった。

その後投薬治療で状態が落ち着いたJさんは、小柄で丸顔の話好きな優しいお祖父さんだった。

老人介護施設へと退院していき、そこで亡くなったと聞いた。

 

Mさんは、認知症と診断されたばかり。

暴力性が出てきたため奥さん一人の手には負えなくなり、入院となった。

背が高めだし、今どきの70代はまだまだ元気で力も強い人が多い。

暴力的になったときスタッフ一人では不十分なため、2:1である。 (眠っている間は1:1。)

2:1や1:1はスタッフの間で一時間毎に交代するのだが、忙しいときや

スタッフに欠員が出た(仕事に来るべきスタッフがシフトをドタキャン)ときは、二度回ってくることも多い。

入院当初は不穏状態がずっとひどくて、身体抑制をせざるを得なかったことも何度かあったそうだ。

鎮静剤を経口で服用してくれない場合は、4人がかりで身体抑制をしての筋肉注射となる。

 

《 資料画像: 身体抑制 》

(病棟で働くスタッフは、年一回 『身体抑制法』 のトレーニングを受けなければなりません。)

 

たとえ相手に悪気がなくても、暴力を振るわれるってやはりショックだ。

認知症患者が暴力を振るうようになったら、在宅介護は無理だろう。

私だって、もしオットーが認知症を発症して暴力を振るうようになったら、一人で介護は絶対無理。

在宅介護してくれていた奥さんが、認知症の旦那さんに殴打されて亡くなったというニュースもあった。

心配して様子を見にきたお隣さんが、血まみれで床に倒れて亡くなっている奥さんと、

訳がわからず警察や救急車を呼ぶという発想もないまま呆然としている旦那さんを発見したという。

 

非情な認知症。

その人本来の人格を奪い、人を変えてしまう。

自分が何をしているのかの認識がないまま、他人に暴力を振るう。

男性に限ったことではない。 女性だって、暴力的になる。

70歳の女性患者さんに手首をねじ上げられて骨を傷めた同僚は、4ヶ月も休職しなければならなかった。

旦那さんを編み棒で刺そうとして入院してきた90歳女性もいた。

そういう状態に私がなったら、ぜひぜひあの世に行かせて欲しいと思う。

『安楽死』 ではない。

尊厳の無くなった 『生』 など続けたくないが故の、尊厳を守るための、『尊厳死』 だ。

 

最近は50代の患者さんも珍しくない。

50代半ばのLさんは、入院してきてから認知症と診断され、号泣したと聞いた。

私だって泣く――号泣する――だろうと思うから、気持ちはよくわかる。

私は心配性だしどちらかというと悲観的なので、『認知症にかかったって幸せに生きられる』 などとは思えない。

認知症病棟で働くことにより、現実を見過ぎてしまったからだろう。

 

 

最近認知症病棟から、私と同じ誕生日の女性患者さんが老人介護施設へと退院していった。

私より9歳上なだけの、62歳の方だった。

私は今後も一人旅で外国を訪れるつもりでいたけれど、

残された時間は思ったよりずっと短いかもしれないと、改めて思い知らされた。

(50代で認知症にかかることも有り得る)と漠然とは思っていても、なかなか実感は沸かない。

同じ誕生日の方をお世話して、初めて現実が見えたというか・・・・・

 

私は尊厳死賛成派です。

人の手を借りて食べさせてもらい、排泄の後始末をしてもらい、

なおかつ私を助けてくれる人に暴力を振るうようになってまで、

生きていたくない。

 

否、その状態になった私は “生きている” のではなく、 “存在している” だけ。

私の世話をしてくれている人に暴力を振るう私は、もはや私じゃない。

私という人格が回復の見込みがないまでに失われてしまったら、それは人格が死んでしまったということ。

人格死です。

その状態になったら、惰性で存在を続けるよりあの世に行かせて欲しい。

人間いつかは必ず死ぬんだもの。

私のために将来使われるであろう医療費は、回復の見込みのある他の人のために使って欲しい。

介護施設で “存在” を続けるために貯金を切り崩すくらいなら、その分ムスメに遺してやりたい。

 

だからといって、尊厳死を選ぶ方法はあるのか?というと・・・・・

あるんです。

皆さんもうご存知かもしれませんが。

 

これからしばらくは、尊厳死を記事のトピックにしたいと思います。

(しんどいトピックなので、たぶん毎回ではありませんが。)

 

 

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スイスの尊厳死幇助組織 ・ ディグ二タス

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《 おことわり: 私は自殺/安楽死という呼称を好まないので、

一般の定義は無視して尊厳死という言葉を使うことにします。 》

 

スイスは、条件を満たせば尊厳死を合法と認めてくれている数少ない国のひとつ。

尊厳死幇助組織にはディグニタス(Dignitas)とイグジット(Exit)があるが、イグジットはスイス住民のみが対象なので、

外国人が頼れるのはディグニタスだけとなる。 ウェブサイトはこちら

 

チューリヒから東に15kmほどの町フェフィコン(Pfäffikon)にある、ディグ二タスの尊厳死幇助クリニック。

プレハブの大きいのみたいな建物なのが残念・・・・・ お隣は大きな工場だし・・・・・

スイスなんだから、バルコニーに綺麗な花がてんこ盛りの山小屋風だったらよかったのに。

 

 でも、これでいいのかな? あまり素敵な建物だとこの世に未練が出て、せっかくできていた死の決心が、鈍ってしまうかもしれないから。

  

以前はマンションの一室で尊厳死を幇助していたが、尊厳死遂行後は警察車・救急車・霊柩車などが入れ替わり立ち替わり

やって来るため近隣住民からの苦情が絶えず、マンションから退出させられてしまった。

そのためその後しばらくはホテルの一室で尊厳死を幇助せざるを得ず、その頃の “顧客” の中には

「だったら自分の車の中で死にたい」 と、高速道路の待避エリアに駐車した車のなかで死を遂げたドイツ人も数人いたという。

そんな不便も、2009年にこの2階建ての家屋を購入したことで過去のものとなった。 ・・・そうだ。

  

 池のある庭もあるんですね。 冬は寒々しいかも。

 

 ・・・・・やっぱりやだな、隣の工場。 たとえ死ぬために訪れた場所であっても ・・・・・。

  

 内部。 日本語版ウィキには 『居心地のよい高級ホテルのような部屋』 とあるけれど、それは持ち上げすぎじゃ・・・? 

 

 死ぬ方法は、水に溶かされた致死量を超える薬物ネンブタールの服用。

ディグニタスの創設者はルートヴィヒ・ミネリ(Ludwig A. Minelli、下右)氏(83歳)。

 

 

理論家で翻訳家で著作家でもあったフランス人のミッシェル・コース(Michèle Causse)は、74歳の誕生日だった

2010年7月29日、ディグニタスで尊厳死を遂げた。 その模様はスイスでTV放映されたという。

  

 飲まなければならない水溶液は、やたら苦いらしい。 彼女も 「苦い。 ひどい味」 と言ってばくばくチョコレートを食べていたが、

やがて眠りに落ちていった。 動画はこちら

 

 

昨年2014年に尊厳死を幇助された人々の、国別の内訳。 (日本人はまだ一人もいなかった模様。)

1998年から2014年の間に、273名のイギリス人がディグニタスに尊厳死を幇助されたという。

これはドイツ人の920名に次いで二番目に多かった。

ドイツ人が突出して多いが、その理由のひとつは、創設者のミネリ氏が2005年に、

ドイツのハノーヴァーにアドバイス・センターを開設したためと考えられる。

 

今年5月27日付の Express 紙によると:

ディグニタスに尊厳死を幇助してもらうためには、まず会員にならなければならない。

入会費は162ポンド(3万円)で、年会費は最少でも65ポンド(1万2千円)。

尊厳死の決心がついたら、自分の医療記録のコピーと、自分がなぜ耐え難い状況にあるのかを説明する手紙と、

1860ポンド(34万円)をディグニタスに送付する。

送付された資料はディグニタスと提携している医師によって審査され、医師は致死量の薬物を処方するか否かを決定する。

薬物が処方されることになれば、尊厳死にOKがもらえたことになり、その旨連絡を受けた会員は、

ディグニタスと相談の上日時を決める。 ホテルの相談にものってもらえる。

チューリヒに到着したら、医師との二度の面会のため620ポンド(11万4千円)、さらに

尊厳死の準備をして死を見届けてくれるディグニタスのスタッフ2名に1860ポンド(34万円)を支払う必要がある。

(合計で4569ポンド〔≒84万円〕ね。 インフレも考慮に入れて、それプラス渡航費用は

いつでも用意できるようにしておかなくちゃ。)

 

『法的理由のため、“顧客” は最後の行為(致死量の薬物の服用)を自ら行えなければなりません。

それが可能でない場合は、残念ながら我々はお手伝いできません。』

と、ディグニタスは明言している。

(致死量を飲むことが自分でできなくならないよう、体に気をつけようっと。)

