“腸チフスのメアリー” さんが強制的に隔離されて後半生を暮らしたノース・ブラザー島。
興味が沸いたのであれこれ検索し、その歴史についても学びました。
せっかく得た知識を一人占めしてはもったいない(←大いなるカンチガイ)ので、ここに記しておくことにします。
いつもながらの、読んでも何の役にも立たない記事の、はじまり、はじまり~ぃ!
* * *
ニューヨーク市イースト川に浮かぶ小島、ノース・ブラザー島。
1963年以降住む人はなく、代わりに60年近くにわたって野生が好き放題してきたため、今は緑に覆われているんですね。
現存する最も大きな建物は、1943年に完成したという結核病院です。といっても廃墟ですが。
かつての小綺麗な街並の画像・・・、現在とは雲泥の差。
あ、ここでひとつご留意願います。
ネットでお借りしてきた画像は、その大半が撮影年月日も撮影対象物も不詳でしたので、
画像内に明記していないものはすべてごちゃ混ぜになっています。
たとえば下左の画像。
上近くに写っている結核病院が完成したのは1943年でしたから、メアリーさん(1869-1938)が亡くなってから撮影されたものということになります。
左下に小さく入っている数字が1960っぽいですから、1960年に撮影されたものかも?
島では、そのときそのときのニーズに応えて、建物が建てられたり取り壊されたりを繰り返してきました。
現在残っている建物も、そのほとんどが立ち入りが危険なほどの廃墟ですが、残骸までも含めれば、いちおう
下左図に記された建物(数字は建築年)が残っているようです。ちなみに日本語の建物名は私が適当に入れたのでご注意ください。
(例えば18番の『行政予備棟』なんて、Government Reservation Building の苦しい訳です・・・何のために建てられた建物かわからなくて、
変な訳になりました、ゴメンナサイです・・・)
昔の絵葉書らしい画像。
団地みたいな建物が並んでいた時代もあったんですね。結核病院がまだ建っていないことにご注目。
ライカーズ“刑務所”島に大きく載せたこの画像 ↓ にも、背景に見えるノース・ブラザー島に団地が写っています。
結核病院が建てられたのは団地のあとで、タイミングは不明ですが、団地は全部取り壊されたようです。
英語版ウィキによると、ノース・ブラザー島の面積は約20エーカー(埋立地を含む)、サウス・ブラザー島は約6エーカー。
サウス・ブラザー島は19世紀半ばにゴミ投棄場にされましたが、富裕層が居を構えるブロンクスとクィーンズにほど近かったため、
その後ゴミ投棄は禁止されました。
ニューヨーク・ヤンキースのオーナーだった実業家ジェイコブ・ルパートはこの島を買い取りサマー・ハウスを建てましたが、そのサマー・ハウスは
1909年に火事で消失。その後同島に住んだ人間はなく、建物が建設されることもありませんでした。サウス・ブラザー島は現在は、
ノース・ブラザー島と同様、野生生物(主に野鳥)保護区域として市当局に管理されています。
ありし日の、ノース・ブラザー島の南端。住居つきの灯台(中央)が可愛らしいです。
ノース・ブラザー島の南端ちかくに灯台(North Brother Island Light)が建設されたのは、1869年11月。
灯台には灯台守のための2階建ての住居が併設されました。
ノース・ブラザー島が隔離施設となる予定だったことから、1883年には、灯台の背後に塀が建設されました。
1889年4月には、灯台の隣に金属製の濃霧警報ベル・タワーも設置されました。
1885年、天然痘患者の隔離施設としてノース・ブラザー島にリバーサイド病院が建設され、それまでルーズベルト島(当時はブラックウェルズ島)に
1856年にオープンした天然痘病院(Smallpox Hospital)に収容されていた天然痘患者が、転院してきました。
リバーサイド病院は現存しないようなので、結核病院が建設されるとき取り壊されたのかもしれません。
下左画像は 『ノース・ブラザー島の Smallpox (天然痘) Hospital』 と紹介されていましたが、これがリバーサイド病院を指すものか
はっきりしませんでした。また前述のとおり、画像の撮影対象物も撮影年も明記してあるもの以外は不明です。
そのため、例えば下右画像は下左画像の内部ということではないので、ご了承ください。
それと、画像内に入っている " " でくくられた説明は、資料として読んだサイトを参考にして私がつけたものです。
下右は “リバーサイド病院の天然痘病院” となっているので、ひょっとしたら、ノース・ブラザー島にある施設全体を指して
『リバーサイド病院』 と総称したのかもしれませんね。
下左は “リバーサイド病院のしょうこう熱病棟” 、下右は “ノース・ブラザー島の熱のコーナー” ・・・発熱を伴う病気に罹った患者さんが
まとめられている区画という意味でしょうか。
18世紀から19世紀にかけては多くの移民がニューヨークに到着しましたが、伝染病も一緒に持ち込まれたため対策に翻弄されたようです。
下左は “ノース・ブラザー島のロシア人のチフス患者”。下右は “リバーサイド病院の病原菌火葬場”。(普通の火葬場とどう違うのかな?)
