《 死刑囚の兄と、・・・ からのつづき 》
1972年12月4日、カリフォルニア州マーセド。
7歳のスティーヴン・ステイナー(1965年4月生まれ)が、学校からの帰宅途中、行方不明になった。
自宅までわずか3ブロックの地点でスティーヴンに近づいたのは、ヨセミテ国立公園の従業員、アーヴィン・マーフィー。
マーフィーは同僚のケネス・パーネル(当時41歳)の指示で動いていた。
小児性愛者であることを隠し聖職者を装ったパーネルは、「幼い男の子を自分の家族として信仰を重んじる生活様式で養育したい」ので
力を貸すよう、単純で騙されやすいマーフィーを説得してあった。
マーフィーはスティーヴンに、彼の母親は教会に寄付をしてくれるか訊ねた。スティーヴンがそう思うと答えると、マーフィーは
スティーブンを、パーネルが運転する白のビュイックへと誘い込んだ。3人が乗った車はしかし、スティーヴンの家へは向かわず、
代わりに30kmほど離れたパーネルのキャビンに着いた。そこは、当時のスティーヴンには知る由もなかったが、彼の母方の
祖父の家から数百メートルしか離れていなかった。
スティーヴンが誘拐された地点の、当時と近年。大きな通り沿いで白昼堂々誘拐されたことになる。
パーネル(当時41歳)は最初の晩から、スティーヴンを性的に虐待した。13日後の12月17日には、彼をレイプした。
スティーヴンは「家に帰りたい」と何度もパーネルに懇願したが、パーネルは彼に、子だくさんの彼の両親は彼を育てられないので、
パーネルが『正式にスティーヴンの養育を任された』と、嘘をついた。
スティーヴンはパーネルの息子の“デニス・パーネル”と名乗らされ、引越しを繰り返しながら、学校にすら通った。
まだ幼いスティーヴンは飲酒や煙草を許可され、門限もなく家を自由に出入りできた。
パーネルは仕事のため数日家を空けることもあったが、スティーヴンは誰にどうやって助けを求めればいいのかわからなかった。
一時期は一年半にわたって、バーバラ・マティアスという女も同居した。スティーヴンによると、彼女もパーネルと一緒になって、
当時9歳だったスティーヴンを9回にわたってレイプした。
スティーヴンが思春期に入ると、パーネルは彼への性的興味を失い、別の幼い男の子を誘拐することを計画した。
彼はスティーヴンを手先に使おうとしたが、スティーヴンが無能を装ったため、試みは失敗に終わった。
1980年2月14日、スティーヴンの学友ランダル・プアマンを使い、パーネルは5歳のティモシー・ホワイトを誘拐した。
自宅の前庭で遊んでいたティモシーは、プアマンに、パーネルの車に乗るよう誘われた。怯えて家に逃げ込もうとしたが、
プアマンに力づくで拉致された。ティモシーの髪は、その晩のうちに金髪から褐色に染められた。
彼はパーネルに、『スティーヴンの弟のトミー』と名乗るよう命じられた。
当時14歳のスティーヴンは、両親を恋しがって泣くティモシーを慰め、彼を全力でパーネルから守ることを決心した。
(この子を自分と同じ目に遭わせるわけにはいかない・・・)
ティモシーが誘拐されてきてから2週間後の、パーネルが夜勤の仕事で不在だった3月1日の晩。
ティモシーを両親に返すため、スティーヴンはティモシーを背負って家を出、ヒッチハイクをしてティモシーが住むというユカイアまでたどり着いた。
しかしティモシーが自宅の住所を覚えていなかったため、スティーヴンは彼に、一人で警察署に行って助けを求めさせようとした。
が、警官が二人を見留め、二人とも一緒に保護された。
スティーヴンはティモシーが誘拐されたことを説明し、自分の背景も明らかにした。
このときスティーヴンが言ったとされる “I KNOW MY FIRST NAME IS STEVEN” は有名になり、のちに本やテレビの
ミニシリーズの題名にも使われた。
ケネス・パーネルは3月2日の夜明け前に、2少年の誘拐容疑で逮捕された。警察の調べで、パーネルには1951年に、男児に対する
ソドミーの前科があることがわかった。ティモシーはもちろんスティーヴンも、同日のうちに家族との再会を果たした。
母親に抱かれるティモシー(下左)。下右の小さな画像の説明文によると、「ティモシーを両親の元に返した報酬として、
スティーヴンは1万5千ドルを受け取った」とのこと。
1980年3月2日。7年3ヶ月ぶりに、自宅に帰るスティーヴン。
スティーヴンと父親の間、やや後方に写っているのは・・・ 彼の4歳上の兄、当時18歳のケイリー・ステイナー。
その日ケイリーは、ヨセミテでのキャンプからの帰宅途中に、「スティーヴンが見つかり、家に戻って来る」とのニュースを聞いた。
彼が家に着いた頃にはもう、多くのメディアが集まっていた(下左)。一躍ヒーローになったスティーヴンは、両親と共にテレビ番組に出演(下右)。
スティーブンは父親デルバートと母親ケイの間に生まれた5人兄弟の次男で、兄のケイリーに加え、3人の姉妹がいた。
パーネルは翌1981年、ティモシーとスティーヴンの誘拐で起訴された。スティーヴンへの性的暴行は、起訴内容には含まれなかった。
これは、その大部分がマーセド郡検察庁の管轄外で起きたこと、その時点ではもう出訴期限を過ぎてしまっていたこと、
また性的暴行が公になることで“傷もの”として好奇の目で見られるであろうスティーヴンの精神的苦悩を懸念しての決定だった。