 

尊厳死がニュースのトピックになるたび、気を引き締めるワタクシです。

 

 

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ジェフリー・スペクターの尊厳死

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尊厳死関係の記事をサーチしていて、わかり易くまとめられた記事を見つけた。

NHKの朝の番組らしい 『キャッチ!世界の視点』 を紹介する記事で、リンクはコチラ

 

 

この記事中で触れられている英国人ジェフリー・スペクターさん(54歳)は、

今年5月にディグニタスで尊厳死を遂げた。

こちらでもニュースになったので、今日は彼について書きます。

 

         

 

成功したビジネスマンのジェフリーさんは、活動的で大のスポーツ好き。

6年前に腫瘍が見つかり、悪性と診断された5年前にディグニタスに登録した。

 ジェフリーさんの妻エレインさん(53歳)、娘のケリーさん(21歳)、コートニーさん(19歳)、カムリンさん(15歳)は

尊厳死に反対したものの、最終的にジェフリーさんの意志を尊重した。

末娘のGCSE試験が終わるまで待つつもりだったが、病状が悪化し両手の機能が失われ始めたため、

予定を繰り上げざるを得なかった。

 

 

 

 脊髄内部とその周囲にできた悪性腫瘍は、身体を麻痺させてしまうリスクが高すぎるため手術不可能。

治療にもかかわらず大きくなり続けた腫瘍は “時限爆弾” のようなもの。

いつジェフリーさんの首から下を麻痺状態にするかわからない。

 

「家族や友人は尊厳死などするなと私に懇願し、スイス行きをやめるよう説得しようとした。

しかし私は尊厳死を、最もましな選択と考える。

家族にとっても、長い目で見ればこれが一番ましだと思う。

家族も私の決意を受け入れてくれた。

死を怖れてはいない。 しかし四肢麻痺になるのは耐え難い。

私はいつその状態になるかに怯えながら生きるより、死を選ぶ。」

 

 ジェフリーさんの家と、バケツ・リストにあった “スピットファイアの操縦” を成し遂げた日の彼。

 

 

チューリヒでの最後のインタビューで、ジェフリーさんは語った。

 

「私は自分の人生の最終段階を自分でコントロールしたい。 私は健康で活発だったが、2008年に背中の痛みで始まったものが

私の人生をひっくり返し、人生でもっともひどい決断をしなければならなくなった。

私は寿命を待たずにあの世に行くが、怖れはない。 腫瘍はおとなしくなってくれるかもしれないが、リスクは冒せない。

私を批判する人もいるだろうが、やめて欲しい。

自らがその人の立場に立ったのでない限り、他人を批判するべきではない。

 

両脚の麻痺だけだったら、耐えられただろう。 しかし首から下が麻痺してしまったら・・・

話すことすらできなくなったら、どんな希望があるというのだろう・・・

私は尊厳と誇りを持つ、独立心旺盛な人間だ。

自分でお茶を飲み、電話をかける。 こういったことを自分でしたい。

家族は尊厳死に反対するが、私は長期的にはこれが家族にとって最善と信じる。

家族にはこの先も、良い人生を送って欲しい。

男は、家族の最善を願うものだ。 自分の最善ではなく。 子供たちに、人生を満喫して欲しい。

世話をされた私に回復の見込みがあるのならまだしも、ないのだから。

そして私は、自分にも尊厳を保つ人権があると信じる。

 

英国で尊厳死が違法なため、私は早く死なざるを得ない。

身体が麻痺してしまったら自力ではスイスに行けなくなり、家族に連れて行ってもらえば彼らが告発される可能性があるからだ。

英国で尊厳死が認められていたら生き続けて、腫瘍を切除する手術にも挑んだことだろう。」

 

  家族や親しい友人たちと最後の夕食を楽しんだジェフリーさんは、翌日ディグニタスの助けを借りて

あの世へと旅立った。

 

この写真が撮られて16時間後、ジェフリーさんは還らぬ人となった。

 

 彼の死後、遺族は自宅から声明を発表した。

「ジェフリーは自ら切望していたように、意志を貫き尊厳をもって自分の人生を終えました。

彼は麻痺した身体で家族に世話になりながら生きたくないということを、とくに明らかにしていました。

今年初めに病状が悪化したため、彼は、四肢が麻痺してしまう日が近いと怖れるようになったのです。

困難で苦痛に満ちた日々でしたが、私たちは家族として、彼の決意を100パーセント尊重し支持しました。

今は悲しみに打ちひしがれていますが、同時に彼が安息の中にあることも理解しています。」

 ニュースでジェフリーさんのことを知った人々に、感謝の言葉も。

「ジェフリーの勇敢な決意に対する温かいお言葉や支持のメッセージに、心から感謝します。

私たちは、素晴らしい夫/父親/兄弟/友人であったジェフリーのことを、かつてないほど誇りに思っています。」

 

 

2009年に手術不可能な悪性腫瘍と診断されたジェフリーさん。

死ぬ権利を求めていたトニーさんの戦いを、見守っていたに違いない・・・・・

ジェフリーさんが怖れたまさにその状態――首から下の全身麻痺――に陥っていたトニーさん。

(詳しくは 『死ぬ権利を求めて』 新たな闘い』 でどうぞ。)


ジェフリーさんのご冥福をお祈りします。

 

 

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アルナ・シャンバグ事件

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ジェフリー・スペクターさんとともに

NHK キャッチ!世界の視点 ~“安楽死”をめぐる海外事情は~ で触れられていた、

42年間(正確には41年半)の昏睡状態を経て今年5月に亡くなったアルナ・シャンバグさん(享年66歳)。

今日は彼女についてあれこれ読み知ったことを書きます。 《敬称略》

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

1973年11月27日: ムンバイのキング・エドワード記念病院(KEM)の看護師だったアルナ・シャンバグ(当時25歳)は、

雑役夫だったソーハンラール・ヴァールミーキ(?Sohanlal Valmiki、当時28歳)に性的暴行を受けた。

ヴァールミーキは犬用の鎖を使ってアルナの首を絞めたため、彼女の脳への酸素の供給が断たれた。

英語版ウィキによると: 彼女は当時、同じ病院で働く医師と婚約していた。 彼女が病院の地下で服を着替えていたとき、

同病院に雇われていたヴァールミーキが襲いかかり、犬用の鎖を使って彼女を窒息させ、ソドミー行為を行った。

窒息により脳への酸素の供給がストップしたため、脳幹挫傷と頚髄損傷と皮質盲の被害を受けた。

血しぶきに横たわるアルナは11時間後の翌朝7時45分に、掃除人により発見された。


 

同年11月28日: ヴァールミーキ逮捕。

事件は窃盗・殺人未遂として処理された。 これはKEM病院側が、婚約中だったアルナが社会的侮蔑の対象とならないよう、

レイプされていたことを隠匿したためだった。

 

 同年11月29日: 極度の暴行によりアルナの身体は麻痺し、視覚聴覚を失い、昏睡状態にあった。

 

1974年: ヴァールミーキはレイプではなく窃盗と殺人未遂で起訴され、7年の禁固刑を宣告された。

 

1980年: 刑期をつとめたヴァールミーキは、釈放されると名前を変え、デリーの病院で働くようになった。

市当局はアルナの身柄をKEMから移送しようと試みるが、看護師たちの反対により断念する。

 

2009年: 『アルナの物語(Aruna's Story)』 の著者でジャーナリストのピンキ・ヴィラーニ(?Pinki Virani)が、

アルナの友人としてアルナの尊厳死を求めて最高裁判所に提訴する。

 

2011年1月24日: ヴィラーニの訴えに応じ、38年間昏睡状態にあるアルナの状態を調べるための

研究班が立ち上げられる。

 

同年3月7日: 最高裁判所はヴィラーニによるアルナの “慈悲的殺害(Mercy Killing)” の要請を却下する。

(アルナは人々を認識し、好き嫌いを伝えられ、普通に呼吸でき、すすんで献身的に世話をしてくれる看護婦仲間がいる。

家族代わりの彼女等がアルナの生命の存続を願っている以上、アルナは生かされ続けるべき。 という理由だった。)

しかし同時に、インドにおいて消極的安楽死を許容するという画期的な決定を下す。

アルナの尊厳死が却下されると、交代で彼女の世話をしていたKEM病院の看護師たちはお菓子を配りケーキをカットして

彼女の “再生” を祝った。 高位看護師は語った。

「私たちはアルナを、我が子のように世話してきました。 彼女は私たちと同様に歳を取り、何の問題も起こしません。

私たちは交代で彼女の世話をし、そうすることを心から喜んでいます。 彼女の命を奪うことなど、どうして考えられるのでしょう?」

(アルナの再生を祝う “本当の家族” の映像はこちら。)

 

2015年5月18日: 42年間昏睡状態にあったアルナ、肺炎で死亡。

 

 

 

