今月5日、ジル・サワード(51歳)の訃報がニュースで伝えられた(敬称略)。
ずっと昔オットーがちょこっと話してくれたことのある、驚くべき女性。 訃報を機会に、彼女のことを調べてみた。
ジルは1965年1月14日、牧師マイケル・サワード(1932-2015)を父に誕生。 父親がロンドン・イーリングの聖メアリー教会に着任したため、1978年から一家(両親とジルを含めて4人兄弟)は同教会の牧師館に住むようになった。
ジルとデイヴィッド / ジルの父親
1986年3月6日の晩(昼下がりとする情報源も)。 父親は書斎で礼拝での説教の準備をし、ジル(当時21歳)は恋人のデイヴィッド・カー(同21歳)と一緒に居間でテレビを見ていた。 そこに突然覆面・武装した4人組の強盗が押し入ってきた。 彼等はジルとデイヴィッドを書斎に追い込み、現金収納庫を要求した。 それが空だとわかると、4人組のうち2人は処女だったジルにナイフを突きつけて2階に引き摺っていき、代わる代わる何度も彼女の口・膣・肛門を暴力的にレイプした。 2人のうち1人はとくに乱暴で、ナイフをちらつかせながら 「肛門からこれを突き刺して子供ができない体にしてやる」 と脅しさえした。 レイプされている間、ジルには縛り上げられた父親とデイヴィッドが残る2人から激しい暴行を受けているのが聞こえた。 やがて2人はジルを縄跳びの紐で縛り上げ、寝室の床に置き去りにした。 クリケットのバットで散々打ちのめされ意識を失っていた父親とデイヴィッドは頭蓋骨を骨折する重傷を負い、デイヴィッドは片耳の聴力を失った。
事件の舞台となった牧師館
性犯罪被害者は匿名であるはずだったが、4日後に目の部分だけを隠された彼女の画像が、自宅の画像とともに大衆紙 “サン” にすっぱ抜かれた。 「レイプ被害者は容疑者が告発されてからのみ匿名でいる権利を得る」 というのが、同紙の編集者の言い逃れだった。 「他のレイプ被害者のためにも発言するよう」 女性警察官に励まされ、ジルは自らの身元を公にした。 牧師館=神の家におけるレイプ事件ということで、同事件は海を越えて報道され、 『イーリング牧師館のレイプ事件』 として有名になった。
ジルが表面上は沈着さを保ち取り乱した様子を見せなかったためだろう。 翌年の裁判において、ジョン・レオナード判事はジルが受けた害は 『大きなトラウマではない』 と発言。 4人組のリーダーだったがレイプには加わらなかったロバート・ホースクロフト(事件当時34歳)には加重強盗と暴行で14年の刑が、ジルをレイプした2人のうちより暴力的だったマーティン・マッコール(同22歳)にはレイプで5年・加重強盗で5年の刑が、クリストファー・バーン(同22歳)にはレイプで3年・加重強盗と暴行で5年の刑が宣告された。 レイプには加わらなかったもう一人のアンドリュー・バーン(クリストファー・バーンの兄)は警察に尋問される前に留置所で別の囚人に襲撃され、昏睡状態のまま4年後に29歳で死亡した。
マーティン・マッコール
クリストファー・バーン / 犯行に使われたナイフと、クリケット・バット(ジルの父親のもの)
軽すぎた判決はサッチャー首相と野党党首ニール・キノックを含む当時の政治家たちに批判され、「女性の体よりも資産の方が価値があるとみなすものだ」 と大衆からも激しく非難された。 もちろんジルも納得がいかず苦情を述べた。 その結果1988年に法が改正され、軽すぎると考えられる刑には被害者が控訴できるようになった。 また容疑者が告発される前でも、レイプ被害者の匿名が守られるようになった。
「判事の 『大きなトラウマではない』 という言葉で、私は彼が、私が受けた苦難について無知であり、レイプがどんなものなのか全くわかっていないんだと思い知ったの。 怒りで一杯になったわ、だって彼のように権威ある地位にある人は、もっとましな知識を備えていると思っていたから。」