パーネルは有罪となり7年の刑を宣告されたものの、仮釈放が認められ、5年で出所した。
スティーヴンの誘拐を手伝ったマーフィーは5年の刑を宣告されたが、2年後に仮釈放された。
ティモシーの誘拐を手伝ったスティーヴンの学友のプアマンは、未成年者矯正キャンプに送られた。
両者とも、パーネルの小児性愛や性的暴行についてはまったく知らなかったと供述した。
スティーヴンは、誘拐されて最初の週、“マーフィー小父さん”が親切にしてくれたことを覚えていて、
マーフィーは自分と同様に狡猾なパーネルの犠牲者だったと信じ、彼を赦した。
パーネルの女友達で一時期同居までしていたバーバラ・マティアスは、パーネルの裁判で検察側に協力する代わりに起訴を免れた。
奇跡のような、しかも英雄としての7年ぶりの帰還を果たしたスティーヴンの話は有名になり、本が出版され、テレビのミニシリーズも放映された。
パーネルのもとでの自堕落な生活に慣れてしまっていたスティーヴンは、自分の家に戻ったものの、普通の生活に戻るのに苦労した。
最初の蜜月が過ぎると、両親とくに父親との間に、摩擦すら生じ始めた。彼は『ニューズウィーク』誌とのインタヴューで、自分が家に
戻ってきたことが、はたして良かったのか疑問に思うようにさえなったと告白した。学校では他の生徒たちに“ゲイ”とはやし立てられ、
レイプを“許した”ことをなじられた。学校をやめた彼はアルコールに逃げるようになり、やがては両親の家からも蹴り出された。
1985年、当時20歳のスティーヴンは、17歳のジョディー・エドモンソンと結婚。二児(娘のアシュリーと息子のスティーヴン・ジュニア)に恵まれた。
故郷の町マーセドに住み続け、ピザ店で働き、児童拉致防止グループに協力し、身の安全を守ることについて子供たちに話をした。
1989年9月16日、仕事からバイクで帰宅途中だったスティーヴンは、交通事故に遭い死亡した。享年24歳だった。
14歳になっていたティモシー・ホワイトは、彼の葬儀で棺の付添い人(pallbearer)を務めた。
* * *
10年後の1999年2月と7月に、スティーヴンの兄ケイリー・ステイナーは、ヨセミテ国立公園において4女性を殺害。
逮捕後の取調べの際、ケイリーは、弟スティーヴンが誘拐された事件が自分に与えた影響についても語ったという。
スティーヴンは両親のお気に入りだったこと。
彼が行方不明になり、嘆き悲しむ両親からネグレクトされながら成長したように感じたこと。
スティーヴンが戻ってきて本当に嬉しかったものの、国内はおろか世界中から英雄として脚光を浴びる彼を見ていて
嫉妬に駆られるようになったこと。
スティーヴンの突然の死に非常にショックを受けたこと。
普通の兄弟のような関係を築けないままスティーヴンに死なれてしまったことを、心底悔やんだこと。
幼少の頃から女性を殺すことを妄想していたと告白しながらも、スティーブンの誘拐事件のトラウマと彼の死のインパクトが、
自分の暴力性に貢献したと考えるとも述べた。
* * *
2003年1月。71歳のケネス・パーネルは、自分の世話をしていた介護ヘルパーに幼い男の子を誘拐してくるよう頼んだかどで逮捕された。
パーネルは起訴され、ティモシー・ホワイトも証人喚問された。ホワイトが誘拐された際にパーネルに協力したプアマンも喚問されていて、
24年前の誘拐以来初めてホワイトを見たプアマンは、ショックを受けたという。二人は言葉を交わし、ホワイトはプアマンを赦し、
二人はハグした。
故人となっていたスティーヴンの過去の証言も読み上げられ、パーネルの誘拐の目的は男児の性的虐待だったと認められた。
三振法が適用され、パーネルは『25年から終身まで』の不定期刑を宣告され、2008年1月に獄中死した。
成人したティモシー・ホワイトは保安官になり、結婚して2児の父親になった。
が、残念なことに2010年4月1日、肺血栓塞栓症のため35歳でこの世を去った。
* * *
2010年8月28日。マーセドのアップルゲート公園で、スティーヴンの母親ケイ、ティモシーの母親アンジェラ、
スティーヴンの娘で米空軍勤務のアシュリー(24歳)らが見守る中、スティーヴンとティモシーの銅像が除幕された。
銅像建立の資金は、スティーヴンを讃え、同時に行方不明の子供を持つ親に希望を与えることを望んだ住民たちによって集められた。
* * *
誘拐と性的虐待の幼き被害者だった弟。
殺人者になり残忍なやり方で4人もの女性の命を奪った兄。
こんなことも、あるんですね・・・。
ステイナー兄弟の両親は、終いには息子を二人とも失ってしまいました。
ケイリーは「弟に起きたことのトラウマが、自分が殺人者になった原因のひとつ」みたいなことを言ったようですが、
そのくせ幼い頃から女性を殺すことを妄想していたとも告白しているので、いったい何が本当に彼を殺人に
駆り立てたのかはよくわかりません。
誘拐され長期にわたって性的虐待を受けた自分の運命は受け入れつつも、
昔の自分と同様誘拐されてきた幼い男の子のため、行動を起こしたスティーヴンさん。
結婚し家族もでき、ようやく自分の人生を歩み始めたところだったのに、
早すぎる死を迎えてしまいました。
でも彼の英雄的行為は、伝説となって長く語り継がれることでしょう。
スティーヴン・ステイナーさんのご冥福をお祈りします。