 1980年代初め、ピンキ・ヴィラーニは若い駆け出しのレポーターだった。 母親は彼女に責任感を持たせようと、

アルナに起きたことを訓戒として語って聞かせた。

 

「そんなのでたらめよ。 そんな状態でいられる人なんて、いるわけないわよ?」

実際にアルナを訪ねてみたヴィラーニは、ふたたび、みたび彼女を訪ねた。

 

  

 

「彼女はほとんどの時間、緊張状態にあったわ。 コントロールを失っているから、頭が上下するの。

瞳はゆっくり開くものの、何も見えてはいない。 苦痛があるときは、頭が右から左へとぐったり動くの。

月経中は苦痛のためただ叫ぶばかり。 呻くだけの日もあれば、狂ったように笑っていたと思ったら突然咆哮に変わる日もある。

歯を検査してもらえるよう手配したの。 ひどい虫歯がベッドに抜け落ちていて、彼女が呑み込んでしまったこともあったから。」

 

ピンキ・ヴィラーニと 『アルナの物語』

       

動画 “Choosing to Die - 1”。

介護されるアルナが 1:28 と 5:43 から短い映像に記録されている。 アルナの事件の再現は 3:20 から。

 

過去40余年にわたってアルナの “家” だった、KEM病院1階にある第4病棟

 

 アルナの死を知って、ヴィラーニは言う。

「複雑な感情なんてない。 安堵したわ。 アルナの死を悲しむふりをしたって意味がない。

彼女はようやく苦痛から解放されたのよ。 1973年11月の夜から耐えてきた苦痛から。 彼女はこの世の地獄にいたのだもの。

平和な世界へと旅立った彼女は、インドに画期的な消極的安楽死を遺していってくれたわ。」

 

  

 

 

 

 

アルナの葬儀には、何百人もがお別れを言うために集まった。 アルナの介護をしてきた何十人もの看護師たちも、葬列に加わった。

KEM病院長とアルナの甥(姉シャンタの息子)が、火葬用の薪に火を点けた。

(当初病院側と親類側のどちらが喪主をつとめるかで揉めたが、合同でということで解決したらしい。)

 

アルナの死の直後、病院側は 「アルナの家族は42年間誰もアルナに会いに来なかった。 病院の同僚がアルナの家族となって

彼女を親身に世話した。」 と申し立てた。 すると家族は 「はじめの12年間は家族が、面会時間が許す限りアルナの世話をした。

結婚や引越しで離れて暮らすようになってからも、月1、2回は面会に行っていた。

家族が一度もアルナに会いに行かなかったというのはでたらめだ。」 と反論。

そう言いつつも家族は、 「病院の同僚たちは、それ以上望めないほど親切丁寧にアルナの面倒を見てくれた。

我々家族は、そのことに永遠に感謝します。」 と述べている。

 

 

アルナは家族に見放されたわけではないようだ。 経済的困難から彼女を介護することが不可能だっただけで。

アルナは9人兄弟の8番目で、14歳年上の姉シャンタ・ナヤーク(下左)には4人の子供がいた。

うち一人は故人だが、残る3人――アルナの姪2人と甥(下右)――は、アルナの葬儀に出席した。

       

アルナの尊厳死がニュースになった2011年、ナヤークは 「自分たちにアルナの面倒を見ることはできないが、アルナには

自然にお迎えが来るまで生きていて欲しい」 と語った。 (その後ナヤークは亡くなったらしい。)

15歳で結婚しムンバイに出てきたナヤーク。 アルナも看護学校を終えるとムンバイに上京し、KEMに職を得た。

外科医との婚約が決まったアルナは、結婚式の費用を貯めるためナヤークの家に下宿していたという。

運命の日、アルナは予定より早く出勤した。 食中毒が発生したため、呼び出されたのだった。

 

「アルナは 『バケツに洗濯物が残っているけど、帰ったら続きをやるわ。』 と言って出て行きました。

その晩アルナは戻りませんでしたが、緊急事態で残業しているのだろうと考えました。 翌朝10時頃に同僚の一人が駆け込んで来て、

『アルナの具合が悪い』 と言いました。 病院に駆けつけて、彼女が重症で意識不明だと知ったのです。

その日遅くなってから、彼女がどんな目に遭ったのかということと、

彼女は二度と歩くことも話すこともないかもしれないことを聞かされました。

アルナの婚約者だった外科医は毎日アルナの元を訪れ、彼女の世話をしました。

彼は事件後10年間も結婚しませんでした。 とうとう結婚したのも、家族からのプレッシャーが強かったためです。

アルナの状態が変わることはありませんでした。 アルナは胎児のように身体を丸め、私たちを認識することもありませんでした。

数年後にアルナが別の病院に移されたとき、私たちがアルナを訪問する頻度は減りました。

でもKEM病院の看護師たちの反対により、アルナはKEMに戻されました。

病院側はこの頃から私たちに、アルナを連れて帰るようにとプレッシャーをかけ始めました。 でも、そんなことは無理でした。

夫が病に倒れ、4年間病床にあったのです。 娘たちと息子も結婚し独立しました。

これ以上病院からプレッシャーをかけられないようにと、病院から遠ざかることにしたのです。 ・・・」

 

 

『アルナの物語』 を著したジャーナリストのピンキ・ヴィラーニは、釈放された加害者ヴァールミーキの足跡を追おうと試みた。

しかしKEM病院にも警察にも裁判資料にも彼の写真は残っておらず、断念せざるを得なかった。

ヴァールミーキはエイズか結核で死んだという報道すらあった。

 

しかしながら、アルナの死が公表されて間もなく、ヴァールミーキは義父の故郷であるウッタル・プラデーシュ州のパーパ(?Parpa)村で、

家族と暮らしていることがわかった。 出所したヴァールミーキは同州の故郷の村に戻った後、1980年代後半にパーパ村に移った。

2部屋の家で妻・息子2人・娘1人・孫3人と共に暮らす。 もう1人の娘は結婚して別に住んでいる。

村から25km離れた発電所に自転車で通い、労働者兼掃除夫として働き、261ルピー(477円)の日当を得る。

同じく労働者の息子たちの日当は、200~300ルピー(365~548円)だ。

 

ヴァールミーキは事件後の生活を、罪滅ぼしのための苦行とみなしているという。

「娘がいたが、刑務所にいるうちに死んでしまった。 私が過ちを犯したために死んだのだ。

出所してからも、長いこと妻には触れなかった。 息子が生まれたのは出所して14年も経ってからだ。

深く後悔している。 彼女と神から赦しを得たい。」

 

アルナの死を知ったのは、ムンバイのジャーナリストが彼を探してやって来たためだった。

2部屋しかない彼の家にあるテレビは当時壊れていて、一家は新聞を読まない。

「朝は6時に家を出て、夜帰るのは8時頃だ。 片道25kmを、自転車で通勤している。 新聞など読む暇がない。

あの事件後10年ほどは、ほとんど眠れなかった。 あんなことの後であの病院に戻れるわけもない。 ムンバイを離れた。

私は死んでいればよかった。 妻は息子たちが面倒を見てくれるだろう。 疲れた。 今すぐに死にたい。」

 

  

 

事件についての、ヴァールミーキ側の話。

「アルナ看護師はいつも私をいじめの対象にしていた。 私が犬を怖がっていることを知っていながら、(動物実験用の)

犬の餌やりと檻の掃除をいつも私にさせた。 担当の医師や私の上司に苦情を申し立てて転属を願い出たが、

誰も聞いてくれなかった。 だれが掃除夫の話などに耳を貸す?

すべては怒りの発作のなかで起きた。 暗闇で喧嘩し、私はパニックした。 お互いを殴り合ったが、そのとき私が盗んだとされている

置物を引き倒したかもしれない。 レイプはなかった・・・・・ 警察は私を殴ってレイプだと言い続けたが、レイプはしていない。

誰か別の人間の仕業だ。 あの晩私はアルナ看護師に、数日間の休みが欲しいと願い出た。 妻の母親が病気だったのだ。

妻とともに義母を訪ねたかったが、アルナ看護師は拒否した。 もし休みを取ったら私は仕事をせず、犬の餌を盗み、

それでも休みは欲しがったとの苦情を書面にすると言った。

犬の餌など盗んでいない。 犬が怖いのに、どうしてそんなことができる? ・・・・・ アルナ看護師は雑役夫や看護師たちと

仕事中にカード遊びをしていた。 だから彼女に、私について苦情を申し立てたうえ休みをくれなかったら、

私も彼女の上司に彼女のことを言うと言った。 その後は言い合いになり、つかみ合いになった。

怒りのあまり、自分が何をしたのか覚えていない。」

(レポーターに応えるヴァールミーキの映像はこちらこちら。 最初の映像では 「彼女を一度叩いただけ」 と言っていますね。

もちろんレイプなどしていないし、もししていたらそれでも告発されたはずだと。)

 