結核病院は Tuberculosis Pavilion と表記されていることが多かったのですが、結核に Pavilion て、何か場違いな気がします。
金閣寺が Golden Pavilion なことから、つい華やかな建物を期待してしまうので。たぶん私だけでしょうが。
下画像は、揃って隔離された家族でしょうか。
小さな一戸建ての住居もあったようです。
島へは北側にあるブロンクスの138番街からフェリーが出ていましたが、島に寝泊りするスタッフも多かったそうです。
ノース・ブラザー島は天然痘患者の隔離と治療を目的に開発されましたが、やがては天然痘以外の感染病――結核、しょうこう熱、
ジフテリア、黄熱病など――の患者も隔離治療されるようになりました。
当初の生活状態は水準以下で、ベッドも足りず、患者は病院の周囲にテントや仮設小屋を立てて収容されました。
島での医療に従事したがる医者も少なく、医者が一人もいない状態になったときは、看護師が最善を尽くすしかなかったそうです。
暖房が不十分で冬は寒く、嵐でフェリーが運航不能になると食糧も欠乏しました。
水道管が凍結し、本土からボートで樽入りの水を搬入しなければならなかった冬もありました。
そんな状況も、20世紀に入ってようやく徐々に、改善されたそうです。
いつかはわかりませんが、ハリケーンに襲われたこともあったみたい。
病院という性質上、棺は必需品ですよね。下左は、棺の保管場所という意味でしょうか。
画像を見るかぎりは、洗練された病院町という感じがします。
1930年代に入ると、医療が向上し大勢を隔離する必要がなくなりました。
結核患者を収容するため建てられた4階建ての結核病院は、第二次世界大戦のため建設が遅れてようやく1943年に完成しました。
しかしながら、1943年に結核ワクチンが開発され、また市内に病院も増えたため、リバーサイド病院は1944年4月に閉鎖。
最終的にはその建設に120万ドルかかった結核病院は、結局は一人の結核患者を治療することもなかったそうです。
病院の閉鎖後、島には34の建物が残されましたが、その多くがすでに老朽化し、使用されていませんでした。
結核病院をはじめとする島の病院施設は、第二次大戦後の住宅難に応じ、ニューヨークのカレッジに通う退役軍人の仮住まいとして利用されました。
他の大都市と同様、帰国した兵士とその家族のための住居が不足していたニューヨーク市は、100万ドル以上かけてノース・ブラザー島を修繕。
1947年2月21日にはノース・ブラザー島に 「213組の夫婦と30名の独身男性の住居を供給する」 ことが、
また1948年9月20日には、 「それまでの車4台と人員100名しか運べなかったフェリーに代わり、車25台と人員472名を運べる新しいフェリーが
導入される」 ことが、発表されたようです。
病院時代に建設された男性用寄宿舎は、島に住む子供たちのためのナーサリー・スクールとして使われました。
1940年代後半のピーク時には、島の住人は1500人を数えたそうです。しかしながら、市内に出かけるにはいちいち有料のフェリーを
使わなければならないことが嫌われ、また住宅難の緩和も手伝って、住人の多くが数年で島を離れました。
灯台の隣に設置された金属製の濃霧警報ベル・タワーのてっぺんに、1953年、灯火が付け加えられました。
それにより必要なくなった灯台の灯火塔は、取り除かれました。
ノース・ブラザー島の施設は、1952年からは麻薬(主にヘロイン)中毒の青少年に治療・更生・教育を提供するリハビリセンターになり、
多くの若者が3ヶ月から5ヶ月間収容されました。
下の記録によると、校長、事務員、4人の産業アート?講師、その他12人の講師が配属され、250人の学生を収容できたようです。
麻薬中毒にかかった青少年のリハビリセンターだった頃の画像です。下右画像に写っている若者が見入っているブツ、
PENTHOUSE かと一瞬ドッキリしちゃいました。PATHETIQUE ですね。ググってみたところ、雑誌ではないみたい?横にレコードプレーヤーが
ありますから、ひょっとしてベートーベンの "Grande Sonate pathétique" のレコードのジャケットとか?
画像を見る限りは良く運営されている施設のように見えますが、実のところは青少年の多くが、自らの意志に反して収容されていると不満を感じていたそうです。
施設から荒れた地域に帰宅した青少年へのサポートもなかったため、ふたたび麻薬に手を出すケースが非常に多いという残念な結果にもなりました。
経営コストがかさんだ上、スタッフの腐敗も横行したため、このプログラムは失敗と見なされ、リハビリセンターは1963年に閉鎖されました。
(下には1964年となっていますが、情報源の大半が1963年としていたのでそちらを採用。)
フェリーの運航、送電、電話線などのサービスも止められ、島に住む人間はいなくなりました。
下の図の左端を見ると、島の埋め立てによる陸地の変化や建物の状況の変遷がわかって面白いです。
以下、もっと詳しい島の変化図。
1906-1923年間に建てられたという団地風の建物の画像です。その後すべて取り壊されたようですね。
“腸チフスのメアリー”さんはノース・ブラザー島に最長期間隔離された患者で、島の西側に位置する教会の隣のコテージで
暮らしたものと考えられるそうです。
ホントかどうかわかりませんが(←オイオイ)、『メアリー・マローンが隔離されたコテージ』の画像もあったので貼っておきます。
《 後編につづく 》