事件が起きたときに付き合っていたデイヴィッド・カーにとって、事件は深いトラウマになった。 彼は事件後ジルにプロポーズしジルはそれを受け入れたものの、事件を引き摺って苦しむ彼と信仰を支えに事件から前に進もうとしていたジルの間に溝が深まり、数ヵ月後にジルから別れを告げた。 レイプ被害者として有名になってしまったことから、ジルは自分と結婚したいなどという男は現れないだろうと覚悟した。 そのためギャリー・ハクスリーにプロポーズされたときは、深く考えずに結婚してしまった。 1988年のことだった。 ロンドンからウエスト・ミッドランズに移り、ジルはバーミンガムの学校で教師の補佐を務めた。 しかし4年後に二人の結婚生活は終わりを告げた。
ギャリーとの結婚式の日
その後ジルはジャーナリストのギャヴィン・ドレイクと出会い、1993年6月に2人は結婚。 3人の息子に恵まれた。
両親、ギャヴィンとジル
1990年にジルは、友人の助けを借りて自らの体験を綴った Rape: My Story という本を著した。その中で彼女は、悪夢やフラッシュバックに苦しみ自殺を考えたこともあったと告白した。 もしレイプによって妊娠していたら・・・?と苦しんだことも。 しかし堕胎には反対の立場をとる彼女は、モーニング・アフター・ピル(緊急避妊薬)の服用を拒んだ。 本を著すことにしたのは 「最悪の苦難に遭っても、それを乗り越えて生き続けることは可能だと人々に知って欲しかった」 からだ。 さらに彼女は、家に押し入ってきた男たちを赦したことも明らかにした。 “人生は短すぎて、すぐ先の未来に何が起こるか誰も知らない。” “赦すことは自由を与えてくれる。 過去に縛られることなく先へと歩んでいく自由を。”
彼女はさらにBBCテレビのドキュメンタリー番組にも出演し、“レイプ被害者の匿名権を放棄した最初のイギリス女性” となった。 このドキュメンタリーは、レイプ被害者が被るトラウマについて判事たちが学ぶ際の教材となった。 1990年以降ジルは、DVと性的暴行の被害者をサポートし、性的暴力犯罪に携わる警察関係者のトレーニングの向上に協力し、レイプと性的暴行に関して国会を含む公的な場で関与するなどして、犯罪(特に性犯罪とDV)被害者の保護と待遇改善を求めて活動してきた。 ジルは人々に、レイプされた事実ではなくレイプされたことに対する自分の反応をもって自分を定義して欲しいと願い、それを成功させたのである。
1993年に引退したレオナード判事は、あの判決を 「汚点だ――疑いの余地はない」 と述べて、ジルに公式に謝罪した。 ジルのトラウマが 「大きなものではない」 と発言してしまったこと、そして彼女をレイプした2人に軽すぎる刑を与えてしまったことを、最期まで後悔したという。 2002年に76歳で死去。
レオナード 判事
ジルは1994年にレイプ被害者とその家族のためのサポート・グループを結成し、またレイプ容疑者が被害者を反対尋問できないように法を改正する運動にも協力した。 1997年にはTVインタビューとデイリー・メイル紙において 「デート・レイプはそれ以外のレイプよりは軽い犯罪行為として扱われるべき」 だし、「女性の衣類の身につけ方は犯罪行為の誘発剤となる可能性がある」 と発言して物議を醸した。 「被害者に非があったと言っているわけではないの。 ただ、被害者は自分を守るために何もしなかったということ。」 フェミニスト達はこれに対して否定的に反応した。
4人組のリーダーで14年の刑を宣告されたロバート・ホースクロフトは、10年後の1996年に釈放された。 ジルは彼の求めに応じて、事件から12年後の1998年に彼と会い、「あなたは私を傷つけなかったのだから謝る必要はない」 と彼を赦した。 ホースクロフトによると、あの日彼には決して、誰も傷つけるつもりはなかった。 しかしあの日のマーティン・マッコールは 「まるで動物だった。 止めに入ったら自分を殺して被害者三人も皆殺しにしかねないと思い、何もできなかった」 と語った。
ホースクロフトとジル