ヴァールミーキの長男は、以前父親に、アルナの尊厳死が要請されたことを話したという。

新聞に書かれていた、アルナの家族がいなくなってしまったこと、彼女が病院で生き続けていることなどを話すと、

ヴァールミーキは興奮し震え出した。 尊厳死が却下されると、元に戻ったという。

彼はアルナの件について何も語らず、家族も訊けずにいる。 長男は言う。

「私たちの習慣で、父親に女性に何をしたかなどとは訊けないのです。 伯父は何度も私に、父が私たちの

生活を壊したのだと聞かせました。 ムンバイで暮らし続けられただろうにと・・・・・。」

 

次男は12歳のときに母親から事件について聞かされた。

「母は私に、父を赦すべきだと言いました。 新聞は彼の犯罪を大げさに伝えていると。

母は、兄は父親に腹を立てているが、父は間違いを犯したのだから愛してやれと言います。

でも父は、私を学校にもやってくれなかった。 私は自分の名前すら書けません。

どうして父を赦せるというのですか?」

 

人口6千人のパーパ村の住民はヴァールミーキ(ワールミーキWalmikiとする情報源も)の過去を知って

憤り、彼を村から追い出そうとする動きも出たそうだが、その後の経過は不明。

 

 

 アルナの死が報じられると、ツイッターには同情が寄せられた。

多くの人が、彼女はもっと早くに逝かせてもらえるべきだったと感じている。

インドに “死ぬ権利” がないことが、彼女の辛苦を増幅させたと。

 

「苦痛は42年間も続くべきではない。 彼女の苦難はインドに恥をもたらした。」


 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

・・・・・ 41年半 ・・・・・。 気が遠くなりそうな長さではありませんか。

1973年11月というと、現在53歳の私は小学6年生でした。 その後私は成人し、働き、ドイツ旅行し、イギリス遊学し、結婚し、

妊娠・出産し、ムスメを育て上げたけれど、その間アルナさんはず~~~っと病院のベッドを離れることはなかった。

身体機能に加えて視覚・聴覚・会話能力を失い、存在していただけ。

気の毒すぎて、何と言えばいいのか・・・・・

 

アルナさんの尊厳死が却下されたとき、アルナさんの世話をしていた同僚看護師たちは

「これは私たちの職業にとっての勝利!」 と言って大喜びしていたけれど。

もちろん彼女の状態に自分を置き換えて考えてみたのでしょうね?

「気の毒な元同僚を献身的にお世話する白衣の天使の私達」 の立場に慣れ過ぎて、

その習慣を失いたくないがために尊厳死に反対したんじゃないですよね?

アルナさんの状態で横たわるのが自分の母親、姉妹、娘、あるいは自分自身だったとしても、

尊厳死は拒否していたんですよね?

あの状態で生き続けるなんて私は絶対にゴメンだし、あの状態で生き続けることを誰かに強制も絶対にできません。

ましてやそれが、自分にとって大切な誰かだったらなおさらのこと。

 

看護師たちがアルナさんの介護を続けられたのは、大勢だったからだと私は思います。

ある看護師が一人でアルナさんを自宅に引き取って世話をしたわけじゃない。

インドは貧しい国で、アルナさんの兄弟姉妹がアルナさんを引き取れなかったのも容易に理解できます。

だから病院側は、アルナさんの家族が一度も面会に来なかった、自分たちがアルナさんの家族代わりだったなどと

公言すべきではなかった。 公言しないでいたら、より尊敬を得ていたでしょうに。 少なくとも私からは。

 

死人に口なし、昏睡状態患者にも口なし。

加害者ヴァールミーキの話は、眉唾ものと思わざるを得ません。

彼が今になって何を言おうとも、アルナさんは反論できないのだから。

本当に一時的にかっとなって彼女を襲ってしまったのなら、我に返った時点で助けを呼ぶことができたはず。

11時間も放置されずにいれば、脳損傷は軽くて済んで昏睡状態は避けられたかもしれません。

「自分はレイプしていない」 と言うけれど、彼が立ち去ってから床に横たわっていたアルナさんを

偶然見つけた誰かがレイプした!? ・・・ というのも信じ難い。

やはり、彼女の名誉を守るためレイプ被害は伏せられたので、加害者がそれを自分に都合のいいように悪用して

「レイプはしていない」 と主張していると考えるのが一番理にかなっていると思います。

しかも犯行現場を去る前に、彼女の腕時計とイヤリングを盗んだそうだし。

それだけでも、かっとなったための突発的犯行とは信じ難い。

気の毒なのは、彼の家族。

特に、国内どころか世界の注目を集める犯罪を犯した男を父親に生まれた子供たち。

ヴァールミーキは出所後どこか遠くへ行って、一人で生きればよかったのに!

 

 

結婚を控えての前途洋々から、一転して想像を絶する過酷な運命を背負わされたアルナさん。

自らの意志では動かせない身体に閉じ込められ、苦痛に苛まれながらの41年半の “存在”。

それに終止符が打たれたことに安堵するとともに、

アルナさんのご冥福を、心からお祈りします ・・・・・

 

 

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コヴェントリーの路線バス暴走事故

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10月3日(土)、午後6時頃。

イングランド中部のコヴェントリーで、歩道に乗り上げた路線バスがスーパーマーケットに突っ込むという事故が発生。

 

  

  

 

 歩道上にいた70代女性と、バスの2階席前部にいた8歳の少年が死亡。

少年の9歳の従姉は危険な状態にあるという。

 

  

 

 軽傷で済んだ77歳の運転手は、この道42年のベテラン。 事故の原因はまだ明らかになっていない。

 

 

  

 

犠牲者のご冥福をお祈りします。 ・・・・・

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

大型車の暴走というと思い出されるのが、去年のクリスマス直前に起こった、

グラスゴーのゴミ収集トラック事故

  

 

ハンドルを握っていた運転手ハリー・クラーク(58歳)は一時的に失神状態にあったと判明し、不起訴処分になった。

(ちなみに同乗していた他2名の作業員は、クラークの隣ではなく後部座席に座っていたため、咄嗟には何もできなかったらしい。)


が! 今年7月に始まった審問で、

彼は血管迷走神経症(vaso vagal syndrome)のため突然失神する可能性を認識していたこと、

路線バス運転手をしていた2010年には運転していたバス(幸い停車中だった)内で失神し辞職したこと、

辞職前の2年間に28回も病欠をとっていたこと、

 実際にめまいや意識喪失を何度も起こしていたにもかかわらずそれを申告せずに運転免許を保持し続け、

ゴミ収集業務の求人に応募した際には 「健康上の問題は一切ない」 としていたことが、

明らかになった。

そのため複数の遺族(犠牲者全員の遺族ではない)は、合同でクラークを民事裁判に訴える意向を固めている。

 

  

 

 しかもコイツ! 6人を死なせた事故のあと12ヶ月間免許を停止されていたにもかかわらず、

「先月20日に車を運転した」 容疑で逮捕されたとのニュースが、

昨日(10月4日)入った。

 

・・・・・ なに考えてんだーっっっ!!!    

 

もし本当なら、神様、こんな利己的な人間凶器は、はやくあの世にお呼びよせ下さいませ。  

 

 

日本でも鹿沼市クレーン車暴走事故祇園軽ワゴン車暴走事故がありました。

犠牲者の無念や遺族の悲しみを思うと、言葉もありません。


他人を殺傷する危険性よりも自分の都合を優先する人間は、残念ながら、どこにでもいるんでしょうね。

私達が知らないだけで。 ・・・

 

 

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今年の家と部屋

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大学生活2年目が始まり、先月20日にレスターに戻っていったムスメ。

今年住む家の内部の写真を送ってくれたので、ここに公開いたしましょう。

 

居間です。 6人でシェアする家だけど、全員揃ってもゆったりくつろげそう。 カラー・コーディネートも素敵。

 

その後ハウスメイトの一人が42インチTVを居間に置いてくれたので、皆で一緒に見られるようになったそうです。

 

1階の奥にあるキッチン。 冷蔵庫がふたつ、シンクもふたつあるそうです。 大きめのダイニング・テーブルも。 明るくていい感じ。

 

 

順序が前後しましたが、玄関を入るとこんな風(下左)で、右手に居間、奥にキッチン。 裏口脇にバスルームがあるものの、写真は

撮らなかったそうです。 というのも2階のムスメの部屋の隣にシャワールーム(下中と右)があるので、主にそちらを使うことになるから。

  

 

最初に入居したムスメ、他の皆が到着する前に他の寝室も撮らせてもらったそうです。 それというのも、大きさにけっこう差があって。

一番小さい部屋はこれ  だそうです。確かに狭い。

この部屋に入居した子は、特に気にしていないというのが救い。 家賃は一緒なのに・・・ 偉いなぁ。

 

一番大きい部屋はこれ。 一番小さいのの倍近くあるんじゃ!? 

 

 

ムスメの部屋は、中くらいの大きさ。 学生村にあった去年の部屋よりは小さいけれど、気に入っているそうです。

ダブルベッドなのでシングルの掛け布団では覆いきれていません。 ムスメはダブルの掛け布団を買いたがったのですが、

私が 「来年の部屋はまたシングルかもしれないんだから」 シングルを使い続けるよう説得したのです。

実際住み始めたら、「認めたくないけど、ラップトップを脇に置いたりのためにスペースがあって便利。 ダブルサイズを買わなくてよかった」 と。

ほらね~! 母はいつも正しいのだ。 「今後も母の言葉にはありがたく耳を傾けるように」 言ってやりました。

 

ベッド脇の壁には写真をべたべた貼ってコラージュして美しく飾りつけて、ホームシック対策です。

窓から見えるのは、家の裏手の眺め。 大した風景ではないですが、採光がよくて気に入っているそうです。 窓敷居にご注目!

 

真中のおサルくん。 去年の今頃私がヨークで見つけ、ムスメに送ってやったものなんです。 ソーラー・パワーでダンスするんですよ! カワイイでしょ?

    

 

土曜日にはハウスメイトのローラ(仮名)が、彼氏のために腕をふるってロースト・ディナーを作り、

在宅していたジェニー(もう一人のハウスメイト)とムスメにもご馳走してくれたそうです。 おいしそぉ~! 

  

 

ムスメが今年住む家、正面から見ると幅が狭くて(これで6寝室もあるの!?)と思うけれど、

奥行きが深いんでしょうね。 一応3階建てでもあるし。

内装が素敵で設備も整っていて安心しました。 (・・・てか、私が住みたい。)

 

 

ジェニーと行ってみた “英文学同好会” の古本セールでは、探していた本を4冊も見つけられてホクホク。

履修(ムスメの専攻は英文学)に必要だそうで、新品を買うと4冊で80ポンド(≒14,800円、たかっ!)くらいしたものを、

40ポンド(≒7400円)で買えたそうです。

アマゾンの中古本でも40ポンドでは買えそうになかったらしいから、ラッキー!

面白くなさそうな本・・・ というより参考書?

そう言う私にとっての英文学とは、シャーロック・ホームズアガサ・クリスティーですからねぇ。

・・・ おあとがよろしいようで~ ・・・ 

 

 

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“シャーロック” クリスマス・スペシャルのトレイラー!

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SHERLOCK(シャーロック)』 のクリスマス・スペシャルの新しいトレイラーが、昨晩BBCで初放映?されたそうです。

たったの3話しかなかった第3シリーズが始まったと思ったら終わったのは、今年じゃなくて去年の1月だったのか・・・(遠い目)。

個人的には第3シリーズに失望したので、以前ほどには次作を待ち焦がれているわけではないけれど、

それでもシャーロックとジョンのゴールデン・コンビがまた見られるのはウレシイ

 

でもって今年のクリスマス・スペシャルは、クリスマス頃(日時は未発表)にBBCテレビで放映されるわけですが、それに時期を合わせて、

世界中の選ばれた映画館(selected cinemas across the globe)でも公開されるそうですよ。

 

トレイラーはコチラ。 私は知りませんでしたが、既出のトレイラーもあったんですね。

 

クリスマス・スペシャルはコナン・ドイルの原作のように、ヴィクトリア時代が舞台です。

わぁ~、ホームズ・ファンの私としては、原作の時代設定のカンバーバッチ・ホームズを見られるなんて嬉しい!

そういえば今年1月には、ヴィクトリア時代の服装のシャーロックのキャストがグロスターに現れて、記事にしたんでしたっけ。

  

 

この時代設定は一回きりのもので、共同製作者であるマーク・ゲイティスとスティーヴン・モファットが

「現代のシャーロックとジョンは確立できたと思うから、正しい原作のいでたちの登場人物たちを一度だけ見てみたい」

と思ったことから実現したそう。 内容もこれまでのシリーズからはまったく独立したものだそうです。

 

原作のホームズみたいにパイプも吸ってくれてる! ありがとぉ~!! 

  

 

 ベーカー街221番地Bの下宿もハドソン夫人も、一緒にヴィクトリア時代に戻っています。 こういうとき、建物が長持ちするイギリスは便利。

 

 

 あれっ、ジョンは口ひげがない(下右)ときもあるのかな?

 

 

 この白黒フォト、趣があっていいわ~ 

 

 

人気シリーズだけあって、行く先々で人だかりができて撮影も楽じゃないのでは。

 

  

  

 

 

“チーム・シャーロック” の面々。

皆さん超売れっ子で忙しいから、第4シリーズの撮影は、結局来年に入らないと始まらないそうです・・・

 

 

《 オマケ 》 どういう状況かわからないけど、これ ↓ 面白いのでUPしておきます。

 

 

ヴィクトリア時代のカンバーバッチ・ホームズ。

今年のクリスマスに大きな楽しみができたぞっ!

 

 

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パンプキンの優雅な生活

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あ~っ! アライグマが庭に侵入!!

家の中にまで入り込もうとしてる! イタズラされる前に、家の人、気づいて~っ!!

 

 

 ??? 家の住人らしいワンコと、やけに馴染んでる?

  

 

じつはこのアライグマ(♀)、この家に飼われているのです。 名前はパンプキン。

  

  

 

 時は昨秋、ところはバハマの首都・ナッソー。

ロージー・ケンプ(敬称略)は、裏庭で傷ついたアライグマの赤ちゃんを見つけた。

生後ひと月くらいで、木から落ち、後脚を折っていた。

母アライグマが迎えに来るかと待っていたが、来なかった。 野生動物の保護センターもないので、家で世話をしてやることに。

赤ちゃんアライグマをパンプキンと名づけ、娘のローラと一緒にミルクを飲ませ、看護した。

 

一年後の今、パンプキンはローラとその夫と共に暮らす。

2人の飼い犬のトフィーとオレオ(甘党だなこの夫婦!?)とも仲良し。

「私たちにも犬たちにもすぐに馴染んで、どこに行くにもついて来たわ。 自分のことも、犬だと思っているみたい。

犬たちとじゃれて遊び、荒っぽくなることもあるけれど、引き際はちゃんと心得ているようよ。」

 

パンプキンのインスタグラムのページはこちら

 

 

 

 バハマではアライグマの飼育は違法ではない。

ローラによるとパンプキンは利口で、トイレの使い方まで覚えた。

  

 

 パンプキンの好物は、スイカと目玉焼きだそう。

 

 

ローラ夫婦は、パンプキンにとっての最善を考え、野生に返すことも選択肢のひとつとして残している。

だが人間の保護のもとで成長したため、今さら野生に戻って自活するのは無理な可能性大。

 

・・・・・ 無理かもね~、こんなに家庭生活に馴染んでいては ・・・・・

 

 

あのまま野生にいれば、他の動物に襲われるか衰弱死していたところ。

運よく発見されその結果ペットとして生きることになったのだから、それも運命では?

 

ウィキによると “幼少期においては人に懐くが、成獣(特に発情期)になると気性が荒くなり、

一般人がペットとして飼育するのは難しい動物である” とのことだけど、

 

双方に問題がないのなら、今後も仲良く暮らしていって欲しいな

 

ということで、リスハリネズミカピバラにつづく、ちょっと変わったペット第4弾でした。

 

 

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ハドソン川の奇跡

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皆さん覚えてますよね? 厳寒のハドソン川 ・・・・・

 

2009年1月15日に発生した、USエアウェイズ1549便不時着水事故

午後3:26にラガーディア空港を離陸した同便は、1分後の3:27にバードストライクに遭い、

両エンジン停止という極めて稀な、緊急非常事態に陥ります。

ラガーディア空港よりは近くなっていたテーターボロ空港への不時着を一度は考慮するものの、

「テーターボロ到達も無理」 と判断した機長は3:29にはハドソン川に不時着水することを決め、

3:30にジョージ・ワシントン橋上空をすれすれで無事通過、3:31に滑らかな不時着水を成功させました。

 

3:33に緊急脱出開始。 乗員は機体のドアを開け、後方から浸水してくる機内から、150名の乗客を

脱出シューター(evacuation slide)と両主翼へと誘導。 その5分後、近くにいた船舶が救助のため同機の周りに集まる中、

機内の通路を二度往復して誰も取り残されていないことを確認した機長が、最後に脱出しました。

  

 

グライダー状態で降下する同機。 不時着水時の速度は、時速240kmだったと推定されています。

 

  不時着水には成功したものの、足下にあるのは地面ではなく凍てつく冷たさのハドソン川。

当日の気温は-7℃、水面近くの水温は2℃でした。

 

  (不時着水には成功しても、このまま冷たい水にのまれて溺死してしまうのでは?)と、皆さん気が気じゃなかったことでしょう。

機体の爆発を怖れて川に飛び込み、機体から離れようとする乗客もいたそうです。

でも大丈夫。 近くにいた救助可能な船舶が、次々に駆けつけてくれました。

不時着水から4分後の3:35に、最初の船舶が到着。 通勤用フェリーの “トマス・ジェファーソン号” でした。

 

できるだけ早く救助活動を始めてもらえるよう、場所(通勤フェリーの発着場近く)を選んで不時着水した機長は偉い。

同機が高度が足りなくなりレーダーから消えてしまったため、同機を探してその位置情報を送るよう他の航空機に要請し、

消防や沿岸警備隊にも緊急発動を要請しておいた管制官もグッジョブ!