ジルをレイプした2人のうちでより暴力的だったマーティン・マッコールは5年8ヶ月後に釈放され、警備員としての職を得、BBCでも勤務したという。 ジルは、刑務所にいる間に 「殺してやる」 と自分を脅してきたマッコールには、二度と会わない決心をしていた。 ジルをレイプしたもう一人の男クリストファー・バーンは釈放されたあと1993年に結婚し、娘に恵まれた。 しかし彼の妻は彼の過去を知ると彼の元を去り、やがて自殺したという。
2006年のインタビューで、ジルは語った。 「レイプは人生を変えるわ。 二度と以前と同じ自分には戻れない。 もちろん私だって、憎悪と復讐心で一杯でいるのもなかなか悪くないと時には思ったわ。 でもそうすることはバリアを生み出してしまい、結局最後に傷つくのは自分になると思うの。 だから、赦すことが実際には自らを自由にすることになる。 キリスト信仰がなかったら、私は今日ここにこうしていなかったでしょうね。 信仰が私を支えてくれたの。」
2009年には、『無罪になった人々のDNAはデータベースから6年後に、また重犯罪の場合には12年後に、削除されなければならない』 とする欧州人権法廷の決定に反対してキャンペーンを展開。 2015年には 『レイプ容疑者の身元は告発されるまでは伏せられるべき』 という案に、 「被害者に対する侮辱であり、本当に落胆させられる動き」 だとして公に反対した。
信仰を支えに犯人たちを赦して性犯罪被害者のための活動家になったジルとは対照的に、事件当時ジルの恋人だったデイヴィッド・カーは事件が大きなトラウマとなり、犯人たちを赦すことができず 「できることなら殺してやりたい」 と思い続けた。 屋根葺き業を自営し、パートナーとの間に二人の子供も生まれたが、PTSDと双極性障害のため12年前から働いていない。 彼はPTSDはもちろんのこと、双極性障害も、あのときクリケット・バットで執拗に殴られたため発症したと信じている。 友人女性に嫌がらせをしているという相手を脅したかどで投獄もされた。 彼は、もしあの事件が起きなかったらジルと結婚し、平凡な幸せな家庭を築いていただろうと思う。 「誰だって当然、愛する人を守りたい。 でも自分にはそれができなかった・・・」
ジルとデイヴィッドはイーリングのYMCAで出会った。 デイヴィッドはそこで警備員、ジルは世話係を務めていた。 スコットランドの労働者階級家庭出身のデイヴィッドは、仕事を探すためロンドンに引越してきたところで、一方ジルは中産階級の牧師の娘だった。 しかし2人は出会って間もなく意気投合し、交際を始めて3ヶ月後には一緒の未来も描き始めていた。 ジルは結婚するまでは処女でいたいと彼に言い、彼はジルの意思を尊重した。 事件の日、マッコールがジルにしようとしていることを悟ったデイヴィッドは戦慄し、マッコールに 「彼女を傷つけないでくれ、愛しているんだ。 彼女に触れないでくれ!」 と懇願したという。 彼によると、ジルは暴力的にレイプされている間も法廷でも決して取り乱すことはなく、彼自身とは対照的だった。
デイヴィッド・ カー
「ジルは自分よりずっと勇敢だった。 彼女の変わりに自分が死ねばよかったと思う。」
ジルは今月3日に自宅で脳出血を起こして病院に救急搬送され、2日後に息を引き取った。 本人の生前の希望により、ジルは “最後の最後まで人々を助けられるよう” 臓器提供したという。 遺族は 「私たちの素晴らしい妻であり母であり妹だったジルが最後まで人々を助けられたということは、私たち家族にとって大きな慰めになります」 とのコメントを発表した。 3人の息子たちは、現在22歳・20歳・18歳になっている。
昨日がジルさんの52歳の誕生日でした。 ご主人によると 「近年ずっとそうしてきたように(ジルの誕生日には)家族でチャイニーズ・レストランに行きます」 ということだったから、たぶんそうしたことでしょう。
恐怖と苦痛に満ちた体験を、驚くべき勇気でもってポジティブなものに昇華させたジルさん。 51歳で逝ってしまうなんて、早すぎます・・・。
ジル・サワードさんのご冥福をお祈りします・・・