 

3名の女性客室乗務員は、前部に2名、後部に1名が配置されていました。 後部にいたドリーン・ウェルシュさんは

着水時に脚に裂傷を負いましたが、乗客の誘導に夢中だったため機体前部に移動するまで気づかなかったそうです。

パニックした女性客が後部ドアのひとつを開けたため川水が流れ込み、ウェルシュさんが閉めようとしたものの閉まらず。

その水圧により機体底部に亀裂が入り、捻じ曲げられた機体の後部にある貨物ドアが開いてしまい、そこからも浸水が始まりました。

乗務員たちは座席の上を伝って前部に避難するよう乗客を促しました。 車椅子の乗客も一人いたそうです。

  

機長・副操縦士と客室乗務員は、機内から毛布や救命胴衣を集め、乗客に手渡しました。

救命ボートにヘンシンしていた脱出シュートの中には、膝まで届くほど水が入っていましたが、

救命ボートの方が翼の上より安全なので、機長は両翼に立っていた人々をまず救助するよう要請。

  

乗客のデイヴ・サンダーソンさん(47歳)は他の乗客の脱出を手伝ったあと翼に降り立とうとしましたが、すでに人々で一杯で

スペースがなかったため川に飛び込み、最寄のボートまで泳いだそうです。

 

全員が救助されたあとも、川の流れに乗って半ば沈みながら南下を続けた同機。

最終的には着水地点から約6km下流の、世界金融センター近くの桟橋につながれたそうです。

 

155名(乗客150名・乗員5名)を乗せていた同機。

 救助された乗客乗員はすぐに病院に搬送されましたが、その晩入院が必要だったのは、たったの2名でした。

そのうちの一人は前述のデイヴ・サンダーソンさん。 低体温症にかかっていた彼は、平熱に戻るまで数時間を要したそうです。

入院が必要だったもう一人は、客室後部にいてL字型の裂傷を負った乗務員のウェルシュさんでした。

 

 

デイヴィッド・パターソンニューヨーク州知事(当時)は、不時着水成功のニュースを聞いてこう述べました。

“ We had a Miracle on 34th Street.  I believe now we have had a Miracle on the Hudson. ”

「34丁目に奇跡が起きた。 そして今我々は、ハドソン川に奇跡が起きたと信じる。」

 

任期を終えようとしていたジョージ・W・ブッシュ大統領も任期を始めようとしていたオバマ大統領も、

1549便の乗務員のスキルとヒロイズムを絶賛。

両大統領ともサリー機長に電話し、乗客の命を救ってくれたことに直接感謝したそうです。

5名の乗務員は、5日後のオバマ大統領の就任式にも招待されました。

 

 

《 内容的に、次回につづく 》

 

 

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奇跡直前の交信

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《 ハドソン川の奇跡からのつづき 》

 

ハドソン川に奇跡を起こしたのは・・・ この方。

当時57歳だった、 チェズリー・バーネット・ “サリー” サレンバーガー機長

 

 

絶体絶命の窮地にありながら、機長の管制官とのやり取りは冷静沈着そのものでっ! 

 通信を文章にしたものをコピペしてみました。 実際の録音を聞きながらたどると興味深いです。

皆さん早口で、私には会話をたどることすらおぼつかない~!

(ちなみに Cactus というのはコールサインだそうです。 『トップガン』 でトム・クルーズの機が Maverick だったように。)

1549の便名を機長は1539便、管制官は1529便と間違えていますが、それは緊迫した状況下でのご愛嬌ということで~

 

           15:27:32

           管制官:  Cactus 1549, turn left heading 2-7-0.

          15:27:36

           機長  :  Ah, this, uh, Cactus 1539.  Hit birds, we lost thrust in both engines.

                   We're turning back towards LaGuardia.

            15:27:42

           管制官:  OK, yeah, you need to return to Laguardia.  Turn left heading of uh, 2-2-0.

          15:27:46

           機長  :   2-2-0.

             15:27:49

           管制官:  Tower, stop your departures.  We got an emergency returning.

          15:27:53

           ラガーディア空港:  Who is it?

          15:27:54

           管制官:  It's 1529, he ah, bird strike.  He lost all engines.  He lost the thrust in the engines.

                  He is returning immediately.

          15:27:59

           ラガーディア:  Cactus 1529, which engine?

          15:28:01

           管制官:  He lost thrust in both engines, he said.

           15:28:03

           ラガーディア:  Got it.

          15:28:05

           管制官:  Cactus 1529, if we can get it to you, do you want to try to land runway 1-3?

          15:28:11

           機長  :   We're unable.  We may end up in the Hudson.

            15:28:17

           管制官:  Jet Link 2760, turn left 0-7-0.

          15:28:19

           Jet Link 2760:  Left turn, 0-7-0 Jet Link 2760.

                         - - - - -

          15:28:31

           管制官:  All right cactus 1549.  It's going to be a left.  Traffic to runway 3-1.

          15:28:34

           機長  :  Unable.

            15:28:36

           管制官:  OK, what do you need to land?

                         - - - - -

          15:28:46

           管制官:  Cactus 1549, runway four is available if you want to make left traffic to runway four.

          15:28:50

           機長  :   I am not sure if we can make any runway.

                           Oh, what's that over to our right?

                   Anything in New Jersey, maybe Teterboro?"

            15:28:55

           管制官:  OK yeah, off to your right is Teterboro airport.

          15:29:02

           管制官:  Do you want to try and go to Teterboro?

          15:29:03

           機長  :  Yes.

            15:29:05

           管制官:  Teterboro, uh, Empire actually.  LaGuardia departure got an emergency inbound.

          15:29:10

           テーターボロ空港:  Okay, go ahead.

          15:29:11

           管制官:  Cactus 1529, Over the George Washington bridge want to go to the airport right now.

           15:29:14

           テーターボロ:  He wants to go to our airport check.  Does he need any assistance?

          15:29:17

           管制官:  Ah, yes, he, ah, was a bird strike.  Can I get him in for runway one?

            15:29:19

           テーターボロ:  Runway one, that's good.

          15:29:21

           管制官:  Cactus 1529, turn right 2-8-0, you can land runway one at Teterboro.

          15:29:25

           機長  :  We can't do it.

            15:29:26

           管制官:  OK, which runway would you like at Teterboro?

          3:29:28

           機長  :   We're gonna be in the Hudson.

            15:29:33

           管制官:  I'm sorry, say again, Cactus.

                         - - - - -

          15:29:41

           管制官:  Jetlink, 2760, contact New York.  O-2-6 point 8.

          15:29:45

           Jet Link 2760:  20-6-8 Jet Link 2760.

          15:29:51

           管制官:  Cactus, ah, Cactus 1549, radar contact is lost.

                            You also got Newark airport off your two o'clock and about 7 miles.

                         - - - - -

          15:30:06

           管制官:  Eagle flight 4718, turn left heading 2-1-0.

          15:30:09

           Eagle Flight 4718:  2-1-0, um, 4718.  I don't know, I think he said he was going in the Hudson.

          15:30:14

           管制官:   Cactus 1529, uh, you still on?

            15:30:22

           管制官:  Cactus 1529, if you can, ah, you got, ah, runway 2-9 available at Newark

                  off your two o'clock and 7 miles.

                         - - - - -

          15:30:32

           管制官:  Eagle flight 4718, climb and maintain one two thousand.

          15:30:34

           Eagle flight 4718:   OK, 1-2 thousand and, ah, leaving 5 and 280 heading.

          15:30:41

           管制官:  And Eagle flight 4718, I’m sorry, I missed that, say again.

            15:30:45

           Eagle Flight 4718:   And uh, we're up to 12,000, uh, 280 on the heading.

          15:30:48

           管制官:  OK, thank you Eagle flight 4718, Turn left.  2-2-0.

          15:30:51

           Eagle Flight 4718:   2-2-0 4718.

          15:31:30

           Unknown:   Was that cactus up by the Tappan Zee?

          15:31:32

           管制官:   Uh, yeah, it was a cactus.  He was just north of the, ah, George Washington Bridge

                           when they had the bird strike.

 


高度/速度調節と着水準備に大忙しだった機長。 乗客と乗員に機内アナウンスで

“This is the captain; brace for impact. (衝撃に備えてください。)” と警告できたのは

15:29:11、着水の約90秒前のことだったそうです。

15:30:38の “We're gonna brace. (衝撃に備えます。)” のあとまもなく、ボイスレコーダーの録音は終了。

(詳細はこちら。)


左側に座ったサリー機長(57歳)が同便のメイン・パイロットで、彼の当日までの累計飛行時間は19,663時間。

右側に座ったジェフ・スカイルズ副操縦士(49歳)も経験豊かなパイロットで、

サリー機長ははじめ、彼に離陸を任せて無線や雑務を担当していました。


 ザ!世界仰天ニュースに、“ハドソン川の奇跡” が  詳しく再現されています。


バードストライク後、サリー機長は “My aircraft.” とスカイルズ副操縦士に言い、副操縦士もそれに応えて

“Your aircraft.” と言ってサリー機長に操縦を代わってもらいます。

 

これはサリー機長が副操縦士の技量を疑ったからではなく、サリー機長が “Pilot in Command” として

 その機の責任をもつパイロットだったからだそうです。

 (世界仰天ニュースでは操縦を代わるとき “I have.” → “You have.” と言っていますが。)

操縦桿を握ったサリー機長は管制官と交信しつつ、副操縦士とともに何とかエンジンを再スタートさせようと試みます。

 

管制官の 「テーターボロに向かいますか?」 に 「イエス」 と応えたのが15:29:03、

でも25秒後の15:29:28には 「ハドソン川に着水します」 と告げています。

不時着水は避けたいとの思いから 「イエス」 と応えはしたけれど、その頃にはもうすでに、

ハドソン川しか道はないと悟っていらしたのでは?


コックピットからの眺めはこんな感じだったんでしょうね。

このCG動画で、サリー機長気分をちょっぴり味わえますよ。

 

機体が地面を離れて1分後の15:27:11にバードストライクが発生。

不時着水は15:31だったそうだから、バードストライクからわずか4分後のこと。

4分て・・・・・ お湯沸かしも含めたら、紅茶一杯入れる時間と大差ないんじゃ!? 

 

そんな短かい時間に大きな決定を下し、全神経を集中させて実行し、大成功に導いたサリー機長。

カッコよすぎ・・・・・


マイケル・ブルームバーグニューヨーク市長(当時)は彼を “Captain Cool” と称賛したそうですが、

それも大いにうなずけます。

サリー機長があの便の機長で、本当に本当に良かった・・・・・!! 


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ついでながら、不時着水機のその後をば。 

 ハドソン川から引き揚げられた1549便の機体(エアバスA320型機)は、ニュージャージー州の倉庫に一時保管され調査検分され、

「損壊が激しすぎるので修理はムダ」 と判断されました。 廃車・・・ 廃機が決定した同機はオークションにかけられ、

 

同便の目的地だったノース・カロライナ州シャーロットにあるカロリナス航空博物館(Carolinas Aviation Museum)に

展示されることが決まり、2011年6月4日から10日まで、7日間かけて966kmを、陸路で輸送されたそうです。

 

 

長さ58mという本体部分。 各地で交通渋滞を引き起こしつつも、沿道で人々に大歓迎されました。

輸送を手がけたトラック会社は、ウェブサイトで輸送の進行状況を刻々とアップロード。

数時間車を飛ばして、夜を過ごすため休んでいる機体の側面に触りに来た人々もいたそうです。

 

 

 本体が博物館に到着した翌日の2011年6月11日には、サリー機長をはじめとする

元乗員・元乗客全員が招待されての “移送完了パーティー” が催されました。

 

すでに届いていた両主翼や尾翼はUSエアウェイズの協力を得て取り付けられ、完成した機体はノース・カロライナ州立大学

シャーロット・カレッジの工学部の学生によってデザインされた取付け台に固定されました。 (詳しくはコチラ。)

 

サリー機長とスカイルズ副操縦士は、USエアウェイズの制服を同博物館に展示用に寄贈したそうです。

 

 

《 内容的に、次回につづく 》

 

 

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サリー機長の “あの日”

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《 奇跡直前の交信からのつづき 》

 

不時着水を目前にしながら、とぉ~ても冷静だった様子のサリー機長。

2009年2月8日――不時着水から2週間半後――に放映されたCBSテレビ “60 MINUTES” を初めとする番組で、

あのときの状況を語りました。

  

 

「あれは人生最悪の、最も気分が悪くなるような、床が抜け落ちるような感覚でした。

私の最初の反応は、ただただ信じられないという思いでした。 起こっていることが、信じられなかった。

こんなことは私には起こらない。 私のキャリアは、航空機を墜落させることなく終わるのだと思っていましたから。

 

あらゆる意味で、離陸はまったく正常でした。 離陸から90秒ほどあとに、鳥がフロントガラスを埋めました。

上から下、左から右へと。 大きな鳥で、避けようがありませんでした。 大きな音がし、飛行機全体が大雨かヒョウに

打たれているように感じました。 子供時代にテキサスで遭った最悪の嵐のように聞こえました。 ショッキングでした。

エンジンから空調設備を伝って燃えた鳥の臭いがしてきました。」

 

バードストライクが起きたのは離陸後の上昇途中で、同機の高度は約2818フィート(859m)でした。

通常バードストライクは高度1000フィート(305m)以下で起こるので、これは稀なケースでした。

両方のエンジンが停止した1549便は徐々に速度を失っていき、3060フィート(930m)を頂点に降下を始めます。

 

「エンジンの推進力が失われたので、非常事態だとすぐに認識しました。 低速で高度も不十分なまま、地球上で

最も人口過密な都市のひとつの上空で、両方のエンジンを失ったのです。 とても厳しい状況だと悟りました。

飛行機は上昇をやめ、急速に速度を落としていきました。 私が操縦を交代したのはそのときです。

過去42年間の飛行と異なり、私はこの飛行機が無傷のまま滑走路に着陸することはないだろうと、即座に悟りました。」

 

ニューヨーク市上空900m強を飛ぶ1594便は、毎秒18フィート(5.5m)降下していきます。

エンジン・パワーを失って巨大な鉄の塊と化した機体は、滑空しながら地面に向かいます。

バードストライクから30秒後、サリー機長は着陸できそうな場所を探して管制塔と無線交信します。

ラガーディア空港への緊急帰還を考慮しますが・・・


「あの高度でラガーディアに引き返すのは無理だと、すぐに結論づけました。 滑走路に到達するには問題が多すぎる。

失敗すれば、乗客乗員のみならず、地上の大勢の人々も犠牲にしてしまう。

次の候補地はテーターボロでした。 が、テーターボロも、到達は無理と判断しました。

 

残された可能性、水平で滑らかで航空機を着地させるのに十分な広さのある場所は、ハドソン川でした。

そこで管制官に 『ハドソン川に降ります。』 と告げました。」

 

ハドソン川に降りることを決めたのは、離陸から2分半後、バードストライクからはわずか1分後。

ジェフ・スカイルズ副操縦士とサリー機長は、着水の準備に入ります。

スカイルズは3ページに及ぶテクニカル・マニュアルのチェックを始めます。

しかしそのマニュアルは、高度35,000フィート(10,000m=10km)で不時着水が必要になった場合を想定して作成されており、

高度3000フィート(920m)未満でバードストライクに遭った1549便にはずっと短時間しかなく、

スカイルズは着水までに1ページ半しかチェックできませんでした。 着水した航空機を浸水から守る

Emergency Ditch Button (緊急不時着水ボタン) が押されることがなかったのは、そのためです。

操縦と交信の双方を担当していたサリー機長ですが、パイロットのモットーである

“Aviate, Navigate, Communicate” に従い、交信は後回しにしました。


「操縦を代わるとすぐに、イグニションを入れました。 チャンスが戻りさえすれば、エンジンが再始動するようにです。

機体に電力を供給する補助動力装置もオンにしました。 しかしエンジンは動かず、機は急速に水面へと降下していきました。

 

乗客のことは、特に考えませんでした。 この問題を解決しなければならないとわかっていました。

自分が今閉じ込められているこの箱から脱出する方法を見つけなければならないと。 お祈りもしませんでした。

それは後ろにいる誰かが、私が飛行機を飛ばしている間にやってくれていると思いました。

焦点を着水にのみ集中させました。 他のことは何も考えませんでした。」

 

過去にもわずかしか例のない、大型旅客機の不時着水に備えるためにあった時間は3分半。

そしてサリー機長は、1996年にインド洋に墜落したエチオピア航空機の運命を避けることを、固く決意していました。

 

「着水時には両翼はまっすぐ水平、機首はわずかに上向きでなければなりません。

飛行可能な最低速度を下回らず、そのわずか上のスピードで着水しなければなりません。

それらのことを同時に成し遂げなければならないのです。 訓練を最大限に活かし、自分に冷静さを強いました。

困難なことではありませんでした。 集中力を要しただけです。

3分半の降下は、スローモーションになることはなく、3分半そのものでした。 スローモーションだったら

よかったのにと思います。 他のことにも気を配ることができたでしょうから(笑)。

 

前方に川が見えました。 長く、幅広く、下流にボートが見えました。

我々は、不時着水する場合はボートの近くにするよう訓練されています。 迅速に救助されるためにです。

着水の90秒前に、客室に向けて衝撃に備えるようアナウンスしました。 すると即座に、分厚いコックピットの

扉の向こうで、客室乗務員が 『衝撃に備えてください! 頭を下げて! 身を伏せて!』 と異口同音に叫んでいるのが

はっきり聞こえました。 私のアナウンスに応え、乗客に警告し指示してくれたのです。 とても勇気づけられました。

彼女たちは私の味方だ。 私が無事着水できれば、彼女たちは乗客を無事脱出されてくれると確信しました。

 

そして私は、無事着水できると確信していました。

今では私は、あの日までの私の人生すべてが、あの特別な瞬間を切り抜けるための準備期間だったと思っています。

 

着水の衝撃は激しいものでした。 その後前進を続けたあとスピードが落ち、機首が下がり、僅かばかり左に

傾いて停止しました。 ジェフと顔を見合わせて 『思ったよりひどくなかったね。』 と言い合ったあと、すぐに

次の仕事にかかりました。 ジェフは脱出マニュアルのチェックを始め、私はコックピットのドアを開けて

“Evacuate.” と指示しました。」

 

救命ボート上である乗客男性がサリー機長に 「命を救ってくれてありがとう」 と涙をこらえつつ感謝すると、

機長は頷いて 「どういたしまして。」 と何でもないことかのように応えたそうです。

救助されたあとフェリー・ターミナルでも、機長の制服と帽子を着けたデイヴィッド・ニーヴンのように、

「一糸乱れぬ風貌で、何事もなかったかのように冷静沈着にコーヒーをすすっていました。」 と、ある救助隊員。

 

「ショック状態にあったのです。 機を墜落させたばかりだったのですから。

 誰も機内に取り残されてはいないと信じてはいましたが、確認が欲しかった。

何時間も待ったあとでそれが公式に確認されたときの安堵といったら・・・ 全宇宙の重みが肩から下ろされたように感じました。

救助に携わってくれた人々には、その一人一人に、心から感謝しています。 感謝という言葉は不十分で、まったくもって不適切です。

私は今後一生かけても、彼らに恩返しはできないでしょう。」

 

サリー機長が救命ボート上で最初にかけた電話のひとつは、奥さんローリーさんへのものでした。 奥さんのお話です。

 

「彼から電話が入ったとき、私は別の人と話し中でした。 それで最初の2回はコールを無視(笑)したのです。

3度目にコールが入ったとき、『別のコールに応えた方がいいと思うから』 と話し相手との電話を打ち切り、

サリーからの電話に出ました。 彼はとても冷静で、『君に言っておきたいんだが、私は大丈夫だ。』 と告げました。 私は彼が、

あの晩予定していた便で予定通り帰宅できることを意味していると思い、 『わかったわ、よかった。』 と応えました。

 

ですが続けて彼は、 『事故があってね、機をハドソン川に不時着させなければならなかった。』 と言いました。

私はベッドに横たわり、――泣きはしませんでしたが、ただただショックで震えが止まりませんでした。

親友たちに電話をし、『サリーが航空機を墜落させたの。 どうしたらいいかわからない・・・』 と言いました。

親友に 『娘さんたちを迎えに行きなさい』 と言われ、そうしました。 迎えに行って、家に連れて帰りました。」

 

 (60 MINUTES: I Was Sure I Could Do It の動画はコチラ

60 MINUTES: Saving 155 Lives の動画はコチラ。)

 


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“ハドソン川の奇跡” から2週間後の2009年2月2日。

1549便の目的地だったノースカロライナ州シャーロットのホテルで、1549便の乗務員と

乗客の一部が再会を果たしました。

  

 

「命を救ってくれてありがとうございます。」

 

「夫を無事私の元に返してくれてありがとう。」

 

「私を未亡人にしないでくれてありがとう。 3歳の息子が父親を失わずにすませてくれてありがとう。」 ・・・・・

 

客室乗務員のシーラ・デイルさんは、話しかけてきた乗客の男性を覚えていました。 ファーストクラスにいた男性でした。

「あのとき、とても心配しているように見えたので、 『落ち着いてください、しっかり呼吸をして』 と言ったのです。」

 

「降下中本当に怖くてたまりませんでした。 でも彼女が私を見て 『すべてうまく行きますから。』 と言ってくれたのです。

本当にありがとう。」 と男性。

 

男性はシーラさんに、彼が姪と写っている写真を見せました。 姪は彼の兄の娘で、彼の兄は9/11の犠牲者の一人でした。


 「消防士だった兄はワールド・トレード・センターで命を失いました。

私の家族は、二人目の息子を失うことには耐えられなかったでしょう。

1549便が降下する中、私まで死んだら家族はもう生きてはいられないだろうと考え続けていました。

私は何としてでも、無事に生還しなければならないと。 全員が無事に脱出できたことが、信じられませんでした。

奇跡です。 本当に感謝しています。」

 

「155は単なる数字ですが、155人に顔がつくと、その妻、娘、息子、父親、母親、兄弟の存在を実感します。」 と、サリー機長。

 

機長たち乗員にとって、非現実的な出来事が続きました。 スーパー・ボウルにスタンディング・オベーションで迎えられ、

大統領就任式に招待されてオバマ大統領に会い、サリー機長は在住するカリフォルニア州ダンヴィルの町で

英雄として表彰されました。

しかし乗客たちの多くと同様、乗員たちも、不時着水の記憶の扱いに困難を感じています。 もちろんサリー機長も。

 

「今回の体験で最も困難なことのひとつは、別のことができなかった自分を赦すことです。 何かもっと、完全なことを。

最初の数晩が最悪でした。 『もし・・・だったら・・・?』 が始まったときです。 考え始めると、眠れなくなりました。

起きたことを頭の中で再現してしまうのです。 我々は、気づくべきすべてのことを認識していただろうか?

我々はベストの選択をしただろうか? そういったことです。」

 

「そう考えたとき、ご自分がなさったことで後悔することはありますか?」 との問いに対して:


 「いいえ。 今のところは。」

 

サリー機長と家族は、世界中から送られてきた手紙を読むことで元気づけられているそうです。


 “よくやったね、サレンバーガーさん。 あなたにビールをおごりたい。 国内産の安いやつだけど。

5ドルを同封します。 神のご加護を。”

 

“親愛なるサレンバーガー機長へ。 悪いニュースばかりの世界で、1月15日は本当に素晴らしい日になりました。”

 

“敬愛するサレンバーガー機長。 ビッグ・アップルのヒーロー。 昨日私は、84歳の父からボイスメールのメッセージを

受け取りました。 父はマンハッタンの川岸の30階に住んでいます。 貴方の熟練した腕がなかったら、父を含む

大勢が、貴方の機の乗客たちと共に命を失っていたことでしょう。 ホロコースト生残者の父は、「ひとつの命を救うことは

世界を救うことだ」 と私に教えてくれました。 救った命は世界を癒し、世界に平和をもたらす可能性を秘めているからです。

貴方に神様のご加護がありますように。 ニューヨークは貴方を愛しています。”

 

「多くの人にヒーローと呼ばれていますが、それをどう思いますか?」 に対し:

 

「居心地はよくありませんが、それを否定したくもありません。 人々の感謝の心を、彼らは間違っていると指摘することで

払いのけたくはないのです。 人々の気持ちが理解できるように感じ始めたからです。

ハドソン川の出来事には、人々をひきつける何かがあったのです。 おそらく人々は、良いニュースを欲しているのでしょう。

ふたたび希望を持てるように。 私がその手助けをできるのでしたら、そうします。」

 

(60 MINUTES: An Emotional Reunion の動画はコチラ。)

 

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 “ハドソン川の奇跡” の4周年記念日だった、2013年1月15日。

サリー機長は、あの日の乗客たちがその後授かった10人の赤ちゃんのうち5人と、スタジオで対面しました。

ある男の赤ちゃんは、あの日からちょうど3年後の2012年1月15日に生まれたため、

あの日を記念して “Hudson” と名づけられたそうです。

 

 

ある乗客の女性(下左)はあの日、恋人とニューヨークを訪れて帰宅する途中でした。 2人の関係は暗礁に乗り上げつつありましたが、

不時着水がきっかけで絆が深まり、その後結婚し、かわいい女の子に恵まれました。

 

 

あの日の結果次第では、この世に生まれることはなかったかもしれない命。

サリー機長の喜びに溶けそうな表情がたまりません・・・!   

 

 

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“ハドソン川の奇跡” から5年後の2014年1月15日には、元乗客と元乗員の一部が現場で再会し乾杯  したそうです。

 

  

 

5年前と同じ好天に恵まれて、よかった。 乗客乗員の皆さんはあの日、

運命のローラーコースターに同乗して絶望・恐怖・希望・歓喜といった感情をめまぐるしく共有したのだから、

この再会の記念行事、できるだけ長く続けてほしいな

 

 

《 内容的に、次回に続く 》

 

 

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